日記・コラム・つぶやき

2021.03.18

写真が語る「女の一生」

今日3月17日は2回目の母の命日、つまり3回忌だった。
できることならば函館まで行き、墓参りをしたかった。
こういうご時世でそれもかなわなかった。
今日はせめて母の人生を辿りながら歩くことにした。
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母は大正の終わりに生まれ、激動の昭和を生き抜き令和に変わる直前に天命を全うした。
大正、昭和、平成と三つの時代を股にかけて生きたことになる。
(ギリギリ令和をみることができなかった)
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その人生、決して順風満帆というわけではなかっただろう。
むしろ様々なことに直面しながらもひとつひとつ乗り越えてきたんだろうと思う。
ごく普通の娘がごくごく普通の母親になり、様々に心を痛めつつもそれを飲みこみながら生きてきたんだと思う。
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母を思うときふと流れてくる歌がある。
小田俊明さんの「夢」という歌。
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  こんな夢を見ました 
  あなたはとても若く
  まだ幼い 小さな私を 温かく抱きしめて
  春の光の中で 朝の風に吹かれて
  愛すること 許すことの意味を教えてくれた
  長い時の旅を終えて 今静かに眠りにつく
  命をかけ産んでくれた その勇気を忘れないと
  さよなら ありがとう 二度と戻らぬ季節
  朝の夢に消える影が 後ろ手に手を振った
  さよならありがとう 駆けてゆきたいけれど
  にじむ景色かすむ影が 後ろ手に手を振った
  もう戻らぬ小さな影が 後ろ手に手を振った
19247
娘時代。おそらく太平洋戦争開戦前、函館高等女学校入学のあたりではないか。
19531
昭和28年6月10日。古池信夫と結婚。函館カトリック元町教会にて。
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子育て時代。近所の函館公園と思われる。昭和33年頃か。
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家の前で。昭和30年冬。
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昭和62年。子供たちがみな独立し夫婦ふたりだけの暮らしに戻った頃。
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夫・信夫が帰天。平成5年4月13日。札幌カトリック小野幌教会にて。
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札幌でのひとり暮らしが10年ほど続いた。毎年渡り鳥のように内地に住む子供の元へ遊びに来ていた頃。
越谷の屋台にて。
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10年ほどのひとり暮らしを経て、函館に戻る。「旭が丘の家」に入居。
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平成30年クリスマス。この3ヶ月後母は帰天した。

