日記・コラム・つぶやき

2019.05.05

中島みゆき「夜会工場vol.2」を観て

 

http://stib.jp/saitamae/data/index.php?id=10342686

 

 

みゆき姐さんの「夜会工場vol.2」を浦和の映画館で観てきた。
のっけのインスト「二隻の舟」から、泣かさってしょうがなかった。

僕が「夜会」から受けた影響ははかりしれない。
ストーリー仕立ての「コンサート」のビデオを見たときの衝撃はすさまじかった。
コンサートと芝居を組み合わせるという発想は驚きだった。

そのころ僕は「ぶどうの木ライブ」での「下積み」を卒業し2時間枠を任せてもらえるようになっていた。
2時間という枠をどのように作るか。
とてつもなく難題であり、あれこれ試しては納得がいかず惑っていた。

「夜会」との出会いに大きな活路を見出した思いだった。
歌とトークとちょっとの芝居。中学、高校で演劇部にも所属していたことが芝居に対する敷居を低くしたこともあった。

「夜会」のビデオは発売するたびに購入した。
念願かなって実際のステージを観ることもできた。
それらは当時の僕のバイブルだった。

「ぶどうの木ライブ」は年数回。他に演奏の場は多くはなかったので準備に時間を充分かけることもできた。
稚拙ながらも自分の「物語ライブ」を試した。

およそ10年間の「ぶどうの木」での演奏期間で「物語ライブ」ができた回数はそう多くはない。
ストーリーを組み上げる難しさ。選曲の難しさ。歌とトークと芝居のバランスを取りながら形にまで仕上げることは至難の業だった。
形にすることができず断念したことも多い。

けれど、テーマに沿ってステージを組んでいくという発想はこの時身に沁みついた。
以来たとえ数曲のステージであったとしても僕は必ずテーマを決めて臨むことが常となった。(起承転結、序破急ライブと称していた)

「夜会」すでにおよそ20年もの間続けられている。
スクリーンで歌うみゆき姐さんはさすがにお年を召していた。でもそのほのかな年輪によりいっそう愛しさを感じる。

この人の歌、この人のステージに触れることで僕は自分のステージスタイルを作ることができた。
あらためてそう思いながら映画館を後にした。

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2019.04.20

「想苑」

「想苑」

函館公園のそば、函館八幡宮に続く裏参道沿いにひっそりたたずむ喫茶店。

先代が店を開いて60年になるジャズの聴ける老舗だ。

父は自宅を改装して喫茶店にするのが夢だった。
僕が中学生の頃、そんな父に「想苑」と、さらに先にあった「山小屋」という喫茶店に何度も連れてこられた。
共に音楽をコンセプトにした喫茶店。
父もクラシック音楽の流れる落ち着いた大人の店を持ちたかったようだ。

夢はかなえられることなく父はこの世を去り、生家も数年前に人手に渡った。

僕は函館に帰る都度、時間があればこの店を訪れ、小一時間ほどジャズに身をゆだねている。

自宅では決して出すことのできない大きな音。大音量であっても耳にさわらず、体に響いてくる。
その音は生々しくまるで目の前で演奏をしているようだ。

正体はJBLの古いスピーカーと店の作りにあるようだ。

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スピーカーユニットは大きなフルレンジ小細工なしの一発出し。ツィーターやスコーカー、ウーハーなどに分割していないのがいい。耳に障る音は音を帯域毎に分割した結果、バランスが悪くなってしまうことが原因のように思う。

特にツィーターの高音域は耳に障る。ウーハーの過剰にブーストされた低音は不自然に感じる。

フルレンジスピーカーから出る音は大きなエンクロージャー(箱)の中のホーンを通り自然に増幅されてラッパのように開いた口から絞り出される。
まるで蓄音機のラッパの前で聴くSPレコードのような生々しさだ。

店内は木の床。スピーカーの先には陶製の大きな壺が置かれている。
多分この壺が音を適度に拡散しているように思う。

今回はパット・メセニーのギターソロアルバム、キャノンボール・アダレイとマイルス・デービスらによるアルバム「Something Else」、チック・コリアのピアノソロを聴いた。
心地いいったらありゃしない。

現在「想苑」は娘さん夫婦が切り盛りしている。
娘さんは小学校、中学校の8つ上の先輩。(いとこの同級生)
ご主人は函館東高校の先輩。

60年の「想苑」の歴史をずっと更新してほしいものだ。
函館に帰る度にまた寄らせてもらえるようにね。
数少ない子供の頃の思い出につながるお店だから。

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リブサンドポークとロッテリアの想い出。

リブサンドポークとロッテリアの想い出。

今月でリブサンドポークが発売中止になるらしいと聞き、久しぶりにロッテリアへ。
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ロッテリアには想い出が2つある。

