僕を通り過ぎた歌たち

2020.09.25

【故郷へ帰りたい Take Me Home Country Roads】

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この歌を覚えたのは18才の頃。
大学受験に失敗し、伊達のカトリック教会に間借りし「受験勉強」に精を出していた頃だ。
エミール・デュマスというアメリカ人神父に教わった。
エミールさんから教えてもらった数多くの歌のうちの1曲。


長年、原語にこだわって歌ってきた。
英語の発音とイントネーションをエミールさんにチェックされた。そのシーンが今も焼きついているためだろう。

およそ50年を経てやっと日本語の歌詞をつけることにした。
「離郷・望郷」をテーマにしたライブを近々にふたつ予定している。それにあわせてのことだ。今やらなきゃこの先二度とやることは無いだろうという思いもあった。

ところが原詩の中にはアメリカの地名がしこたま入ってくる。
ウェストバージニアだの、ブルーリッジ山脈だの、シェナンドー川だのね。それをなぞったんじゃ日本語詞にする意味がない。

このあたり一帯は古くからの炭鉱があるところだそうだ。
「炭鉱の町」なら我が故郷、北海道にもたくさんある。
高校時代の同級生やサッカー部の先輩にも炭鉱の町からやって来た人がけっこういた。
赤平、夕張、三笠、そして芦別。思い出すだけでも5~6人の友人がいる。

彼らのお父上は炭鉱が閉山され、慣れ親しんだ炭鉱の仕事を捨て鉄の町・室蘭にやって来た。ずいぶん苦労されたことだろう。そして望郷の念もまた強かったのではなかろうか。

昨年、自分のルーツを探る旅の一環で炭鉱町をあちこち訪ねた。その時目にした景色や音や匂いが残っている。

そんなことを思い浮かべていたら歌詞になった。
ライブ本番で鍛えられ、少しずつ変わっていくかもしれない。
その意味ではまだ今は「歌の芽」の状態かもしれない。
これがどう育つか楽しみだ。

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2020.09.16

私を通りすぎた歌たち 【リンゴ村から】

リンゴ村から

ライブでこの「リンゴ村から」を歌ったとして、、、
「古くさい」といわれるだけだろうか。

この歌の情景を思い浮かべることのできる世代、それは多分僕の親の世代かもしれない。
でも80~90代の方々の多くは旅立たれている。
70代の方々もまた時代を共有できる世代。
でもわざわざ会場に足を運び、お金を払ってまで「ライブ」に行くという人は稀だろう。

この歌が発売されたのは昭和31年(1956年)。僕はまだ2才のころ。
幼心にラジオから流れるこのメロディに反応した記憶が残っている。
(当時の流行歌は息が長かったという。何年にもわたり放送されていたため記憶に残っていた思われる)
他の流行歌同様、そのメロディは体にしみこみ、知らずのうちに心の奥底に沈殿していったんだろう。

この10年、デイサービスや特別養護老人ホームなどで歌う機会が増えた。
忘れていたメロディが心の泥沼から不意に沸いてくることが多くなった。
歌詞とメロデイが交差し、像を結ぶようになった。

「リンゴ村から」もそんな1曲だ。

  覚えているかい 故郷の村を
  便りもとだえて 幾年すぎた
  都へ積み出す まっかなリンゴ
  見るたび つらいよ
  おいらのな おいらの胸が

  覚えているかい 別れたあの夜
  泣き泣き走った 小雨のホーム
  上りの夜汽車の にじんだ汽笛
  せつなく ゆするよ
  おらのな おいらの胸を

  覚えているかい 子供のころに
  ふたりで遊んだ あの山 小川
  昔とちっとも 変わっちゃいない
  帰っておくれよ
  おいらのな おいらの胸に

   歌:三橋美智也 作詞:矢野亮 作曲:林伊佐緖

例によって妄想たくましく、深読みしてみる。

舞台になったのは津軽の農村だろうか。
全国にリンゴの生産地は多々ある。でも都からの距離を考えれば本州の最北・青森県が自然だ。
幼なじみのふたりは長じて中学生になり恋ごころが芽ばえる。
しかし中学卒業と共に娘は集団就職で東京へ。
男はリンゴ農家の長男で家を手伝うために津軽に残らざるをえなかったのかもしれない。
手紙のやりとりをしていたふたりだが、いつしかそれもとだえ。。。
若者に育った男はリンゴの積み出し作業をしながら、娘のことを思い出しせつない思いに駆られる。