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2021.03.12

【あの頃のこと その2 ~被災地で歌う】

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2018年3月に投稿した記事の再録です。
震災の年は僕個人にとっても多くの出来事があり、多くを考えさせられる1年でした。
そして10年たった今も答えは見つけられず、自問自答が続いています。
 「人」としてどう生きるか。
 「歌うたい」としてどう生き、歌っていくべきか。
おそらく答えはどこまでいっても「風の中」。
自問自答を積み重ねることがこの先もずっと続くんでしょう。
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震災のおよそ2週間後、僕は共同印刷を退職し「天下御免の人生浪人」の暮らしに入った。
天下御免とは言いながら内心は穏やかではなかった。
50代半ばを過ぎてからの再就職は容易ではない。
いくつかの印刷会社からお誘いはあったが、丁重にお断りをさせていただいた。
せっかく印刷の仕事を辞したのだから何か新しいことに挑戦したいと思っていた。
50代半ばはそれができる最後のチャンスとも思っていた。
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けれどもそれは容易ではないことだったし、震災後、求職の需給関係も悪化していた。
震災で家族や家だけではなく職までも失った方々がたくさんいた。
それは地震の直接の打撃を受けることの少なかった東京や埼玉の求職事情にも影響していた。
失業給付の切れる1年後まではじっくりと構えることにした。
どんな職業であれ自分が意義を見出し納得できるものをぎりぎりまで探すことにした。
腹をくくった形だ。
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そんな時友人から被災地へ慰問活動参加の打診を受けた。
迷った。
  「震災直後の被災地に出向き歌うことなんかできない」
率直な気持ちだった。
震災直後からSNS(ミクシー)などで多くの書き込みがなされていた。
「今すぐにでも被災地に向かい音楽を通し被災者を励まし、力を与えよう。それはミュージシャンの務めだ」という考えと
「これだけ大打撃を受け、生きることに汲々としている被災者に音楽が与えられるものはない」という考えが真っ向から対立していた。
そこから派生する様々な意見が飛び交っていた。
みんな迷い悩んでいた。
音楽に携わるものとして何ができ、なにができないか。
また何をなすべきか、なにをなすべきではないか。
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人生浪人を始めたばかりの僕には時間はあった。
でも軽い気持ちでは決められなかった。
人様に「与えるべき何か」など自分にはないというのが正直な気持ちだった。
一方で「慰問キャラバン」参加の返答期限は迫っていた。
被災地に出向き、そこで自分が歌えるかどうかはわからない。
でもこの目で現実の一端を凝視すべきだ。
そう思い参加を決めた。
キャラバン隊は2人のマッサージ師、3人の歌うたいの5人。
ハイエースに機材とキャンプ道具を積み込んで宮城県に向かった。
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現地の惨状をみた。
避難所ではたくさんの方と話をした。
それでも「ステージ」に立つ瞬間まで迷いは続いた。
「ステージ」に立ち段ボールで仕切られた体育館を見渡した瞬間スイッチが入った。
  歌おう。
  言葉はいらない。
  ただ歌おう。
  自我を捨て、この体育館の空気になろう
そんな気持ちだった。
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宮城県の数か所の避難所を回る数日間の旅で感じたことは多かったし、大きかった。
困難に耐え、後ろに引きずられながらも前を向こうとする被災された方々に自分の今の状況(人生浪人と先の見えない再就職活動)を重ね合わせた。
自分もまた復興途上と思った。
その後の音楽やライブ活動に対する自分の立ち位置も少し整理された。
大切なキーワードは「己を捨てて空気になる」ということだった。
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その後、いくつもの復興支援チャリティコンサートへの出演を依頼された。
被災地での活動について述べるように頼まれた。
でも多くを語ることにためらいがあった。
チャリティコンサート主催者は「何をなすべきか」について語ってほしかったようだ。
でもそれを決めるのは個々人で、僕にはそれを先導、扇動などできはしない。
だからこの目で見たことを淡々と話すだけにとどめてきた。
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あの日から7年目の今日、親しい友人からのお誘いでチャリティコンサートに出演する。
震災当初とは違い、「風化」が進んでいるように感じる。
これまでとはちょっと違った切り口で臨もうと思っている。
言葉はいらない。ただ歌うのみ。
参加する方々の胸にほんの少しでも引っかかることを願うばかりだ。
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もしかしたら写真はこの投稿をした前年のリメンバーコンサートの時かもしれない。
この時歌ったのは
 ①永久欠番
 ②谷間の虹
 ③花は咲けども
 ④歩きつづける時
 ⑤泣かないでアマテラス
とあった。

