日記・コラム・つぶやき

2018.05.18

「本のエンドロール」

共同印刷時代親しくしていた営業部長O氏に紹介された「本のエンドロール」(講談社・刊)。
深い感動を持って読み終えた。

自分の37年の印刷マンとしての歩みがそこにあった。
生粋の印刷職人の師匠に『技能者』として育てられ、やがて「技術者」に育っていく
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過程。
そこには職人に育てられたにも関わらず職人には成りきれなかった葛藤がある。時代が勘と経験と度胸の職人を必要としなくなっていた。誰もが間違いなく平均的で安定した印刷ができることを求められた。そのために作業標準が定められ、QC活動が重視された。
その必要性を認め、推進役を担いつつも、職人であるM師匠に対する憧れをくすぶらせていた。

技術担当の修行中、TK社製本に弟子入りをするチャンスに恵まれ、製本のなんたるかをS工場長に仕込まれた。

やがてTK社製本のS工場長もM師匠も去っていく。
僕は残された先輩諸氏と共に仕事を回すほどには力をつけていた。

やがて人事異動で前行程の製版(プリプレス)と直接関わりを持つ設計業務に携わることになった。印刷と製本しか知らぬ男が別の世界を知るようになる。同時に営業担当とのやりとりが増え、その延長でいくつかの得意先やデザイナーとも関わりを持つようになる。
印刷という一工程にとどまらず『本を作る』という視点を植えつけられた時期だった。
印刷マンとしては絶頂の頃だったかもしれない。

やがて状況は少しずつ変わり始める。
出版物が本という媒体から電子書籍に舵を切りはじめたのだ。
それは我々印刷技術者にとってターニングポイントになりかねない流れだった。自分にとっては三十余年に過ぎないが、我々に流れる100年の歴史が途切れることを意味していた。

『本のエンドロール』には一人の若手営業マンを軸に印刷の各工程で歯をくいしばってがんばる人たちが描かれている。
同時に印刷の歩んできた歴史を感じさせてくれる。歴史の変遷のなかで変わっていく印刷人の心の動きが描かれている。

帯に書かれたキャッチが僕の心をえぐる。

『奥付けに載らない裏方たちの物語』

『斜陽産業と言われようとも、この世に本があるかぎり、彼らは走り続ける。印刷機は動き続ける。』

印刷業界を離れて久しい僕にこの本を教えてくれたO氏に心から感謝します。胸が熱くなりました。
ちなみにO氏は営業で僕は現場。
それぞれの立場から切磋琢磨した者同士。
価値観を共有する『同志』と勝手に思っています。

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2018.05.14

叔母の記憶

根室に向かっている。
叔母が亡くなった。
96歳の大往生。

写真の二人から生まれた最初の娘。
僕の母の1歳年長の大正12年生まれ。

「根室のおばちゃん」の記憶は数えるほどしかない。
僕が生まれた時すでに根室に嫁いでいた。
北海道の西の端・函館と東の端・根室は遠い。
叔母が里帰りをした時数回会ったくらいだ。

それでも叔母のエピソードは母から数多く聞かされていた。
きかない娘で男の子をぞろぞろ引き連れて遊んでいたらしい。
「ゴロベスやるもの、この指止ーまれ」と大声を張り上げていたとか。
(ゴロベスとは球を転がす野球だそうだ)
母はいつもその後ろに隠れるように付いてまわったらしい。

つきあいの薄い叔母だったが、達筆の年賀状を毎年送ってくれていた。その達筆はほとんど判読不能の行書体だった。郵便屋さんも苦労したことだろう。

叔母からの年賀状が途絶えて10年ほどになろうか。すでに体がいけなかったらしい。

先に亡くなった夫の後を引き継いで漁師の網元を張っていたとのことだ。荒くれ漁師たちを束ねるのはなかなかゆるくない(大変)ことだろう。しかしゴロベス娘にとっては天職だったかもしれない。
数少ない叔母の記憶だが、ドスのきいた張りのある声はよく覚えている。

