日記・コラム・つぶやき

2026.05.29

朝散歩 腹減った 道すがらの山岡家

今朝はちょっと追い込みたい気分。
のんびり歩きと早歩きを交互に数セット。
心拍数が110~120オーバーを10分継続。
何セットもくりかえすと疲れる。
疲れるけど気持ちいい。
そして腹が減る。
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2026_05_29-3
帰りの道すがら24時間営業のラーメン山岡家の暖簾をかきわけ、店内に吸い込まれる。
山岡家はいつもいつも長蛇の列。
ラーメン食べるのにわざわざ並びたかないんで、もう何年も素通りしてきた。
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今朝は珍しく並んでなかった。
オレの腹は家までとても、もちそうにない。
朝っぱらから味噌チャーシュー麺を注文。
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2026_05_29-2
スープをすする。
ちょっとショッパイかな。
麺をすする。
お、歯ごたえいいじゃないか。
太麺に汁がからんでいいバランス。
チャーシューを頬張る。
お、味がしっかりついてる。
ちょっと甘めの煮汁で煮込んだのか。
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ちょっと気持ちが落ち着いた。
で、あらためてじっくり丼の中を見つめる。
油の層が表面をおおっている。多分ラードだろうな。
なんだか懐かしく感じる。
実家近くの新札幌駅で食べる味噌ラーメンは分厚いラードの層でおおわれていたっけな。
真冬の冷えた身体にはこれが最高だった。
そういえば山岡家は札幌が発祥の地だったっけ。
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泥縄式に古い記憶はよみがえる。
味覚や嗅覚って突然記憶をタイムスリップさせる。
不思議だ。
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高校生の頃、伊達紋別の自宅から学校のあった鷲別駅まで、1時間ほどかけて汽車通学をしていた。
サッカー部の練習を終えると結構いい時間になり、汽車の時刻に間に合わないこともしばしばあった。
1本逃すと2時間ほどは待たなければならない。
友人の家や担任の福田先生の家に転がりこみ、時間をつぶすこともしばしば。
話し込み、次の汽車を逃すことも時にはあった。
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ある時最終列車も逃してしまい、ダメ元で父の職場に電話をかけた。
運のいいことに父も帰り支度をしている時だった。
東室蘭のバスターミナルで拾ってもらうことになった。
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真冬の山道を父は慎重に車を走らせる。
  腹へったな
  ラーメン食ってくか
突然の父の提案に、異存のあるはずもない。
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山道の中腹にドライブインが当時あった。
ドライブインはトラックの運ちゃんたちで埋まっていた。
店の片隅にあったテーブルに向き合い、かわす言葉もなくひたすらラーメンをすする父子だった。
味噌ラーメンの味はまったり濃く、汁の表面には分厚いラードが層をなしていた。
汁の表面が真っ赤になるほど南蛮(一味唐辛子)をふりかけ、たっぷりおろしニンニクを入れて食べるラーメンは旨かった。
いや、味はもう覚えていない。
ただ父と二人ですするラーメンがやたらうれしかった。
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山岡家の味噌チャーシュー麺をすすりながら、記憶の底にしまい込まれていたものが次から次へと引きずり出されていた。(正に泥縄式にね)
もちろん表面が真っ赤になるほど南蛮をふりかけ、おろしニンニクをたっぷり入れてね。
最後の一滴を飲み干すのが惜しかった。

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2026.04.02

大きな転機となった3月

自分にとって3月は大きな転機となった。
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ひとつは今月迎える72歳の誕生日を前に、長年足となって活躍してくれた車を手放したこと。
以前から70歳を過ぎたら運転を止めると決めていた。
車検を機にすっぱりと手放した。
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理由はふたつある。
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なんと言っても身体の衰えを感じ始めたことが大きい。
とりわけ目の衰えは激しく、視野が狭くなった上に動態視力も著しく落ちてきた。
特に夜道の運転は危険を感じるようになってきた。(ヒヤリ・ハットというヤツだ)
自動車保険会社で人身事故担当を長年担当していた。
高齢者の交通事故にあまた接してきた。
事故の多くは高齢化による衰えに起因している。
表面的には不注意事故といえるのだが、高齢化による衰えがその根底にある。
そして自分もいずれはそうなる。
被害者になるのももちろん嫌だが、加害者には絶対になりたくない。
そんな思いが植え付けられた。
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そして経済的な負担の重さ。
年金暮らしの身の上に車の維持費はあまりにも重すぎる。
さいわい越谷近辺は交通網が比較的便利。
電車を使えば都内にも埼玉の他所にも容易に行くことができる。
移動の交通費と車の維持費を天秤にかければ交通費に軍配が上がる。「便利さ」を我慢しさえすればいいだけの話。
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「特別な3月」のもうひとつの理由は白内障の手術を受けたこと。(通院治療は現在まだ継続中)
車を手放すきっかけとなった目の衰えはどうやら目のレンズが濁ってきたことに理由がありそうだ。
この際だから手術しちゃおうと思いたった。
はたして以前に比べて世の中は明るく見えてきた。
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3月に入り暮らし方は大きく変わった。
移動は徒歩と自転車に変わった。
これがなかなかいい。
目的地までの移動自体が楽しみに変わっている。
時間はかかるが、その時間を写真を撮りながらのんびり歩いている。
往復30㎞程度であれば無理なく自転車で移動できる。
そのかわり1日にふたつ以上の予定は入れない。(入れられない)
ライブ・音楽会等のダブルヘッターはこれまで普通にやっていた。
しかし「一日一番」に限定することでそれぞれのイベントをより大切することができる。
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人間誰しも年をとる。
年をとれば当然衰える。
よしんば衰えたとしても衰えたなりの生き方をすることが大事なんだろうと思う。
でも気をつけなくちゃ。
「年齢」を『しないこと・できないこと』の言い訳にしちゃいけない。
「年だからしょうがない」とついつい流れてしまいがちなのが人の常。
でもその前に何ができて何ができないのか、
どこまでできてどこからができないのか。
とことん試してみなきゃね。
人生を季節に例えれば「冬の時代」にさしかかっている自分。
「冬の時代」を少しでも豊かなものにしていきたい。
3月から始まっている「歩く暮らし」を通して、冬の時代の豊かな生き方を模索する昨今。

