僕を通り過ぎた歌たち

2024.05.31

それぞれの「街」

高石ともやとナターシャセブンの名曲中の名曲。
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ナターシャのコンサートでは「街」が必ず歌われていた。
高石さんが歌い出すと会場全体に歌の輪が広がりはじめ、静かな大合唱となった。
感動していた。
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多くの人に歌い継がれている「街」。
僕もおーるどタイム de ライブでは必ず〆の歌として歌わせてもらっている。
ライブの参加者もまた一緒に口ずさんでくれる。
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高石さんが当時暮らしていた(活動の拠点にしていた)京都を背景に淡い恋心を歌う「街」。
「京都」という文字が歌詞に出てこないが故により一層京都を感じさせるとも云える。
逆にこの歌を聴く人それぞれの生まれ育った街にもなり得る。
懐の深い唄だと思う。
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高石さん自身が生まれ育ったのは北海道の田舎町、雨竜町だ。
京都と比べると北海道は(和人の)歴史が圧倒的に浅い。
雨竜町が開発されたのは明治20年代だそうだ。
北海道人の多くは知らずのうちに京都の町や歴史に畏敬と憧れの念を抱く。
まったく勝手な想像ではあるが、高石さんもそんな思いがバックグランドにあったかもしれない。
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僕自身何十年もの間歌わせてもらってきた「街」。
僕にとっては京都と故郷・函館の街とが重なりあっている。
時には今住んでいる越谷と重なりあったりもする。
「初恋の涙」であったり「君と僕の明日」に想いを馳せたり。
幼い恋の淡い想い出を大切にそっと取っておきたい。
誰もがそう願うのではないだろうか。
その意味でこの歌は舞台が京都であってもいいし、長崎や徳島であってもいいし、東京や山形や札幌であってもいいんだろうと思う。
この歌に心を動かされるそれぞれの人に、それぞれの「街」があるんだろうと思う。
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【自分の中で勝手に描いている「街」の風景】
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  下駄の音 路地裏通り 雨上がりの屋根
  窓越しの手まり唄 おさげがみの思い出
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昭和30年代の半ばくらいまでは路地裏で鞠をつきながら歌う女の子が普通にいた。
雨上がりだったんで家の中で手まり唄を歌うのが窓越しに聞えてたのかな。
雨上がりの屋根は京都なら瓦屋根なんだろうな。(函館じゃトタン屋根だからサマにならないな)
下駄は当時はやった相撲の下駄だろうか(若乃花とか柏戸とか書かれていたヤツだ)
幼なじみのあの娘はおさげ髪。いつも一緒に遊んでた。
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  街の角 喫茶店 古い美術館
  山かげの細い道 初恋の涙
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中学生くらいになり、色気づいてきた思春期。
行動範囲も路地裏通りから街の角や山かげの小径にまで広がってきた。
幼なじみのあの娘がなんだかまぶしい存在に。
そうか、これが初恋というものか。
なんだか知らぬが胸が苦しい。
思い切って胸の内を明かそうか、いやいやなんだかおっかない。
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  夕焼け雲 五重の塔 石畳の鳩
  プラタナスの道で 君を待ちながら
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函館には五重の塔はないけれど、夕焼け雲を背景に浮かぶ教会の鐘楼のシルエット。
石畳で鳩は見かけないけれど、岸壁にはカモメがとまってる。
元町の基坂のプラタナスの並木で君が来るのを待っている。
待ち伏せなのか、約束なのか。
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  大学通り 流れる川 走る路面電車
  背の低い山を見て 君と僕の明日
路面電車に乗って湯の川で降りる。近くを流れる川。そしてほど近くには函館大学。
青春期を迎えた君と僕。
遠く函館山を見ながら想う君と僕の明日はいかに。
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  この街が好きさ 君がいるから
  この街が好きさ 君の微笑みあるから
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君と僕がどうなったのか。
それはご想像におまかせするとして、
ただただこの街が好きさ。
君の想い出あるから。

