日記・コラム・つぶやき

2025.01.01

2025年幕開け! 今年も善き年になりますように

2025_01_01no
あけましておめでとうございます。
旧年中はなにかとお世話になり、
またお気にかけていただき
ありがとうございます。
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本年もまた日々を大切に一生懸命に暮らしていきたいと思っています。
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  あわてずに、ていねいに、そしてゆっくりと
  大地を踏みしめ、そこにすくっとまっすぐ立つ
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そんな心持ちで歩んでいければいいなと思っています。
今年も変わらず、おつきあいいただければさいわいです。

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2024.11.25

洞爺丸台風のこと、そして映画「海峡」のこと

昭和29年9月26日。
函館を巨大な台風が襲った。
この台風で函館湾沖で洞爺丸をはじめとして5隻もの青函連絡船が沈没、大破した。
これにより1400人もの人たちが海の底に消えた。
最も被害の大きかった洞爺丸の名から「洞爺丸台風」と呼ばれた。
日本海難史上最悪のものとされた。
この時僕は生後5ヶ月だった。
暴風雨によって高台にあった我が家の屋根は吹き飛ばされたそうだ。
僕はベビーベッドの上で雨にさらされていたものと思われる。
(多分両親が何らかの手当てをして守ってくれていたんだと思う)
後に父に聞いた話では、夕方5時頃、台風の目に入り飛ばされた屋根越しに青空が見えていたそうだ。(文字通りの青空天井)
僕は青空を見ながらキャッキャと手を振りながら笑っていたそうだ。
洞爺丸台風の記憶は僕には全くない。
後に小学校に上がった。
当時の校長はオシザワ・シゲタカ先生。
オシザワ先生は洞爺丸に乗っていたことを朝礼の時に話されていたのをうっすら覚えている。
洞爺丸が沈没したのは深夜10時45分ごろ。
暴風雨と辺り一面の闇でまったく方向感覚が分からなかったそうだ。
沈没直前に洞爺丸から海に飛び込み当たりをつけて泳いだ。
運良く泳いだ方角は七重浜方面。
荒れ狂う波に呑まれることもなく、運良く浜にたどり着き一命を取り留めることができた。
そんな話をしながらオシザワ校長先生は抜き手のような、横泳ぎのようなジェスチャーをされていたのを子供心に覚えている。
(もしかしたら先生は海軍出身だったのかもしれない)
洞爺丸台風から丸70年が過ぎた。
昨夜、高倉健さんの映画「海峡」を観た。
青函トンネルを準備を含めて30年に渡り掘り続けた男達の物語。
何度も観た映画だが、いつも襟を正して観ている。
青函トンネルは洞爺丸台風が直接のきっかけだったそうだ。
今新幹線で青函トンネルを走ると25分で通り抜けてしまう。
味も素っ気も風情のかけらもない時間だ。
でも車内放送では必ずこんなアナウンスが流れる。
  ただいまここより青函トンネルに入ります
  ただいま青函トンネルをでて北海道に入りました
たんなる事務的なアナウンスではある。
でもその裏には想像を絶する30年にもおよぶ男達の闘い、そしてそれを支える家族達の歴史が刻まれている。
函館に帰る時、僕はこのアナウンスに合せて黙祷をささげている。
「トンネルさん」たちだけにではなく、洞爺丸台風の犠牲者にもささげる祈りのようなものも含まれている。
最近そんな風に思うようになってきた。
「海峡」(公開年月日 1982年10月16日) 予告篇