よくできた歌詞だと思う。
ストーリーがある。
現在と過去が交差しながら「おいらの胸」をゆさぶる。
メロディと合わさるとふわーっと情景が浮かび上がってくる。
さらっと歌う三橋美智也の高音が心地よい。

老人施設などではもちろんのこと、普通のライブでもこういう歌を少しずつ歌っていきたい。
それは単に昭和の名曲を紹介するに留まらず、そのころの時代の空気を伝えるものであればさらに良い。
可能であるならば現代とのつながりを示唆する一石になればうれしいんだが。
温故知新だ。

「私を通りすぎた歌たちシリーズ」はそんな思いで続けたいものだ。

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2020.08.28

サハリンの灯は消えず

先日、北方からの引揚げ兵の話を書いた。
あの一文を書いている時、突如フラッシュバックしてきたメロディ。
もう50年以上も前のG.S(グループサウンズ)の1曲だ。

  ♩サハリンの灯は いまなお消えず♩

このフレーズが強烈にすりこまれた。
中学生だった僕は歌詞の意味など頓着なしに聴き、真似ていた。
(サハリンとはなんぞやなどとは思いもせずに歌っていた)
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サハリンとは樺太(からふと)の別称。
北海道の北に位置する大きな島だ。
1809年に間宮林蔵によって島であることが確認されるまでは半島でシベリアの一部と思われていたそうだ。
樺太の領有をめぐり、長年にわたってロシア(帝政ロシア~ソ連~現ロシア連合)との壮大な綱引きがくり返されてきた。
近年に限って言えば日露戦争以降、南樺太は日本の領土となった。
太平洋戦争時には40万人もの日本民間人が住んでいたそうだ。
それが敗戦直前になって参戦したソ連軍によって犯され、以降ロシアによる実効支配が続いている。
いわば「もう一つの北方領土」だ。

敗戦により兵士の帰還、民間人の多くは緊急脱出で樺太=サハリンの地を後にせざるを得なかった。
(軍人・軍属、民間人あわせて約30万人で残りは居残らざるを得なかったそうだ)
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    【サハリンの灯は消えず】  
 
  サハリンの灯は いまなお消えず
  俺の心に 赤く燃える
  懐かしき山 姿もかすみ
  海峡の風 白く凍る
  北国の夏は恋に似て みじかい命
  くれなずむ浜辺 フレップは 淋しく赤く
  サハリンの灯を 恋して咲いて
  ふるさと捨てた 俺を泣かす

  この霧のかげに涙ぐみ 思いで捨てた
  あの人のくれた フレップは 初恋の味
  サハリンの灯は いまなお消えず
  俺はひとりで じっと見てる

    作詞:若木香 作曲:北原じゅん
    昭和43年2月 発売

   (フレップ:コケモモの一種)
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戦後20年以上経ってから、それもグループサウンズの中で樺太への望郷の念をテーマに歌われたことに驚きを覚える。
作曲の北原じゅんは南樺太出身。樺太から引揚げてきた時は16歳。いわば人生の中で最も多感な頃だ。
帰りたくても帰れぬ故郷への思いがこの歌にはこめられている。
そう思ってこの歌を聴くとぐっとくるものがある。
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ちなみに北原じゅんの弟は城卓矢。二人は引揚げ後室蘭で育ったそうだ。
函館出身の川内広範は叔父にあたる(叔母の元夫)。
川内広範は戦後遺骨引揚げ運動、日本人抑留者帰国運動をしていた。
後に「月光仮面は誰でしょう」を始め、膨大な作詞をしている。
北原じゅん、城卓矢はこの叔父の手引きもあり音楽に関わるようになったことは想像に難くない。
(なお作詞の若木香については良くわからなかったが、作詞にあたり北原の意向を汲んでいたのではないかと想像している)

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2020.08.14

【浜辺の歌】

 

子供の頃から好きでよく歌っていた。ライブでも時々歌っている。
今度の「おーるどたいむ de ライブ」でもハンマーダルシマーとニャンダル(小さなダルシマー)をフューチャーして歌うこととなった。