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2021.09.16

【小樽運河】

小樽運河:https://youtu.be/7xFR6ZsjWAE?list=RDMM


好きな歌だ。
演歌の都はるみが、「うなり節」を封印してさらりと歌っているのが心地いい。
作詞が吉岡治、作曲は弦哲也というのも面白い。
どちらも演歌的な歌を書くことの多い作家だ。
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10月の「喫茶店JUNE たそがれ歌声音楽会」では宿題として都はるみ特集を頂戴している。
「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡線」「さよなら列車」「好きになった人」「北の宿から」などおなじみの歌には当然挑戦する。
あわせてこの「小樽運河」もぜひとも歌いたいと思っている。
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歌の舞台は小樽。
発表されたのは昭和59年ごろ。
「四十路なかば」とあるので主人公は団塊の世代の女性。
おそらく長らく恋愛関係にあった男に先立たれたのだろう。
夫婦ではなく「恋愛関係」と思われるところがミソ。
歌詞に「傘はあなたに貸したまま セピア色した雨が降る」とある。
おそらく離れて暮らしていたのではないかな。
離れているからこそ相手への思いは深く、失った後の喪失感は大きいということもあろう。

小樽からの上りは倶知安、長万部を経由して函館までつなぐ函館本線。
函館本線は小樽~函館までは電化されていないので走る列車はディーゼル列車。
歌詞に「ディーゼル」を折り込むところが秀逸。
お洒落なうえに、現実的だ。
ディーゼルエンジンの音が聞こえ、特有の匂いがしてくるようだ。
「上りの夜汽車を 待ちながら」となると、途端に観念的で演歌っぽくなってしまうものね。

お洒落という点では、キーワードになっているのが「イエスダデイ」。
もちろんビートルズの名曲だ。
とりわけ団塊の世代にとってビートルズは特別な存在だろう。
音楽だけではなく、その生き方・考え方にまで影響を受けた世代だ。
「イエスタデイ」は愛するものをとつぜん失ってしまった嘆きの歌。
そんなことも下敷きにして歌詞に折り込まれているように思う。
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小樽運河は僕にとっても印象に残るとても想い出深い場所だ。
ハンマーダルシマーを路上演奏する小松崎健さんと出会った小樽運河。
僕自身もこの場所で路上演奏をしたことがある。
音楽コミュニティ「へた親」(へたくそ親父のギター弾き語り)の唯一の道内メンバーのららちゃん。彼女との「デート」の時間までをさまよっていた小樽運河。
ギタリスト・浜田隆史さんは今も小樽運河で路上演奏を続けている。
こんな個人的な思いもあり、「小樽運河」は外せない1曲だ。

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2020.09.25

【故郷へ帰りたい Take Me Home Country Roads】

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この歌を覚えたのは18才の頃。
大学受験に失敗し、伊達のカトリック教会に間借りし「受験勉強」に精を出していた頃だ。
エミール・デュマスというアメリカ人神父に教わった。
エミールさんから教えてもらった数多くの歌のうちの1曲。


長年、原語にこだわって歌ってきた。
英語の発音とイントネーションをエミールさんにチェックされた。そのシーンが今も焼きついているためだろう。

およそ50年を経てやっと日本語の歌詞をつけることにした。
「離郷・望郷」をテーマにしたライブを近々にふたつ予定している。それにあわせてのことだ。今やらなきゃこの先二度とやることは無いだろうという思いもあった。

ところが原詩の中にはアメリカの地名がしこたま入ってくる。
ウェストバージニアだの、ブルーリッジ山脈だの、シェナンドー川だのね。それをなぞったんじゃ日本語詞にする意味がない。

このあたり一帯は古くからの炭鉱があるところだそうだ。
「炭鉱の町」なら我が故郷、北海道にもたくさんある。
高校時代の同級生やサッカー部の先輩にも炭鉱の町からやって来た人がけっこういた。
赤平、夕張、三笠、そして芦別。思い出すだけでも5~6人の友人がいる。

