日記・コラム・つぶやき

2023.11.12

天寿全う 我が家のモグ猫

2023_20231112093701
11月11日(土)16:25
12年間一緒に暮らした猫のモグが旅立った。
10月半ばあたりから急激に弱ってきていた。
医者の診断では腎臓病とのことだった。
ネコの場合特別な病気やケガ以外であれば多くの場合が腎臓を患って亡くなっていくとのことだった。
モグの場合はかなり悪くなっており、人間でいえば人工透析を要するくらいであったらしい。
もともと大食というわけではなかったが、食が極端に細くなっていた。
10月の末には水もあまり摂らなくなっていた。
医師から処方してもらった腎臓の薬と栄養補給のためのシロップをスポイトで口から流し込む日が続いた。
(それすらも受け付けなかったり、口から出してしまったりということも多かった)
11月1日、自力で動くことも難しくなってきた。
部屋の隅に置いた椅子の上が定位置となり、そこから動こうとはしなくなった。
「終末ケア」に移行した。
椅子の上で丸くなったまま1週間過ごしてきた。
その椅子から転がり落ちてしまった。
ここまでと覚悟をした。
静かな部屋にタオルを敷き、そこが新たなねぐらにした。
ひがな丸くなりうずくまったまま呼吸をくりかえすだけとなる。
.
.
11月9日(木)
いつ逝ってしまうかわからない状況になり臨戦態勢をひいた。
啼きもせず、身動きもせず、静かな呼吸だけをくりかえす。
「モグ」という呼びかけに対して尻尾を振ることだけが生存の証のように思えた。
.
.
11月11日(土)
前日の夜から呼びかけに対しても反応が鈍くなってくる。
それまでは尻尾の付け根から大きく振っていた。今は尻尾の先がかすかに動くのみ。
目に宿していた光も少しずつ弱くなっている。
開いていた瞼もとじかけ、伏し目がちになる。
時折ひきつけを起こしたようにピクリと身体をふるわせる。
でもそれは己の意思で動かしたというよりも、生命反応により動いたものなんだろう。
生死の狭間をさまよいながら、消えかける生命の炎をかろうじて灯している。
僕は右足の肉球に指を挟み時折もんでやる。
残されたわずかな力で握り返してくる。
まるで握手を返すかのように。
胸が突かれる思い。
「握手」という親の代から70年続く我が家の儀式。
握手で始まり、握手で終わる信頼の挨拶。
モグもまたそれを最後に示してくれたのか。
.
突然、吠える。
身体の底から絞り出すような野生の雄たけびのように思える。
そして宙に向かって四つ足をまわし始める。
それはまるで草原を走る野生の猫のように力強く感じられる。
最後の力を振り絞り、死にあらがったのか。
あるいは野生に戻ろうとする本能のようなものなのか。
もしかしたら「モグ」から「猫」に戻るための儀式なのか。
やがてぐったりと身を丸める。
静かな呼吸だけを続ける。
静かに呼吸だけを続ける時間がどこまでもどこまでも続く。
.
陽が落ちるころ、2度大きな呼吸をする。
かすかな鳴き声とともに呼吸をすーっと止める。
16時25分だった。
.
.
もう少し長く生きられるとずっと思っていた。
モグ不在の暮らしがどんなものになるのか想像もつかない。
おそらく本当の喪失感はこれからやってくるのだろう。
思えば我が家にはウサギに始まり、何代かの猫たちがいつもいた。
物言わぬ「小動物」たちだが彼らのいる暮らしにはなにか潤いがあった。
自分の年齢を考えると、この先もう猫や犬と一緒に暮らすわけにはいかない。
なんともやるせない気分だ。

| | | コメント (0)

