日記・コラム・つぶやき

2020.05.10

【母の日】 失ってはじめて分かる親の恩

【母の日】

今年ほど「母の日」を意識した年はなかった。
お上が決めた「母の日」なんかに縛られたくないという思いが強かった。

.

昨年3月に母が亡くなり2回目の「母の日」を迎えた。
昨年は「後始末」に追われ「母の日」どころではなかった。
まる1年経ち母の死を冷静に受け止めることができるようになった。

と同時に母に対する(放蕩息子としての)慚愧の念と感謝の念を感じている。

「失って初めて分かる親の恩」だ。

.

僕が歌好きになったこと、今でも性懲りもなく歌い続けているその最初のきっかけは両親だった。
父はクラシック好き。日曜日の朝はNHKラジオの「朝の名曲」で始まった。産まれた時から音楽環境は整っていた。
母は毎朝ラジオの「歌のおばさん」をかけ続けた。ラジオが終わっても執拗にせがむ僕に母は童謡や唱歌を歌い続けたらしい。
もちろんそんな記憶は残ってはいない。でも歌好きのタネはこの時蒔かれ、徐々に芽を出し育っていったんだろうと思う。

.

晩年になり父を失った母は老人ホームで暮らすようになった。
内地に住んでいる僕は年に何回か母の暮らす函館旭が丘の家に「陣中見舞い」に通った。

そのたびに旭が丘の家でご老人相手に「Martin古池の歌謡ショー」をやってきた。
母は背筋をしゃんとさせてまっすぐに歌う僕を見つめていた。
その視線は誇らしげであると同時に厳しいものでもあった。
僕はあえてご老人ひとりひとりに視線を送るようにしていた。母も参加されたご老人のひとりと考えようとした。
母もまたオーディエンスの一人として僕の歌を聴いた。ただ同時に批評家としての立ち位置もあったように思う。
ショーが終わり自室に戻ると必ずひと言小言を言われた。


「あんた、人様の前で歌ってるんだからもっとしゃんと姿勢を正しなさい」

だとか

「なんぼ暑いからって靴下はかないで裸足で歌うのはやめなさい」

という案配だった。

.

母が小言を言わなくなったのは体がかなり弱り、特養に移ってからだった。
あいかわらず姿勢を正して僕の歌を聴いてくれたが、小言ではなく「良かったよ」とだけ言うようになった。

母が最後にショーを観たのは一昨年の秋、「それいゆフェスタ」だったと思う。会場の片隅で何度も崩れ落ちそうな身体を妹に支えられながら聴いていた。視線だけは僕を凝視していた。

.

以降、母はほとんどの時間をベッドの中で過ごすようになった。覚醒と眠りの世界を行ったり来たりしながらも徐々に眠る時間が長くなっていった。
僕は陣中見舞いに行くたびにギターを弾きながら枕元で童謡や唱歌を何時間も歌い続けた。
聞こえてていようがいまいがお構いなしに歌い続けた。
歌っていると母はおだやかな表情を見せてくれているようだった。

.

僕が子供のころに母が歌ってくれたように、今は僕が母に同じ童謡を歌っている。なんとも言えぬ感慨だった。
放蕩息子であった自分。母の死の間際になってやっと恩返しの(罪滅ぼしの)仕方が分かった。
そう思うとなんともいえぬ気持ちだった。

.

今朝、富安秀行さんがオンラインライブでご自身の母上のことを思い「ハッシャ・バイ」を歌っていた。
富安さんのご母堂が亡くなられて3年になるそうだ。
「ハッシャ・バイ」を聞きながら思った。

これからは「母の日」は母を想う日にしようと。

https://www.facebook.com/hagehage555/videos/2862983400466796/

| | コメント (0)