馴染み深いメロディなんだがその歌詞は実に難解。
大正2年に書かれた歌詞だ。昭和生まれの自分にはなかなか敷居が高い。
考えてみると小学校でも2番までしか歌わなかった。3番は古語であり死語となっている。分かるはずもない。

文学部国文科中退の意地で(?)なんとか解析し、妄想をたくましくして自分なりのイメージをふくらませた。(3番の歌詞の解釈はいろいろあるらしい)

   浜辺の歌

 明日浜辺を さまよえば  
 昔のことぞ しのばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も

 ゆうべ浜辺を もとおれば
 昔の人ぞ しのばるる
 寄する波よ 返す波よ
 月の色も 星の影も

 はやちたちまち 波を吹き
 赤裳のすそぞ 濡れひじし
 病みし我は すでに癒えて
 浜辺の真砂 まなごいまは

1番2番は昭和生まれの自分でも理解できる。
朝に夕に浜辺をぐるぐると徘徊しながら昔を偲んでいる様子が表されている。(もとほる=ぐるぐると回る)

ところが3番がいけない。さっぱり分からない。

 はやち(突風) たちまち(突然に)
 赤裳(女性の着物の腰から下を覆う衣服。
 濡れひじし(びっしょり濡らしてしまった)
 真砂(細かい砂) まなご(愛子)

ここから考えるとどうやら3番こそがこの歌の核心のようだ。

浜辺を徘徊するうちに気がつくと足下に寄せる波によって着物の裾がすっかり濡れてしまった。昔の追憶に浸るうちに気がつきもしなかった。
私の長患いもすっかり癒えたというのに、この先もこうしていつまでも「愛子」を想ってさまよい続けるのでしょうか。

大正初期のこと、長い療養を必要とした病、それは肺病なのだろうか。
当時肺結核は治らぬ病として社会から隔離され、長期療養を余儀なくされた。治療薬ストレプトマイシンが発見され、肺結核は治る病とされたのは太平洋戦争後のはなし。当然大正時代には「死の病」だった。
(余談だが僕の父も戦後肺結核に冒され1年以上の療養生活を余儀なくされた。父の姉は残念ながら自宅の2階に隔離されながら力尽きて命を落とした)

この女性は「死の病」であるがゆえに嫁ぎ先からは離縁されたのではないか。奇跡的に病が癒えたにもかかわらず、離縁された身として自分の子供にも会うことができない。
こうして朝な夕な浜辺をさまようことしかできぬわが身よ。。。

こんな風に妄想的に解釈するとなかなか重たくせつない歌だ。
小学校では3番を歌わなかったというのも頷ける。

さて、今回のライブでも「核心の3番」は歌いきれない。慣れ親しんだ美しいメロディを2台のダルシマーとギターで奏でることを主眼にすることにした。歌は1,2番をそっと口ずさむのがいい。
とはいえ、自分の中にはこの妄想的解釈をしっかりとおさめての演奏にしたい。

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2020.03.02

「さくら」 ミツダイ

ミツダイというフォーク・デュオの「さくら」という唄が好きで、春になると毎年歌わせてもらっています。

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「さくら」は卒業する子供たちがいつの日かまた校庭の桜の木の下で集まりたいねという願いのこもった唄です。
出会いと別れをくり返していくのが人の世の常。
別れの時は人生の分岐点。
その分岐点にはかなく揺れる桜はともに過ごした日々を思い起こさせてくれます。

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  さくら さくら その花びらが
  みんなの心をつないでくれる
  さくら さくら はかなく揺れる
  いつまでも忘れないで
  僕はここにいるよ

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この歌を歌う時いつも思い出すのは三郷にあった瑞沼小学校でのコンサート。
16年前廃校になることが決まり、卒業式を前にして行われたコンサートでした。
全学年150名の生徒たちが全員集まっても体育館はがらんとしていたのを思い出します。
でも子供たちは目を輝かせながら演奏に聴き入ってくれました。
唄の途中に教えてもらった瑞沼小学校の校歌を挟んで歌ったりしながら1時間程のコンサートはとても温かかでした。
春の風に揺られながらひらひらと舞い散る花びらが印象に残っています。

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「少子高齢化」という言葉が実感されたコンサートでもありました。
僕の卒業した函館市立青柳小学校も谷地頭小学校と統合されました。
潮見中学校も統廃合の末青柳中学校に。
函館市立東高校は道立北高校と統合され函館高校に。
転校した室蘭東高校も清水が丘高校と統合され東翔高校に変わりました。
歌い慣れた校歌は今ではもう歌われることもなくなったと聞きます。
瑞沼小学校の統廃合も児童数減少の結果でしょう。

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単に人口バランスが崩れて「高齢化社会」になったというだけではありません。
児童数の絶対的減少と高齢者数の絶対的増大の結果であることを考えるとなんとも言えない気分になります。

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あの日卒業した最後の卒業生も今ではもう28歳くらいかな。
いい若者に育ってることでしょう。
おーい、みんな。達者でやってるかーぃ!