創業間もない1974年。
貧乏学生だった僕はロッテリアの市場調査のアルバイトをしていた。新大久保に拠点を置いていたロッテリアは店舗拡大のため東京のあちこちで市場調査をしていた。先行するマクドナルドに追い付き追い越せの大号令だった。責任者は藤田さんという方で、マクドナルドの藤田田さんと同姓ということで気合いが入りまくっていた。

ある日江古田の日大芸術学部のそばで調査をしていたら不意に声をかけられた。
  
「古池でねぇか。おまえ、こったらとこで何してるのさ‼️

室蘭東高校の同級生Kだった。

彼は日大への通学途中だった。
あまりの偶然に驚いた僕たちはその夜Kの住むアパート「石井荘」でベロベロになった。
これがきっかけで僕はいつの間にか「石井荘」の住人となった。
やがて弟もここの住人になり、他の入居者も含めて共同体のようになった。それはまるで漫画家たちの虎の穴「トキワ荘」のようなものだった。
「我が青春の石井荘」についてはいつかまた書いてみたいと思う。
我々にとって石井荘抜きに青春を語ることのできない大切な想い出だ。

ロッテリアのもうひとつの想い出はちょっと甘酸っぱい。

東京の一角で偶然に函館東高校の同級生ヨウコちゃんと再会した。ヨウコちゃんとは僕が室蘭東高校に転校するまでの半年のおつきあいしかない。(同級生の一人としてね)

でもお互い印象が強かったようだ。よく覚えていてくれた。意気投合しヨウコちゃんをロッテリアのアルバイトに誘った。新大久保店のフロアガールだ。目鼻立ちのしっかりしたヨウコちゃんは他のアルバイトの娘たちと比べても際立っていた。
市場調査から帰った僕はヨウコちゃんのシフトが終わるのを待ち一緒にハンバーガーを食べてからそれぞれのねぐらに戻った。
なんとなく恋の予感がしていた。

ある日ヨウコちゃんはハンバーガーを食べながらポツッと呟いた。

「私、ロッテリアやめる。私には無理」

当時のロッテリアのユニフォームは薄いピンクのシャツとホットパンツだった。人前で脚をさらけるのがどうしてもイヤだと言う。
考えてみるとヨウコちゃんはいいところのお嬢さん。パッチリした目鼻立ちとはうらはらに、恥じらい深い人だった

