日記・コラム・つぶやき

2020.10.18

古池=コイケの由来は愛知県にあった!

子供のころから気になっていました。
なんで古池をコイケと読むんだろうか、と。
初めてお会いする方からはフルイケさんとかコチさん、フルチさんとよばれることもけっこうありました。


  古い池ですよ。
  蛙飛び込む水の音
  ぽっちゃーんの
  コイケです

そう訂正することもしばしば。
そのたびに怪訝そうな顔で「小池でないんだ」と言われます。
たしかに「コイケ」というとほとんどは「小池」さんですもんね。
(オバQもラーメンの小池さんだった)
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ご先祖さまは愛知県だとは聞かされていました。
父が亡くなる数年前に、両親のお供をして愛知県知多半島を訪ねたこともあります。そこで初めて内地の従兄弟とつながることができました。
でもそれは祖母の方のつながり。
祖父の出身、すなわち古池の由来はわからずじまいでした。
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生前、母は過去帳を作っていました。
読んでいてわかったのは、祖父は愛知県江南市古知野町で生まれたことでした。
三男だった祖父は家督をつぐ立場ではなかった。
そのためか明治37年に分家し、北海道に移り住んでいます。
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古知野町に絞り込んで調べた結果、由来がやっとわかりました。

コチノ(古知野)は戦国時代、すでにそうよばれていたようです。別表記では「古池野」や「古地野」。
どうやら古知野の「古」を使って小池さんが古池に改姓したようです。(むむ、ややっこしい(°°;)

古知野に古くから住む小池さんが、新しくやって来た「大池」さんに対して改姓したとの伝があるとか。

  新入りのくせに大池なんざぁ生意気だ。
  こちとら古くから住む古池だぁっ!

てなあんばいで改姓したんでしょうかね。

愛知県の他に兵庫や岐阜にも古くから「古池」姓はあるようです。
でも祖父の生まれを考えると、僕の名字は愛知県江南市古知野に発するようです。

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明日の「おーるどたいむ de ライブ」では『離郷・望郷』にまつわる歌を取りそろえました。

津軽海峡を渡って19の春、北海道から内地にやって来た自分。
内地に暮らしながら故郷を思う自分。
そんな視点が中心になっています。

祖父母は逆に同じ19歳で愛知県を捨てて離郷し、北海道に骨を埋めました。
愛知県からの離郷の心境はどうだったのか、函館の地で愛知県を思うことはあったのか。
そんなことがとても気になり出しました。

明日のライブに直接反映することもないでしょうが、この先同じようなテーマでライブをやるときに新たな視点になるかもしれないなぁなどと思っています。
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1954-2

(写真は70歳の頃の祖父と母に抱っこされている自分)

 

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2020.09.24

【「日日是好日」 よみがえる記憶】

 

黒木華と樹木希林主演の映画。
静かな、深い感動をおぼえる。
https://www.nichinichimovie.jp/


お茶の世界に足を踏み入れた黒木華演ずる二十歳の娘「典子」が24年の歳月をかけて少しずつお茶の精神世界に気づいていく物語。
日々の些事を五感を持って全身でその刹那を感じ取っていく。
頭でとらえるのではなく、心で感じていく。
ドラマチックではないが、静かに心にしみこんでくる。

典子がお茶の精神に気づき始めたころ、突然父親が亡くなる。
深い悲しみを感じながらお茶の師匠、武田先生(樹木希林)の家を訪ねる。
縁側で散りゆく桜を眺める喪服の典子と武田先生。
すっと武田先生の手が伸び、典子の足をさする。
典子の心が武田先生に寄りそう。

僕の脳裏に古い記憶が電撃のようによみがえった。

幼稚園のばら組。今でいう年長組。
クリスマス会で僕はお芝居の主役をするように言われていた。
すっかりその気になっていたと思う。(ここは記憶が定かではない)
突如、主役をTちゃんに変更すると園長先生に言われた。
幼な心にもその意味はすぐに分かった。
Tちゃんはいいとこのお坊ちゃんだった。

傷ついた。
悔しいのか、悲しいのか、腹がたったのか。
幼い僕には説明ができない思いがこみ上げ、傷ついた。

気がつくと僕はホールのピアノ裏側に身を隠していた。
何時間もじっと体を丸めていた。

幼稚園では大騒ぎの捜索活動が始まっていた。
園内をくまなく探したと思われるが、見つけられることはなかった。ピアノの裏の狭い隙間は盲点だったのだろう。
僕には何度か失踪(?)の前科があったらしい。
蝶々を追いかけて遠くまで行ってしまうというようなことがたびたびあったらしい。
園外にも捜索の手は伸びたらしい。