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2024.11.01

想い出 東洋大学 学食

今朝のテレビで東洋大学(以下「洋大」)の学生食堂(学食)の取材番組が放送されていた。
1000人以上の学生が入れる、広くて、明るくて、清潔な、そして近代的ま学食。
様々な店舗の入るフードコート方式とのこと。
そして旨そうな料理がすべて600円以下で食べられる。
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50年前、僕は洋大の学食でアルバイトをしていた。
当時の学食は半地下に設けられていたので薄暗く、吹き込む風の生で少々ゴミくさかった。
僕たちは学食のことをメスホールと呼んでいた。(メスホールとはアメリカ海軍の植民地時代の軍人用施設)。
そこは食堂であり、同時に学生達のたまり場でもあった。
広い学食のあちらこちらで学生達は語らい、本を広げるという風景があった。
半地下の学食の出入り口の階段を上ったところには植え込みがあり、ブルーグラスバンドなどが練習をしていた。
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僕はこの学食でおよそ1年間アルバイトをしていた。
最初は大ホールの配膳係。
メイン料理は自動回転式の大鍋や巨大なフライパンで作られ、その料理はワンプレートの皿に盛りつけられる。
皿はベルトコンベアに乗せられ次々に流れてくる。
配膳係はその皿にガロニー(付け合わせ)を乗せていく。
ベルトコンベアのスピードは速くて、集中しなければ追いつかない。
ずっと中腰、たちづくめでその作業をしていると、だんだん腰が痛くなってくる。
まるで工場労働者のようだった。
その後別室にあった蕎麦コーナーに配属されたので配膳作業からは解放された。
蕎麦コーナーでは蕎麦つゆの仕込み方などを職人さんから教えてもらったりして楽しさの方が多かった。(配膳係とはえらい違いだった)
また管理者の目が届かなかったこともあり、あまった蕎麦や天ぷらを食べさせてもらえた。
貧乏学生にはありがたかった。
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3年の夏休み、学生アルバイト達は休みとなった。一時帰休というヤツだ。
約2ヶ月の長い夏休みは収入がなく、最低限の暮らしで乗り切った。
他のバイトを探すこともできたが、そうすると夏休み明けに学食に戻ることは難しいと考えたからだ。
洋大学食の給料は比較的高かったので、それを捨てることは考えられなかった。
ひと夏、ご飯と納豆、時々キャベツだけでなんとか乗り越えた。
夏休みが明け、職場復帰のため学食に向った。
僕のタイムカードはなかった。
いぶかしく思い社長を探し出し問いただした。
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  売り上げが思わしくないんで
  学生さん達にはやめてもらうことにした
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必死に抗議した。
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  夏休みの間、他のバイトに探さず新学期に備えてきた
  そのために借金までして堪えてきたんだ
  それはないでしょう
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しかし聞き入れられるはずもなく交渉決裂。
悔しさ、憤りをかかえながら僕は次のバイト探しのため新聞求人欄に目をやった。
洋大のある白山からひと山を越えた小石川にある共同印刷の求人広告が目に飛び込んだ。
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  文化創設の担い手、共同印刷
  安定的雇用
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というような文句が書かれていた。
洋大では文学部国文科を専攻していたので、活字を扱う印刷会社に惹かれた。
でも
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  夜勤あり
  2ヶ月の試用期間あり
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小さく書かれたこれらの文句には気を留めなかった。
夜勤明けに学校に行けばいいとか、真面目にやれば本採用になるだろうと都合のいいように解釈した。
はたして共同印刷に雇われてみると、夜勤明けでの通学はほとんど無理であることを知った。
重たい紙を扱う印刷作業(当初は補助作業)は重労働だった。
大学に籍を置いていては本採用の道はないことを知った。
腹をくくった。
学生であることをやめ、労働者として生きることにした。
テレビで放送された今の洋大の学食の風景を見ながら、そんな記憶がよみがえった。