2023.07.07

たなばた様

 ♪ たけにたんざくたなばたまつり
  おおいはいやよ
  ローソクいっぽんちょうだいな ♪
  (くれなきゃかっちゃぐぞ!)
.
今年もやってきたたなばた様。
毎年毎年あきもせず書いてきたが、函館で幼少時代を過ごした子供たちには決して忘れられない行事のひとつだ。
特に昭和40年代くらいまでの函館の子供たちには特別な行事だった。
夕暮時から真っ暗になる時間帯を手に手に提灯や手作りカンテラを持って子供たちだけで家々をまわるという行為のわくわく感はハンパではなかった。
一面闇におおわれた中に浮かび上がるローソクのぼんやりとした灯りは妖しげでさえあった。
(ぼくの育った青柳町は函館山の麓だったので「灯りさざめく松風町」などとは違って、夜の暗さは際立っていた)
闇の中をカンテラの灯りをたよりに歩くことで、なんだかちょっとだけ大人になったような気にすらなった。
.
なんで子供たちがローソクをもらい歩くのか。
長年の疑問で毎年自分なりに考察をしてきた。
ご先祖様の盆帰りで暗い夜道をローソクで照らすためか、といったあんばいだ。
.
函館イベント状況局のおもしろい記述を見つけた。
それによると箱館(当時はこう記された)では江戸時代後期からねぶた祭のようなものをやっていたそうだ。
竹で組み、彩色を施した和紙を貼り付けた大きな灯籠(山車)で練り歩くというような行事だったらしい。
灯籠の灯りは大量の蝋燭が使われていた。
その蝋燭をもらい集めるのが子供の仕事だったということだ。
やがて(昭和初期)にその祭りは行われなくなったが、ローソクもらいの行事だけは風習として残った。
.
目からうろこのような記述だったのでリンクを貼る。
.
今の「ローソクもらい」はローソクの代わりにお菓子をもらい歩いてるそうだ。子供の安全ということもあるので、比較的明るい時間帯に保護者同伴というケースが多いようだ。
「妖しげなたなばた様」で育った世代にとってはちょっと淋しい感じがする。
それでも江戸時代の末期からつづくこの風物詩が、姿形を変えながらも末永く続いていってほしいものだ。
そう願わずにはいられない。
.
.
[函館の七夕「ローソクもらい」と「大いに祝おう」の謎]
.
.
[最近のローソクもらいの風景と歌]

| | | コメント (0)

2023.02.21

松本零士 逝く

2023_02_20
50年前、それまで暮らしていた三畳一間の下宿を脱出し、「大四畳半」での暮らしが始まった。
.
「無芸大食人畜無害」ではあったが、いつも腹を空かせていた。
納豆かキャベツが主食で、腹いっぱいラーメンライスを食べることが夢だった。
それでも「大四畳半」には自由があった。
酒瓶を片手に絶えず友が出入りしていた。
米に困っても酒に困ることのない日々だった。
.
そんな「我が青春の石井荘」時代に愛読した漫画があった。
.
『男おいどん』だ。
.
自分の暮らしぶりにあまりにもにかよった主人公、大山昇太に親近感を覚えた。
どうもこうもならないような日々を送りながら、大山昇太は前向きだった。
自堕落に陥ってもおかしくない暮らしをギリギリのところで踏み止まる。
辛い心情をトリさんにだけ語る。「トリよ、おいどんは負けんのど!」
.
大山昇太は若き日の自分だった。
.
.
数年後、僕は大学を退学し印刷会社に就職した。
就職といえば聞こえはいいが、新聞広告を見て応募し運よく拾われたのが実際のところだ。
新聞広告に書かれていたであろう一文をつい見落とした。
.
「夜勤あり」
.
経済的にある程度安定したのは夜勤手当のおかげだろう。
でもそれと引き換えに「自由」を失った。
そう感じていた。
.
その頃愛読したのが『キャプテン・ハーロック』だった。
自分の信じるもののためにのみ命をかける、そうである限り心は自由だというハーロックに憧れた。
.
.
『銀河鉄道999』の主人公、星野鉄郎に大山昇太とキャプテン・ハーロックのにおいを感じていた。
大山昇太的な鉄郎が物事に体ごとぶつかり、跳ね返されながらハーロックのような「漢」に育っていく姿。
共感を覚えた。
自分自身もそうありたいと願った。
それは今も変わることがない。(もっともキャプテン・ハーロックには未だなれずにいるが)
.
やがて長男が生まれた。
「哲郎」と名付けた。
.
自分の願いを押しつけた格好だ。
今のところ長男から名前のことでクレームはついていない。
命名した時の願いまでは押し付けることはできない。
それでも頭でっかちにならず自分の体で感じたままに生きているようではある。
.
.
大山昇太、キャプテン・ハーロック、星野鉄郎の生みの親。
そしてクイーン・エメラルダス、大山トチローの生みの親。
松本零士さんが亡くなられたそうだ。
いつかその日が来ることは人の世の理ではある。
それでも残念でならない。
.
多感だった若き日に生き方の羅針盤のひとつになってくれた松本零士さん。
心から哀悼の意を表します。
ありがとうございます。

| | | コメント (0)

