日記・コラム・つぶやき

2019.10.09

台風から学んだこと by 古池隆彦

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大型の台風が近づいている。

関東を直撃する可能性が極めて高いとのこと。

9月の台風15号は関東、とりわけ千葉県に大きな傷跡を残した。

そして1か月経った今なお復旧の見通しも立たない状況が続いているとのこと。

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弟が千葉県に住んでいる。

母の納骨を終えて千葉に戻った際、台風直撃の影響でしばらくの間生活に難渋したとのことだ。

その経験をもとに彼なりに防災対策について一文をなしている。

その内容は極めて精緻で、教訓に富んでいる。

その文章にリンクを貼った。

 

今週末来るであろう台風に備え、今日から準備を始めようと思っている。

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2019.09.26

カントと散歩

 

オレはなぜ歩くのかな。

時間にすれば走れば1時間。自転車なら40分。速歩きなら2時間。
距離にすると多分10キロ~15キロくらい。

なのに3時間、時には5時間もかけて歩くのが好きだ。

好きな音楽を流しながら、ぼんやりとまるでカタツムリのように。
いい景色に出会ったらシャッターを切り、いい雰囲気の小径をみつけたら分け入る道草だらけの散歩。

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思い出せば子供の頃から「道草を喰む」のが好きだったようだ。
幼稚園の頃、チョウチョを追いかけてあらぬ方へ行ってしまい捜索されることが度々あったらしい。
小学生、中学生の頃は「遠征」と称して市内あちこちを歩き回りあれこれ首を突っ込んでいた。
一カ所に留まりじっとしていられない、落ち着きのない子供だった。

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高校生の頃授業で習ったカント。
カントおじさんは毎日決まった時間を歩いていたそうだ。
歩きながら思索をしながら形而上学をまとめたそうだ。

憧れた。
あいもかわらず落ち着きのない自分に歩きながら思索を重ねるカントの挿絵が心に焼きついた。
形而上学がなんたるかはさっぱりわからなかったが「歩きつつ、思索する」ことがカッコイイと思った。
自分の散歩のイメージはカントおじさんが原型になっているように思う。

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大人になり30代半ばから走るようになった。
年一度のフルマラソンを走るために毎日ひたすら走った。
好きなトレーニングはLSD。(Long Slow Distance)
ゆっくりと長い距離を走る練習だ。
走りながらいろんな思いが交錯し、時にはランナーズハイになったりもした。
カントの「思索散歩」が「走禅」に形を変えた。(「走禅」とは当時のランニング指導者・山西哲郎さんが使った言葉だったと記憶している)

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サッカーで負傷したアキレス腱の古傷と膝の負傷で走るのをやめたのは40代半ば。
再び歩き始めた。
ランナーズハイのようなイッチャウことはないが、物思いをするには歩くことの方が適していた。
本格化していた音楽ライブのイメージ作りに散歩はもってこいだった。
カントおじさんのような哲学的思索には縁遠かったけれど、様々なイメージを膨らませる散歩が定着した。

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50代半ばに転職をした。
精神的にハードなストレスのかかる仕事だった。
一日の大半が電話を介しての交渉ごと。そんな毎日が続いた。
心の平穏を保つ必要があった。
人とちゃんと接するために、一人になり自分の中に沈潜する時がなければやっていけなかった。
なにも考えずぼんやりと歩くことがいつしか習慣となった。

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60代半ば、その仕事も定年退職となり「ありあまる時間」を過ごせる幸せを感じている。
(実際にはありあまってはおらず、なにやかやと落ち着きなく忙しく過ごしてはいるが)
歩きまわることが日々の暮らしの柱になっている。(時に自転車や水泳に変わるのだが)

なにも考えずぼんやり歩くことが今の自分には一番合っている。
ぼんやり歩きながらも心の中には様々なイメージが去来する。
心の奥深くからぷくぷくと浮かんでは消えていくあぶくのようなものだ。
でもこのあぶくがいい。

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カントおじさんは「思索散歩」が「形而上学」として形をなした。
残念ながら僕の「あぶく散歩」からは人様に役立つようなものは生まれそうにない。
でも自分の充足感や納得感を得るためには欠かせない習慣なんだろうと思う

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2019.09.11

父母の納骨を終えて

 