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2021.03.10

【あの日のこと】

2012年3月。
2週間後に長年勤めた印刷会社退職することになっていました。
申し送りや挨拶回りで気ぜわしく過ごしている頃、「あの日」が来ました。
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その日のことを書き留めたメモ帳を元にまとめたのが以下に掲載する文章です。
あれから10年の歳月が過ぎました。
日本は多くの災害を経験し、今はコロナという名の災害に向き合っています。
僕個人も1年間の浪人生活を経て自動車損害保険の職に就き8年間勤務し、今再び人生浪人暮らしをしています。
時は流れ、幾多の出来事が通り過ぎていきました。
でも「あの日のこと」は忘れられないし、忘れてはならないと思います。
備忘のため、あの日の記録を再録したいと思います。
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14:46 
突然、横に大きくゆれだす。
同僚たちは叫びながら机の下にもぐりこむ。
瞬間、中学生の時体験した十勝沖地震のことが脳裏をよぎり、出入り口まで急ぐ。
  あの時は末広町の同級生の家が真ん中から裂けた。
  道路には亀裂が入った。
  3階建ての函館大学の1階が押しつぶされた。
出入り口から外に出ようと地面を見ると建屋と道路の境目に亀裂が入りそれぞれ左右逆方向に揺れている。
危険を感じる。
上を見上げると5階建ての建屋を這うように設置された配管パイプが音をたてている。
建屋がつぶれるのが先か、配管が落ちるのが先か。
コーポレートマークを大書きした金属の巨大な壁が屋上の上でぶるぶる波打っている。
いつでも飛び出せるように身構えながら揺れがおさまるのをまつ。
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15:30
社内放送で全社員の避難を促し始める。
場所は播磨坂の桜並木。
広く、長い坂は多くの人で埋めつくされている。
くりかえしやってくる余震だが、皆つとめて冷静に事態をうかがっている。
この日退職の挨拶をしに得意先SB社を訪問する約束だった。
先方の様子をうかがうとともに、延期の依頼をしなければなるまい。
そう思い、何度も電話をするがつながらぬ。
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17:00
避難命令は解除され、社にもどる。
ただちの退社を促す放送。
同僚たちが帰るのを見届け、18:00に退社。
少し歩きはじめるが手のカバンが邪魔になる。
白山のオリンピックに立ち寄りザックを買う。
自転車売り場は人の列が延々とつながっている。
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19:00
上野の山を裏道伝いに抜け、日光街道をめざす。
途中三ノ輪のAb印刷に立ち寄る。若い工場長は教え子だ。
他のオペレータを帰し、ひとりで印刷機を回している。
  なんとしてもこいつだけは上げとかなきゃなんないんですよ
  あしたの朝一が、引き取りなんで。
  ばかやろ、明日なんかトラック走らねぇべ!
  しゃあねぇな、俺も手伝ったるよ
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20:30
Ab印刷を出て再び歩きはじめる。
日光街道は車も人も自転車も身動きとれぬほど込み合っている。
どこまでものろのろと続く長蛇の列。
急いでもしょうがないと腹をくくり、その動きに身をまかせる。
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23:00
竹ノ塚を抜けようやっと埼玉県に入る。
人の群れは少しずつだが隙間ができはじめる。
急に冷え込んでくる。
空腹になるがコンビニは店を閉めている。あいている店も買い物客でごった返している。
あきらめて列からはずれひと休み。
家族に電話をするもののいまだにつながらない。
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24:00
草加を抜ける。
人はずいぶん少なくなるが車道はあいかわらず渋滞が続く。
旧日光街道に面した自治会館では急設休憩所が設けられている。ありがたい。
水を分けてもらい一服する。煙草がうまい。
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1:00
やっと松原団地の松並木。土の道が疲れた足にやさしい。
人はばらけ、数えるほどになる。
ベンチで一服していると、見知らぬおじさんに声をかけられる。
  すいません。煙草を1本分けてもらえませんか。
疲れはてた表情でうまそうに煙草を吸うおじさんと話す。
袖振り合うも多生の縁というが、みょうな一体感を感じる。
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1:30
蒲生に入る。
あと一息。
ラーメン屋「まんぷく」が店を開けている。
店内は客がひしめいている。
急に腹が減り、吸い込まれるように店に入る。
なじみの店主に広東麺を頼む。
とろみのある熱い麺が五臓六腑にしみわたる。生き返った心地だ。
家に電話。
やっとつながり、全員の無事を確認する。
長男は足場の上にいる時に地震がきたという。やばかった。
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2:00
ようやっと家にたどり着く。
「まんぷく」からの1キロが途方もなく長く感じられた。
テレビに目をやる。
とんでもないことになっている。
小石川から越谷にたどり着くので精いっぱいだった。
こんなことになってるなんてちっとも知らなかった。
あまりの状態に発する言葉もない・・・
嗚呼・・・

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2021.02.27

次男とアドリブ・セッション

2021_02_25
次男がひょっこり顔を出してくれました。
コロナの世になってから遠方に住む次男一家とは会う機会が少なくなっていたのでありがたかったぁ。
近くに仕事があったついでとのことでしたが、先月切除したでっかい大腸ポリープを気遣ってのことでしょう。
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  オヤジ、痩せたか?
  大丈夫か?
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  なんもさ!
  日頃のトレーニングと節制の成果だっ!
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そんな会話をしながら、ふと思い出してました。
30年前に同じ会話を父とかわしていたな。
父はちょうど今の僕と同じ66歳。
直腸をガンのため全摘していました。
父も「なんもさ!」と笑っていたけど、結局大丈夫でなかった。
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  歴史は繰り返す、螺旋階段のごとし
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父がよく口にしていた言葉がふとよぎります。
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安心したか、次男は今は楽器部屋になっているかつての自分の部屋を物色し12弦ギターをひっぱりだしてきました。
半年ぶりに親子でえんえんとアドリブセッション。
一段と腕をあげたようでした。
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どちらかというと寡黙な次男との会話はいつもギターを介してでした。
ギターを奏であいながらお互いを確かめあう。
こんな親子関係も悪くはないな。