2023.02.10

【絵本の歌シリーズ】 「そつえんセブン」

2023_02_10-2
世界文化社の絵本部門から作曲と演奏・録音を依頼されていた「絵本の歌シリーズ」もいよいよ最後の1冊。
本日発売となります。
その名も「そつえんセブン」。
.
保育所や幼稚園を卒園する児童たちの一抹の淋しさと、新世界=小学校生活への漠とした不安。
それでも自分たちを育んでくれた人達へちょっとした手作りプレゼントを。
.
これまで関わらせていただいた絵本の数々は幼児向けでしたが、「そつえんセブン」は春には小学生になる子供たち向け。
ストーリーも明確で、言葉数も多い絵本でした。
.
作詞は絵本作家のもとしたいずみ先生。
絵本の中で歌われている歌にメロディをつけました。
.
メロディをつけるにあたってこんなことをイメージしていました。
.
1.孫たちの保育所卒園シーン。(特に孫娘は来年保育所を卒園予定)
2.そして息子たちが保育所を卒園した時の想い出。
3.自分自身が函館の白百合幼稚園を卒園したときのイメージ。
.
じいちゃんの立場から、若き父親の立場から、そして幼き頃の自分自身の立場から。
三世代、60余年の時の流れの中を徘徊しながら浮かんできたメロディは少々ノスタルジックなものになりました。
.
.
過去15年で関わらせていただいた本は5冊になります。
・「おせちのおしょうがつ」(作詞:ねぎしれいこ先生)
・「おつきみどろぼう」(作詞:ねぎしれいこ先生)
・「おうちピクニック」(作詞:きむらゆういち先生)
・「おひなさまのいえ」(作詞:ねぎしれいこ先生)
・「そつえんセブン」(作詞:もとしたいずみ先生)
.
長きにわたりいい勉強をさせていただいた世界文化社様には心から感謝。
(そして質の高い印刷を担ってくれている共同印刷の後輩たちにも感謝)
2023_02_10-3

| | | コメント (0)

2023.01.30

【おひなさまのいえ】

2023_01_08-3
新装版「おひなさまのいえ」(世界文化社刊)という絵本が本日発売される。
初出は2012年3月で重版を重ね、装いも新たに発行されることとなった。
.
新装版第1刷りにあたり挿入歌を作って演奏してほしいという依頼が世界文化社からあった。
昨年秋のことだ。
.
依頼の主は編集者のN女史。
15年ほど前に世界文化社絵本の歌シリーズ・三部作を手がけた時の編集担当の方だ。
当時僕は印刷設計~印刷立ち会いを担当し、同時に絵本の歌を作った。
できあがった絵本と歌を携えて「絵本コンサート」を幾度も開催した。
書店や幼稚園、時には葛飾柴又の団子屋さんの前での路上コンサートなどもやった。
出版社と印刷会社がタッグを組んでの「絵本コンサート」は業界としては希有な出来事だった。
.
あれから15年たった。
突然のN女史からの連絡は涙が出そうになるくらいうれしく、懐かしかった。
印刷業界を離れて早十余年になるというのに、忘れずにいてくれてお声をかけていただけた。
これは元印刷マンとしても、歌い手としてもうれしいことだ。
喜んでお手伝いさせていただくことにした。
.
手始めに依頼があったのは、15年前発行の「おせちのおしょうがつ」という絵本の歌をリメイクすることだった。
この本も重版を重ね子供たちに読まれ続けてきた絵本だ。
そしてかつての「絵本コンサート」のきっかけになった記念碑的な歌だ。
.
本日発売の「おひなさまのいえ」は僕が印刷を離れた後にできた本なので、僕自身は印刷に関わっていない。
作家は「おせちのおしょうがつ」と同じねぎしれいこ先生。
絵も「おせち~」同様吉田朋子先生。
15年前のコンビ復活だ。
.
歌詞はねぎしれいこ先生があらかじめ書いて下さっていた。
絵本のストーリーに沿った内容の歌詞だった。
人形屋さんで売れ残ったおひなさまたちが、飾ってくれる家を探しに旅に出る物語。
最終的には小さな空き家を見つけ、きれいにしてそこを安住の地とするという内容だ。
.
メロディをつけるにあたり、絵本を何度も読み返しイメージと妄想を膨らませていった。
深読みを進めると子供向けに書かれたものであるとともに、現代社会へのアンチテーゼをも感じさせられた。
たとえば売れ残った人形は落ちこぼれ人間で、その人間が自身のアイデンティティを確かめるために旅に出るという物語として読めないこともない。
それは大人社会だけではなく子供社会にも広がっているのが現代だ。
「おひなさまのいえ」がグッと近寄ってきてくれた。
2023_01_08-5
.
ねぎし先生のシンプルな歌詞に子供たちが口ずさめるようなシンプルなメロディのくりかえしで応えることにした。
1番から4番までシンプルな形を重ねる。
最後の4小節にちょっとした仕掛けを。
旅だったひな人形たちへの共感とシンパシーを込めたメロディを付け加えた。
.
.
来月予定している「おーるどたいむ de ライブ 冬の陣」の1部、近況報告コーナーでお披露目しようと思っている。
もし、機会があれば足を運んでいただければさいわいです。
そして書店で世界文化社刊「おひなさまのいえ」をお買い求めいただければなおさいわいです。