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2026.02.25

蕎麦食いてぇ

昼過ぎ3時。
猛烈に腹が減った。
急に蕎麦が食いたくなった。
こんな時間、店を開けてくれている朝日屋さんはありがたい。
そしてこんな時はもりそばにかぎる。
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まずはそのままひと口。
旨し!
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蕎麦の香りが鼻腔をくすぐる。
次に塩をちょっとふってひと口。
旨し!
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塩が蕎麦の味を引き立てる。
さらに塩に加えワサビをちょっと。
旨し!
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ワサビが舌を刺激する。
お酒をなめながら食べられれば最高なんだが、あいにく今日は車。
ここまでが盛りそばの僕の儀式。
最後につゆにチョンとつけて。
旨し!
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つゆの甘みが口の中に広がる。
一気に蕎麦をすすり、たいらげる。
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〆はたっぷりの蕎麦湯。
旨し!
出汁の旨味で満足感が心に広がる。
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やっぱり
お蕎麦はいいねぇ。
満足、満足。
2026_02_21

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2026.02.24

エッフイ!

今朝起きがけに大きな咳をした。
  エッフイ!
咳き込んでみて思い出し、おもわず苦笑い。
  あ、この咳はおじいちゃんの咳とおんなじでないかい😅
父方の祖父は咳き込むと「エッフイ!」とやっていた。
その咳は僕の耳に今もこびりついてる。
咳き込む時はもちろん、痰の切れをよくする時など盛大に「エッフイ!エッフイ!」とやってた。
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80歳で亡くなった祖父と同居していたのは祖父が70代の頃。
つまり今の僕と同じような年頃。
僕も気管支の通りを良くしようと咳をする歳になったってことか。
父は咳き込む時、「エッフイ!」とはやっていなかったようだ。
もっと弱々しい咳だったように覚えてる。
晩年を闘病生活に費やし、68歳で亡くなった。
「エッフイ!」と威勢のいい咳に到達する体力と時間がなかったんだろう。
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最近祖父の人生に思いを馳せることが多い。
明治17年に百姓の三男坊として愛知県に生を受けている。
明治36年、19歳でひとつ年下の呉服屋の娘と結婚し、愛知県を離れ北海道に移り住んだ。
三男坊では家督を継ぐことはできず、小作の百姓で生きるしかない時代だった。
時代は日露戦争が勃発し、生きづらい世の中だった。
「俺たちに明日はない」と思ったか、北海道に入植する道を選んだ。
この時祖母はすでに身ごもっていた。
愛知の港から船に乗り、波にゆられ函館にたどりつくのにひと月近くかかったと聞く。
北海道入植後の足取りはよくわからない。
でも大正4年には函館で商売を始めている。
最初は呉服の小売り。
後にご祝儀店、レンカ堂(廉価堂)を立ち上げた。
70歳で店を長男に譲り隠居、末っ子だった僕の父と同居を始める。
僕の知る祖父は隠居後の10年間。
若い頃の苦労話ひとつ話してはくれなかったが、孫の僕の目には「厳格でおっかないおじいちゃん」と映っていた。
でも時折見せる笑顔にはなんともいえない魅力があった。
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僕も「じいちゃん」と呼ばれるようになり10年が経った。
晩年の祖父と同じ年代に突入している。
祖父が故郷愛知県知多半島を捨て北海道に入植したのと同じ年齢(19歳)で、僕は故郷北海道を離れ内地にやってきた。
祖父が北海道の地を徒手空拳で生きてきたように、僕は僕なりにこの内地を徒手空拳で渡ってきた。
孫たちに僕がどんな「じいちゃん」と映っているかは知らない。
でも最近時々思う。
  僕もなりたい あの人のように
  やさしく たくましく
  おじいさん ありがとう
  さようなら
   『おじいさんの古時計』(訳詞:高石ともや)