今年3月に帰天した母、27年前に帰天した父の納骨。
やっと執り行うことができた。
二人は母が長年過ごした函館「旭が丘の家」の共同墓地に眠っている。
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66年前に父・信夫と母・郁がなした我が家のことを、僕は「オリジナル古池ファミリー」と呼んできた。
両親の納骨をもって「オリジナル古池ファミリー」の歴史は終わる。
両親の魂は天に帰り、躰は地に帰る。
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納骨の司式司祭・助川神父様が読む福音書は「一粒の麦」の項だった。
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  本当にはっきりとあなた方に告げる。
  一粒の小麦は地に落ちて死ななければ,
  それはそのままで残る。
  しかしそれが死ぬなら,たくさんの実を生み出す。
   (ヨハネによる福音書12章24節)
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助川神父は27年前、父の葬儀ミサでもこの項を朗読してくれた。
父と母の手向けには何よりであり、その心配りに深く感謝する。
そしてあらためて「一粒の麦」の意味を吟味させられる。
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父の残した膨大な数の文章を遺稿集「一粒の麦」として家族の手でまとめたのは父の逝った翌年だった。
子供たちが手分けして文章を編纂した。
表紙の題字は母が毛筆で手書きした。
「オリジナル古池ファミリー」による共同作業だった。
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「一粒の麦」の後書きに僕はこのように記している。
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(父の文章は大別して結婚前の青年期と、退職前後の晩年期に集中している。
 我々が共に暮らした30年もの間は筆を折っていた。
 実生活という「道草人生」の狭間で父は実体験を積み重ね、あがきつつも心のひだに多くのことを刻み込んでいた時期だったと思える)
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  文章としては『空白の時代』だったが、
  その『空白』こそが意味あるものだったように思えてならない。
  その『空白の時』の父の心情を読みたかった。
  しかし『空白』であるからこそ意味があり、
  『空白』であるが故に様々なメッセージが込められているように思う。
  無言のメッセージを投げかけながら父はニヤリと笑っているような気がする。
  「俺の空白は俺が埋めてきた。
   おまえの空白はおまえ自身が埋めるもんだ」
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この作業を通して父の「生き方~死に方」について思いを馳せていた。
自分の受け継ぐべきことについて思いを深くしていた。
父に投げかけられた宿題はいまだ続いている。
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時は流れ母も旅立った。
晩年の母は寡黙であった。
命の炎を少しずつともしながら、体力と気力は徐々に失われていった。
口を開くのもゆるくない状態が長らく続いていた。
それでも時折見せる「生」への強い意欲が、母の人生を象徴していたように思う。
決してあきらめない人だった。
登校前に毎朝母から聞かされた言葉が今なお耳から離れない。
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  アンタっ!
  がんばんなさいよっ!
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信夫と郁の「オリジナル古池ファミリー」の歴史は幕を下ろした。
蒔かれた「一粒の麦」は残された子供たちによる新たなる「オリジナル古池ファミリー」の中で育っていると思いたい。
そしてさらに次の代の「オリジナル古池ファミリー」へとつながっていくことを願って。

 

 


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2019.07.01

人生浪人の旅が始まる

おかげさまで職業人としての第2ラウンドをつつがなく終えることができました。
今日から2回目の「天下御免の人生浪人」暮らしが始まります。

損害保険会社での7年3か月の仕事を通して、本当に多くのことを学ばせていただきました。これまで関わらせていただいた方々、支えていただいた方々。感謝の念にたえません。

職業人としての第1ラウンドは印刷会社での37年でした。製造業、いわばモノづくりの仕事。
第2ラウンドは人と向き合う仕事でした。それも利害の対立する人とやり取り=交渉をする仕事です。

まったくの畑違いの仕事に戸惑い、迷い、手探りをくりかえす毎日でした。

最大の違いは人との関わり方でした。

印刷マン時代も多くの人と折衝してきました。それでもより良い印刷物を作るという点では同じ方向を向き合っていました。

損害保険では加害者の代理人として被害者と向き合っての折衝。つまり利害相反。
同じ折衝でも根本的に違う。

「利害の違う人と人間関係をいかに築くか」ということに腐心する毎日でした。
利害が違うからこそ相手を理解し、寄り添うことが大切ということを学ばせていただきました。
7年間でおよそ1500人もの方々と関わらせていただき、ごくごく一端とはいえその人生を垣間見る。
そこから学ぶべきことの大きさ。