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エンタが逝って6年目の春

2月23日。
イトコのエンタがあちらに旅だち6回目の命日を迎えました。
63歳。早すぎる旅立ちでした。
2014
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古池エンタ幸介。
僕より3歳年長で、函館山の麓で一緒に育ったイトコ。
僕が歌い始めるきっかけを作ってくれたアニキ分でもありました。
函館西高のビートルズバンドでドラムをたたき女子学生の黄色い声援を受けていたエンタは、僕にとっても憧れの存在でした。
中学生だった僕にギターの手ほどきをし、PPMやブラザース・フォーを教えてくれました。
歌謡曲少年だった僕にはアメリカン・フォークソングとの出会いはカルチャーショックでした。
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その後エンタは上京し、僕は室蘭の高校に転校。
以後長いこと音信不通となっていました。
風の便りでブルースにすっかりはまり、東京のバンドでドラムをたたいていると聞いてはいましたが。
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ちょっとした偶然からエンタが高円寺で「ENTA巣」という音楽居酒屋をやっていることを知りました。
30年ぶりで再会を果たした僕たちは、ENTA巣を舞台に10年にわたるつきあいを始めます。
それは互いに遠慮のかけらもない子供時代の延長のようなつきあいでした。
ENTA巣の狭い店内で函館弁をまくし立てながらの音楽談義は今となってはとても貴重な時間でした。
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聞くと彼は上京後の20代、南阿佐ヶ谷ブルースバンドやレイジー・キム・ブルースバンドでドラムをたたいていたとのこと。
日本のブルースバンドの黎明期でした。
そして30代の頃はGUSHI(グシ)さんとコンビを組んで活動をしていました。
リンクを貼った「R&Bメドレー」はENTA & GUSHIの1983年のライブ音源です。
ちょっと荒削りで力まかせだけれど、それがいい。
熱い演奏の様子が生々しく伝わってきます。
(グシさんのギターソロがまたいい)
僕のライブスタイルとはまったく違うけれど、このエンタのスタイルが好きです。
(そういえばエンタが函館西高の文化祭でやったステージもこんな感じだった)
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エンタの演奏を最後に聴いたのは亡くなる半年ほど前、高円寺のJIROKICHI 40thというイベントでした。
一晩だけ復活したレイジー・キム・ブルースバンドで火を吹くようなドラミングを聴かせてくれました。
でもいかんせん、病気はかなり進んでおり途中降板。たしか松本輝男さんにスティックを渡したように記憶しています。
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最後の病床を見舞った時、JIROKICHIでの演奏は納得がいかなかったと一言。
そして
  「マサ坊(僕のこと)、おめえはおめえの道をちゃんと頑張れや」
消え入りそうな声でつぶやきました。
最後の握手を交わしたとき、僕はエンタからバトンを渡されたような気がしました。
永遠の「音楽キチガイ」、古池エンタの記憶は薄れることなく息づいています。
[以下、グシさんから頂戴したメッセージです]
エンタ、マーチンさんと同じくらい音楽キチガイのグシです😊
エンタさんが逝ってからもう6年になるのですね。
亡くなる1週間ほど前、中野の病院にお見舞いに行きました。
30年振りの再会でした。もうエンタを繋ぐ糸は細くて切れそうでした。
それでも久々の再会をとても喜んでくれました。
最後に交わした言葉は「やっぱエンタのつくった、僕の星まで⭐️(名曲です)は最高やなぁ」と言ったら、ニヤッと笑って「グラミー賞だぜ」と微笑んでくれました。
僕の中では最後までエンタは格好いいエンタでしたよ。
グシさん。ほんとうに早いですねぇ。もう6年。
久しぶりに「僕の星まで」のオリジナル演奏を聴きながら返信しています。
「グラミー賞だぜ」とにやりと笑うエンタの顔が浮かんでくるようです。
「僕の星まで」は今も大切に歌い続けています。エンタの歌とは節まわしやコードは多少違いますが、自分の中にすっかり定着しました。
最近は12弦ギターで音数を減らしつつも余韻を残しながらの演奏がお気に入り。
いつかMartin & GUSHIを実現したいものです。
イエイ!
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南阿佐ヶ谷ブルーバンドのギタリスト野田さんのツイートです。
BBキングが初来日した時、米軍キャンプのディナーショーで前座をしたときの写真です。
エンタにとってのお宝写真でした。
(後列左端がエンタ)
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[レイジー・キム・ブルースバンド時代の写真]
(前列中央がエンタ)
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[居酒屋ENTA巣で]
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春が来た