2020.05.04

「チューインガムひとつ」 ~コロナ休暇の狭間で

昨日自転車を走らせながら頭の中を流れていた「チューインガムひとつ」

https://youtu.be/7T0H_bp28Js

灰谷健次郎が小学校教師だったころの試みのひとつに子供たちの作文活動があった。その中のひとつがこの詩だった。
高石友也がそれを歌に仕上げてレコーディングした。
これをめぐって灰谷さんは高石さんに猛烈に抗議したそうだ。子供の悲痛な叫びをレコーディングという形で商業化したことが許せなかった模様。
これが契機に二人は理解し合い、仲良くなったそうだ。

1_20200504114101 2_20200504114101  
.
この歌には苦い思い出がある。
.
北海道から東京に出てきた最初の年、僕は駒場で下宿暮らしをしていた。いわゆる「三畳一間の学生下宿」だ。
常にお金がなく、たえず空きっ腹をかかえていた。
質素な下宿飯では20歳のあんちゃんの腹を膨らますことは到底望むべくもなかった。
.
梅雨のころだったと思う。
学校まで行く定期を解約して得たわずかばかりのお金も底をつき、下宿の部屋に僕は沈殿していた。
バイト代が入るまでまだ数日ある。
井の頭線で二駅先の渋谷。デパート地下の食品売り場へつまみ食いしに行くにも雨続きの毎日。
財布を覗くと38円しか入っていない。
.
  腹がへった
.
2階の窓から狭い通りの向こうを見下ろす。
古ぼけたよろず屋が店を開けている。
なんでもいいから腹に入るものを買おうと思い出かける。
.
よろず屋に置いてあった豆パンとあんパンそしてジャムパン。
みな1個50円。
足りない。
.
逡巡する。
ドックン、ドックン。
早鐘を打つ心臓。
豆パンに手を出す。
.
急いで店を出る。
すぐには下宿に戻らずあたりをさまよい歩く。
見つかるのが怖かった。
やがて少し落ち着き、部屋に戻る。
空腹ではあったがすぐには食べられない。
しばらく豆パンを見つめる。
やがて豆パンを頬張る。
.
甘さが口の中に広がる。
急に涙があふれ出る。
.
.
昨年、駒場に行ってみた。
住んでいた下宿先・A亭もよろず屋さんもすでになかった。
貧乏学生に優しかった立ち食いカレー屋・ビューは跡形もなかった。
吉祥寺に住んでいた弟と入った喫茶店チャンティックもすでになかった。(しっかり者の弟に僕は珈琲をおごってもらったのだ!)
.
あれから45年の歳月が流れた。
でもその情景はいまだにべっとりと心の奥底にこびりついている。
「チューインガムひとつ」を聞き、忘れていたこの情景がぶくぶくと湧き上がってきた。
.
コロナ禍で大学生たちもまた苦しんでいる。
バイトもできず日々の「食」ものしかかってくることだろう。
なんとか切り抜けてほしいものだ。

| | コメント (0)

2020.04.29

コロナ休暇 1か月を経て

 

ライブや音楽会をすべて中止して早くも1か月を経過した。

最後に演奏したのは3月末の「朝市コンサート」だった。
以来、ギターにはほとんど触れていないし歌も歌っていない。
音楽を聴くこともあまりなかった。特に歌ものは聴きたいとは思わなかった。
何十年と演ってきてこんなのは初めてのことだ。

.

あらためて痛感している。

いかに音楽活動が自分の暮らしの屋台骨になっていたことか。
毎週末のライブを軸にして生活パターンが出来上がっていた。
頭の片隅にはいつもライブのことがあり、そのための準備に日々を過ごしてきた。

.

週末のライブが無いとなるとギターを弾いたり歌ったりする必要性がなくなる。

おのずとギターや歌から遠ざかる。


一度は思った。
それじゃだめだ。ライブができるようになった時のため準備を常日頃積み重ねなければと。

 

でも反面で「コロナ休暇」は神様がくださった充電期間だという思いもあった。
一度音楽から離れ、人様からも離れ一人きりになるべき時だ。
そして自分自身と対話を積み重ねるべき時だ。
結局、自分自身を充電しながら日々を過ごしている。

.