| | | コメント (0)

2023.01.29

シャケの飯寿司(いずし)

2023_01_06-2


今年も津軽海峡を渡って故郷の味「シャケの飯寿司」がやってきた。
.
中学校時代の同級生S君手作りの飯寿司だ。
一昨年はシャケが不漁で高かったことと、S君のオヤジさんが病気だったこともあり飯寿司は作らなかった。
.
昨年秋に親父さんが他界されたこともあり今年は作ってくれた。
.
S君の親父さんは飯寿司作りの名人で、S君はその一番弟子。
親父さんが亡くなられたことで彼が名人に昇格。
親父さんが亡くなられた10月から11月は気温がグッと下がり、飯寿司作りには最適の頃だ。
おそらく今年の飯寿司はS君の万感の思いが込められた逸品だと思う。
.
そんなことを思いながら飯寿司を味わっている。
.
.
子供の頃、我が家で作る飯寿司はシャケではなくニシンだったりホッケだったりした。
シャケは高くて手が出なかったんだろう。
.
大きな樽に大根やキャベツ、にんじんといった野菜と魚を何層にも積み重ねていった。
固く炊いた米や麹も同時に挟んでいく。
最後に蓋をかぶせ、その上に漬物石を乗せる。
.
庭に立てられた小さな掘っ立て小屋(物置)の中で漬物作りは進められる。
そのままひと月くらい寝かして発酵を待ち、正月頃から食べ始める。
物置の中には飯寿司のほかにたくあんなどの樽が3~4個あったように記憶している。
.
小学生の頃、漬物をつける母の手伝いをさせられた。
寒いし、手はしゃっこいし、できれば避けたい手伝いだった。
でも今思えばいい経験だった。
.
内地に出てきてから一度だけ飯寿司に挑戦したことがある。
みごとに失敗した。
飯寿司作りには気温が高すぎたんだろう。
すっかりアメてしまった(「あめる」は腐る、傷むの北海道弁)
.
以前帰道した折りにお土産屋さんで飯寿司を買ってきたのだが、これが旨くない。
.
S君の送ってくれる飯寿司は昔ながらの懐かしい味、懐かしい香り。
親父さんの後を継いだみごとな名人技だ。

.
今年もごっつぉーさん!

| | | コメント (0)