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2024.10.11

会話を楽しむ音楽会

「歌声音楽会」はどんなカタチが望ましいのか。
長年あの手この手と試行錯誤をくりかえしてきた。
現段階で到達しているのが「会話を楽しむ音楽会」。
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演者が音楽やトークを「提供」するのは「会話」ではない。
ライブや歌謡ショーなどでは一方通行のそういうカタチもあり。
でも会話とは一堂に会して互いに話し合うこと。
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演者である自分が話のタネを投げかける形で歌や会話は始まる。
それを肴にして「会話」が生まれる。
さらに演者と参加者というかたまりのやりとりだけではなく、参加者同士の間にも会話が生まれる、膨らんでいく。
その会話が次の歌につながっていく。
この循環が次々と間断なくくりかえされていく。
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いわば「道しるべのない歌の旅」。
道草を食みながら、刹那刹那をつなげて目的のない「旅するための旅」を楽しむ。
そんな風なのが僕の理想とするカタチ。
それが「会話を楽しむ音楽会」だ。
そういう音楽会を「井戸端音楽会」とか「お茶の間音楽会」と称している。
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今現在こういう歌声音楽会をあちこちでさせてもらっている。
ベースになっているのは次の3つの歌声音楽会。
・デイサービスで10年ほど続けている「さんすまいる音楽会」。
・喫茶店JUNEでやはり10年近く続けている「歌声喫茶」。
・おーるどタイムでやっている「フォークの歌声音楽会」。
うれしいことにこの3つの音楽会では理想とするカタチで進められるようになっている。
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水先案内人の僕の役割は
①最初の出だしの歌と会話のきっかけを作ることと、
②会話の内容をうまく集約して次の歌につなげること、
③そして音楽会のラストを適切な着地点に軟着陸させること。
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あえてリクエストを募る必要はない。
なぜなら会話の中から自然に浮き彫りになってくるから。
浮き彫りになった複数の歌の中から選別すればいい。
(以前はリクエストを掘り起こすために色々策を弄し、四苦八苦していた)
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歌う楽しみだけではなく、会話すること自体もまた楽しみ。
歌と会話とがシームレスにつながり渾然一体となった音楽会になりつつある。
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ただ「会話を(も)楽しむ音楽会」をやるにはいくつか条件があるようだ。
①こじんまりとした小さな小さな音楽会であること。
参加人数が20人にもなると会話は成立しにくくなる。
②ひとつの場所で長い期間続けられていること。
音楽会のカラーが定着するには何年もの時間が必要だ。
③核になる参加メンバーが何人かいること。
そういう人たちがいることで初めての参加者への気配りが会全体としてなされる。
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「会話を楽しむ音楽会」にするために水先案内人として気をつけていることもいくつかある。
①己の存在を極力消すこと。
できれば空気のような存在でありたい。
司会者(水先案内人)の強い個性や仕切りで音楽会を運営していくのはどうもなじまない。
②道草話の中にも絶えずアンテナの感度を上げていること。
なんてことない馬鹿話であったとしても、その中に次の歌につながるお宝が潜んでいる。
それを見過ごさずにスポットライトを当てるためには感度良好でいなければならない。
③それらを保つために心はいつも開いていたい。
心を開いていなければ自分のこだわりや好みに左右されてしまうこともあり、独善に走る危険性が生まれる。
なんでもありの精神。Everythings OKだ。
④参加者全員をたえず視野に収めておくこと。
いろんな年代や好みの方が一堂に会する。
中には知らない歌、あまり好みではない歌を選別されることも当然起きる。
大人の集まりだからそういう状況ではにこにこしながら聴き手にまわったりしてくださる。
でもその状況がずっと続けば疎外感だって生まれる。
それを避けるため参加者全員を視野に収めておきたい。
音楽会全体を通して一人の取りこぼしも起こさないように交通整理したい。
歌声音楽会は参加者全員で作り上げられる時間・空間でありたいから。
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さんすまいる音楽会、歌声喫茶@JUNE、フォークの歌声音楽会の3本柱。
長い年月をかけてようやっと理想とする「会話も楽しむ音楽会」として定着しつつある。
そして五里霧中・暗中模索の中で試行錯誤をくりかえしてきたことは決してむだではなかったと思いたい。
試行錯誤をしてきたあれこれは、新しく始めた「井戸端音楽会@楽龍時」などにも活かしていきたい。
また時々お声のかかる出前コンサートにも活かされている。
さらにはショー形式のライブにも歌声音楽会の要素が自然と含まれるようになってきた。
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今のカタチが最終到達点かどうかは分からない。
この先変わっていくかもしれない。
変わることなく練度・精度が上がっていくだけなののかもしれない。
ただ何十年もいろいろ迷いながら歌い続けてきて、今もっとも心地いいのは「会話も楽しむ音楽会」というカタチ。
これが70歳時点でのひとつの到達点のように思える。