2018年5月13日。
大正、昭和、平成。
三つの時代を生きた市井の豪傑。
5人の娘たちに見守られ、母の日の深夜この世を旅立った。
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2018.04.12

マイ自転車 レッドアロー号 マイナーチェンジ

今シーズン、レッドアロー号で初走り。
昨シーズンはあまり走らなかった。
要因は2つある。

ここ数年苦しんでいる頚椎症。首から肩、背中、そして腰まで背面がガチガチに張っていて痛い。
ロードレーサーのライディングポジションだと苦しくなってくる。

もうひとつは動体視力の低下。
下から見上げるライディングポジションでは動きに目がついていかない。

ついでに言えばレッドアロー号を組んだ35歳の時に比べ身長が1センチ縮んでいる。
筋力も相当衰えている。

早い話が老化が原因。

少々マイナーチェンジした。
ステムをやや短いものに交換して上下逆につけた。これでステムアップ。
ハンドル位置が近くなり、少しだけ上体が起きた。
これだけでずいぶん楽になる。
これ以上やるとペダリングに影響が出る。
長時間走ればお尻も痛くなる。
多分ギリギリの絶妙なポジションだと思う。

実は当初ドロップハンドルをTバーに交換するつもりだった。
ところがハンドルを交換すればブレーキも変速機もすべて交換になる。新車が買える金額になる。

でもレッドアロー号のフレームだけはなんとかして残したかった。
なにしろ30年、日本各地を一緒に旅してきたヤツだ。廃車にするには忍びない。材質のクロモリブテン鋼は「オレはまだまだ充分現役だ」と云っている。
だいいち心血注いで組み上げ、整備をしてくれてたミラノ館の故・木村オーナーに申し訳がたたない。

そこで自転車屋さんのお兄ちゃんに相談にのってもらった。あれこれ絵図を描いてもらい今回のマイナーチェンジになった。しかもかなりの低価格で❗
お兄ちゃんに感謝だ。

長距離を踏むためにはもう少し慣らしが必要。自転車じゃなく自分の身体の慣らしだ。
100キロ走れるまでになった頃に今回のマイナーチェンジの真価が表れるような気がする。

若い頃のようにスピードや距離を追いかける乗り方はもうしない。(したくてもできない)
今の年齢、今の体力をできるだけ維持し、それにみあった乗り方ができればいい。
1年でも長くね。

かくして赤き矢のロードレーサー・レッドアロー号はレッド亜老号に変わっていくのでありました。
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2018.03.11