2023.01.21

赤色エレジー

フォークの歌声音楽会の唄本を作り始めています。
毎日1~2時間で10曲が目標。
すでに3日目になるというのにいまだ8曲。
パソコンに向かって歌詞を書き込むたびに「筆」が止まってしまいます。
歌詞を吟味し、その歌の世界にどっぷり浸かってしまう。
いつもの妄想癖が止まりません。
音源を聴いてまた涙して・・・
.
今朝は「赤色エレジー」で筆がピタッと止まってしまいました。
.
高校2年生の頃でした。
テレビのブラウン管の中で苦しげに歌うあがた森魚さん。
「ガロ」という漫画雑誌に連載していた林静一の「赤色エレジー」。
墨1色の白黒漫画なのに、なぜがどぎつい赤の極彩色をイメージしていました。
.
高校生の一知半解のイメージでしたが、なにか胸に迫るものがありました。
当時の世相は70年安保闘争が敗北し、挫折していく若者たちがいる一方で、個人の私生活に拘泥していく「三無主義(無気力・無関心・無責任)」「しらけ世代」と呼ばれる若者もまた増えていました。
そんな落ち着かない世相の中で「ある愛の詩」や「小さな恋の物語」などの映画がヒットする一方で「同棲時代」(上村一夫)などの社会の底辺でうごめく若者を描いた作品もまたありました。
「赤色エレジー」もまたそんな作品のひとつかと思います。
.
あがたさんの独特の感性はそういう混沌とした世相の中で醸成されたものなのかもしれません。
.
当時はキワモノ的なざらっとした肌触りの歌として受け止めていました。
.
.
若いとは言えぬ年になりあらためて「赤色エレジー」の歌詞を吟味し、あがたさんの歌を聴き直し感じるもの。
それは当時には模糊としていた世界が身に迫ってくるものでした。
.
.
後になってあがた森魚さんが函館・潮見中学の6級先輩だったことを知りました。
思春期に同じ学び舎で過ごした生徒生活の中であがたさんが影響を受けたものはあったんだろうか。
以来ずっとそう思っていました。
.
函館のこだるま食堂でライブをしたことがあります。
その数日後にあがた森魚さんもまたこだるま食堂でライブをやっています。
ドアにはあがたさんのライブポスターとぼくのライブポスターが並べて貼ってありました。
ニアミスです。
あがたさんのライブ当日、ぼくは内地に向かう飛行機の中にいました。
.
.
昨年、あがたさんが企画している王子・飛鳥山での音楽ピクニックに参加しました。
初めてあがたさんと話しをする機会を得ることができました。
その時は僕の時間の都合で突っ込んだ話しをすることはできませんでした。
いつか「赤色エレジー」のこと、当時の世相のこと、そこから今のあがたさんにどうつながってきたのか。
じっくりうかがってみたいものです。
.
こんな寄り道ばっかりしてるから、唄本作成作業は滞るばかりです。
ふう・・・😅

 

赤色エレジー https://youtu.be/dKBFWMQHR58

| | | コメント (0)