この間やっていることといえば「ひとり散歩」と「身辺整理」、そして読書。
「身辺整理」とは昭和20年ごろ復員した父のもとに残されていた手紙の数々や父の文に始まり、
自分が生まれ育った中で残されていた膨大な文などを片っ端から読み直している。
そこから何かを得ることが出来たかどうか。それは今のところまだわからい。

ただゆっくり流れる時の中に身を置くことは心地いい。

.

最近になってようやっと人様の音楽を少しずつだが聞くことが出来るようになってきた。
ただまだ自分で演奏する気になるところまでは行っていない。
やがてもう少し時がたち、「歌いたい」という気持ちが爆発する日が来るだろうという予感は強くなっている。

.

まもなく始まる5月。
ライブをどうするかは自分だけでは決められない部分がある。
お店やライブ会場からオファーがあればむろんやる。今のような心持であったとしても。
その時はたぶん再び始まった日常に全力投球することだろう。

| | コメント (0)

2020.04.13

身辺整理のはざまで

 

4月に入ってこのかた身辺整理に精を出している。
ため込まれた「古いもの」はいくつもの段ボールに収められている。
古い手紙だったり、古い写真だったり、あちこちに書いた雑文だったり。
自分のものだけならまだしも、これに両親の保有していたものも大量にある。
父の死後、母に託されたものだ。
当然母が亡くなり彼女のものもこれに加わった。

.

いつかは整理しようと思いながら納戸の中で長年眠っていたものだ。
4月の音楽活動をすべて中止にしたので、今がその時と思い始めた。
手紙や写真、雑文の類はスキャンしてPCに取り込み現物は丁重に破棄させてもらっている。

.

昨晩で両親の「古いもの」はあらかた整理を終えた。

なかでもとりわけ父が友人たちと交わした手紙のやり取りは面白く興味深かった。
 戦後復員後の友とのやり取り。
 小学校、中学校の親友たちとのやり取り。
 結婚前後の恩師・島田神父との膨大なやり取り。
 日中戦争で戦死した兄のいいなずけとの文通。
 室蘭に単身赴任していた頃の母との文通。
 そして晩年の闘病生活のころの様々な方から頂戴した手紙の数々。
自分の知らない父の姿・心情が彷彿するお宝だった。

.

父がどのような返信をしたのか。
それを想像しながら文字を追う。
昔の方々はあまりに達筆でそれを読み解くのはなかなか難しい。
でも時間をかけて「解読」していくのもまた楽しく、胸に沁みるものがある。
まるで時が止まったかのような毎日は得難いものだ。

.

さてそんな手紙のひとつに戦友からのものがあった。
余市の方でペンネームを「ゲレッパ」と記していた。
ゲレッパとは北海道言葉でびりっけつの意味だ。
ゲレッパさんはおそらく自分の表す詩や文章は下の下と謙遜してそう名づけたのだろうと思われる。
(父のペンネームはコイケヤーノフ・ノブオンスキーだった)

.

二人とも学徒出陣。

部隊は違えど海軍の特別攻撃隊員の生き残りだった。
おそらく二人とも己の生きる意味、そして死ぬ意味を問いながら「その時」を生きていたのだろうと思う。

ゲレッパさんは父が亡くなった1993年の秋に幾葉かの詩と共に道新(北海道新聞)のコラム「卓上四季」を母あてに送ってきた。
その内容が僕の胸をとらえた。

19939


特攻前夜、二人の今生の別れにピアノを思いきり弾く。
ガランとした薄暗い講堂にベートーベンのピアノソナタ「月光」の流れる様子が脳裏に浮かぶ。

「卓上四季」の結びの一節がいい。
   ピアノ
   この箱は悲しみや苦しみは半分に、
   喜びは二倍、三倍にしてくれる不思議な箱です。

ゲレッパさんは万感の思いをこめて「卓上四季」を送ってくださったものと思われる。

.