  意地でも出ていくもんか

そんな気持ちで息をひそめ、身をかたくし、丸くなっていた。

が、やはり見つけられた。

誰もいない教室で、僕は担任の平山先生と向かい合っていた。
平山先生はなにも言わず、じっと僕を見つめている。
静かな時間が教室の中を流れていく。
この静かさは永遠に続くのではないかと思われるほどだった。

平山先生の手が僕の膝にすっと置かれた。
何度も何度もさすりながら僕を見つめる先生。
そして不意に涙ひとしずく、先生の頬を、流れていく。

いじけたような、意固地になったような僕の心が、
すーっと溶けていく。

平山先生の掌の感触、涙、そして流れる静かな時間だけが心にしみこんだ。

《後日譚①》
劇の主役はやはりTちゃんのままだった。
僕は器楽演奏で指揮を任されることになった。
写真はその時のもの。
残念ながらその時の記憶はまったく残っていない。
平山先生が園長先生に直訴したのだろうか、それも知らない。

1954

《後日譚②》
失踪事件の顛末は当然幼稚園から両親に連絡が行ったものと思われる。(僕から親に話すワケがない)
父からはなにも言われなかった。
母も失踪した僕を責めることはなかった。ただ悔しそうに怒っていたのはなんとなくおぼえている。
僕が「世の不条理」に初めて直面した出来事だったように思う。

忘れていたことを突然思い出す。
思い出したことの意味にあれこれ思いを馳せる。
そんなことが最近多くなってきた。
年を重ねたせいであろうか、もともとそういう性分なのか。

最後に「日日是好日」の中で語られた言葉を記す。

  世の中には
  「すぐわかるもの」と、
  「すぐにはわからにもの」の二種類がある。
  すぐにわからないものは、
  長い時間をかけて、
  少しずつ気づいて、
  わかってくる。
  子供のころはまるでわからなかった
  フェリーニの『道』に、
  今の私がとめどなく
  涙を流すことのように。

 

 

《おまけ》

フェリーニの『道』という映画。
僕も子供のころ観たときはまったくわからなかった。
大人になってもう一度観て、少しわかった。
今年になリあらためて見直した。観ながら、知らずに涙が流れていた。
「ああ、こういうことだったのか」なぜかジェルソミーナが遠藤周作の描く森田ミツ(わたしが・棄てた・女)等、様々な登場人物に重なっていった。
考えてみるとジェルソミーナもミツもそこにイエス・キリストの生き方が投影されているためだろう。
「道」、もっと年をとったときに、もう一度観たい映画だ。

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2020.09.17

松下幸之助の言葉

どんなに悔いても
過去は変わらない。
どれほど心配したところで
未来もどうなるものでもない。
いま、現在に
最善を尽くすことである。
      松下幸之助

 

2013年の今ごろ、松下幸之助の文章を読みこんな文章を書いていた。

***************************

  あたりまえのことなんだけど、
  そのあたりまえの言葉が妙に染みいる昨今。
  時間に追われ、為さねばならぬことに追われ、
  やりたいことがやらねばならぬことに変わる。
  つまりは心も体も余裕を失う時、今が見えなくなる。
  今どころか過去も未来も見えなくなる。
  そんな時一歩踏みとどまり、
  今為しうる最善を尽くすことが
  オレにはできるだろうか。

  「いつやるか?今でしょう!」

  そんなことはよくわかってるんだ。
  わかっちゃいるけど、やりきれない。
  そんな夜は寝るに限るのかも。
  眠りに落ちていったんリセット、再起動。

  ありかもね。

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転職して1年経ったころだった。
新しい仕事を覚えるのに腐心していた。
新しい仕事は長年やって来たモノ作り(印刷)とは180度違ういわばサービス業(損保)。
扱うお金の単位も桁違いだった。
印刷は銭単位。損保では平気で何十万、場合によっては数百、数千万。
にもかかわらず1円の間違いも許されない(あたりまえだが)。