おそらく渦中にあった時には見えなかったことが、これからの「天下御免の人生浪人」の中で後付けられていくんだろうと思います。
(共同印刷退職後の1年間の人生浪人でも印刷マンとしての自分について多くのことを学びました)

なにはともあれタイムアップとなったことに安堵感を覚えています。(一抹の寂しさとともに)

そして今日から始まる「天下御免の浪人暮らし」に思いを馳せています。

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2019.05.05

中島みゆき「夜会工場vol.2」を観て

 

http://stib.jp/saitamae/data/index.php?id=10342686

 

 

みゆき姐さんの「夜会工場vol.2」を浦和の映画館で観てきた。
のっけのインスト「二隻の舟」から、泣かさってしょうがなかった。

僕が「夜会」から受けた影響ははかりしれない。
ストーリー仕立ての「コンサート」のビデオを見たときの衝撃はすさまじかった。
コンサートと芝居を組み合わせるという発想は驚きだった。

そのころ僕は「ぶどうの木ライブ」での「下積み」を卒業し2時間枠を任せてもらえるようになっていた。
2時間という枠をどのように作るか。
とてつもなく難題であり、あれこれ試しては納得がいかず惑っていた。

「夜会」との出会いに大きな活路を見出した思いだった。
歌とトークとちょっとの芝居。中学、高校で演劇部にも所属していたことが芝居に対する敷居を低くしたこともあった。

「夜会」のビデオは発売するたびに購入した。
念願かなって実際のステージを観ることもできた。
それらは当時の僕のバイブルだった。

「ぶどうの木ライブ」は年数回。他に演奏の場は多くはなかったので準備に時間を充分かけることもできた。
稚拙ながらも自分の「物語ライブ」を試した。

およそ10年間の「ぶどうの木」での演奏期間で「物語ライブ」ができた回数はそう多くはない。
ストーリーを組み上げる難しさ。選曲の難しさ。歌とトークと芝居のバランスを取りながら形にまで仕上げることは至難の業だった。
形にすることができず断念したことも多い。

けれど、テーマに沿ってステージを組んでいくという発想はこの時身に沁みついた。
以来たとえ数曲のステージであったとしても僕は必ずテーマを決めて臨むことが常となった。(起承転結、序破急ライブと称していた)

「夜会」すでにおよそ20年もの間続けられている。
スクリーンで歌うみゆき姐さんはさすがにお年を召していた。でもそのほのかな年輪によりいっそう愛しさを感じる。

この人の歌、この人のステージに触れることで僕は自分のステージスタイルを作ることができた。
あらためてそう思いながら映画館を後にした。

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2019.04.20

「想苑」

「想苑」

函館公園のそば、函館八幡宮に続く裏参道沿いにひっそりたたずむ喫茶店。

先代が店を開いて60年になるジャズの聴ける老舗だ。

父は自宅を改装して喫茶店にするのが夢だった。
僕が中学生の頃、そんな父に「想苑」と、さらに先にあった「山小屋」という喫茶店に何度も連れてこられた。
共に音楽をコンセプトにした喫茶店。
父もクラシック音楽の流れる落ち着いた大人の店を持ちたかったようだ。

夢はかなえられることなく父はこの世を去り、生家も数年前に人手に渡った。

僕は函館に帰る都度、時間があればこの店を訪れ、小一時間ほどジャズに身をゆだねている。

自宅では決して出すことのできない大きな音。大音量であっても耳にさわらず、体に響いてくる。
その音は生々しくまるで目の前で演奏をしているようだ。

正体はJBLの古いスピーカーと店の作りにあるようだ。

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スピーカーユニットは大きなフルレンジ小細工なしの一発出し。ツィーターやスコーカー、ウーハーなどに分割していないのがいい。耳に障る音は音を帯域毎に分割した結果、バランスが悪くなってしまうことが原因のように思う。

特にツィーターの高音域は耳に障る。ウーハーの過剰にブーストされた低音は不自然に感じる。

フルレンジスピーカーから出る音は大きなエンクロージャー(箱)の中のホーンを通り自然に増幅されてラッパのように開いた口から絞り出される。
まるで蓄音機のラッパの前で聴くSPレコードのような生々しさだ。

