日記・コラム・つぶやき

2025.05.12

【人生最初の記憶】

それは函館から札幌に向う夜汽車の中。
そして叔母の結婚式場でアイスクリームを食べ損ねたシーン。
僕が2歳の頃。
母の妹の結婚式に参列するため両親に連れられて「奥地」に向う夜汽車の中にいた。(昔、函館人は札幌のことを「奥地」と呼んでいた)
初めての夜汽車に僕は興奮し、大声を上げていたそうだ。
その時後ろの座席から腕がにゅっと伸びて、僕にキャラメルをにぎらせる見知らぬおじさんがいた。
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  ぼんず!
  これけてやっから静かにしてけれや
  (ぼうや、これを上げるからしずかにしておくれ)
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生まれて初めて口にするキャラメルの甘さが客車の薄暗い橙色の灯りと共に記憶に刻まれた。
(その後静かにしたかどうかは記憶にない)
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叔母の披露宴でアイスクリームというものを初めて口にした。
あまりのおいしさに陶然となった。
冷たくて甘くてとろけるアイスクリームに胃袋もびっくりしたようで、急にもよおしてきた。
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  おかあちゃん、う○ち!
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母親に連れられ用をたし、席に戻るとアイスクリームの器はすでに下げられていた。
まだ半分近く残っていたろうに。
アイスクリームのおいしさと、全部食べれなかった無念さ・悲しさを今もはっきり思い出せる。
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このふたつのシーンは人生の最初の記憶としてしっかり刻み込まれた。
キャラメルの甘さ。とろけるアイスクリーム。
これが最初の記憶だなんて情けないような、笑えるような。
食べ物への意地の汚さはこの頃から始まっていたのかなぁ。
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ちなみに記憶には残っていないが結婚式でもやらかしてしまったそうだ。
式の真最中、
「かしこみ かしこみ~」と神主さんがやっているその時に
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  もう、終わりっ!!
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と大声で叫んだそうだ。
式場は一瞬凍り付き、やがて爆笑の渦となったそうだ。
おふくろは恥ずかしさのあまり顔から火が出るほどだったとか。
神主さんは「困ったなぁ」という顔をしていたそうだ。(父親談)
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食いしん坊といたずら小僧。
いまだにその気が残ってるような気がしてしょうがない。
三つ子の魂百までもか。

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2025.03.25

空気のような歌い手でありたい

7年前に書いた文章。
まだコロナ前で、市場やお好み焼き屋さん、ティールームなどで「不特定多数」の方々に歌っていた頃だ。
コロナ時代を経て歌うシチュエーションも随分変わった。
それでもあいかわらず「空気のような存在」の歌い手でありたいと思っている。
7年の時を経て少しは理想の形に近づいているだろうか。
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淡々と歌うことの難しさ。
一人でただ歌うだけならいくらでも歌える。
でもお客さんを前にして淡々と歌うとなれば話は別だ。
淡々とした中にもたしかな存在感を残せなきゃならない。
理想はその場にあって「空気」のような存在たること。
あたりまえのように存在し、かつその場に欠くべからずといった歌い手であること。
強い個性や自己主張はしないけれど、聞く人に心地のよさがしみこんでいたというのがいい。
それは冬の寒さの中のほのかな暖かみだったり、夏の暑さの中の涼やかな風だったり。
十数年、市場やお好み焼き屋さんなどで歌ってきて感じる理想の姿。
市場もお好み焼き屋さんも喫茶店も通常営業の中で不特定の方々に歌っている。
ライブを聴きに来たわけではない方々と時間と空間を分かち合うためには「空気」のような歌い手であることが一番の近道のような気がする。
感情も歌もギターもすべてぎりぎりまで抑える。
でも抑制された中に圧縮された密度の高いものが隠されている。それが情感としてにじみだしてくる。
それが淡々と歌うということのような気がする。
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高校生のころ室蘭市民センターで観た宇野重吉と北林谷栄の芝居がそうだった。
すべてにおいて抑制された表現だったがなにか深く残るものがあった。
あの静かな感動は40年以上の時を経て、今もよみがえってくる。
そんな歌い手になりたい。

 