昨日今日と下駄チャリ・ダホン号で越谷近郊を走り回っています。
陽気はすっかり春。

下駄チャリ・ダホン号に乗り始めてちょうどまる10年になります。

2011年の春。
僕はDAHONを手に入れました。
3月には大震災があり、同時に長年勤めた印刷会社を退職しました。
4月から1年に渡る人生浪人生活が始まります。

浪人暮らしの下駄代わりになってくれたのがDAHONでした。

この自転車がうれしいのは気軽に気楽に乗れること。
街中散歩はもちろんのこと、未舗装の道路でもひょいひょいと乗り入れることができます。

ちょっと感じのいい道があったり、知らない道に出くわしたりするとそこを行ってみたくなります。
子供の頃から続く(いまだに直らぬ)僕の性癖です。

DAHONを買った頃は10キロ程度の行動範囲を想定していました。
車輪の口径が小さいので遠乗りには適さないためです。
それ以上の距離はロードバイク・レッドアロー号で走るつもりだったんです。
ところがいざ乗り出してみると道草だらけのポタリングで、20キロくらいは当たり前に走るようになっていきました。
以来、距離やスピードにはこだわらず道草散歩をするときは下駄チャリダホン号。
ひたすらまっすぐ、遠くへ速く走りたいときはレッドアロー号と棲み分けをするようになりました。

今年も春の陽気が始まりました。
生ぬるい、心地のいい風を感じながら道草散歩の季節到来です。
下駄チャリ・ダホン号の本領発揮の季節がやってきました。

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2021.02.05

【港が見える丘】

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元は終戦後の昭和22年に平野愛子がリリースした歌でした。
ちあきなおみは昭和60年に同名タイトルのアルバムに収録された1曲。
このアルバムは戦前・戦後の流行歌をカバーしたもので、オリジナルに対して新しいアレンジを試みた点で秀逸な一枚だと思います。
戦後生まれの僕には平野愛子のものはやや重たく、少々ダサく感じられます(平野さん、ごめんなさい)。
ちあきなおみのものはアレンジも歌唱もとてもフィットします。
実はこの歌、函館の特養・旭が丘の家でやっている「Martin古池の歌謡ショー」では欠かせない定番となっています。
特養の入居者の皆さんには昭和22年は青春まっただ中。平野愛子の歌でおなじみかと思います。
おそらくは函館の元町に港の見える丘をだぶらせていたんじゃないかと思います。(僕の両親もまた函館の元町カトリック教会で出会っています)
その点を考慮して僕も平野愛子バージョンを意識したアレンジで歌ってきました。
このたび喫茶店JUNEさんで歌うことになり、アレンジをちあきなおみによせて歌うことにしました。
ちょっとブルージーでけだるく歌うちあきなおみの歌は絶品です。
そんなアレンジに合わせて若干ですがコードも手直ししてみました。
イメージする景色は横浜の元町ではなく、もちろん函館の元町で。
ついでに「元町(MOTOMACHI)」も歌っちゃおうかしらん。
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【紅い花】

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平成3年、ちあきなおみ現段階での最後のシングルCDだそうです。
この後昭和の歌謡曲をカバーした録音を残し、翌平成4年に歌手活動を休止し、今に至ってています。
 
「紅い花」を聴き込めば聴き込むほど感じることがあります。
この歌にはちあきなおみの歌唱のエッセンスが詰め込まれていると。
 
昭和63年に出した「紅とんぼ」が芝居的要素=表現力の1枚だとすると、「紅い花」はちあきなおみの歌唱力の集大成のように思います。
 
力を抜き、さらっと歌っている。
でも決して軽く感じない。むしろ秘められた濃厚感が漂っている。
 
ちあきなおみの歌唱技術の素晴らしさのひとつは語尾の処理の仕方にあるように思います。
 
音符の長さを丁寧に丁寧に最後まで伸ばして歌いきる。
しかも一本調子に伸ばすのではなく、徐々に弱めていき(デクレッシェンド)最後はすっと消えていく。
このすっと消える音にならない部分も体内の圧は持続したまま、次のフレーズにつなげていく。
 
かと思うと音を伸ばさずポンっと音を摘み取るところもある。
それもバツッと切るのではなくポンと丸く切るから余韻を感じさせる。(バツッだのポンだのと抽象的な書き方ですがこういう表現しか思いつきません)
 
発音の仕方も喉に引っかけたり、口腔で響かせたり、鼻腔に抜いたりと多彩。
それに伴ってビブラートも口腔だったり、鼻腔だったり。
 
このビブラートがまた実に気持ちいい。
演歌歌手のような「あぁあぁあぁ」という大きなビブラートではなく、ごく自然に音をゆらす程度。
 
静かで、ゆったりとした、大きな山場のない(サビでぐぁーっと盛り上げることのない)「紅い花」。
こういう歌だからこそ真に歌唱力が問われるんだろなと感じます。
 
やはりこの歌がちあきなおみの歌唱の集大成ではないかなあ。
 
  ハードル高い!!
 