店内は木の床。スピーカーの先には陶製の大きな壺が置かれている。
多分この壺が音を適度に拡散しているように思う。

今回はパット・メセニーのギターソロアルバム、キャノンボール・アダレイとマイルス・デービスらによるアルバム「Something Else」、チック・コリアのピアノソロを聴いた。
心地いいったらありゃしない。

現在「想苑」は娘さん夫婦が切り盛りしている。
娘さんは小学校、中学校の8つ上の先輩。(いとこの同級生)
ご主人は函館東高校の先輩。

60年の「想苑」の歴史をずっと更新してほしいものだ。
函館に帰る度にまた寄らせてもらえるようにね。
数少ない子供の頃の思い出につながるお店だから。

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リブサンドポークとロッテリアの想い出。

リブサンドポークとロッテリアの想い出。

今月でリブサンドポークが発売中止になるらしいと聞き、久しぶりにロッテリアへ。
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ロッテリアには想い出が2つある。

創業間もない1974年。
貧乏学生だった僕はロッテリアの市場調査のアルバイトをしていた。新大久保に拠点を置いていたロッテリアは店舗拡大のため東京のあちこちで市場調査をしていた。先行するマクドナルドに追い付き追い越せの大号令だった。責任者は藤田さんという方で、マクドナルドの藤田田さんと同姓ということで気合いが入りまくっていた。

ある日江古田の日大芸術学部のそばで調査をしていたら不意に声をかけられた。
  
「古池でねぇか。おまえ、こったらとこで何してるのさ‼️

室蘭東高校の同級生Kだった。

彼は日大への通学途中だった。
あまりの偶然に驚いた僕たちはその夜Kの住むアパート「石井荘」でベロベロになった。
これがきっかけで僕はいつの間にか「石井荘」の住人となった。
やがて弟もここの住人になり、他の入居者も含めて共同体のようになった。それはまるで漫画家たちの虎の穴「トキワ荘」のようなものだった。
「我が青春の石井荘」についてはいつかまた書いてみたいと思う。
我々にとって石井荘抜きに青春を語ることのできない大切な想い出だ。

ロッテリアのもうひとつの想い出はちょっと甘酸っぱい。

東京の一角で偶然に函館東高校の同級生ヨウコちゃんと再会した。ヨウコちゃんとは僕が室蘭東高校に転校するまでの半年のおつきあいしかない。(同級生の一人としてね)

でもお互い印象が強かったようだ。よく覚えていてくれた。意気投合しヨウコちゃんをロッテリアのアルバイトに誘った。新大久保店のフロアガールだ。目鼻立ちのしっかりしたヨウコちゃんは他のアルバイトの娘たちと比べても際立っていた。
市場調査から帰った僕はヨウコちゃんのシフトが終わるのを待ち一緒にハンバーガーを食べてからそれぞれのねぐらに戻った。
なんとなく恋の予感がしていた。

ある日ヨウコちゃんはハンバーガーを食べながらポツッと呟いた。

「私、ロッテリアやめる。私には無理」

当時のロッテリアのユニフォームは薄いピンクのシャツとホットパンツだった。人前で脚をさらけるのがどうしてもイヤだと言う。
考えてみるとヨウコちゃんはいいところのお嬢さん。パッチリした目鼻立ちとはうらはらに、恥じらい深い人だった