新しい仕事のかたわら、音楽活動を継続することにも必死だった。

気持ちに余裕の全くない日々を過ごし、少々心が壊れかけていたかもしれない。

そんな時松下幸之助の言葉が沁みた。

  いま、現在に
  最善を尽くすことである

わかっちゃいるが、簡単なことではない。
そう思いながらも自分を追い込んでいった。

  今、今、今しかない

人生浪人の身になリ1年以上が経った。
そしてあらためて思う。
自分を縛るものがない今だからこそ、この言葉は大切だと。

 

【松下幸之助のこと】

松下幸之助には少なからず影響を受けた。
印刷技術担当としてPHPと関わらせてもらった。
PHPの品質管理の手法は厳しかった。

松下幸之助のモノ作りの考え方を基礎とした手法は、
それまであたりまえとされてきた印刷の品質管理とは相容れない部分も多々あった。


「それは無理でしょう。現実的ではない」

強い抵抗を感じつつも、PHP品質管理手法の底辺に流れる松下幸之助の考え方に共感するところがあった。
ひらたく言えば「本を手にするお客さまの満足を満たすため」の品質管理と品質保証だった。

その後の印刷に対する考え方が変わるきっかけとなった。
同時にライブに対する考え方にも大きな影響を与えられた。
松下幸之助は僕にとってはそんな人だ。

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2020.08.27

母と戦争 その2 薙刀

【母と戦争 その2 薙刀】

1昨年、母は特養・旭が丘の家で「看取りの季節」を迎えていた。
眠りと覚醒の狭間をただよっていた。やがて眠りの時間が日々の大半を占めるようになっていた。周囲からは親しみを込め「眠り姫」とよばれていた。


夏の暑い日だったと思う。
陣中見舞いに帰函していた僕はいつものように眠る母のそばでギターを弾いていた。

ふと気がつくと母の両腕が微妙に前後に動いている。
何度も何度もそれをくり返す。
目は半眼。醒めているのいないのか。

  ん?
  どうしたのさ?

そう問うと母はぼそりと答える。

  なぎなた...なぎなたさ...
  わたしは...なぎなたの方が...得意だ...

瞬間なんのことか分からなかった。

  竹刀は...にがて...
  なぎなたは...身体がおぼえてる...

「軍事教練」のことか!
分かるまでしばし時間を要する。

函館高女(函館高等女学校=現函館西高校)時代に受けた学校教練でなぎなたをやっていたのだろう。
たしかに大正15年生まれの母は女学生時代はまさに戦時下だった。

どうやら母は眠りの中で女学生にタイムスリップしていたようだ。

やせ衰え、骨と皮だけでカサカサの腕がかすかに前後に動く。
胸が突かれ、絶句する。

気を取り直し、詳しい話を聞き出そうと話しかける。
が、母は再び眠りに落ちていた。

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写真は3枚は写真展「女学生たちの青春」より。
馬に乗る母は軍事教練ではないが同じ時代のものと思われる。

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2020.08.26

母と戦争 その1

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NHKのアサイチを観ていた。
今日の特集は「あちこちのすずさん」。
映画「この世界のかたすみに」の主人公すずさんは映画の世界だけではなく、どこにでもいた。「あちこちのすずさん」のそれぞれの戦時中の日常を取材する特集だった。
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若かったころの母が僕に話してくれた戦争のエピソードを急に思い出した。
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母は大正15年(昭和元年)生まれ。娘盛りの頃のお話だ。
戦前、母には初恋の人がいて、その人との結婚話もあったようだ。
しかしその人は戦後ソ連軍に拘束されシベリアに抑留されていた。
やがて数年間の抑留から解放され無事引き上げることができた。おそらく昭和23年~25年頃の話だろう。(函館港にはあわせて30万人以上の人が引揚てきたそうだ)
函館驛まで迎えに出た母が目にしたもの。それは帰還兵たちが驛で一斉にコサックダンスを踊り出すシーンだった。そしてスターリンとソ連を礼賛する言葉だったそうだ。

若き母には、己が目を疑うショッキングなシーンだったそうだ。

  いややや、唖然としたさ
  「百年の恋」もいっぺんで醒めた

その後彼は柏木町の母の家を訪ねてきたそうだが、
母は会おうともしなかったとか。
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数年後、母は元町のカトリック教会で父と知り合う。昭和28年に結婚し、翌年僕は生まれた。
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母が語ってくれた数少ない戦争の話だが、妙に生々しく思い出された。