あの日のこと 3

震災のおよそ2週間後、僕は共同印刷を退職し「天下御免の人生浪人」の暮らしに入った。
天下御免とは言いながら内心は穏やかではなかった。
50代半ばを過ぎてからの再就職は容易ではない。
いくつかの印刷会社からお誘いはあったが、丁重にお断りをさせていただいた。
せっかく印刷の仕事を辞したのだから何か新しいことに挑戦したいと思っていた。
50代半ばはそれができる最後のチャンスとも思っていた。
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けれどもそれは容易ではないことだったし、震災後、求職の需給関係も悪化していた。
震災で家族や家だけではなく職までも失った方々がたくさんいた。
それは地震の直接の打撃を受けることの少なかった東京や埼玉の求職事情にも影響していた。
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失業給付の切れる1年後まではじっくりと構えることにした。
どんな職業であれ自分が意義を見出し納得できるものをぎりぎりまで探すことにした。
腹をくくった形だ。
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そんな時友人から被災地へ慰問活動参加の打診を受けた。
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迷った。
「震災直後の被災地に出向き歌うことなんかできない」
率直な気持ちだった。
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震災直後からSNS(ミクシー)などで多くの書き込みがなされていた。
「今すぐにでも被災地に向かい音楽を通し被災者を励まし、力を与えよう。それはミュージシャンの務めだ」という考えと
「これだけ大打撃を受け、生きることに汲々としている被災者に音楽が与えられるものはない」という考えが真っ向から対立していた。
そこから派生する様々な意見が飛び交っていた。
みんな迷い悩んでいた。
音楽に携わるものとして何ができ、なにができないか。
また何をなすべきか、なにをなすべきではないか。
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人生浪人を始めたばかりの僕には時間はあった。
でも軽い気持ちでは決められなかった。
人様に「与えるべき何か」など自分にはないというのが正直な気持ちだった。
一方で「慰問キャラバン」参加の返答期限は迫っていた。
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被災地に出向き、そこで自分が歌えるかどうかはわからない。
でもこの目で現実の一端を凝視すべきだ。
そう思い参加を決めた。
キャラバン隊は2人のマッサージ師、3人の歌うたいの5人。
ハイエースに機材とキャンプ道具を積み込んで宮城県に向かった。
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現地の惨状をみた。
避難所ではたくさんの方と話をした。
それでも「ステージ」に立つ瞬間まで迷いは続いた。
「ステージ」に立ち段ボールで仕切られた体育館を見渡した瞬間スイッチが入った。
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「歌おう。言葉はいらない。ただ歌おう。自我を捨て、この体育館の空気になろう。」
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そんな気持ちだった。
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宮城県の数か所の避難所を回る数日間の旅で感じたことは多かったし、大きかった。
困難に耐え、後ろに引きずられながらも前を向こうとする被災された方々に自分の今の状況(人生浪人と先の見えない再就職活動)を重ね合わせた。
自分もまた復興途上と思った。
その後の音楽やライブ活動に対する自分の立ち位置も少し整理された。
大切なキーワードは「己を捨てて空気になる」ということだった。
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その後、いくつもの復興支援チャリティコンサートへの出演を依頼された。
被災地での活動について述べるように頼まれた。
でも多くを語ることにためらいがあった。
チャリティコンサート主催者は「何をなすべきか」について語ってほしかったようだ。
でもそれを決めるのは個々人で、僕にはそれを先導、扇動などできはしない。
だからこの目で見たことを淡々と話すだけにとどめてきた。
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あの日から7年目の今日、親しい友人からのお誘いでチャリティコンサートに出演する。
震災当初とは違い、「風化」が進んでいるように感じる。
これまでとはちょっと違った切り口で臨もうと思っている。
言葉はいらない。ただ歌うのみ。
参加する方々の胸にほんの少しでも引っかかることを願うばかりだ。

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2018.03.10

あの日のこと 2

2012.03.11に投稿した日記を再投稿します。
震災と共に始まった1年間の浪人生活にやっと終止符をうち、再就職を控えた時の日記です。


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日記  あの日

14:46  
突然、横に大きくゆれだす。 
同僚たちは叫びながら机の下にもぐりこむ。 
瞬間、中学生の時体験した十勝沖地震のことが脳裏をよぎり、出入り口まで急ぐ。 
  あの時は末広町の同級生の家が真ん中から裂けた。 
  道路には亀裂が入った。 
  3階建ての函館大学の1階が押しつぶされた。

出入り口から外に出ようと地面を見ると建屋と道路の境目に亀裂が入りそれぞれ左右逆方向に揺れている。 
危険を感じる。 
上を見上げると5階建ての建屋を這うように設置された配管パイプが音をたてている。 
建屋がつぶれるのが先か、配管が落ちるのが先か。 
コーポレートマークを大書きした金属の巨大な壁が屋上の上でぶるぶる波打っている。 
いつでも飛び出せるように身構えながら揺れがおさまるのをまつ。


15:30 
社内放送で全社員の避難を促し始める。 
場所は播磨坂の桜並木。 
広く、長い坂は多くの人で埋めつくされている。 
くりかえしやってくる余震だが、皆つとめて冷静に事態をうかがっている。

この日退職の挨拶をしに得意先SB社を訪問する約束だった。 
先方の様子をうかがうとともに、延期の依頼をしなければなるまい。 
そう思い、何度も電話をするがつながらぬ。