彼らのお父上は炭鉱が閉山され、慣れ親しんだ炭鉱の仕事を捨て鉄の町・室蘭にやって来た。ずいぶん苦労されたことだろう。そして望郷の念もまた強かったのではなかろうか。

昨年、自分のルーツを探る旅の一環で炭鉱町をあちこち訪ねた。その時目にした景色や音や匂いが残っている。

そんなことを思い浮かべていたら歌詞になった。
ライブ本番で鍛えられ、少しずつ変わっていくかもしれない。
その意味ではまだ今は「歌の芽」の状態かもしれない。
これがどう育つか楽しみだ。

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2020.08.14

【浜辺の歌】

 

子供の頃から好きでよく歌っていた。ライブでも時々歌っている。
今度の「おーるどたいむ de ライブ」でもハンマーダルシマーとニャンダル(小さなダルシマー)をフューチャーして歌うこととなった。

馴染み深いメロディなんだがその歌詞は実に難解。
大正2年に書かれた歌詞だ。昭和生まれの自分にはなかなか敷居が高い。
考えてみると小学校でも2番までしか歌わなかった。3番は古語であり死語となっている。分かるはずもない。

文学部国文科中退の意地で(?)なんとか解析し、妄想をたくましくして自分なりのイメージをふくらませた。(3番の歌詞の解釈はいろいろあるらしい)

   浜辺の歌

 明日浜辺を さまよえば  
 昔のことぞ しのばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も

 ゆうべ浜辺を もとおれば
 昔の人ぞ しのばるる
 寄する波よ 返す波よ
 月の色も 星の影も

 はやちたちまち 波を吹き
 赤裳のすそぞ 濡れひじし
 病みし我は すでに癒えて
 浜辺の真砂 まなごいまは

1番2番は昭和生まれの自分でも理解できる。
朝に夕に浜辺をぐるぐると徘徊しながら昔を偲んでいる様子が表されている。(もとほる=ぐるぐると回る)

ところが3番がいけない。さっぱり分からない。

 はやち(突風) たちまち(突然に)
 赤裳(女性の着物の腰から下を覆う衣服。
 濡れひじし(びっしょり濡らしてしまった)
 真砂(細かい砂) まなご(愛子)

ここから考えるとどうやら3番こそがこの歌の核心のようだ。

浜辺を徘徊するうちに気がつくと足下に寄せる波によって着物の裾がすっかり濡れてしまった。昔の追憶に浸るうちに気がつきもしなかった。
私の長患いもすっかり癒えたというのに、この先もこうしていつまでも「愛子」を想ってさまよい続けるのでしょうか。

大正初期のこと、長い療養を必要とした病、それは肺病なのだろうか。
当時肺結核は治らぬ病として社会から隔離され、長期療養を余儀なくされた。治療薬ストレプトマイシンが発見され、肺結核は治る病とされたのは太平洋戦争後のはなし。当然大正時代には「死の病」だった。
(余談だが僕の父も戦後肺結核に冒され1年以上の療養生活を余儀なくされた。父の姉は残念ながら自宅の2階に隔離されながら力尽きて命を落とした)

この女性は「死の病」であるがゆえに嫁ぎ先からは離縁されたのではないか。奇跡的に病が癒えたにもかかわらず、離縁された身として自分の子供にも会うことができない。
こうして朝な夕な浜辺をさまようことしかできぬわが身よ。。。

こんな風に妄想的に解釈するとなかなか重たくせつない歌だ。
小学校では3番を歌わなかったというのも頷ける。

さて、今回のライブでも「核心の3番」は歌いきれない。慣れ親しんだ美しいメロディを2台のダルシマーとギターで奏でることを主眼にすることにした。歌は1,2番をそっと口ずさむのがいい。
とはいえ、自分の中にはこの妄想的解釈をしっかりとおさめての演奏にしたい。

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2020.03.02

「さくら」 ミツダイ

ミツダイというフォーク・デュオの「さくら」という唄が好きで、春になると毎年歌わせてもらっています。

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「さくら」は卒業する子供たちがいつの日かまた校庭の桜の木の下で集まりたいねという願いのこもった唄です。
出会いと別れをくり返していくのが人の世の常。
別れの時は人生の分岐点。
その分岐点にはかなく揺れる桜はともに過ごした日々を思い起こさせてくれます。