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2020.08.23

気持ちいいー! 早朝ポタリング

【気持ちいいー!】

久しぶり。曇り空の早朝。
自転車にまたがりゆったりポタリング。
短パン+ランニングの超軽装。
今年の夏は陽ざしがあまりにも強い。ランニングシャツでは長時間外にはとてもいられなかった。でも今日くらいならこのいでたちがいい。


風がむき出しの肩をなでるように抜けていく。
「そよ風の愛撫」だ。

ライブの朝、ゆったりと散歩したり自転車に乗ったりするのが長年の習慣。
ゆっくりと身体を動かし続けながら、ライブに向けて気持ちを少しずつ作っていく。
思いもよらない発想が沸いたり、古い古い記憶が突然フラッシュバックしたりする。
それらがそのままライブに反映されるわけではない。
でも心に揺さぶりをかけることがなんらかの形で活きてくる。
ライブは朝目覚めたときからすでに始まっている。

今朝はBGMを聴きながら走る。
昨夜横浜館内のサラスヴァで行われた富安秀行(ハゲ)さんの配信ライブだ。
ハゲさんのステージは好きだ。
等身大のおっさんの心意気がふわりと伝わってくる。
この「ふわり感」がとても気持ちいい。

昨夜春日部で若い衆(といっても40代半ばだが)の火を噴くような演奏を聴いた。その熱量には圧倒された。でも残念ながらそのテンションの高さに1時間ついていけず、終盤息切れした。

  オレもこの年頃の時は
  こんな熱量でやっていたんだろうな

そう思いつつも60代半ばになった自分のやり方に思いを馳せた。(ハゲさんの言葉を借りれば六十路=「夢想人」=ムソジンだ)
同年代・ハゲさんの配信ライブを聴きながら、自分の立ち位置にゆっくりと引き返すことができた。

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2020.08.22

【雑感】お祭り

コロナの影響で今年は日本全国お祭りが中止となっている。
越谷も「恒例」の阿波おどりが中止。
3年前、僕は東京海上連の一人として阿波おどりに参加していた。
内心ではなんで越谷で徳島の阿波おどりなんだよと思いながらも、生来のお祭り好きの血が騒いでいた。

そんな自分にブレーキをかけるためか、こんな文章を書いていた。

 

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2017年8月21日 記
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このところそーらん節や北海盆歌などの由来や歴史についてあれこれ調べている。

世の中変わって土着の祭が廃れてきているように感じられてならないからということも、動機のひとつ。

歌の内容からそーらん節は鰊漁のワークソングとして歌われてきた。
北海盆歌は炭坑町で歌われてきた。
どちらも黎明期の北海道を支えてきた産業。
そして今ではすっかり廃れてしまった産業だ。


産業は廃れてしまったが歌だけが残った。
お盆祭や秋祭りで歌われるのみで人々の暮らしの実感からは遠いものになってしまった。
そしてそのお祭りも細々と続いている程度。
町おこしなどのためにイベント化され、商業化された巨大な「祭」に吸収されつつあるようだ。

暮らしの実感をすでに持たないのだからやむをえぬ流れなのかもしれない。
一抹の寂しさを禁じ得ない。

高校生の頃「学校祭」のファイアーストームで北海盆歌を歌うため、三橋美智也先生のお弟子さんのもとを訪ね教えを乞うたことがある。
函館に生まれ育った僕に北海盆歌は馴染みの薄いものだった。
(函館の祭は盆祭ではなく、港祭として独自の歴史を積み重ねてきた。このため北海盆歌で踊ることはなかった)

三橋美智也先生のレコードをちょうだいしたが、実はその歌詞は教育委員会などで子供にも聞かせられるような健全なものだった。
炭坑に勢いがあった頃、その歌詞は卑猥なものを含め生活実感のあるものだったという。
土地土地で特色があったり、アドリブででっち上げて歌ったりしていたそうだ。
(ちなみに北海盆歌の元歌は「べっちょ踊り歌」という道産子にはちょい赤面ものだった。)

そーらん節も同じように漁師町で即興的に歌われていたと聞く。
生活実感を失ったそーらん節は今リメイクされ、「よさこいそーらん」などと大々的、かつ全国的なものとなっている。
(なぜ土佐と北海道が結びつくのかいまだもって謎ではあるが)

ちなみに今日まで南越谷阿波おどりだった。
なぜ越谷で徳島の阿波おどりなのかいまだもって謎だ。
越谷にも昭和33年に作られた越谷音頭と町会ごとの盆祭がある。
イベント化され商業化された新しい「越谷の祭」が新たな歴史を積み重ねている。