くしくも今日4月13日は父の27回目の命日だ。
本日は身辺整理をお休みにした。
身辺整理のはざまでフォーレのレクイエムを聴きながらこの文をしたためている。

Photo_20200413173201

| | コメント (0)

2020.04.10

【身辺整理】古い手紙編 中学~高校時代

 

今日も朝から身辺整理。
古い手紙の束に目を通していた。

.

中学・高校生のころいろんな友人たちとずいぶん文通していたことに我ながら驚く。
7~8人の友と数年にわたっての文通。
遊ぶのに忙しかった学生時代によくぞやってたもんだ。

.

ペンパルなんてのも当時(昭和40年代)は流行っていて、僕もルスツの同年の女の子とやっていた。
いつ始まり、いつ終わったのか分からないし、会ったこともない。なのに4年にわたって20通くらいやりとりしている。
他愛ない話も多いが、中には時代を反映してかベ平連の話やら三島由紀夫の話やらが紛れ込んでいる。

.

小学6年生のころ「インターナショナルゲーム」なるものも流行った。
ある日突然同級生からはがきが届く。
いついつまでに他の5人に同様のはがきを出してほしいというものだった。出さなければ仕組みが崩れ他の人に迷惑がかかるという脅しも入っている。
今でいうチェーンメールというヤツのはがき版といったところか。
そんなはがきが10通くらい残っていた。

.

中学の演劇部時代の後輩(めんこい娘だったな)とも4年くらい文通をしている。進学についての悩み事や、演劇の話で便箋は埋め尽くされている。

.

手紙っていいもんだな。
遠くの相手のことをあれこれおもんばかって手紙を書き投函する。
手紙の中身のことで相手はどんな風に受け止めるのだろうとドキドキしながら想像する。
やがて返事が来る。
2週間後だったり1ヶ月後だったり、3ヶ月後だったりする。
開封する時のわくわく。ドキドキ感。
手紙を書いてから返事が届くまでの「間」っていうのがいいな。
メールやLINE、メッセンジャーは返信が早くて、便利だ。
でもなんとなく味気ない。

.

手紙の束にすべて目を通し、当時のことを思い出す。
スキャンしてPCに取り込んでから、丁重に破棄する。
なかなか大変だけど、いい時間を過ごしている。

| | コメント (0)

【身辺整理 その4】古い手紙 2

 

こんなのも出てきた。
五つの赤い風船、函館初見参!
昭和46年2月。


これは中学時代に一緒にギターを弾いていたみどりちゃんからの手紙に入っていた。
みどりちゃんは当時進学した高校でフォークソングクラブを作り、部長さんだったらしい。

このチラシはペラッペラのパラフィン紙に単色刷り。
最初活版印刷かと思ったが、ドットスコープで覗いたらオフセット印刷だった。
こんなペラ紙によくぞ印刷したもんだと、妙に感心した。

S462
S46

| | コメント (0)

【身辺整理品 その2】室蘭東高校・校歌の譜面

 

今思えば小中学校に比べ、この校歌を歌うことはそう多くなかった。
学生運動の余波で生徒と学校が対立関係にあるという雰囲気がなんとなく漂っていた影響もあるような気がする。
入学したのは1970年。70年安保闘争の年だ。
一部の「先進的(?)」先輩たちが生徒会執行部の中心メンバーだった。
そんな中でなんとはなしにぴりぴりした雰囲気が底辺に合ったように思う。
一方で間違いなくノンポリ層の生徒も多く、学校への帰属意識も薄かったような気がする。

.