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  さくら さくら その花びらが
  みんなの心をつないでくれる
  さくら さくら はかなく揺れる
  いつまでも忘れないで
  僕はここにいるよ

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この歌を歌う時いつも思い出すのは三郷にあった瑞沼小学校でのコンサート。
16年前廃校になることが決まり、卒業式を前にして行われたコンサートでした。
全学年150名の生徒たちが全員集まっても体育館はがらんとしていたのを思い出します。
でも子供たちは目を輝かせながら演奏に聴き入ってくれました。
唄の途中に教えてもらった瑞沼小学校の校歌を挟んで歌ったりしながら1時間程のコンサートはとても温かかでした。
春の風に揺られながらひらひらと舞い散る花びらが印象に残っています。

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「少子高齢化」という言葉が実感されたコンサートでもありました。
僕の卒業した函館市立青柳小学校も谷地頭小学校と統合されました。
潮見中学校も統廃合の末青柳中学校に。
函館市立東高校は道立北高校と統合され函館高校に。
転校した室蘭東高校も清水が丘高校と統合され東翔高校に変わりました。
歌い慣れた校歌は今ではもう歌われることもなくなったと聞きます。
瑞沼小学校の統廃合も児童数減少の結果でしょう。

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単に人口バランスが崩れて「高齢化社会」になったというだけではありません。
児童数の絶対的減少と高齢者数の絶対的増大の結果であることを考えるとなんとも言えない気分になります。

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あの日卒業した最後の卒業生も今ではもう28歳くらいかな。
いい若者に育ってることでしょう。
おーい、みんな。達者でやってるかーぃ!

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今年は暖冬の影響で桜の開花もかなり早い模様。
もうそろそろ「さくら」を歌いたいなあ。

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「さくら」 ダウンロード - e38195e3818fe3828920efbc88e3839fe38384e38380e382a4efbc89.docx

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2019.11.19

達者でな

わらにまみれてヨー 育てた栗毛
  今日は買われてヨー 町へ行く アーア~アー
  オーラ オーラ 達者でな
  オーラ オーラ 風邪ひくな
  離す手綱がヨー ふる ふるえるぜ

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目頭がじわーっとあつくなる。

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昭和35年、三橋美智也さんの名曲のひとつ「達者でな」。
子供の頃、その意味も理解せぬまま「ワーラーニ マミレテヨー」と大声で歌っていた。

当時函館の町でも車に混じり、数こそ多くはないが馬車や馬そりが走っていた(歩いていた)。
馬糞を踏むと背が伸びるなんてこと本気で信じていた。

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それにしても昭和の歌謡曲にはちゃんと筋書きがありドラマになっている。
情景がふわっと浮かんでくる。
数少ない言葉の裏側かにいろんなことを想像させられる。

三橋美智也さんの「夕焼けとんび」にしても「古城」にしても同じ。
まさに「3分間ドラマ」だ。
歌詞、メロディ、歌唱の三拍子がしっかりかみ合ってのことなんだろうな。

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三橋美智也さんは函館のすぐお隣、上磯町出身だと言うことを知ったのはずっと後になってからのことだった。
高校3年の時、学校祭でファイヤーストームの前で「北海盆唄」を歌う企画を立てたことがある。
三橋美智也さんのお弟子さんに民謡風の歌い方を教えてもらえることになり、汽車に揺られて豊浦まで行った。
その方は僕の歌を聴くと「おめ、三橋先生のレコードケルから(やるから)、よっぐ聴いて真似しれ」とドーナツ盤を1枚くれた。
多分、こいつには民謡の才がなく、教えようがないと即座に思ったんだろう。

かなり三橋美智也唄う「北海盆唄」を聴きこんだが、結局モノにはならなかった。

でも以来「歌手・三橋美智也」は僕にとって憧れ以上の存在になった。

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→「達者でな」

 