自分が古い歌や民謡を歌うとき、せめてその歌の背後にある人々の歴史を学び、当時の生活実感を感じていたいものだ。

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2020.08.21

【アルト・ギター】

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今週日曜日の「おーるどたいむ de ライブ」で初めて数曲弾くことにしました。
実はこのギター単にサイズが小さいだけではなく、チューニングもレギュラーサイズギターの完全5度上。
演奏時のコードフォームも換算しながら弾かなきゃならないので、ちょっとやっかいなシロモノなのです。
加えて高音のきらびやかで明るい音色が特徴なので、逆に言うと中低音の深さや音の伸びがちと足りない。
アルトギター1本では弾き語り伴奏にはあまりむかないような気がしていました。
トリオ・ロス・パンチョスやジプシー・キングスのように他のギターとのアンサンブルの中で魅力を発揮するギターのようです。
そんなわけでこれまでライブでは使い切れずに来ました。

コロナ、コロナに熱中症。なにかと重苦しく、暑苦しい今年の夏。
せめてライブではおなじみの歌を中心に、軽く・明るく歌い飛ばしたいと思っています。
そこでアルト・ギターやウクレレも使うことにしました。

ところがどっこい、こいつがなかなか難しい。
自分のキーに合わせるためには、コードフォームをすべて変えなきゃならない。
アレンジもアルト・ギターやウクレレ用に合わせて変えていかなければならない。いつもの調子で弾くと音がへなちょこに。

目下アレンジをいろいろ試し、やっとこさ形になってきました。
いろいろと難しさもあるにはありますが、暗中模索は楽しいひとときでもあります。

本番でこれがうまくはまれば新しい地平が見えてきそうな気がします。楽しみ!

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2020.08.17

祝❗  30歳‼️  ロードバイク・レッドアロー号

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殺人的に熱い毎日。
ゆっくり長く距離を走れるのは早朝だけだ。
越谷を流れる川から川をつないで一汗流した。

ロードバイク・レッドアロー号をミラノ館の木村さんに組んでもらったのは36歳の夏だった。
あれから丸30年。
いまだに現役で、遠乗りの相棒になっている。

フレーム以外のパーツは幾度となく交換を繰り返してきた。
一番体力に自信があった頃にはトライアスロン仕様にしたこともある。
体力に自信がなくなった頃はシティバイク仕様にしたこともある。

そして今は再び原点回帰のドロップハンドル。木村さんに戻してもらったのは10年前だった。
その時の木村さんとの会話が忘れられない。

「クロモリブテンのフレームがしっかりしてるから、パーツ交換をしながらも乗り続けられるんですよ。この自転車は僕が店を立ち上げた最初の頃に組んだヤツ。うまく乗れば一生もの。だいじにガッツリ乗ってやってくださいね」

その1週間後、木村さんは帰らぬ人となった。

そのフレームもすっかり満身創痍。
何度か買い換えようと思ったこともあったが、木村さんの言葉が思い出され、踏みとどまった。
そして愛着が増していった。

最近は小型のDAHONが下駄がわりになっている。レッドアロー号の出番は減った。
それでも時々はじっくりと長い距離を漕いでやろうと思う。

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2020.08.10

75年目のヒロシマ

今年も8時15分、鐘の音に合わせて黙祷をした。

ふと気がついた。
父は当時「回天」乗組員のひとりとして松山の基地にいたらしい。
父からその話を聞かされることはついぞなかった。しかし晩年母を伴って松山を訪問したとのことだ。(母談)
おそらく松山にいたのではないかと想像している。

そして松山基地は瀬戸内海を挟んで広島の対岸だ。

75年前のその日、父は海を挟んで原爆を見たのだろうか。
それともすでに他の基地に転属になっていたのだろうか。
両親とも逝ってしまった今、それを知ることはできない。
(8歳年長のイトコの記憶では「回天」ではなく特攻艇「震洋」の乗組員だったとのことだが、これも不確かな記憶だ。
いずれにしても松山基地に所属していたらしい。

今年の黙祷、これまでよりもヒロシマがより近いものに感じられた。

余談だが松山は「紫電改」基地だった。
小学生の頃読んでいたちばてつやの漫画「紫電改のタカタカ」では紫電改乗組員たちが特別任務として黒塗りのボートに乗り込み、敵艦に爆弾を仕掛けるシーンがあった。これは「震洋」を描いたものだったのだろうか。

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