僕は内心ひき止めたかった。でもそれができず「うん、そうか。わかった」。

以来ヨウコちゃんとは会っていない。
今頃どこの空の下で暮らしてるんだろうな。

めったに入らぬロッテリアだが、たまに来るとふとそう思う。

ロッテリアにまつわる若き日の想い出ふたつ。
リブサンドポークを食べながら想いを馳せていた

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2019.03.21

帰天する母を送る

母が92歳の人生の幕を下ろす。
大正15年9月23日に生を受け、大正・昭和・平成と3つの時代を生きてきた。
.
天寿を全うし、天に帰る。
.
先週の日曜日、陣中見舞いに行った僕がかけた最後の言葉。
「がんばんなさいよ」
子供のころ登校する度に母に毎朝かけられた言葉だった。
当時は重く感じていた言葉だった。
その同じ言葉を思わず母にかけていた。
.
その後1週間、母はついに醒めることがなかった。息を引き取るのは時間の問題と思われた。
知らせを聞いた弟と妹が1週間後駆けつける。
弟たちの呼びかけに意識のない母がかすかに反応する。
その数時間後、母は静かに息を引き取る。
まるで子供たち全員との別れの時を待っていたかのように。
待つことが母の最後の「がんばり」だったのかもしれない。
.
「大往生」という感じではなかった。
むしろ静かに静かにろうそくの灯がすっと消えるような最期。
.
92年という人生が長かったのか短かったのか。
それを問うことははあまり意味がない。
むろん平均寿命を超えたということでは長い人生だった。
けれども68歳で逝った父の人生もまた充分に長い人生だった。
.
「大切に生きれば充分に長い人生の旅路」
.
父が亡くなってからの二十余年。
母の日々はひとり旅だった。
それは「目的のある旅ではなく、旅するための人生の旅路」だったように思う。
身体が不自由なため自力では多くのことができない母だった。
限られたことを日々を淡々と大切に生きてきたように思う。
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それを支えてくれたのは特養の職員の皆様の献身的なサポートであり、友人たちだったように思う。
彼女が日々の暮らしに様々な不自由と不安、不満を抱えながらも大切に生きられたのはこういう方々との関わりがあってこそだろう。
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そして何よりも大きかったのは「信仰心」だったと思う。
昭和23年、24歳でカトリックの洗礼を受けた彼女は最後まで強い信仰心を持ち続けていた。
信仰心こそが生きる原動力だったのではないだろうか。
彼女の信仰心は長い年月を経て体や心にしみこみ、揺るぎのないものに固められていた。
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人の人生に問われるもの。
それはいかに生き、いかに死んでいくかだろうと思う。
生き方が死に方につながっていく。
そのすべてが「生き様」となっていくのだろう。
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母の生き方は信仰のうちに生き、信仰のうちに死んでいったように思う。
「天寿を全うし帰天する」
神様にいただいた命を大切に生ききり、やがて天に帰っていく。
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自分にはとてもまねのできぬ生き方だ。
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世の中に対して特別の影響を与えたわけでも、何事かを成し遂げたわけでもない。
決して特別な人ではなかった。
市井の一人の女が信仰のうちに日々を過ごし、天に帰っていった。
これほど強い生き方があるだろうか。
.
オレにはできねぇ。とてもマネできねぇ。
.
母を失った喪失感。
むろんないわけではない。
もしかしたらそれはこれから感じることなのかもしれない。
むしろ今は不思議な安堵感のほうが強い。
.
「安堵感」
それは己が人生を生き切り、帰天という帰結に行き着くことができた。
それを見届けることができたことに安堵しているのかもしれない。
それは己が人生の昇華ともいえるのだろう。
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「お疲れ様」「ご苦労様」「あっぱれ」
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静かな気持ちでそういってあげたいと思う。

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2019.03.11

函館日記 2019年3月

雪はすっかり溶け、風だけが吹き抜ける中洲の町・函館。

特別養護老人ホーム・旭ヶ丘の家に母の陣中見舞い。
うつらうつら状態の母。
声をかけても帰ってくる反応は乏しい。昨年末の帰省時よりいっそう表情が乏しくなっている様子。僕の顔を観てもただうなずくのみだ。しばらくは手を握っているのだがやがてその手はポタッとベッドに落ちる。そして再び眠りの世界に。
醒めているときよりも眠りの時間がいっそう増えているとのこと。当然栄養や水分の補給は追いつかない。おそらく自分の体に蓄えてきた脂肪分を少しずつ燃やしながら命を繋いでいるのだろう。心なしか昨年末よりも母はしぼんでいるように思える。

話しかけて無理に返事や反応を待つことはやめにした。かわりにベッドのそばに椅子をおき、ギターを弾くことにした。
眠っているように見えてもどこかで醒めている部分もあるようだ。かすかだが首を動かしている。

いつものように「組曲・北の国から」を弾きはじめる。
次は母の慣れ親しんだグレゴリアン聖歌やミサ曲。そしてカトリック聖歌集から知っているものを繋げながら弾き続ける。
やがて童謡や唱歌へと変わっていく。僕がまだ幼かった頃母に歌ってくれとせがんだ歌だ。
母の反応が変わってくる。それまではあまりリアクションがなかったのに、細い指を歌にあわせて動かす。(実際は遅れがちであってはいないのだが、明らかに歌に合わせようとしている)

胸が突かれる思いがする。
60年以上も前に僕がせがみ母に歌わせた歌の数々を今逆の立場で僕が母に弾いて聞かせている。
当時僕は1~2才。まだ言葉を知らなかった。今母は92才。言葉を認識しても応えることができない。
メロディだけのやり取りであり、言葉のない会話だ。
懐かしい歌の数々はしみこんでいるせいか、母の目にはうっすらと光るものが。
それを見て僕もまた涙腺が緩んでくる。

途切れることのない3時間のギター演奏。濃密な時間だった。

帰りしな母に語りかけた。

  「がんばんなさいよ」

子供の頃、登校するとき握手をしながら母は毎朝そう語りかけた。
当時の僕はこの言葉がはむずがゆかった。そう言われる度に軽い反感を感じていた。

今母は残された最後の体力と気力でおのが命を繋いでいる。
しぶとく、しぶとく命を繋いでいる。
そんな母に僕がかけられる言葉があるとしたら「がんばんなさいよ」。

母は軽く首を振った。そんな気がしている。

おそらく僕にできる最後の親孝行は(いや罪滅ぼしだ)、子供の頃母にしてもらったこと、母にかけてもらった言葉をお返しすることだけかもしれない。
そしてそれは僕にとっての「祈り」なんだろうと思う。