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2019.11.16

「港が見える丘」

名曲だ。
「港が見える丘」。

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昭和22年。
戦後まだ2年。
東京にはまだ焼け跡にバラック。闇市が全盛の頃なんだろうな。
上野地下道なんかには戦災孤児もたくさんいたんだろうな。
歌の舞台の横浜はどうだったんだろうな。横浜も焼夷弾に焼かれたと聞いている。
敗戦を色濃く引きずりながらも、そこから這い上がらなければという時代。
この歌はそんなときにラジオから流れていたんだろうか。

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僕はこの歌を歌うとき、函館の元町公園から眺める函館港を思い浮かべる。
函館もまた空襲を受けている。特に青函連絡船を狙った爆撃は執拗であったと聞く。(1945年7月)

古くは箱館戦争で榎本武揚率いる「蝦夷共和国」(旧幕府軍)と薩長率いる新政府軍との戦いの場となった弁天台場から見る函館港を思い浮かべる。
弁天台場の窮地を救うため五稜郭から打って出た土方歳三はその道すがら戦死している。

時は1869年5月。函館に桜の咲く頃ではなかったか。

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戦後、函館の元町で両親は出会った。
母は時々「港が見える丘」を口ずさんでいたのが幼い記憶として残っている。

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「情緒過多症」と笑われるが、この歌を歌うとき古い戦のイメージがよぎるともなくよぎる。

(特に函館の特養「旭が丘の家」でやる歌謡ショーではそんな思いが強い)

ちあきなおみさんのカバーもぐっとくるが、平野愛子さんの歌は時代の持つ力のようなものを感じる。

好きな歌だ。

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→「港が見える丘」 by 平野愛子

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2012.09.23

「涙そうそう」

今月は送別会プライベートライブを除き、すべてのライブを終えました。
月半ばで終えることができるのは久しぶりのこと。
その分この2週間は忙しかった。(八ヶ岳。トリプルヘッダー。蓼科へ遠征音楽会)
ぽっかり空いた2週間を充電に当てようかと思っています。
気になっていた歌をアレンジしなおしています。

真っ先に手がけたのは「涙そうそう」。
亡くなられたお兄さんを思って森山良子さんが書いた歌と聞きます。

僕ももう10年近く歌わせてもらってきました。
「街角ライブ」をメインでやっていた頃は必ずといっていいほど毎回リクエストされていました。

いろんな人が歌っています。
僕の中ではBeginのイメージが原型として定着していました。
サビの部分を結構張って歌うかんじです。

最近になって徐々にその歌い方がなじまなくなってきていました。
雑踏の街角ではあの歌い方で良かった。
でもじっくり歌える機会が増えた昨今、今のままじゃこの歌の哀感が損なわれてしまうんじゃないか。
この歌い方では、このアレンジでは饒舌に過ぎないか。
余分な声はいらない。余分な音もいらない。

そんな気持ちになり最近ではあまり歌わなくなっていました。

思い切ってキーを2度ほど下げました。
コード進行も少し変えてアレンジしてみました。


    うん、いい感じ

そう思いながら歌いこんでみました。
徐々にギターの音が邪魔に感じ始め・・・
気がつきゃだんだん音数が減っていきます。
ぽろんぽろんとぽつんぽつんという感じに変わってしまいました。

今までの歌い方やアレンジとずいぶん印象が変わり・・・。
でも今の心境ではこの感じがとてもフィットしてね。


「涙そうそう」って歌にあらためて正面から取り組んでみて、あらためていい歌だと思います。
人生の様々なシーンに寄り添うような歌だと思い始めています。

「兄の死」という個別の想いから生まれた歌。
数年の時を経て良子さんの中で熟成され、やっと歌えるようになったというこの歌。
歌として熟成されていく中で普遍性が生まれてきたような気がします。

父母との別れにも通じたり、
子供の巣立ちにも通じる。
あの震災にもつながっていく。
もちろん恋人との別れにも。

歌う人、聞く人それぞれの哀しさ、やさしさに寄り添える歌だなって思い始めました。


涙そうそう

古いアルバムめくり  ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中  はげましてくれる人よ
晴れわたる日も 雨の日も  浮かぶあの笑顔
想い出 遠くあせても
おもかげ さがして  よみがえる日は 涙そうそう