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ラヂオの想い出 最終回 「放送委員」

中学時代、僕は放送委員をやっていた。
小6の時も放送委員だったと通信簿に書いてあったが、こちらはほとんど印象に残っていない。
でも中学時代の放送委員の記憶は強烈に残っている。
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それは深夜放送の影響が強かったためだと思う。
放送委員会には予算が付いていて、それでレコードを買うことができた。
深夜放送で聞き覚えた音楽を、校内放送でも流したい。
そんな思いが強く、一緒に放送委員をやっていた工藤信也と一緒に選曲に血眼になっていた。
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昼休みに流す校内放送ではフォークソングの数々やベンチャーズ、ビートルズなどが多かった。
ただこの頃はエレキギターに対する大人たちのアレルギーは強かった。
フォークは受け入れられるがエレキはダメだって感じが強かった。
エレキを弾くやつは不良だ!
そう言われた時代だった。
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自由な校風だった我が潮見中学にしても先生方の中には眉をひそめる人も少なくなかった。
グループ・サウンズ特集を放送中に放送室に入いりこみ、放送中止を言い渡されたこともあった。
そこで僕と信也は一計を案じた。
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  放送室にじょっぴんかうべや
  流しちまえばこっちのもんだべさ
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なんてことはない単なる実力行使だった。
(「じょっぴんかう」とは古い北海道弁で「鍵をかける」という意味)
昼の校内放送を深夜放送にしたいというのが暗黙の了解だった。
(「昼の信也放送」などと密かに命名もした)
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はがきの代わりに「目安箱」という投稿ボックスを作ったりもしたがこれは失敗だった。投稿する生徒は数えるほどしかいなかった。
チャン太・ポン太・ピン太&キン太(CPP&K)書き下ろしの「連続ラジオ小説 帰ってきた酔っ払い」なるものの生放送を試みたが、これは自己満足で終わってしまった。(僕のペンネームはポン太だった)
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深夜放送は受け手の立場だったが、校内放送ではとにかく発信する側に立ちたかったんだ。
ラジオ文化全盛期の影響はモロだった。
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幸いにもやりたい放題、かけたい放題はなんとか概ね貫徹できた。
当時の合い言葉は「オレたちの聴きたい音楽をまず流すべ。して生徒たちが聴きたいと思う音楽も全部流すべ」。
今思うと後の音楽活動のスタンスの萌芽は放送委員を通して生まれていたのかもしれない。
ちなみに一緒に放送委員をやった工藤信也は今も音楽酒場「サウンド・インS」を経営しながら歌い続けている。

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ラヂオの想い出 5 「深夜放送にはまる」

中学生に上がる頃から洋楽と深夜放送にはまった。
洋楽とはアメリカン・フォークソングであり、ビートルズに代表されるロックンロールであり、カンツォーネやシャンソン。
様々な音楽がラヂオを賑わしていた。
そしてそれを届けてくれたのが深夜放送だった。
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東京では各曲ごとに看板の深夜放送が流れていたそうだ。
しかしいかんせん、北海道の片田舎ではHBC(北海道放送)がメインにならざるを得ない。
今でも覚えているオープニング。
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  ナイト・ナイト夜の騎士 白馬コージでえす!
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リスナーのはがきにちょっと茶化しながらも真摯に応える白馬コージ。
はがきの内容は多分多くのリスナーが感じている普遍的な「悩み」が多かった。
電波を通して生まれる不思議な共感と連帯感。
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そしてはがきを読み上げる合間合間にかかる洋楽の数々。
もちろん日本のフォークソングも流れていた。
深夜放送のおかげで雑多な音楽に出会うことができた。
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後に上京後、いろんなパーソナリティの深夜放送を聴いた。
みなそれぞれに面白かった。
でもHBCの深夜放送ほど心に残ることはなかった。
中学~高校時代という思春期に聴いたからこそ心に深く残っているんだろう。

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ラヂオの想い出 4 「鉱石ラジオ」

小学生の頃、鉱石ラヂオのキットを買ってもらった。
鉱石ラヂオとは電源を持たない、音の増幅装置を持たない原始的なラヂオ。
鉱石と金属の接触で電波を受信する仕組みだったと思う。
増幅装置を持たないので電波から取り出した音をイヤホンで聴かなければならなかった。
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当時「恐怖の館」というようなタイトルの番組があった。
(テーマソングはなぜかPPMの「虹とともに消えた恋」だった)
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僕はこの番組が聴きたかったが、なにせ放送時間は夜の10時過ぎ。子供は寝る時間だった。
そこで布団に入った後、頭から布団をかけて息を潜めて聴いていた。
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PPMとの出会いは鉱石ラヂオを介してのことだった。
この数年後にPPMに憧れ、「平凡」や「明星」の歌本を頼りに練習することになるとはこの時は思いもよらなかった。

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ラヂオの想い出 3 「父のトランジスタ・ラヂオ」








1960年代に入りFMステレオ放送が始まった。

それまで我が家では大型の真空管ラジオでAM放送を聴いていた。
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新しもの好きで、音楽好きの父はある日手のひらにのるような小さなラジオを買ってきた。
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  トランジスタラジオってんだ
  音がいいべ!
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やがて父は同じような形のラジオ型のスピーカーを買ってきた。
2台をつなげることでステレオで聴ける仕組みだった。