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2018.06.05

1969年

【「1969年」 その1】

このところ自分の音楽の原点について思うともなく思っている。
原点をどうとらえるかってこともあるんだけどね。

子供の頃歌謡曲で育ったことが土台になっているとすればそれが原点ともいえる。
父が好きで頻繁に触れるチャンスのあったクラッシックやグレゴリアンも下地になっているともいえるし。
母にせがんで歌ってもらった童謡・唱歌の類だってそれ抜きには考えられない。

でも自らが求めて聴き、なおかつ演ずるようになった音楽をひとまず原点にするべきかな。

そう考えると「1969年」とそれに連なる数年間が僕の中でとてつもなく大きな意味を持ってくる。

この年僕は中学3年生だった。

世の中はきわめて流動的であり、混沌としていた。
高度経済成長の絶頂期で大人たちは「モーレツ」に働いていた。
人類が初めて月面に降り立ち、科学技術の進歩に大人も子供も胸を熱くした。

一方で日米安保条約の撤廃を求める学生運動がピークを迎えた。
その象徴が東大安田講堂に立てこもった学生たちと機動隊の「闘い」だった。
が…安保条約は自動延長となり安田講堂は「落城」した。
ジグザグデモを制圧する機動隊、壁に向かってホールドアップさせられている学生たちの手を映し出すニュース映像が今でも焼き付いている。

時を同じくして新宿西口広場で毎週開かれたフォークゲリラによる反戦フォーク集会。
広場を埋め尽くす若者たちの歌う様子が白黒のテレビに映し出される。
それは北国の小さな町にもつたわってきた。
やがて「広場」は「通路」と改称され、道路交通法違反とされ規制される。
警官に腕をつかまれながらもギターを弾き歌い続ける学生たち。
やがて警察隊に制圧され、収束していくフォーク集会。

熱と挫折に彩られた「1969年」。

田舎の中学生はわずかなニュース映像を便りに妄想をかきたてた。
「社会」について真剣に考え、行動を起こす大学生たちにあこがれた。
カッコいいと思った。
そして同時に「憐憫」を感じた。

「動」なるものと「静」なるものの同居する「1969年」

そんな頃函館の労音会館に高石友也や岡林信康らがやってきた。
フォークソング・フーテナニーってヤツを初めて体験した。
「思い出の赤いヤッケ」に胸を熱くし、身につまされながらも笑い転げた「受験生ブルース」(高校受験をひかえていた)、そして「勝利を我らに」や「友よ」の大合唱に胸が震えた。
フォークは生きている!

そう感じた。

そして自分もまたギターを弾き、歌い始めた。

憧れと妄想が原動力だった。

「1969年」

フォークソングとの出合いの年だった。

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2018.05.18

「本のエンドロール」

共同印刷時代親しくしていた営業部長O氏に紹介された「本のエンドロール」(講談社・刊)。
深い感動を持って読み終えた。

自分の37年の印刷マンとしての歩みがそこにあった。
生粋の印刷職人の師匠に『技能者』として育てられ、やがて「技術者」に育っていく
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過程。
そこには職人に育てられたにも関わらず職人には成りきれなかった葛藤がある。時代が勘と経験と度胸の職人を必要としなくなっていた。誰もが間違いなく平均的で安定した印刷ができることを求められた。そのために作業標準が定められ、QC活動が重視された。
その必要性を認め、推進役を担いつつも、職人であるM師匠に対する憧れをくすぶらせていた。

技術担当の修行中、TK社製本に弟子入りをするチャンスに恵まれ、製本のなんたるかをS工場長に仕込まれた。

やがてTK社製本のS工場長もM師匠も去っていく。
僕は残された先輩諸氏と共に仕事を回すほどには力をつけていた。

やがて人事異動で前行程の製版(プリプレス)と直接関わりを持つ設計業務に携わることになった。印刷と製本しか知らぬ男が別の世界を知るようになる。同時に営業担当とのやりとりが増え、その延長でいくつかの得意先やデザイナーとも関わりを持つようになる。
印刷という一工程にとどまらず『本を作る』という視点を植えつけられた時期だった。
印刷マンとしては絶頂の頃だったかもしれない。