17:00 
避難命令は解除され、社にもどる。 
ただちの退社を促す放送。 
同僚たちが帰るのを見届け、18:00に退社。


少し歩きはじめるが手のカバンが邪魔になる。 
白山のオリンピックに立ち寄りザックを買う。 
自転車売り場は人の列が延々とつながっている。


19:00 
上野の山を裏道伝いに抜け、日光街道をめざす。 
途中三ノ輪のAb印刷に立ち寄る。若い工場長は教え子だ。 
他のオペレータを帰し、ひとりで印刷機を回している。

  なんとしてもこいつだけは上げとかなきゃなんないんですよ 
  あしたの朝一が、引き取りなんで。

  ばかやろ、明日なんかトラック走らねぇべ! 
  しゃあねぇな、俺も手伝ったるよ


20:30 
Ab印刷を出て再び歩きはじめる。 
日光街道は車も人も自転車も身動きとれぬほど込み合っている。 
どこまでものろのろと続く長蛇の列。 
急いでもしょうがないと腹をくくり、その動きに身をまかせる。


23:00 
竹ノ塚を抜けようやっと埼玉県に入る。 
人の群れは少しずつだが隙間ができはじめる。 
急に冷え込んでくる。 
空腹になるがコンビニは店を閉めている。あいている店も買い物客でごった返している。 
あきらめて列からはずれひと休み。 
家族に電話をするもののいまだにつながらない。


24:00 
草加を抜ける。 
人はずいぶん少なくなるが車道はあいかわらず渋滞が続く。 
旧日光街道に面した自治会館では急設休憩所が設けられている。ありがたい。 
水を分けてもらい一服する。煙草がうまい。


1:00 
やっと松原団地の松並木。土の道が疲れた足にやさしい。 
人はばらけ、数えるほどになる。 
ベンチで一服していると、見知らぬおじさんに声をかけられる。

  すいません。煙草を1本分けてもらえませんか。

疲れはてた表情でうまそうに煙草を吸うおじさんと話す。 
袖振り合うも多生の縁というが、みょうな一体感を感じる。


1:30 
蒲生に入る。 
あと一息。 
ラーメン屋「まんぷく」が店を開けている。 
店内は客がひしめいている。 
急に腹が減り、吸い込まれるように店に入る。 
なじみの店主に広東麺を頼む。 
とろみのある熱い麺が五臓六腑にしみわたる。生き返った心地だ。

家に電話。 
やっとつながり、全員の無事を確認する。 
長男は足場の上にいる時に地震がきたという。やばかった。

2:00 
ようやっと家にたどり着く。 
「まんぷく」からの1キロが途方もなく長く感じられた。

テレビに目をやる。 
とんでもないことになっている。

小石川から越谷にたどり着くので精いっぱいだった。 
こんなことになってるなんてちっとも知らなかった。

あまりの状態に発する言葉もない・・・

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昨年の今日のできごと。 
メモ帳に記録した走り書き。 
1年たって昨夜読み返した。 
そうしなければならないという思いがあった。

あの晩歩いた道を今日ふたたび歩いた。 
あの晩買ったザックを背負い、あの時履いてた靴で。 
そうしなければならないという思いがあった。

何も考えずに歩こうと思った。 
心にいろんな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。 
思考を拒否し、想念に身をまかせた。

14:00過ぎ 
草加駅前のSMCK野外コンサートにいた。 
今回は出番はなかったがなんとはなしに足が向いた。

14:46 
主催者がオーディエンスや道行く人たちに黙祷を呼びかけた。 
1分間の黙祷。 
草加駅前の雑踏が静寂に変わる。 
長い1分だった。 
重い1分だった。

 

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あの日の自分 3月11日 その1

【あの日のこと その1】

共同印刷退職を2週間後にひかえ、心落ち着かぬ日々を過ごしていた。
残されたわずかな日々で後輩たちに、そして親しくしてきた協力会社に何を残していけるのか。
そんな使命感に駆られ、今できる最大限のことに力を尽くしていた。

3月11日の午後。

突然大きな揺れがおきる。
それはしばらく続き、その後も揺れは断続的に続く。
突然のことに身体がすくみ動けぬ者。とっさにデスクの下に身を隠す者。いち早く外に飛び出す者。