2023.01.19

【眠らさる】

このところやたら「眠らさる」。
「眠らさる」というのは北海道弁。
意図せずとも自然と眠っているというような状態のことをいう。
(「食べらさる」とは食べようと意識せずとも自然と食べてしまうという意味)
「眠れる」という標準語とは微妙にニュアンスが違う。
.
この冬場に入ってからとにかくやたら「眠らさる」。
床につくのは以前から晩方11:00ごろだが、朝めざめるのは今は7時から8時。
8時間~9時間は眠っている。
もっとも夜中に1~2度小用のため目覚めるし、頻繁に夢を見ているようだ。
眠りとしては深いとはいえないのかもしれない。
.
秋口までは朝5時前頃には目覚めていた。睡眠時間にして5~6時間。
そしてそれは物心ついてからずっとそうだった。
.
毎日8時間以上も眠らさるのは生まれて初めての経験かもしれない。
夜明け前後の写真を撮るのが好きなのだが、この冬はさっぱりだ。
夕方から日没くらいの写真しか撮れない。
なかなかいいシチュエーションにめぐりあえずにいる。
(添付した写真は一昨日。雨上がりに一瞬だが太陽が顔を出した日没の景色)
.
睡眠時間が長くなるということは行動時間が短くなるということだ。
.
子供の頃からの性癖で行動時間にやたら用事を詰め込んでしまう。
あれもやりたい、これもやりたいと欲が深いたちなんだろう。
.
でも最近は「あれをやったら、今日はこれができない。あきらめよう」という風に変わってきている。
最初はなんとなく惜しい感じがしていたが、その分その日にやることに時間をかけることができるようになった。
ひとつのことに集中して、時間をかけるというのもいいものだ。
そのことに対して深く想いを馳せることができる。
.
.
最近の1日の過ごし方はこんなあんばいだ。
.
ゆっくり起きて、ゆっくり朝食を取る。
午前中のうちにその日やりたいことに手をつける。
それは集中して音楽会の準備をすることだったり、書き物をしたりだったりする。
(早起きだった頃は午前中に2つや3つのことに手をつけることができた)
.
昼食を軽くとった後に家を飛び出す。
カメラを携えての散歩だったり、自転車でポタリングだったりする。
3時間ほどの散歩やポタリングは肉体的にも精神的にも欠かせない日課だ。
.
帰宅するともう夕方。
晩飯までギターや歌に興じる。
.
夜の時間帯はぼんやり時間を過ごす。
撮りためた映画を1本観終えるといい時間になる。
風呂に入り、ぼんやりしたあと床につき読みさしの小説に目を通す。
.
そして再び「眠らさる」。
.
.
「眠らさる」ことに功罪があるとすればこんな感じだろうか。
.
行動時間が減ったことでやれることが少なくなった。
起床時間が遅くなることで一日のゴールデンアワーを過ごせなくなっている。
これは「罪」の方。
.
反面「功」の部分も生まれている。
時間の関係でできないことをあきらめる勇気(?)を持てるようになった。
その日できることに集中できるようになった。
これはこれで悪くはないかなという気もしている。
人生の中でより多くの体験をすることに価値を求めるのもあり。
反面体験の数ではなく、ひとつの体験や物事に集中し深く感じることもまたひとつの価値だろう。
「量より質に価値を認める」ということだ。
あるいはこれまでやってきた量が飽和に達し、質に転換したといえなくもない。(ヘーゲルの弁証法じゃないけどね)
.
.
今しばらくは「眠らさる」ことに身を委ねようと思う。
2023_01_16-2

| | | コメント (0)