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今年は暖冬の影響で桜の開花もかなり早い模様。
もうそろそろ「さくら」を歌いたいなあ。

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「さくら」 ダウンロード - e38195e3818fe3828920efbc88e3839fe38384e38380e382a4efbc89.docx

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2019.11.19

達者でな

わらにまみれてヨー 育てた栗毛
  今日は買われてヨー 町へ行く アーア~アー
  オーラ オーラ 達者でな
  オーラ オーラ 風邪ひくな
  離す手綱がヨー ふる ふるえるぜ

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目頭がじわーっとあつくなる。

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昭和35年、三橋美智也さんの名曲のひとつ「達者でな」。
子供の頃、その意味も理解せぬまま「ワーラーニ マミレテヨー」と大声で歌っていた。

当時函館の町でも車に混じり、数こそ多くはないが馬車や馬そりが走っていた(歩いていた)。
馬糞を踏むと背が伸びるなんてこと本気で信じていた。

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それにしても昭和の歌謡曲にはちゃんと筋書きがありドラマになっている。
情景がふわっと浮かんでくる。
数少ない言葉の裏側かにいろんなことを想像させられる。

三橋美智也さんの「夕焼けとんび」にしても「古城」にしても同じ。
まさに「3分間ドラマ」だ。
歌詞、メロディ、歌唱の三拍子がしっかりかみ合ってのことなんだろうな。

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三橋美智也さんは函館のすぐお隣、上磯町出身だと言うことを知ったのはずっと後になってからのことだった。
高校3年の時、学校祭でファイヤーストームの前で「北海盆唄」を歌う企画を立てたことがある。
三橋美智也さんのお弟子さんに民謡風の歌い方を教えてもらえることになり、汽車に揺られて豊浦まで行った。
その方は僕の歌を聴くと「おめ、三橋先生のレコードケルから(やるから)、よっぐ聴いて真似しれ」とドーナツ盤を1枚くれた。
多分、こいつには民謡の才がなく、教えようがないと即座に思ったんだろう。

かなり三橋美智也唄う「北海盆唄」を聴きこんだが、結局モノにはならなかった。

でも以来「歌手・三橋美智也」は僕にとって憧れ以上の存在になった。

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→「達者でな」

 

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2019.11.16

「港が見える丘」

名曲だ。
「港が見える丘」。

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昭和22年。
戦後まだ2年。
東京にはまだ焼け跡にバラック。闇市が全盛の頃なんだろうな。
上野地下道なんかには戦災孤児もたくさんいたんだろうな。
歌の舞台の横浜はどうだったんだろうな。横浜も焼夷弾に焼かれたと聞いている。
敗戦を色濃く引きずりながらも、そこから這い上がらなければという時代。
この歌はそんなときにラジオから流れていたんだろうか。

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僕はこの歌を歌うとき、函館の元町公園から眺める函館港を思い浮かべる。
函館もまた空襲を受けている。特に青函連絡船を狙った爆撃は執拗であったと聞く。(1945年7月)

古くは箱館戦争で榎本武揚率いる「蝦夷共和国」(旧幕府軍)と薩長率いる新政府軍との戦いの場となった弁天台場から見る函館港を思い浮かべる。
弁天台場の窮地を救うため五稜郭から打って出た土方歳三はその道すがら戦死している。

時は1869年5月。函館に桜の咲く頃ではなかったか。

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戦後、函館の元町で両親は出会った。
母は時々「港が見える丘」を口ずさんでいたのが幼い記憶として残っている。

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「情緒過多症」と笑われるが、この歌を歌うとき古い戦のイメージがよぎるともなくよぎる。

(特に函館の特養「旭が丘の家」でやる歌謡ショーではそんな思いが強い)