僕の脳裏には中学生の頃体験した十勝沖地震のことがよぎる。

あれは大きな地震だった。
体育の授業中で体育館で腹筋運動をしていた僕たち。普段はなにものにも動じない体育のコン先生のあわてふためいた顔が妙に印象に残っている。
地割れした地面。三角屋根が真ん中から裂けた同級生の家。
そして3階建ての函館大学の校舎の1階が押し潰され2階建(❓)になってしまった。

まずい。外にでなくちゃ。

戦前からある5階建ての古い建家の1階が僕らの職場だった。声をかけ出入り口まで走る。

外に飛び出そうとして踏みとどまる。
建家と屋外通路にはヒビが入り左右逆に揺れている。
建家には全面に直径10センチ以上の鉄のパイプが這わされている。
もし万が一この揺れでパイプが外れ、頭上に落下したらおだぶつだ。

出入口で地面の揺れをじっと見つめながら身構える。
建家が崩れそうになったらすぐにでも飛び出そう。

やがて揺れは落ち着く。
断続的な余震は続いていたがひとごこちついた様子。

社内放送で避難の呼びかけ。
会社そばの播磨坂のグリーンベルトが避難場所。
何百人の従業員たちは押し合うこともなく、粛々と正門からグリーンベルトを目指す。
グリーンベルトには近所の住人たちがすでにたくさん集まっている。

寒い夕暮れだった。
あと1週間もすれば播磨坂は桜が咲き乱れ、桜のトンネルになるはずだ。
しかしまだつぼみの桜は寒さをいっそうきわだたせる。

時間にすればわずか30分ほど。
とてつもなく長く感じられた。

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2018.03.09

遠い日の恋

仕事を終えた帰り道、家の近くの小公園。
小一時間のだらだら散歩。
体調を整えるために闇の中をゆっくり歩く。
小公園といってもただの空き地。
足の向くまま、気の向くままに縦横無尽に歩くんだ。

いつもはひとけのない公園。
片隅のベンチになにやら人影がうごめいてる。
目を凝らすと若いアベックが肩を寄せあってなにやら語り合ってる。
学ランの金ボタンが光ってる。
高校生だ。

ほほえましいなぁ。
うらやましいなぁ。

オジサンが高校生の頃は好きな娘と手もつなげなかったっけ。
ふたりで歩く時もつかず離れずが二人の距離感だったっけ。

内心は手をつないで歩きたかったのに、その勇気がなかったなぁ。
もどかしいほどの距離感は縮まることなく、二人の恋は終わってしまった。

実はこの頃のエピソードや手探りの恋物語は僕のライブのモチーフとして何度も何度も焼き直しながらえんえんとくりかえされている。
遠い日の幼すぎた恋物語を牛が何度も反芻するようにかみしめる。
もうすっかり消化され、跡形もないほどだが、いまだにかみしめてるんだ。