むしろこの校歌で強い印象があるとすれば、学校祭のステージで1年先輩のベッチャカさんがエレキ片手にロックアレンジで歌ったことだ。
ウッドストックのジミヘンを強く意識した演奏だった。
さすがに歯で弾くことはなかったが、演奏中に弦を切り指から鮮血が飛び散ったのを覚えている。

おもしろい、すごい時代だったなぁ。

Photo_20200410083001

| | コメント (0)

【身辺整理】50年前の高校卒業記念「精魂皿」を発見

身辺整理をしていて古い段ボールの中から出てきたお皿。
室蘭東高校を卒業した時に「同窓会」が卒業生に贈ったもののようだ。
なんと50年近くも段ボールの中で眠っていた。
自分の記憶からもすっかり抜け落ちていた。

.

「精魂」の二文字に力がみなぎっているように感じる。
広辞苑によると「精魂」は心、精神という意味合い。
「精魂をこめる」というように使われる。
誠心誠意ことにあたるとか、情熱をこめるとか、丹精込めるというような意味合いだ。

.

労働者(労働力を切り売りして生活の資を得る者)、給与所得者(サラリーマン)を卒業して間もなく1年になる。
いわば人生浪人生だ。
第二の卒業を経てあらためて思う。
「社会人」であった頃にもまして、日々の暮らしを精魂込めて大切に過ごしたい。

.

およそ50年の時を経て出てきた「精魂皿」は自分にそんなことを語っていると受け止めることにした。

ちなみに室蘭東高校同窓会は「蘭岳会」という名で室蘭中心に活動しているらしい。

Photo_20200410071201 2

| | コメント (0)

2020.04.04

身辺整理

このところ終日「古いもの」整理に没頭している。
古くは小学校時代の文集や写真から始まり、中学、高校を経て上京後のあれこれがしこたまある。
そいつらがいくつもの段ボールや竹行李の中に雑然と詰め込まれている。

.

死んでしまえばそいつらはただのガラクタ、ゴミにすぎない。
「断捨離」よろしく段ボールごと燃えるゴミに出してしまえばすむのだが、それができない。

.

.


20歳の秋だったろうか。
札幌の実家に帰った時、僕は中学時代から書きためた「ある日突然」と名付けた日記をすべて焼いた。
段ボールに3つか4つあった「日記」は庭の片隅ですべて灰になった。
「俺は北海道を棄てて内地に行ったんだ。過去にとらわれることは金輪際やめよう」
そんな思いだった。

.

その時は若さにまかせた一大決心だった。
でもずいぶん後になって自分の若き足跡を灰燼に帰したことを悔やんだ。

赤裸々な足跡は自分の人生の中で消え去るものではなく、むしろ今の自分につながる大切な一歩だったはずだ。

.

とはいえ、いつまでも(死ぬまで)タンスの肥やしにしておくわけにもいかない。
古い足跡をスキャンし、現物は処分することにした。
この2日間で段ボール3つ分を処分した。
まだ2つ分は残っている。
今しばらく、この作業に没頭することになるだろう。

.

**************************

.

Photo_20200404221101
199712

このライブ案内通知は「ぶどうの木ライブ」のものだ。
このライブは30代半ばから40代半ばまでやっていた定期ライブ。
最初のころはワープロ「書院」で素材を作り、切り貼りしながら作っていた。
後にイラストデザイナーをしている共演者・なんちゃんがPCで作ってくれるようになった。

今みるとバリバリに力が入っているのが見てとれる。
当時は全力投球で攻めまくる直球一本槍のライブだったように思う。
今のようなゆるゆるのライブになるには、この後20年の歳月を要した。

ちらし1枚からその当時の自分をふりかえることができる。
おもしろいものだ。

| | コメント (0)

2020.02.28

「夢」

一昨日見た夢がいまだに頭の中をぐるぐるまわっています。

.

****************

.

小さなアパートの一室。
学生のころ住んでいた石井荘の4畳半に似ている。

.

  石井壮は貧乏学生時代暮らしていたアパート。
  4畳半の部屋が6室だけ。
  風呂などなく、共同トイレの学生アパート。
  ここに高校の同級生、大学の同期生、
  弟、浪人中の予備校生。
  そしてデパートの売り子のお姉さんが暮らしていた。
  皆金欠病。
  それぞれのあり合わせで飯を作り一緒に食べていた。
  それぞれの友人が自由に出入りし、自由に交流し
  酒を酌み交わしていた。
  「わが青春の石井荘」だ。

.