ちあきなおみさんのカバーもぐっとくるが、平野愛子さんの歌は時代の持つ力のようなものを感じる。

好きな歌だ。

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→「港が見える丘」 by 平野愛子

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2012.10.05

生きているということは

http://www.youtube.com/watch?v=-LfAQ7onyzY

生きているということは


生きて いるという ことは 誰かに 借りを作 る こと
生きていく ゆうことは その借りを 返していくこと
...
誰かに 借りたら 誰かに 返そう
誰かに そうして もらったように
誰かに そうして あげよう

生きて ゆくという ことは 誰かと 手を つなぐこと
つないだ手の ぬくもりを  忘れないで いること
めぐり逢い  愛し合い     やがて  わかれの日
その時に 悔やま ないように  今日を 明日を 生きよう


ららら ららら


人は  一人では  生きて ゆけない
誰も  一人では  歩いて ゆけない


ららら ららら るるる るるる


生きているという ことは    誰かに 借りを つくる こと
生きていくと いう ことは    その借りを 返してゆくこと
誰かに 借りたら   誰かに 返そう
誰かに そうして もらたった ように
誰かに そうして あげよう
誰かに そうして あげよう
誰かに そうして あげよう


  作詞 : 永 六輔
  作曲 : 中村 八代





オレは借りを作りっぱなしで生きてきたかもなぁ。
そろそろ借りを返しながら生きなきゃならん年かもな。

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2012.09.23

「涙そうそう」

今月は送別会プライベートライブを除き、すべてのライブを終えました。
月半ばで終えることができるのは久しぶりのこと。
その分この2週間は忙しかった。(八ヶ岳。トリプルヘッダー。蓼科へ遠征音楽会)
ぽっかり空いた2週間を充電に当てようかと思っています。
気になっていた歌をアレンジしなおしています。

真っ先に手がけたのは「涙そうそう」。
亡くなられたお兄さんを思って森山良子さんが書いた歌と聞きます。

僕ももう10年近く歌わせてもらってきました。
「街角ライブ」をメインでやっていた頃は必ずといっていいほど毎回リクエストされていました。

いろんな人が歌っています。
僕の中ではBeginのイメージが原型として定着していました。
サビの部分を結構張って歌うかんじです。

最近になって徐々にその歌い方がなじまなくなってきていました。
雑踏の街角ではあの歌い方で良かった。
でもじっくり歌える機会が増えた昨今、今のままじゃこの歌の哀感が損なわれてしまうんじゃないか。
この歌い方では、このアレンジでは饒舌に過ぎないか。
余分な声はいらない。余分な音もいらない。

そんな気持ちになり最近ではあまり歌わなくなっていました。

思い切ってキーを2度ほど下げました。
コード進行も少し変えてアレンジしてみました。


    うん、いい感じ

そう思いながら歌いこんでみました。
徐々にギターの音が邪魔に感じ始め・・・
気がつきゃだんだん音数が減っていきます。
ぽろんぽろんとぽつんぽつんという感じに変わってしまいました。

今までの歌い方やアレンジとずいぶん印象が変わり・・・。
でも今の心境ではこの感じがとてもフィットしてね。


「涙そうそう」って歌にあらためて正面から取り組んでみて、あらためていい歌だと思います。
人生の様々なシーンに寄り添うような歌だと思い始めています。

「兄の死」という個別の想いから生まれた歌。
数年の時を経て良子さんの中で熟成され、やっと歌えるようになったというこの歌。
歌として熟成されていく中で普遍性が生まれてきたような気がします。

父母との別れにも通じたり、
子供の巣立ちにも通じる。
あの震災にもつながっていく。
もちろん恋人との別れにも。

歌う人、聞く人それぞれの哀しさ、やさしさに寄り添える歌だなって思い始めました。


涙そうそう

古いアルバムめくり  ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中  はげましてくれる人よ
晴れわたる日も 雨の日も  浮かぶあの笑顔
想い出 遠くあせても
おもかげ さがして  よみがえる日は 涙そうそう

一番星に 祈る  それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空  心いっぱい あなたさがす
悲しみも 喜びにも  思うあの笑顔
あなたの場所から 私が  
見えたら きっといつか  会えると信じ 生きてゆく