60をとうにすぎたオジサンがいまだに新鮮な気持ちで恋物語を歌っていられるのはそのおかげかも。

肩寄せあい、冬の公園で語り合う高校生に心の中でつぶやいた。

がんばれよ🎵

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2018.03.03

母の陣中見舞い

1520057998358.jpg 函館・旭ヶ丘の家。 窓の外は雪景色。うらはらに施設内は暖房が効き暖かい。

弾丸帰郷だった今回、短い滞在時間に合わせるかのように母は目を覚ましていた。
このところ眠る時間が圧倒的に増え、ひとたび眠ると2~3日は目覚めない。
旭ヶ丘の家ではそんな母を「眠り姫」とよんでいる。
眠ること自体は悪くはないが栄養の補給が追いつかない。
せめて母の好きな食べ物をしこたま持参した。
イチゴにみかん、アイスクリームにプリン。そしてセイコマートのお握り 。
ガツガツとむさぼりペロリとたいらげた。
たまげた。食欲旺盛な母をみるのは久しぶりだった。
.
食事をする母を見ながら、僕は終始ギターをつま弾いていた。
母の好きなメロディを次々と引き続ける。
北の国から組曲、グレゴリアン聖歌やカトリック聖歌、童謡唱歌、映画音楽、フォークソングetc.etc..
途切れることなく弾き続ける。
食べ終えた母はじっと聴いている。
.
ギターの音だけが静かに室内を満たす。
言葉はない。 いや、言葉は不要と感じる。
流れる沈黙の時を共に過ごすことがなによりも雄弁な会話と感じる。
.
ふと気がつくと、口を開けたまま母は軽い眠りに落ちていた。
多分心地よかったんだろう。 .
僕はそのまま弾き続ける。
そして思い出していた。
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札幌の月寒教会の中にあった納骨堂に眠る父。
墓参りのたびに僕は同じようにギターを弾き、父と会話をしていた。
.
母に残された時間がどれほどあるのかはしらない。
おそらくこれからはますます言葉は不要になるだろう。
必要なことはただ寄り添うことのみ。
静かに手を握ることであり、静かにギターをつま弾くこと。
こういうことが寄り添い、心を通わせることなんだろう。
.
そんな気がする。

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2018.01.31

蒲生の街を歩く

久しぶりに歩く蒲生の街。
駅東口からまっすぐのびる一直線の商店街。
蒲生駅前通り商店街と蒲生中央通り商店街だ。

この街に僕は15年ほど暮らした。
すっかり変わってしまった商店街のたたずまい。でもあの頃のままの店もしぶとく生き残っている。

商店街を歩きながら、30代~50代にこの街でやっていたライブの数々を思い出す。

駅のすぐそばにあったモスバーガーでやっていたモスライブ。
同じ並びにあるすみれ美容室でのすみれコンサート。
ちょこっと脇道に入ったところにある喫茶店ブーケでの井戸端ライブ。
旧日光街道をわたった先にある自治会館での寿コンサート。
旧スーパータジマ前での朝市コンサート。
そして喫茶店いづみでのライブ。