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2024.10.09

変貌 「太陽のない街」から「陽のあたる街」へ

かつて務めていた共同印刷とその周辺を歩いた。
退職したのは2011年3月。東北大震災の直後だった。
それからすでに13年にもなる。
このあたりに足を向けたのは実に10年ぶりほどだ。
会社のそして街の変貌ぶりに驚き、ちょっと切なさを感じた。
会社が全面的に建て替えられ、新社屋になったという話は聞いていた。
以前の社屋は戦前に建てられた鉄筋コンクリートのゴツゴツした古めかしい建物だった。
それがすっかり近代的に。
カーブを描いたフォルムで全面ガラス張り。
威風堂々としたビルがそびえ立っていた。
僕が40年近くうごめいていた印刷現場は地方工場に移設され、今ではオフィスビルに特化されたらしい。
.
 俺にとっての共同印刷はもう心の中にしかない
.
そんな感慨にふけってしまった。
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そしてそれ以上に切なかったのは街の変貌だった。
かつては共同印刷の周辺の陽もあたらぬような路地裏には小さな印刷屋や製本屋がひしめいていた。
大通りから路地に入れば、あちらこちらから印刷の音や製本の音が聞こえてくる。
タンタンタンタンという小気味のいいリズミカルな機械の音。
溶剤や油の入り交じったような独特の香り。
そして紙の匂い。
バラックに毛の生えたような建物を開けっぴろげにして作業する製本屋。
路地のあちこちでは菜っ葉服を着た人たちが一服する煙草の香りが漂っていた。夏には日影を求め、冬には日だまりを探しながら。
そんな風景は路地という路地で見ることができた。
それがこの街の風物詩。
僕の好きな風景だった。
.
それらは見事に消え去っていた。
路地という路地はきれいに整備され、明るく「健康的」な雰囲気に変わっていた。
静かでおだやかな雰囲気が漂っていた。
機械の音が聞こえない。
印刷や製本の匂いも漂ってこない。
菜っ葉服と煙草の香りもない。
みんなない、なにもかも根こそぎない。
.
かつてこの街は「太陽のない街」と言われた。
大正末期の共同印刷の労働争議を題材にしたプロレタリア小説から来ている。(徳永直:著、戦旗社:刊)
僕が勤めていた頃はさすがに「太陽のない街」に描かれた風景はもうなかった。
それでも路地裏に「太陽のない街」の雰囲気をかすかに感じることができた。
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今は「陽のあたる街」にすっかり変貌してしまった。
ここで暮らす人たちにとってはそれは良いことなのだろう。
健康的で文化的な今風の暮らしを手にすることができたのだから。
.
でも失われた街の風物詩を思うと淋しく、切なさを禁じ得ない。
失われたものへの哀憐の情とでもいうのだろうか。
.
駅に向う帰路、昔よくお世話になった飲み屋や古本屋が健在だったことが救いだった。
さすがに古本屋は代替わりしたようだ。かつての白髪のおじちゃんから金髪に染めたあんちゃんが奥で店番をしていた。
なじみだった飲み屋・遠州屋の名物、モツ煮で一杯やろうかと思った。
残念ながら開店前であきらめて、帰りの電車に乗り込んだ。

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2024.07.01

夏が来た?

2週間ぶりに早朝散歩。
この間体調不良のため、ほとんど自宅にこもっていた。
.
久しぶりの散歩はなんとなく足がもつれる感じ。
まあ、初日からは飛ばさずゆっくり歩こう。
(飛ばすに飛ばせないけど)
.
今年初めて見るひまわり。
.
ああ、夏なんだね。
花の画像のようです