お客様からもこの歌が聴きたいとのリクエストがあり、目下鋭意勉強中。
自分の中に落とし込めるところまでいけるか?
 
  ハードル高い。。。

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2021.02.02

紅とんぼ

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昭和58年頃から5年ほど。
僕は地元(蒲生)の駅近くにあったスナック「メモリー」の常連でした。
ギターを弾きながら歌ったり、お客さんの歌のサポートをやったりしていたのです。
.
それまで何年かやってきた「喫茶 いずみ」でのミニステージから脱皮したいという思いからでした。
同時進行でライブハウス「ぶどうの木」でPPMなどのアメリカンフォークの演奏も始めていました。
「ぶどうの木」では好きな音楽を演奏し、「メモリー」では歌謡曲など「流しの武者修行」に明け暮れました。
.
昭和から平成に移り変わった頃、「メモリー」は店を閉じます。
5年間の営業でしたが、得るものがとても大きかった。
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「紅とんぼ」を聴くと、メモリーのおしまいの日のことが浮かんできます。
最後まで気丈にふるまうママさんが痛々しく感じられ、こちらが泣けてきて。。。
店の灯りを落とし、扉に鍵をかけた時
「ふう・・・」というママさんの溜息ひとつ。
忘れられません。
.
.
ちあきなおみさんの「紅とんぼ」は『語るがごとく歌う』の極地です。
語りながら淡々と歌い進めるちあきなおみさん。
大きな盛り上がりのあるドラマチックな歌ではありません。
(「喝采」とはある意味対照的かも)
でもその中にも感情の起伏を感じ取れるみごとな歌唱。
たまりません。
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僕が歌うとき、お店のママさんという立ち位置ではなくむしろ常連客のひとりのような気がしています。
ケンさんやシンちゃんやチーちゃんの気持ちで歌えばどんな風になるかな。
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写真はスナック「メモリー」での一コマです。
あれだけ通い詰めていたのに手元に残っていたのはこれだけ。
あとはおぼろ、想い出の中にしまっておきましょう。
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2021.01.23

ひとつの時代の終わり

先日、札幌に暮らす叔母が亡くなりました。
ここ2年ほどの間に母の兄弟がバタバタと旅立っていきました。父の方はすでにみな亡くなっているので、この叔母が残された最後のひとりでした。
母の一番下の妹で僕とはなにかと因縁の深い叔母でした。
函館時代に何年間か我が家に共に暮らした時期があったり、
東京に出た後もすぐ近くに暮らしていたこともありました。
なかなかのインテリで、中学生だった僕にトニー・ベネットやエンゲルベルト・フンパーディングなどの歌を原語で教えてくれた叔母でした。(「我が心のサン・フランシスコ」はいまだに歌える!)
インテリゆえの繊細さからか、心の病と長いことつきあい続ける人生。
結果、突然の「おさわがせ」に周囲を巻き込み、閉口させられることも多々あった叔母でした。
僕なども若い頃この叔母と取っ組み合いの大げんかをしたこともありました。
でも、どこか憎めない。
どこか気にかかる。
そんな叔母でした。
そう、まるで女版の寅さんみたいな人でした。
この強烈な叔母が旅立ち、親たちの世代の時代が終わりを告げました。
なんとも寂しく、心許ない気分です。
  もう、オレを見守ってくれる人たちはいない
  まさちゃん、まさ坊とよんでくれる人たちはもういない
「親たちの時代」が終わりを告げたということは、僕の「子供時代」もまた終わりを告げたということでもあります。
60代も半ばをむかえ、残された時も少しずつ少なくなっていく。
(あとどれほど残っているかなど、わかるはずもありませんがね)
せめて先人たちに恥じぬ生き方をしていきたいものです。
「いずれ行く道」、日々を大切に重ねていかなきゃな。
そんなことをふと思う夜でした。

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