やがて状況は少しずつ変わり始める。
出版物が本という媒体から電子書籍に舵を切りはじめたのだ。
それは我々印刷技術者にとってターニングポイントになりかねない流れだった。自分にとっては三十余年に過ぎないが、我々に流れる100年の歴史が途切れることを意味していた。

『本のエンドロール』には一人の若手営業マンを軸に印刷の各工程で歯をくいしばってがんばる人たちが描かれている。
同時に印刷の歩んできた歴史を感じさせてくれる。歴史の変遷のなかで変わっていく印刷人の心の動きが描かれている。

帯に書かれたキャッチが僕の心をえぐる。

『奥付けに載らない裏方たちの物語』

『斜陽産業と言われようとも、この世に本があるかぎり、彼らは走り続ける。印刷機は動き続ける。』

印刷業界を離れて久しい僕にこの本を教えてくれたO氏に心から感謝します。胸が熱くなりました。
ちなみにO氏は営業で僕は現場。
それぞれの立場から切磋琢磨した者同士。
価値観を共有する『同志』と勝手に思っています。

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2018.05.14

叔母の記憶

根室に向かっている。
叔母が亡くなった。
96歳の大往生。

写真の二人から生まれた最初の娘。
僕の母の1歳年長の大正12年生まれ。

「根室のおばちゃん」の記憶は数えるほどしかない。
僕が生まれた時すでに根室に嫁いでいた。
北海道の西の端・函館と東の端・根室は遠い。
叔母が里帰りをした時数回会ったくらいだ。

それでも叔母のエピソードは母から数多く聞かされていた。
きかない娘で男の子をぞろぞろ引き連れて遊んでいたらしい。
「ゴロベスやるもの、この指止ーまれ」と大声を張り上げていたとか。
(ゴロベスとは球を転がす野球だそうだ)
母はいつもその後ろに隠れるように付いてまわったらしい。

つきあいの薄い叔母だったが、達筆の年賀状を毎年送ってくれていた。その達筆はほとんど判読不能の行書体だった。郵便屋さんも苦労したことだろう。

叔母からの年賀状が途絶えて10年ほどになろうか。すでに体がいけなかったらしい。

先に亡くなった夫の後を引き継いで漁師の網元を張っていたとのことだ。荒くれ漁師たちを束ねるのはなかなかゆるくない(大変)ことだろう。しかしゴロベス娘にとっては天職だったかもしれない。
数少ない叔母の記憶だが、ドスのきいた張りのある声はよく覚えている。

2018年5月13日。
大正、昭和、平成。
三つの時代を生きた市井の豪傑。
5人の娘たちに見守られ、母の日の深夜この世を旅立った。
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2018.04.12

マイ自転車 レッドアロー号 マイナーチェンジ

今シーズン、レッドアロー号で初走り。
昨シーズンはあまり走らなかった。
要因は2つある。

ここ数年苦しんでいる頚椎症。首から肩、背中、そして腰まで背面がガチガチに張っていて痛い。
ロードレーサーのライディングポジションだと苦しくなってくる。

もうひとつは動体視力の低下。
下から見上げるライディングポジションでは動きに目がついていかない。

ついでに言えばレッドアロー号を組んだ35歳の時に比べ身長が1センチ縮んでいる。
筋力も相当衰えている。

早い話が老化が原因。

少々マイナーチェンジした。
ステムをやや短いものに交換して上下逆につけた。これでステムアップ。
ハンドル位置が近くなり、少しだけ上体が起きた。
これだけでずいぶん楽になる。
これ以上やるとペダリングに影響が出る。
長時間走ればお尻も痛くなる。
多分ギリギリの絶妙なポジションだと思う。

実は当初ドロップハンドルをTバーに交換するつもりだった。
ところがハンドルを交換すればブレーキも変速機もすべて交換になる。新車が買える金額になる。

でもレッドアロー号のフレームだけはなんとかして残したかった。
なにしろ30年、日本各地を一緒に旅してきたヤツだ。廃車にするには忍びない。材質のクロモリブテン鋼は「オレはまだまだ充分現役だ」と云っている。
だいいち心血注いで組み上げ、整備をしてくれてたミラノ館の故・木村オーナーに申し訳がたたない。