わずか数百メートルの商店街を舞台に長きに渡り、数多くのライブをやってきた。

今この街で歌うことはない。
けれども間違いなく、僕はこの街に育てられた。
この街での経験があったからこそ、今の自分のやり方が確立したんだと思う。

今商店街のそばに長男一家が暮らしている。
長男は自分が生まれ育った蒲生の街で新しい家庭をスタートさせたかったそうだ。

そして今日は長男夫婦の二人目の子の「お食い初め」。

蒲生で新たな命が胎動し始めた。

この街が好きさ
君がいるから
この街が好きさ
君のほほえみあるから

「街」高石ともや

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2017.12.31

過行く2017年をふりかえる

今年も1年越谷を中心に歌ってきた。
レギュラーライブと位置づけてきたのは「朝市コンサート」(月2回)と「お好み焼きの三貴ライブ」(月1回)。
季節ごとに「おーるどたいむ de ライブ」を4回。
そして函館の特別養護老人ホーム・旭が丘の家で数回の「Martin古池の歌謡ショー」を数回。
みんなで歌う「歌声音楽会」もすっかり定着した。
毎月「おーるどたいむ」で同年代の人たちと、人生の先輩方と「デイサービス・さんすまいる」で隔月。
加えて長年やってきた「八ヶ岳・森の音楽会」、「Live in 清津峡」は大切な年中行事。
他にお声をかけていただき数回出演させていただいた音楽会もいくつかある。(プール平音楽会、アシベライブ、チャリティコンサート等々)
他にプライベートな出前ライブもいくつかやらせていただいた。
今年もコンスタントに毎月4~5回歌わせていただいた。
今の自分の生活パターンの中ではこれが精いっぱい。
「喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ」を復活させるだけの時間的、肉体的、精神的余裕は残念ながらなかった。
しかしながらコンスタントに歌い続けることは自分にとってはいい影響をもたらしてくれている。
「朝市コンサート」や「お好み焼きの三貴ライブ」は不特定多数のお客様と時間・空間を共有するスタイルなので、瞬間瞬間に対応し1曲ごとの勝負になる。
一つ一つを丁寧に演奏しなければならず、歌やギターの技術を維持・向上させることにつながった。
歌声音楽会で僕は主役ではなく「水先案内人」。
参加者の思いつかれる歌の数々は忘れていたものを思い出させていただくいいチャンスになっている。
それは「おーるどたいむ de ライブ」や「旭が丘の家・Martin古池の歌謡ショー」に反映されている。
おーるどたいむライブや歌謡ショーでは自分の思いを存分にやらせていただくことになる。
その時々の思いをテーマに歌やトークで形にしていく。
歌声音楽会で触発されたことは肉付けされ、テーマの中に位置づけられていく。
そして「森の音楽会」や「Live in 清津峡」、お声をかけていただけき出演したライブは20~30分ほどの短時間ステージでも起承転結(あるいは序破急)で小さなテーマにまとめ上げていくという勉強をさせてもらっている。
コンパクトに仕上げていくことができなければ1~2時間の長時間ステージで肉付けしていくことなどできるものではない。
贅肉だらけの冗長なライブほどつまらないものはない。
長時間ステージといっても小さなテーマの積み重ね。その結果大きなテーマに収束していくものだ。
この1年、いいリズムで各ライブを積み重ねていくことができた。
その結果として12月に年内最後のライブ「おーるどたいむ de ライブ」と「旭が丘の家・Martin古池の歌謡ショー」につなげることができた。
技術面でも新しい試みをしてきた。
「ピアニシモを生音でちゃんと届ける」とうことだ。
以前から「生音」ライブにこだわってやってきた。
これまではギターも声も大きな音を出すことに腐心してきた。
考え方を変えた。
最低音量の音をしっかり出せれば、充分に聴衆に届けられるのではないか。
それができれば100%のパワー使わなくても強い音を強い音として感じてもらえるのではないか。
最大音は隠し玉としてここぞという時に使えるのではないか。
そう考えたのだ。
僕が歌う場は決して大きくはない。
お客さんの数も20~30人。
しかも一人で弾き語りというスタイル。
そういう条件ならば可能ではないかと思った。
まず最低音をしっかり出せるように稽古した。
体の中に気をため込み圧縮する。圧縮された気を音として絞り出す。
それも体の中でその音を自然に反響させることを意識しながら。
以前トミ藤山さんに教えていただいた「呼吸法」が大いに役立っている。
また昔の相棒、吉田政美君の唱法を参考にさせてもらった。
同時にギターの音を抑える練習をした。
抑えた音でもスカスカにならず力のある音をきれいに出せるように腐心した。
右手はピックの持ち方、弦への当て方、手首の返しと支点の肘の関係をあれこれ試した。
左手は手の小さな僕でもより自由に動かせるようにするためにネックを握りこまずともちゃんと抑えられる位置を探した。
自然にそれらができるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだが、少しずつ結果が出てきているように思う。
最後に暮らしと音楽の関係について。
今年は様々なことがあった。
高校の同級生たちと初めての「大人の修学旅行」をやり、そのことが自分が音楽を始めたころに引き戻してくれた。
定年を迎え、「現役」から引退した。まだ仕事は継続しているが、この先の自分の生き方を考えるチャンスを得た。
長男に二人目の子供ができ、新しい命に接することができた。
反面年老いていく母の姿を見つめる時、「生命」についていやおうなしに考えることとなった。
これまでどう生きてきたのか。今をどう生きているのか。そして明日からをどう生きるのか。
考えるともなく考えてきたこと。それらはライブのテーマや選曲に反映していった。
自分にとって音楽は日々の暮らしを写す鏡であることを強く意識した。
それは自分自身の問題であると同時に、多くの人と共有できることでもあるのではないか。
そんな思いがより強くなった1年だった。
これまで生きてきたこと、歌ってきたことが徐々にだが重なり合い意味を持ち出した。
そう感じられる1年だった。
忙しい、結構大変な1年だったが、納得いく1年になったように思う。
たぶん来年も同じようにしながら過ごしていくのだろうと思いながら2017年最後の夜を過ごしている。

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