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2024.06.17

あわてずに、ていねいに、ゆったりと

すでにカウントダウンが始まっている「老後」をどう生きるか。
「老後」という呼び方が適当かどうかは分からない。
何しろ今まさに「老い」の時代のまっただ中を生き始めてるんだからね。
最近そんなことを考えることが多い。
.
残念ながら10年前に比べると体力は衰え、身体のあちこちに不具合も出始めている。
「老い」という現実から眼をそらすことはできないし、眼をそらしてもいけない。
真正面から「老い」を受け入れ、受け止めなければなるまい。
.
幸いなことに気力は以前と変わらず充実している。
精神年齢もおそらく若い頃とさして変わらない。(というかどこかでストップしている)
気さえ充実していればこそ前向きに受け止めもできようというもんだ。
.
.
子供の頃の自分はいたってマイペースだった。
あわてずに、ていねいに、ゆったりと日々を過ごしていた記憶だけが残っている。
.いつの頃からだろう。
生きることに急ぎ始めたのは。
「より早く、より高く、より遠くへ」がひとつの生きる指針のようになっていた。(オリンピックみたい)
どれほど多くの実体験ができるか、どれほど多くのことを同時にこなすことができるか。
一日24時間という限られた時間の中でより早く、より効率的に、より多くの果実を得ることが大切だと思ってきたところがある。
それは仕事の上でも、音楽活動の上でもだ。
(QC思考を仕事のみならず、プライベイトでも実践するほどだった)
.
その結果ずいぶん無理を重ねてきた。
長年「仕事と音楽どちらも全力投球であること」を自分に科してきた。
睡眠時間を削るしか双方をこなすことはできなかった。
そして無理を重ねてでもやれる「若さ」があった。
.
ここ数年無理を重ねることが難しくなってきている。
無論無理をすることはできないわけではないし、あいかわらず無理はしている。
でもその後の消耗を回復させるために倍以上もの時間を要するようになっている。(肉体的にも精神的にもね)
これが「老い」というものなのかと感じる日々だ。
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今思っていることは子供の頃のマイペースの自分に立ち戻ることだ。
急がない生き方。
あわてずに、ていねいに、ゆったりした精神状態を保つ生き方。
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これからはひとつひとつの具体的な事柄の中で、「急がない生き方」を暗中模索することになるんだろう。
人に等しく与えられた1日24時間という時間。
より多くをつめこむのではなく、よりていねいに接していくことが肝要かと思う。
そうすることでより充足感のある意味ある24時間になるんではないかな。
それが「今を生きる」ということにつながるんじゃないかな。
そう思いたい。

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市場のラーメン


久しぶりに美松食堂でラーメン餃子。

昔ながらの醤油ラーメン。
鶏ガラベースのあっさり味。
あっさりなんだけど深ぁい旨味。

時々モウレツに食べたくなる。
そうなると矢も楯も堪らなくなる。
でもこのスープが一番美味しいのは、開店してから1時間ほど。
仕込み終わったスープがなじみ、かつ煮しまらない一番いい状態。
スープがもっとも澄んだ時間帯が開店から1,2時間のこの辺りを狙ってくのがベスト。

越谷市場で「朝市コンサート」をやってた頃は、コンサート開始直前にラーメン餃子を食べていた。
いわば戦闘準備を美松のラーメン餃子でととのえて、出陣していた。

久しぶりのラーメン餃子。
あの日のままだった。
最後の一滴まで飲み干した。
旨かった!


