幅半軒の小さな調理場で僕は何かを作っている。
大鍋でごろりとした肉や野菜をコトコト煮込んでいる。
醤油味だろうか、デミグラスソースなのか。
煮汁の色は濃い茶色でとろりとしている。

部屋には誰かがいるが、それが誰かはわからない。
男なのか女なのかもわからない。

やわらかく煮える。
小鍋に移して部屋から出る。
1軒ほどの狭い廊下を挟んで向かいの部屋に届ける。
はずみで肉の塊を2切れ、廊下にこぼす。
それを拾い上げ流水で洗い、小鍋に戻して再度火にかける。
誰も何もとがめない。

.

向かいの部屋の薄い扉を開ける。
小さな部屋の真ん中には炬燵が置いてある。
扉を背にして座っているのはエンタだ。
ふりかえることもなく函館訛りで僕を迎え入れる。

部屋の中にはエンタの友人が数人。
ギターやウクレレを弾きながら歌っている。

エンタは相変わらずふりかえらずに僕を紹介する。

  これ、まさ坊。
  歌も歌うが料理もなかなかなもんだ。
  廊下に落とした肉もうまいことごまかして食わせる。

友人たちの笑い声。
そして歌声。

♪ It's only paper moon....
突然「東京ブギウギ」のサビにつながっていく.....
そしてまたPaper moon。

そこだけが何度も何度もくりかえされる。
エンタはこたつの天板とグラスを使ってフォービートを刻んでいる。

.

****************************

.

そこで目が覚めました。

以来頭の中をPaper moonと東京ブギウギのメドレーがずっとまわり続けています。

これはライブでやってみれっていうエンタからのメッセージかしらん???

.

.

Photo_20200228185401

エンタの最後の演奏風景。
2014年6月。場所は高円寺・ジロキチ。
ワンナイト再結成した「レイジー・キム・ブルースバンド」でドラムをたたいた。
数曲で力尽き、たしか松本照夫さんに交代したと思う。
この後病状が悪化し、翌2月23日に旅立った。63歳だった。
幼いころから一緒に育ったイトコだ。中学生の僕にギターの手ほどきをしてくれた兄貴分だった

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

「唄の駅」 『街角ライヴ』 あすなろ山の会 おすすめ記事 おーるどタイム おーるどタイム de ライブ さんすまいるコンサート すみれコンサート へたくそ親父のギター弾き語り ウェブログ・ココログ関連 オカリナ・アンサンブル かざぐるま グルメ・クッキング サッカー スポーツ デスペラード・ライブ トミ藤山 ニュース ハックルベリー・カントリー・ライブ ババ猫ミーちゃんの糖尿生活 パソコン・インターネット モスライブ ライブ ライブ at JUNE ライブ・イン・ぶうけ ライブ・コンサート暦 三貴ライブ 僕を通り過ぎた歌たち 函館帰省日記 2005秋 函館帰省日記 2006春 函館帰省日記 2007春 函館帰省日記 2008冬 函館帰省日記 2010 冬 函館日記 函館日記2014 夏 函館日記 2011秋 函館日記 2012初冬 函館日記 2012夏 函館日記 2014夏 函館日記 2014年冬 函館日記 2015 夏 北海道 北海道 音楽旅日記 2009 印刷 室蘭 寿コンサート 小さな旅 心に引っかかる言葉 文化・芸術 旅行・地域 日記・コラム・つぶやき 旭丘の家コンサート 映画・テレビ 書籍・雑誌 朝市コンサート 札幌日記 2005秋 札幌日記 2008 秋 森の音楽祭 清津峡 無国籍堂ライブ 絵本コンサート 自転車 見沼たんぼ 音楽 音楽雑感 骨折り日記