父はこのスピーカーを母に内緒で月賦で買っていたようだ。
右左から別の音が聞こえてくるラジオに子供たち(そして父も)は夢中になった。
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ところが青天の霹靂だった母だけはいい顔をしなかった。
父にしてみるとせっかく手に入れたトランジスタラジオをなんとしてもステレオで聴きたかったんだろう。
母に相談すれば「そんなお金どこにあるのさっ!」となるのは目に見えていた。
そこで月賦でスピーカーを買い求めたんだと思う。月賦ならばれないだろうと思ったのかもしれない。
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結果的にこのステレオのトランジスタラジオのセットは家で聴かれることはなかった。
不愉快そうな顔をする母に父は気遣わざるを得ず、会社の自分の机の上で聴くようになったんだ。
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ある時、残業で遅くなる父に夜食の弁当を届けに行ったことがある。
広い事務所の父の机の周りだけが電気スタンドで照らされていた。
父はトランジスタ・ラジオをつないで放送を聴きながら何か書き物をしていた。
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その背中は丸く、なんだかさみしげに映った。

声をかけずらく、弁当だけおいてさっと帰ってきた記憶がある。
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その後も日曜の朝の「音楽の泉」はあいかわらず大型の真空管ラジオで聴いていた。





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ラヂオの想い出 2 「うたのおばさん」

「音楽の泉」と同じ1949年に始まった「うたのおばさん」。
平日の朝、安西愛子さんが幼児向けの歌を歌う番組だった。
後にテレビが普及して始まった国民的幼児番組「おかあさんといっしょ」のラヂオ版といったところだろうか。
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僕はこの番組が大好きだったそうだ。
生まれて間もない頃から歌に合わせて手足をバタバタさせてニコニコしていたそうだ。(もちろんそんな記憶はない)
番組が終わると「ん~ん、ん~ん!」母親に歌えと要求してきかなかったそうだ。
母親は後年「あんたにはごんぼほられてまいったさ」とよく言っていた。(ごんぼほるとは北海道弁でだだをこねるというような意味)
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僕とラジオの関わり、平日は「うたのおばさん」、日曜日は「音楽の泉」ということになる。
音楽好きになるひとつのきっかけとして、ラジオが果たした役割は大きかったんだろうな。

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ラヂオの想い出 1 「音楽の泉」

ラヂオ放送(昔はこのように表記していた)は1924年・大正14年3月に開始されたそうだ。
今年はラジオ放送100年の年だそうだ。
若い頃、ラヂオとは切っても切れない存在だった。
何回かに分けてラヂオの想い出を書いてみようと想う。
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戦中戦後を経て「音楽の泉」というクラシック音楽番組が始まったのは1949年(昭和24年)。
毎週日曜日の朝8時から始まる1時間番組。
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父はクラシック音楽が好きだった。
日曜の朝、待ち構えるようにしてラヂオのダイヤルをNHKに合わせていた。
8時の時報とともにシューベルトのテーマ音楽が始まる。
そして堀内敬三さんのナレーションが始まる。
ラヂオから流れるこの一連の音は今でも心の中に深く刻み込まれている。
記憶には全くないが僕は生まれたときから「音楽の泉」を聞いていた。(聞かされてきた)
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我が家の日曜日の朝は「音楽の泉」から始まり、番組が終わると家族そろってカトリック元町教会に向かった。
ミサで受ける聖体拝領前は食事がとれない。
「音楽の泉」=空腹感というのが僕にとっての日曜の朝の記憶だ。
ただ月に1度ほど、ミサが終わった後、坂を下り丸井デパートの食堂に行った。
旗の立ったお子様ランチを食べるのが楽しみで楽しみでしょうがなかった。
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ラヂオを僕の最初の出会いのひとつ「音楽の泉」の想い出。