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2023.11.12

天寿全う 我が家のモグ猫

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11月11日(土)16:25
12年間一緒に暮らした猫のモグが旅立った。
10月半ばあたりから急激に弱ってきていた。
医者の診断では腎臓病とのことだった。
ネコの場合特別な病気やケガ以外であれば多くの場合が腎臓を患って亡くなっていくとのことだった。
モグの場合はかなり悪くなっており、人間でいえば人工透析を要するくらいであったらしい。
もともと大食というわけではなかったが、食が極端に細くなっていた。
10月の末には水もあまり摂らなくなっていた。
医師から処方してもらった腎臓の薬と栄養補給のためのシロップをスポイトで口から流し込む日が続いた。
(それすらも受け付けなかったり、口から出してしまったりということも多かった)
11月1日、自力で動くことも難しくなってきた。
部屋の隅に置いた椅子の上が定位置となり、そこから動こうとはしなくなった。
「終末ケア」に移行した。
椅子の上で丸くなったまま1週間過ごしてきた。
その椅子から転がり落ちてしまった。
ここまでと覚悟をした。
静かな部屋にタオルを敷き、そこが新たなねぐらにした。
ひがな丸くなりうずくまったまま呼吸をくりかえすだけとなる。
.
.
11月9日(木)
いつ逝ってしまうかわからない状況になり臨戦態勢をひいた。
啼きもせず、身動きもせず、静かな呼吸だけをくりかえす。
「モグ」という呼びかけに対して尻尾を振ることだけが生存の証のように思えた。
.
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11月11日(土)
前日の夜から呼びかけに対しても反応が鈍くなってくる。
それまでは尻尾の付け根から大きく振っていた。今は尻尾の先がかすかに動くのみ。
目に宿していた光も少しずつ弱くなっている。
開いていた瞼もとじかけ、伏し目がちになる。
時折ひきつけを起こしたようにピクリと身体をふるわせる。
でもそれは己の意思で動かしたというよりも、生命反応により動いたものなんだろう。
生死の狭間をさまよいながら、消えかける生命の炎をかろうじて灯している。
僕は右足の肉球に指を挟み時折もんでやる。
残されたわずかな力で握り返してくる。
まるで握手を返すかのように。
胸が突かれる思い。
「握手」という親の代から70年続く我が家の儀式。
握手で始まり、握手で終わる信頼の挨拶。
モグもまたそれを最後に示してくれたのか。
.
突然、吠える。
身体の底から絞り出すような野生の雄たけびのように思える。
そして宙に向かって四つ足をまわし始める。
それはまるで草原を走る野生の猫のように力強く感じられる。
最後の力を振り絞り、死にあらがったのか。
あるいは野生に戻ろうとする本能のようなものなのか。
もしかしたら「モグ」から「猫」に戻るための儀式なのか。
やがてぐったりと身を丸める。
静かな呼吸だけを続ける。
静かに呼吸だけを続ける時間がどこまでもどこまでも続く。
.
陽が落ちるころ、2度大きな呼吸をする。
かすかな鳴き声とともに呼吸をすーっと止める。
16時25分だった。
.
.
もう少し長く生きられるとずっと思っていた。
モグ不在の暮らしがどんなものになるのか想像もつかない。
おそらく本当の喪失感はこれからやってくるのだろう。
思えば我が家にはウサギに始まり、何代かの猫たちがいつもいた。
物言わぬ「小動物」たちだが彼らのいる暮らしにはなにか潤いがあった。
自分の年齢を考えると、この先もう猫や犬と一緒に暮らすわけにはいかない。
なんともやるせない気分だ。

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2023.07.07

たなばた様

 ♪ たけにたんざくたなばたまつり
  おおいはいやよ
  ローソクいっぽんちょうだいな ♪
  (くれなきゃかっちゃぐぞ!)
.
今年もやってきたたなばた様。
毎年毎年あきもせず書いてきたが、函館で幼少時代を過ごした子供たちには決して忘れられない行事のひとつだ。
特に昭和40年代くらいまでの函館の子供たちには特別な行事だった。
夕暮時から真っ暗になる時間帯を手に手に提灯や手作りカンテラを持って子供たちだけで家々をまわるという行為のわくわく感はハンパではなかった。
一面闇におおわれた中に浮かび上がるローソクのぼんやりとした灯りは妖しげでさえあった。
(ぼくの育った青柳町は函館山の麓だったので「灯りさざめく松風町」などとは違って、夜の暗さは際立っていた)
闇の中をカンテラの灯りをたよりに歩くことで、なんだかちょっとだけ大人になったような気にすらなった。
.
なんで子供たちがローソクをもらい歩くのか。
長年の疑問で毎年自分なりに考察をしてきた。
ご先祖様の盆帰りで暗い夜道をローソクで照らすためか、といったあんばいだ。
.
函館イベント状況局のおもしろい記述を見つけた。
それによると箱館(当時はこう記された)では江戸時代後期からねぶた祭のようなものをやっていたそうだ。
竹で組み、彩色を施した和紙を貼り付けた大きな灯籠(山車)で練り歩くというような行事だったらしい。
灯籠の灯りは大量の蝋燭が使われていた。
その蝋燭をもらい集めるのが子供の仕事だったということだ。
やがて(昭和初期)にその祭りは行われなくなったが、ローソクもらいの行事だけは風習として残った。
.
目からうろこのような記述だったのでリンクを貼る。
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今の「ローソクもらい」はローソクの代わりにお菓子をもらい歩いてるそうだ。子供の安全ということもあるので、比較的明るい時間帯に保護者同伴というケースが多いようだ。
「妖しげなたなばた様」で育った世代にとってはちょっと淋しい感じがする。
それでも江戸時代の末期からつづくこの風物詩が、姿形を変えながらも末永く続いていってほしいものだ。
そう願わずにはいられない。
.
.
[函館の七夕「ローソクもらい」と「大いに祝おう」の謎]
.
.
[最近のローソクもらいの風景と歌]

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