僕は内心ひき止めたかった。でもそれができず「うん、そうか。わかった」。

以来ヨウコちゃんとは会っていない。
今頃どこの空の下で暮らしてるんだろうな。

めったに入らぬロッテリアだが、たまに来るとふとそう思う。

ロッテリアにまつわる若き日の想い出ふたつ。
リブサンドポークを食べながら想いを馳せていた

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2019.03.21

帰天する母を送る

母が92歳の人生の幕を下ろす。
大正15年9月23日に生を受け、大正・昭和・平成と3つの時代を生きてきた。
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天寿を全うし、天に帰る。
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先週の日曜日、陣中見舞いに行った僕がかけた最後の言葉。
「がんばんなさいよ」
子供のころ登校する度に母に毎朝かけられた言葉だった。
当時は重く感じていた言葉だった。
その同じ言葉を思わず母にかけていた。
.
その後1週間、母はついに醒めることがなかった。息を引き取るのは時間の問題と思われた。
知らせを聞いた弟と妹が1週間後駆けつける。
弟たちの呼びかけに意識のない母がかすかに反応する。
その数時間後、母は静かに息を引き取る。
まるで子供たち全員との別れの時を待っていたかのように。
待つことが母の最後の「がんばり」だったのかもしれない。
.
「大往生」という感じではなかった。
むしろ静かに静かにろうそくの灯がすっと消えるような最期。
.
92年という人生が長かったのか短かったのか。
それを問うことははあまり意味がない。
むろん平均寿命を超えたということでは長い人生だった。
けれども68歳で逝った父の人生もまた充分に長い人生だった。
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「大切に生きれば充分に長い人生の旅路」
.
父が亡くなってからの二十余年。
母の日々はひとり旅だった。
それは「目的のある旅ではなく、旅するための人生の旅路」だったように思う。
身体が不自由なため自力では多くのことができない母だった。
限られたことを日々を淡々と大切に生きてきたように思う。
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それを支えてくれたのは特養の職員の皆様の献身的なサポートであり、友人たちだったように思う。
彼女が日々の暮らしに様々な不自由と不安、不満を抱えながらも大切に生きられたのはこういう方々との関わりがあってこそだろう。
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そして何よりも大きかったのは「信仰心」だったと思う。
昭和23年、24歳でカトリックの洗礼を受けた彼女は最後まで強い信仰心を持ち続けていた。
信仰心こそが生きる原動力だったのではないだろうか。
彼女の信仰心は長い年月を経て体や心にしみこみ、揺るぎのないものに固められていた。
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人の人生に問われるもの。
それはいかに生き、いかに死んでいくかだろうと思う。
生き方が死に方につながっていく。
そのすべてが「生き様」となっていくのだろう。
.
母の生き方は信仰のうちに生き、信仰のうちに死んでいったように思う。
「天寿を全うし帰天する」
神様にいただいた命を大切に生ききり、やがて天に帰っていく。
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自分にはとてもまねのできぬ生き方だ。
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世の中に対して特別の影響を与えたわけでも、何事かを成し遂げたわけでもない。
決して特別な人ではなかった。
市井の一人の女が信仰のうちに日々を過ごし、天に帰っていった。
これほど強い生き方があるだろうか。
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オレにはできねぇ。とてもマネできねぇ。
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母を失った喪失感。
むろんないわけではない。
もしかしたらそれはこれから感じることなのかもしれない。
むしろ今は不思議な安堵感のほうが強い。
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「安堵感」
それは己が人生を生き切り、帰天という帰結に行き着くことができた。
それを見届けることができたことに安堵しているのかもしれない。
それは己が人生の昇華ともいえるのだろう。
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「お疲れ様」「ご苦労様」「あっぱれ」
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静かな気持ちでそういってあげたいと思う。

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2019.03.11

函館日記 2019年3月

雪はすっかり溶け、風だけが吹き抜ける中洲の町・函館。

特別養護老人ホーム・旭ヶ丘の家に母の陣中見舞い。
うつらうつら状態の母。
声をかけても帰ってくる反応は乏しい。昨年末の帰省時よりいっそう表情が乏しくなっている様子。僕の顔を観てもただうなずくのみだ。しばらくは手を握っているのだがやがてその手はポタッとベッドに落ちる。そして再び眠りの世界に。
醒めているときよりも眠りの時間がいっそう増えているとのこと。当然栄養や水分の補給は追いつかない。おそらく自分の体に蓄えてきた脂肪分を少しずつ燃やしながら命を繋いでいるのだろう。心なしか昨年末よりも母はしぼんでいるように思える。

話しかけて無理に返事や反応を待つことはやめにした。かわりにベッドのそばに椅子をおき、ギターを弾くことにした。
眠っているように見えてもどこかで醒めている部分もあるようだ。かすかだが首を動かしている。

いつものように「組曲・北の国から」を弾きはじめる。
次は母の慣れ親しんだグレゴリアン聖歌やミサ曲。そしてカトリック聖歌集から知っているものを繋げながら弾き続ける。
やがて童謡や唱歌へと変わっていく。僕がまだ幼かった頃母に歌ってくれとせがんだ歌だ。
母の反応が変わってくる。それまではあまりリアクションがなかったのに、細い指を歌にあわせて動かす。(実際は遅れがちであってはいないのだが、明らかに歌に合わせようとしている)