2023.01.01

「古池の雑煮」の軌跡

我が家の元旦の雑煮は毎年決まっている。
昆布と鰹節でとった一番出汁に少々の塩と香り付け程度の少量の醤油で味付けした汁。
餅のほかには小松菜を散らしただけの簡素な雑煮だ。
祖父母の代から今にいたるまで長年食べ続けてきた、いわば「古池の雑煮」だ。
100年近く食べ継がれてきた雑煮にはそれなりにいわれがあるし、少しずつ変遷もしている。
この正月は「古池の雑煮」についてちょっと書いてみたい。
.
.
祖父母は明治37年に愛知県知多半島から北海道・函館に移り住んだ。祖父19歳、祖母18歳の時だ。祖母のおなかの中には赤ん坊がいた。
祖父は呉服関係の小商いで身を起こし、後に冠婚葬祭に関わるご祝儀用品専門店・レンカ堂という小さな商店を構えた。
(現在も従兄弟が3代目として細々と商いを続けている)
.
苦労して身を起こした祖父は「質素倹約」を旨としていた。
最初の「古池の雑煮」はそんな祖父の意向を反映したものだったと思われる。
醤油汁に小松菜と一緒に餅を煮込んだだけの文字通り簡素な雑煮だったという。
これは愛知県知多半島の雑煮は小松菜を使うことが多かったことからきていると思われる。
.
大家族だったことに加え、住み込みの丁稚さんたちも多数いた。
また正月は冠婚葬祭の最たるものだ。師走から正月にかけて忙しくしていた家だ。
(僕の父は11月30日に生まれたが、祝い事はまとめてやってしまえと言うことで役所には1月2日生まれとして届けられたぐらいだ)
おせち料理などゆっくり味わえる正月ではなかったようだ。
おそらく大正時代の初めからこれが「古池の雑煮」だった。
.
.
昭和28年、父と母が結婚した。
.
母は初めて本家レンカ堂で食べたこの雑煮に辟易したようだ。
母が子供時代から食べてきた雑煮はしっかりと出汁をとり、柏肉、なると、三つ葉を浮かべた上品なすまし汁だった。
(母の実家の名を取って「伊藤の雑煮」とよんでいた)
.
.
  小松菜雑煮を初めて食べた時はグェーッとなったさ
  大鍋の底に餅がぐでぐでに伸びてこびりついてるし
  醤油汁は煮しまってるし、小松菜はくったくた
  食べられたもんでなかった
.
.
という母の証言が今も耳の底に残っている。
.
とはいえ嫁の立場では長年続いてきた雑煮を大幅に変えるわけにも行かない。
一計を案じた母は小松菜雑煮の形はそのままにしつつ、昆布と鰹節で出汁をとった。
加えて餅を焼くことで表面を固め、ドロドロにならぬようにした。
味付けも醤油汁ではなく、少量の塩と風味付けに醤油をたらしたものにした。
これが我が家の雑煮のスタンダードになった。
一見質素な雑煮だが、それなりに手間暇をかけることで上品な味付けになった。
母にしてみると大正時代から続く「古池の雑煮」の形は変えずに味付けを大幅に変えることができ、内心ほくそ笑んでいたのではなかろうか。
はたして父の口から出てきた言葉は以下の通り。
.
.
  簡素だけど、一番餅の味がわかる
  それが小松菜雑煮だ
.
.
それから30年の時を経て、独立した子供たちはそれぞれの家庭でそれぞれの小松菜雑煮を継承している(と、思われる)
僕は子供の頃の母の作る雑煮をそっくり真似つつも自分の感覚で小松菜雑煮を作っている。
毎年出汁の取り方や餅の焼き方を少しずつ変えて試している。
.
今年はこれまでより少し薄くのした餅を厚手のフライパンでじっくり焼いてみた。
このやり方だと餅が焦げすぎない。
今まではガスの直火で焼いてきたため、餅の表面が焦げすぎて真っ黒になっていた。
昔は石炭ストーブの上で餅を焼いていたため、そのなごりともいえる。
真っ黒になった餅をお湯に通すのは雑煮造りの欠かせぬ一工程で、僕もそれに倣ってきた。
.
今回フライパンで焼いた結果、湯通しをする必要が無くなった。
出汁汁がにごることもない。適度に焦げた風味も残る。
.
こうして少しずつマイナーチェンジをくりかえしながら、大正時代から続いてきた「古池の雑煮」を綿々と食べ続けている。
(ちなみに我が家の正月の雑煮は3種類。カミサンの実家の味、豚肉とゴボウの醤油味。「山形雑煮」。そして母から教えられた「伊藤の雑煮」)
.
.
毎年1月2日の晩、我が家には子供たちがそれぞれの家族とともにやってきて新年宴会を催す。
僕はその歴史を語りつつ、「古池の雑煮」を食べさせている。
いつの日かこの雑煮を子供たちが僕のために作ってくれる日が来るのを想像しながら。
.
昭和の初め頃と思われる。本家レンカ堂の店先。
椅子に座っているのが若き日の祖父。
2023_01_01-10
2023_01_01-4

| | | コメント (0)