そこで自転車屋さんのお兄ちゃんに相談にのってもらった。あれこれ絵図を描いてもらい今回のマイナーチェンジになった。しかもかなりの低価格で❗
お兄ちゃんに感謝だ。

長距離を踏むためにはもう少し慣らしが必要。自転車じゃなく自分の身体の慣らしだ。
100キロ走れるまでになった頃に今回のマイナーチェンジの真価が表れるような気がする。

若い頃のようにスピードや距離を追いかける乗り方はもうしない。(したくてもできない)
今の年齢、今の体力をできるだけ維持し、それにみあった乗り方ができればいい。
1年でも長くね。

かくして赤き矢のロードレーサー・レッドアロー号はレッド亜老号に変わっていくのでありました。
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2018.03.11

あの日のこと 3

震災のおよそ2週間後、僕は共同印刷を退職し「天下御免の人生浪人」の暮らしに入った。
天下御免とは言いながら内心は穏やかではなかった。
50代半ばを過ぎてからの再就職は容易ではない。
いくつかの印刷会社からお誘いはあったが、丁重にお断りをさせていただいた。
せっかく印刷の仕事を辞したのだから何か新しいことに挑戦したいと思っていた。
50代半ばはそれができる最後のチャンスとも思っていた。
.
けれどもそれは容易ではないことだったし、震災後、求職の需給関係も悪化していた。
震災で家族や家だけではなく職までも失った方々がたくさんいた。
それは地震の直接の打撃を受けることの少なかった東京や埼玉の求職事情にも影響していた。
.
失業給付の切れる1年後まではじっくりと構えることにした。
どんな職業であれ自分が意義を見出し納得できるものをぎりぎりまで探すことにした。
腹をくくった形だ。
.
そんな時友人から被災地へ慰問活動参加の打診を受けた。
.
迷った。
「震災直後の被災地に出向き歌うことなんかできない」
率直な気持ちだった。
.
震災直後からSNS(ミクシー)などで多くの書き込みがなされていた。
「今すぐにでも被災地に向かい音楽を通し被災者を励まし、力を与えよう。それはミュージシャンの務めだ」という考えと
「これだけ大打撃を受け、生きることに汲々としている被災者に音楽が与えられるものはない」という考えが真っ向から対立していた。
そこから派生する様々な意見が飛び交っていた。
みんな迷い悩んでいた。
音楽に携わるものとして何ができ、なにができないか。
また何をなすべきか、なにをなすべきではないか。
.
人生浪人を始めたばかりの僕には時間はあった。
でも軽い気持ちでは決められなかった。
人様に「与えるべき何か」など自分にはないというのが正直な気持ちだった。
一方で「慰問キャラバン」参加の返答期限は迫っていた。
.
被災地に出向き、そこで自分が歌えるかどうかはわからない。
でもこの目で現実の一端を凝視すべきだ。
そう思い参加を決めた。
キャラバン隊は2人のマッサージ師、3人の歌うたいの5人。
ハイエースに機材とキャンプ道具を積み込んで宮城県に向かった。
.
現地の惨状をみた。
避難所ではたくさんの方と話をした。
それでも「ステージ」に立つ瞬間まで迷いは続いた。
「ステージ」に立ち段ボールで仕切られた体育館を見渡した瞬間スイッチが入った。
.
「歌おう。言葉はいらない。ただ歌おう。自我を捨て、この体育館の空気になろう。」
.
そんな気持ちだった。
.
宮城県の数か所の避難所を回る数日間の旅で感じたことは多かったし、大きかった。
困難に耐え、後ろに引きずられながらも前を向こうとする被災された方々に自分の今の状況(人生浪人と先の見えない再就職活動)を重ね合わせた。
自分もまた復興途上と思った。
その後の音楽やライブ活動に対する自分の立ち位置も少し整理された。
大切なキーワードは「己を捨てて空気になる」ということだった。
.
その後、いくつもの復興支援チャリティコンサートへの出演を依頼された。
被災地での活動について述べるように頼まれた。
でも多くを語ることにためらいがあった。
チャリティコンサート主催者は「何をなすべきか」について語ってほしかったようだ。
でもそれを決めるのは個々人で、僕にはそれを先導、扇動などできはしない。
だからこの目で見たことを淡々と話すだけにとどめてきた。
.
あの日から7年目の今日、親しい友人からのお誘いでチャリティコンサートに出演する。
震災当初とは違い、「風化」が進んでいるように感じる。
これまでとはちょっと違った切り口で臨もうと思っている。
言葉はいらない。ただ歌うのみ。
参加する方々の胸にほんの少しでも引っかかることを願うばかりだ。

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