一番星に 祈る  それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空  心いっぱい あなたさがす
悲しみも 喜びにも  思うあの笑顔
あなたの場所から 私が  
見えたら きっといつか  会えると信じ 生きてゆく

晴れわたる日も 雨の日も  浮かぶあの笑顔
想い出 遠くあせても
おもかげ さがして  よみがえる日は 涙そうそう

会いたくて 会いたくて  君への想い 涙そうそう


もしも・・・
お前に15分の時間を与えると言われたら・・・
そんなにはいらない。
半分の時間でいい。
この歌を歌わせてほしい。

この歌ですべてを語りつくしたい。
今、そんな心境です。


余分な音をそぎ落とし、歌自体の持つ力だけでいい。

でもそれには歌い手としてもっともっと熟成されていなければ(技術的にも、人間的にも)
できぬ技なのかもしれないな。

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2010.07.03

「カントリーロード」 私のカントリーミュージックことはじめ

ジョン・デンバーが歌う「Take Me Home Country Roads」

この歌がラジオから流れ始めたのは1971年の夏だった


じりじりと焼けつく陽ざし
トタン屋根を通して部屋の温度はぐんぐん上がっていく
それでも開け放した窓からは北国の乾いた風が流れ込む
玉のように流れる汗にほのかな風が心地よい

ラジカセでエアチェックした『カントリー・ロード』
何度もなんどもくりかえし聴いていた




大学受験に失敗した僕は、「人生浪人」と称して伊達紋別のカトリック教会に寄宿していた

予備校通いを拒否し、家から出た
ラジオ講座だけが頼りの浪人生活だった

みずから退路を断ったつもりでいた

「馬小屋」とよんだ教会の離れにこもり、受験勉強に明け暮れる
…はずだった…


小説を読みふけり、エアチェックに明け暮れ、物思いにふける毎日をくりかえす…

「浪人生」のあるべき姿からはおよそかけ離れた毎日だった

(心の中はそれとは裏腹にあせりと不安、そして無常感にたえず支配されていたのだが)

他人との関わりはエミール神父とともにする昼食時間だけだった
エミール神父は30歳になったばかりのアメリカ人
陽気と繊細とが同居しているような人だった
僕にとっては兄貴のような存在だった

ゆったりした食事時間
僕たちは英語と日本語のチャンポン会話をする
音楽の話をずいぶんとした



ある日エミール神父が切り出した


  マサヒコ
  この歌、知ってるか?

  Country road take me home,to the place I belong…

  ジョニー・デンバーの歌だよ



それまでも『Will The Circle Be Unbroken 』『I Saw The Light 』など、いくつかのカントリーソングを教えてもらっていた
当時の僕にはいまひとつピンと来なかった


「カントリー・ロード」には琴線にひっかるものがあった

3コードのシンプルなカントリーソングの中にあってこの歌はマイナーコードも使っている
加えてAのコード進行の中に1音だけGを使っているのが斬新に感じた

そこいらへんが日本人としてのメンタリティに引っかかったのかもしれない
(小室等の音使いに共通するものを感じた)


この歌を覚えたいと思った


カセットを何度もくりかえし聴きながら歌詞を書き取る
怪しげなところはエミール神父にチェックをしてもらい、ついでに発音の特訓もしてもらう

エミール神父もこの歌が特別に好きだったようだ
故郷アメリカを遠く離れ、極東の島国に暮す
望郷の思いもひとしおだったかもしれない


受験が終わるまではと封印していたギターをひっぱりだし、
受験勉強の合間(?)を縫ってくりかえす練習

時にはエミール神父と共に合唱もした



北国の夏は駆け足で通り過ぎ、山々はあっという間に赤く色づく
やがて身を切る風とともに白い冬がやってくる

半年があっという間に過ぎ去った



初披露したのは伊達カトリック教会のクリスマスパーティ

声を張るだけの若い演奏だった

今思えばこの演奏が初めてカントリーソングを歌った「ことはじめ」だった


後になって分かったことがある

数多くのフォークソングがカントリーやブルーグラスミュージックの影響を強く受けていることを
(高田渡、高石ともや等々)