2022.12.29

【年の瀬の慣わし】

年の瀬になるとスイッチが入る。
親の代から我が家で食べられてきたおせち料理の復元だ。
.
北海道の実家を離れ内地に移り住むようになってから10年ほどはおせち料理など思いも寄らなかった。
子供が生まれて以降、自分が子供時代に食べてきたおせち料理を伝えたいという想いが少しずつ強くなっていった。
手始めにしっかり出汁をとり、小松菜を浮かべただけの簡素な「古池の雑煮」から始めた。
年々手作りおせちの数が増えていき、ここ10年でほぼ復元できるまでになった。
.
およそ60年前、世の中は戦後の混乱期を脱し高度経済成長に向けて右肩上がりの活況を呈していた。
ご成婚(昭和34年)を皮切りに東京オリンピック(昭和39年)~大阪万博(昭和45年)とエポックメイキングな出来事が多々あった。
そして白黒テレビや洗濯機、さらに冷蔵庫といった「三種の神器」と呼ばれる家電が一般家庭にも少しずつだが入っていった。
とはいえ、庶民の暮らしは今とは比べものにならぬほど質素だった。
.
その一例がおせち料理だ。
今のようにコンビニやスーパーのみならず一流料理店のおせちがお金を払いさえすれば簡単に手に入るような時代ではなかった。
どこの家庭も身の丈に合ったおせち料理を手作りするのが普通だった。
我が家の年の瀬から正月にかけての料理はほぼ母親の手作りだった。
子供たちはそのお手伝いをさせられた。
.
我が家の場合おせち作りは「出汁とり」から始まった。
昆布と鰹節で取る出汁は雑煮や煮物では欠かすことのできないものだった。一番出汁は雑煮に。二番出汁は煮物に。
僕の仕事は鰹節を削ることだった。
.
出汁をとった後の大鍋で引き続き作るのはゆで豚だった。
大量のネギや生姜とともに豚肉の塊をコトコトと煮込んだだけのシンプルなものだったが、滅多に肉など食べられない子供たちには人気の一品だった。
子供の仕事は石炭ストーブにかけた鍋をかき回し続けることだった。
煮汁が少しずつ濃くなっていくたびに「味見」と称してつまみ食いをするのが何よりの楽しみだった。
.
次に作るのは黒豆の煮物だった。
一晩ふやかした黒豆を大量の砂糖などでコトコト煮込んでいく。
ここでも火の番が子供の仕事だ。
少し固い黒豆は子供には不人気だったが、味見は楽しみだった。
なにしろ砂糖が貴重だった時代、甘ったるい煮汁は美味しかった。
.
子供たちに火の番をさせている間、母親はなますや田作りを作っていた。
どうやって作っていたのかは記憶が定かではない。
甘酸っぱいなますは好きではなかったが、田作りは大好物だった。
我が家では大きめの煮干しを使っていたように思う。
骨が弱いと言われた弟のカルシウムを補うため、煮干しは欠かせないものだった。
味噌汁の出汁とりはもちろんのことだが、出汁殻も食べさせられた。
その甲斐あってか弟も僕もそして妹も頑丈な身体に育った。
(生まれながらのくる病だった飼い犬・ポン太の餌にも煮干しの出汁殻は入っていたっけ)
.
.
昨日ドン・キホーテに食材を買い出しに行った。
物価高のご時世、少しでも安いにこしたことはない。
ましてこちとらしがない年金暮らし。
質より量を狙っての買い出しだ。
.
年明け2日の晩方、我が家には家族が集まり恒例の新年宴会をやる。
総勢10名の胃袋を満たしてやる必要がある。
明日から2日がかりで一気におせち作りに取りかかろうと思っている。
.
来年もまたおせちのいわれや、我が家の古くからの慣わし、そして当時の世相を語りながら食べる。
子供たちも、お嫁ちゃんたちも、まして孫たちもどこまで聞いているのかはわからない。
たぶん「また始まった」と聞き流されるのが落ちだろう。
それでも家族の歴史の一端を語り続けるのがジジイの役割だと思い、来年も語るつもり。
.
それが年の瀬から正月にかけての我が家の慣わしだ。

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

OHANA 音楽サロン 我が青春の歌物語 「唄の駅」 『街角ライヴ』 あすなろ山の会 おすすめ記事 おーるどタイム おーるどタイム de ライブ さんすまいるコンサート すみれコンサート へたくそ親父のギター弾き語り ウェブログ・ココログ関連 オカリナ・アンサンブル かざぐるま グルメ・クッキング サッカー スポーツ デスペラード・ライブ トミ藤山 ニュース ハックルベリー・カントリー・ライブ ババ猫ミーちゃんの糖尿生活 パソコン・インターネット モスライブ ライブ ライブ at JUNE ライブ・イン・ぶうけ ライブ・コンサート暦 三貴ライブ 僕を通り過ぎた歌たち 函館 函館帰省日記 2005秋 函館帰省日記 2006春 函館帰省日記 2007春 函館帰省日記 2008冬 函館帰省日記 2010 冬 函館日記 函館日記2014 夏 函館日記 2011秋 函館日記 2012初冬 函館日記 2012夏 函館日記 2014夏 函館日記 2014年冬 函館日記 2015 夏 北海道 北海道 音楽旅日記 2009 印刷 室蘭 寿コンサート 小さな旅 心に引っかかる言葉 文化・芸術 旅行・地域 日記・コラム・つぶやき 旭丘の家コンサート 映画・テレビ 書籍・雑誌 朝市コンサート 札幌日記 2005秋 札幌日記 2008 秋 森の音楽祭 楽龍時 民家ライブハウス・楽龍時 清津峡 無国籍堂ライブ 絵本コンサート 自転車 見沼たんぼ 音楽 音楽雑感 骨折り日記