晴れわたる日も 雨の日も  浮かぶあの笑顔
想い出 遠くあせても
おもかげ さがして  よみがえる日は 涙そうそう

会いたくて 会いたくて  君への想い 涙そうそう


もしも・・・
お前に15分の時間を与えると言われたら・・・
そんなにはいらない。
半分の時間でいい。
この歌を歌わせてほしい。

この歌ですべてを語りつくしたい。
今、そんな心境です。


余分な音をそぎ落とし、歌自体の持つ力だけでいい。

でもそれには歌い手としてもっともっと熟成されていなければ(技術的にも、人間的にも)
できぬ技なのかもしれないな。

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2010.07.03

「カントリーロード」 私のカントリーミュージックことはじめ

ジョン・デンバーが歌う「Take Me Home Country Roads」

この歌がラジオから流れ始めたのは1971年の夏だった


じりじりと焼けつく陽ざし
トタン屋根を通して部屋の温度はぐんぐん上がっていく
それでも開け放した窓からは北国の乾いた風が流れ込む
玉のように流れる汗にほのかな風が心地よい

ラジカセでエアチェックした『カントリー・ロード』
何度もなんどもくりかえし聴いていた




大学受験に失敗した僕は、「人生浪人」と称して伊達紋別のカトリック教会に寄宿していた

予備校通いを拒否し、家から出た
ラジオ講座だけが頼りの浪人生活だった

みずから退路を断ったつもりでいた

「馬小屋」とよんだ教会の離れにこもり、受験勉強に明け暮れる
…はずだった…


小説を読みふけり、エアチェックに明け暮れ、物思いにふける毎日をくりかえす…

「浪人生」のあるべき姿からはおよそかけ離れた毎日だった

(心の中はそれとは裏腹にあせりと不安、そして無常感にたえず支配されていたのだが)

他人との関わりはエミール神父とともにする昼食時間だけだった
エミール神父は30歳になったばかりのアメリカ人
陽気と繊細とが同居しているような人だった
僕にとっては兄貴のような存在だった

ゆったりした食事時間
僕たちは英語と日本語のチャンポン会話をする
音楽の話をずいぶんとした



ある日エミール神父が切り出した


  マサヒコ
  この歌、知ってるか?

  Country road take me home,to the place I belong…

  ジョニー・デンバーの歌だよ



それまでも『Will The Circle Be Unbroken 』『I Saw The Light 』など、いくつかのカントリーソングを教えてもらっていた
当時の僕にはいまひとつピンと来なかった


「カントリー・ロード」には琴線にひっかるものがあった

3コードのシンプルなカントリーソングの中にあってこの歌はマイナーコードも使っている
加えてAのコード進行の中に1音だけGを使っているのが斬新に感じた

そこいらへんが日本人としてのメンタリティに引っかかったのかもしれない
(小室等の音使いに共通するものを感じた)


この歌を覚えたいと思った


カセットを何度もくりかえし聴きながら歌詞を書き取る
怪しげなところはエミール神父にチェックをしてもらい、ついでに発音の特訓もしてもらう

エミール神父もこの歌が特別に好きだったようだ
故郷アメリカを遠く離れ、極東の島国に暮す
望郷の思いもひとしおだったかもしれない


受験が終わるまではと封印していたギターをひっぱりだし、
受験勉強の合間(?)を縫ってくりかえす練習

時にはエミール神父と共に合唱もした



北国の夏は駆け足で通り過ぎ、山々はあっという間に赤く色づく
やがて身を切る風とともに白い冬がやってくる

半年があっという間に過ぎ去った



初披露したのは伊達カトリック教会のクリスマスパーティ

声を張るだけの若い演奏だった

今思えばこの演奏が初めてカントリーソングを歌った「ことはじめ」だった


後になって分かったことがある

数多くのフォークソングがカントリーやブルーグラスミュージックの影響を強く受けていることを
(高田渡、高石ともや等々)

「先祖帰り」と称して原曲を聴き始めた
アメリカのオールドタイミー音楽が好きになった


そのきっかけはエミール神父とのやりとりだった
そしてその象徴が『カントリー・ロード』だった


以来三十数年、様々なアレンジでこの歌を歌ってきた

歌うたびに心の中に故郷・北海道の景色がよぎり、エミール神父の顔がよぎる



エミール・デュマス神父は今なお、札幌の地で布教活動をされている

故郷アメリカを離れて40年

  Take me home country road

そう思うことはあるのだろうか…

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