胸が突かれる思いがする。
60年以上も前に僕がせがみ母に歌わせた歌の数々を今逆の立場で僕が母に弾いて聞かせている。
当時僕は1~2才。まだ言葉を知らなかった。今母は92才。言葉を認識しても応えることができない。
メロディだけのやり取りであり、言葉のない会話だ。
懐かしい歌の数々はしみこんでいるせいか、母の目にはうっすらと光るものが。
それを見て僕もまた涙腺が緩んでくる。

途切れることのない3時間のギター演奏。濃密な時間だった。

帰りしな母に語りかけた。

  「がんばんなさいよ」

子供の頃、登校するとき握手をしながら母は毎朝そう語りかけた。
当時の僕はこの言葉がはむずがゆかった。そう言われる度に軽い反感を感じていた。

今母は残された最後の体力と気力でおのが命を繋いでいる。
しぶとく、しぶとく命を繋いでいる。
そんな母に僕がかけられる言葉があるとしたら「がんばんなさいよ」。

母は軽く首を振った。そんな気がしている。

おそらく僕にできる最後の親孝行は(いや罪滅ぼしだ)、子供の頃母にしてもらったこと、母にかけてもらった言葉をお返しすることだけかもしれない。
そしてそれは僕にとっての「祈り」なんだろうと思う。

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2018.06.05

1969年

【「1969年」 その1】

このところ自分の音楽の原点について思うともなく思っている。
原点をどうとらえるかってこともあるんだけどね。

子供の頃歌謡曲で育ったことが土台になっているとすればそれが原点ともいえる。
父が好きで頻繁に触れるチャンスのあったクラッシックやグレゴリアンも下地になっているともいえるし。
母にせがんで歌ってもらった童謡・唱歌の類だってそれ抜きには考えられない。

でも自らが求めて聴き、なおかつ演ずるようになった音楽をひとまず原点にするべきかな。

そう考えると「1969年」とそれに連なる数年間が僕の中でとてつもなく大きな意味を持ってくる。

この年僕は中学3年生だった。

世の中はきわめて流動的であり、混沌としていた。
高度経済成長の絶頂期で大人たちは「モーレツ」に働いていた。
人類が初めて月面に降り立ち、科学技術の進歩に大人も子供も胸を熱くした。

一方で日米安保条約の撤廃を求める学生運動がピークを迎えた。
その象徴が東大安田講堂に立てこもった学生たちと機動隊の「闘い」だった。
が…安保条約は自動延長となり安田講堂は「落城」した。
ジグザグデモを制圧する機動隊、壁に向かってホールドアップさせられている学生たちの手を映し出すニュース映像が今でも焼き付いている。

時を同じくして新宿西口広場で毎週開かれたフォークゲリラによる反戦フォーク集会。
広場を埋め尽くす若者たちの歌う様子が白黒のテレビに映し出される。
それは北国の小さな町にもつたわってきた。
やがて「広場」は「通路」と改称され、道路交通法違反とされ規制される。
警官に腕をつかまれながらもギターを弾き歌い続ける学生たち。
やがて警察隊に制圧され、収束していくフォーク集会。

熱と挫折に彩られた「1969年」。

田舎の中学生はわずかなニュース映像を便りに妄想をかきたてた。
「社会」について真剣に考え、行動を起こす大学生たちにあこがれた。
カッコいいと思った。
そして同時に「憐憫」を感じた。

「動」なるものと「静」なるものの同居する「1969年」

そんな頃函館の労音会館に高石友也や岡林信康らがやってきた。
フォークソング・フーテナニーってヤツを初めて体験した。
「思い出の赤いヤッケ」に胸を熱くし、身につまされながらも笑い転げた「受験生ブルース」(高校受験をひかえていた)、そして「勝利を我らに」や「友よ」の大合唱に胸が震えた。
フォークは生きている!

そう感じた。

そして自分もまたギターを弾き、歌い始めた。

憧れと妄想が原動力だった。

「1969年」

フォークソングとの出合いの年だった。

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