「先祖帰り」と称して原曲を聴き始めた
アメリカのオールドタイミー音楽が好きになった


そのきっかけはエミール神父とのやりとりだった
そしてその象徴が『カントリー・ロード』だった


以来三十数年、様々なアレンジでこの歌を歌ってきた

歌うたびに心の中に故郷・北海道の景色がよぎり、エミール神父の顔がよぎる



エミール・デュマス神父は今なお、札幌の地で布教活動をされている

故郷アメリカを離れて40年

  Take me home country road

そう思うことはあるのだろうか…

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2010.03.24

はつかり5号

「ほたるの里」ミニライブで、ばしさんがアンコールに『津軽海峡冬景色』を歌った

サビのくりかえし部分にシカケがあった

青森駅に近づく特急はつかり5号の車内放送をおりこんでいた

そのアイデアは秀逸だと思った
それ以上にばしさんの「語り口」がとても良かった

夜汽車の車内放送の香りをみごとに表現していた
夜汽車の持つなんともいえぬ切なさをかもしだしていた



  本日は、ご乗車 まことにありがとうございます

  まもなく 終点 青森に到着いたします
  1番線到着 お出口は左側でございます

  青森から、乗り換えのご案内 いたします
  奥羽線、津軽線方面
  本日運転は すべて 終了しております

  北海道方面 青函連絡船をご利用のお客様は
  0時30分 摩周丸 函館行きでございます
  青函連絡船をご利用のお客様は
  乗船名簿にお名前をご記入の上、
  改札 係員にお渡しください

  本日は特急はつかり5号を ご利用いただきまして
  まことに ありがとうございます

  まもなく終点 青森です



ばしさんの「語り」を聞きながら、35年前の自分を思い出していた

夢を見て、北海道を後に東京に出てきた自分だった
しかし思い通りにいかぬやりきれなさから、時折故郷を思うこともあった

バイトに精を出し金をため、何度か帰郷したこともある
ほとんどが鈍行列車を乗り継いでの貧乏旅だった
しかし一度だけ特急はつかり5号で帰ったことがある

その時の記憶が鮮明に蘇ってきたのだ

  特急はつかり5号
  16:00 上野発 0:15 青森着
  735.8キロ 8時間15分の夜行列車だった

  この後0時35分の青函連絡船に乗り継ぎ内地を後にする
  船が函館に到着するのは未明の4:25だった


朝焼けに煙る臥牛山(函館山)を眺めながら、デッキで一人ワンカップ大関を呑んだ
デッキを渡る風は強く、冷たかった
しかし、心は安堵感で充たされていた



はつかり5号

故郷を思い起こさせるひとつの象徴だった
東京と北海道を結ぶ生命線のようにすら感じていた


同郷のひとつ下のフォーク歌手・松山千春の歌にはつかり5号が登場するものがある


    帰りたい

  夕焼けに 赤く染まる 故郷の手紙
  握りしめ 駆け出せば 涙があふれてた
  帰りたい 今すぐにでも 荷物をまとめて
  大きな声で叫んだ 故郷へ届けと

  夢を見て 飛び出した 故郷は遠い
  やるせない せつなさは ぬぐえない涙
  帰りたい 今すぐにでも 荷物をまとめて
  大きな声で叫んだ 故郷へ届けと

  帰りたい 今すぐにでも 荷物をまとめて
  上野発  はつかり5号 見送れば夕焼け

           (詩・曲 松山千春)



今でもこの歌を口ずさむと望郷の念にかられる
それは北の大地に対する望郷であり、若き日への回帰なのかもしれない


  帰るんだ 帰るんだ
  まだ寒い 北国へ
  だけど そこには
  僕の愛した人がいる

     (松山千春)





はつかり5号は…
もう走っていない

青函連絡船は…
もう通っていない

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