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2025.02.23

10年の月日

今日はイトコ・古池エンタ幸介の命日。
もう10年の歳月が流れてしまった。
それぞれの両親や叔父・叔母たちもみんな逝ってしまった。
何人かのイトコたちも逝ってしまった。
残った僕も70=古稀の峠をとうに越えてしまった。
時の流れのなんと速いことか。
エンタが息を引き取る前日に交わした最初で最後の握手。
そして「マサ坊、ガンバレヨ」の一言。
精一杯の笑顔。
いまだに忘れられぬシーン。
僕にギターのイロハを教えてくれたエンタを偲び、エンタの書いた「僕の星まで」を口ずさんでみた。
エンタの亡くなった10年前にしたためた追悼文を再掲載する。
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イトコの古池エンタ幸介(ゆきよし)が昨日2月23日、11時半ごろ旅立った。
1年半に及ぶ闘病生活。
入退院をくりかえし、癌と告知された後も絶えず前を向いて歩こうとしていた。
それは闘いにつぐ闘いだった。
病との闘いであり、自分との闘いだったように思う。
闘いの果てに矢尽き刀折れ、旅立っていった。
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亡くなる前日、僕はエンタを見舞っていた。
このところの様子を見ると「その日」は近い、そんな予感があった。
僕にできることはいつものようにベッドのそばにいることだけだった。
多くを語ることもない、いつものようにふるまう、ただそれだけだった。
エンタはエンタでいつも僕に気を使わせまいと気丈にふるまっていた。
けっして楽なことではなかったと思う。
その日はいつもと違って時折苦しそうな顔をのぞかせながらも柔和な顔つきだった。
小一時間時を過ごし、別れしな握手を交わした。
60年のつきあいの中で最初で最後の握手は思いのほか力強かった。
何度も力をこめてぽつりと一言つぶやいた。
  まさ坊
  がんばれよ
.
函館山の麓で僕たちは兄弟のように育った。
本家の末っ子だったエンタは僕を弟のように感じていたようだ。
分家の長男だった僕はエンタを兄貴のように感じていた。
きかん坊のエンタの後をくっついて歩いた記憶がある。
(その後ろを僕の弟もくっついて歩いていた)
.
高校生になったエンタはビートルズの影響でドラムを始めた。
函館西高校の文化祭でドラムを叩くエンタに黄色い声が飛び交っていた
カッコよかった。あこがれた。
.
中学生だった僕はポツポツギターを弾くようになっていた。
そんな僕にエンタはコードを覚えて歌えと言った。
(たぶん単なる思いつきか気まぐれだろうが)
いくつかの基本コードを習い、PPMをお手本に僕は歌い始めた。
.
やがてエンタは東京に、僕は室蘭に移り住み音信は途絶えた。
時折風の便りにいまだ音楽をやっているという噂が聞こえてくるくらいだった。
35年ほど時が流れた。
.
ネット検索に「ENTA巣」が引っかかった。
直感的に「えんちゃんだ!」そう思った。
ほどなくENTA巣を訪ねてみた。
引き戸を開け顔をのぞかせた。
  えんちゃんかい?
  おお、まさ坊か!
ご無沙汰のあいさつも抜きでエンタはいきなり切り込んできた。
  おめ、これ知ってるか?
  ブエナ・ビスタ。
  なまらいいぞ!
  おお、オレも大好きだ!
35年の時を一瞬のうちに飛び越えてしまった。
.
それからおよそ10年。
僕たちの音楽談義はとどまるところを知らなかった。
頻繁に会うわけではないが、いつも核心について語り合った。
当時僕は自分の音楽の方向性を模索して紆余曲折をくり返していた。
ライブハウスなどで歌うことに居心地の悪さを感じ、歌う場を暮しに近いところを選んで試行錯誤をしていた。
そのことで音楽を介した友との軋轢もおきたりしていた。
そんな僕に遠慮のない意見をエンタは浴びせかけてきた。
しかしその底には深い理解と肯定があった。
批判的意見であっても、僕はあたたかさを感じていた。
.
  最初で最後の握手
  「がんばれよ」の一言
  精一杯の笑顔
これがエンタと最後に交わしたやりとりだった。
  オマエはオマエの思った通りにやってけ
  迷うな
  それがまさ坊にとっての唯一の音楽の道なんだ
エンタの最後のメッセージだと僕は受け止めている。
エンタはこの時自分の最後の一歩をすでに悟っていたんじゃないか。
そう思えてならない。
翌朝、いつものように看護師を笑わせ元気にふるまっていたというエンタ。
ほんのわずかなスキをねらって眠るように息を引きとったそうだ。
最後の最後までカッコよく生き、カッコよく死んでいった。
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【告別式 お別れの会】
2月27日(金) 10:00~11:00
平安祭典 高円寺
  JR高円寺駅 北口 徒歩3分
  北口を線路沿いに右折、JIROKICHIの前を直進
★音楽キチガイ・コイケエンタにふさわしく音楽葬とする予定
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2025.01.01

2025年幕開け! 今年も善き年になりますように

2025_01_01no
あけましておめでとうございます。
旧年中はなにかとお世話になり、
またお気にかけていただき
ありがとうございます。
.
本年もまた日々を大切に一生懸命に暮らしていきたいと思っています。
.
  あわてずに、ていねいに、そしてゆっくりと
  大地を踏みしめ、そこにすくっとまっすぐ立つ
.
そんな心持ちで歩んでいければいいなと思っています。
今年も変わらず、おつきあいいただければさいわいです。

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