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赤とんぼ

父の残した膨大な数の文章の中に戦争について記した数少ないひとつを発見した。
1989年(平成元年)9月24日に書かれたものだ。
この頃父は直腸に癌が発見され最初の入院をしていた頃と記憶している。年齢にすると65歳の頃。
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---以下抜粋---
『赤とんぼ』
四十四年前、四国の豊浜町を基地として、陸軍特別甲種幹部候補生船舶部隊の訓練が、毎日、激しく繰り返されていました。
敗戦間近のことであり、上陸用船艇による敵前上陸訓練というよより、マルレと名づけられる特攻艇による、敵艦爆沈訓練でした。
わたしが入隊した頃、一期上の上級生が毎日この訓練に明け暮れていました。
忘れることができません。昭和二十五年五月、彼らの卒業式を。見習士官となった彼らの卒業行進は、鉄砲を肩に担いでではなく、剣を立ててのもの。正に剣の林の行進でした。素晴らしい光景でした。
でも、それから二ヶ月もしない中に、彼らの大半はフィリピン・レイテ湾の藻屑となってしまいました。
我々はその後を追って、激しい特攻訓練を始めました。
そんな訓練を終えて、夕方、港に帰ってきた時、堤防の上で遊んでいたわらべの歌っていたのが、『赤とんぼ』でした。
死ぬということの意味を、一生懸命自分に納得させていた時に、『赤とんぼ』の歌の中に、生きることの素晴らしさを感じ取り、忘我のひとときに自分をおいたあの頃の自分を、四十年たった今でも忘れることができません。
---以上カトリック小野幌教会誌『森の声』より---
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癌の宣告を受け、「生きる」ことの意味を再び突きつけられた父の記憶に蘇ったシーンだったのではないかと想像する。
僕は父がこの文章を書いた年齢を遙かに超え、今70代を生きている。68歳で帰天した父が生きることのできなかった年齢を今謳歌している。
同時に「人生の旅路」を思うことも多くなった。
「生きることの素晴らしさ」とはなんなのか、
「生きること」そして「死ぬこと」の意味はなんなのか。
どのように生き、どのように死んでいきたいのか。
  大切に生きれば充分に長い旅。
  到達するためではなく、旅するための人生の旅路
     (父の口癖だったゲーテの言葉)
僕にとっては示唆に富む文章に出逢えた思いだ。

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読後感 『大義の末』城山三郎・著

『大義』という遺稿集が戦前、昭和13年に刊行された。
日中戦争で戦死した杉本五郎陸軍中佐(歩兵第11連隊・第2中隊長)が息子に残した膨大な数の遺書だ。
この遺書を秘蔵することを惜しんだ同志たちの手によって遺稿集として刊行された。
遺稿集は160万部の重版・増刷を重ねた。
日中戦争から太平洋戦争という戦時下であまたの若者たちに読まれ、心酔した若者たちを戦争へと駆り立てたという。
『大義』の内容は徹底した皇国主義・国粋主義に貫かれていた。
「天皇」を神として崇め、己を犠牲にしてすべてを皇国のために捧げるといった内容。
僕はまだ抜粋しか読んでいないが、その凄まじいまでの自己抑制と皇国主義は読む者の魂を揺さぶる力を感じる。
実際に杉本は中華民国での戦闘で胸に銃弾を受け、かつ手榴弾の爆風を受けながら皇居のある方向に向かって挙手敬礼をしたまま絶命したという。
軍神・杉本中佐の武勇伝と共に『大義』は戦時下の若者たちの魂を揺さぶった。
城山三郎もまた『大義』に感化され、昭和20年に17歳で予科練へ志願入隊した。特攻部隊である伏龍部隊に配属され、訓練中に敗戦を迎える。
『大義の末』は自身の予科練体験と戦後日本を主人公・柿見に重ね合わせ、心情を吐露している。
思想書『大義』の理想に燃え入隊した予科練ではあったが、現実とはあまりにもかけ離れていた。
「天皇陛下」の名のもとに滅私だけが強要される。
尋常ではない訓練。
訓練について行けぬ者へのこれまた尋常ならぬ罰。
菊のご紋の彫られた銃をかばうために、己の身は傷つく。
それがもとで命を落とす戦友。
耐えきれず自ら命を断つ戦友も現れる。
それでも大義のため受け入れる多くの若者たち。
国家・天皇に命を捧げることも辞さない空気。
そしてあっけなく迎えた敗戦。
昨日まで「神」であった天皇は今は「人」だという。
己の価値観が根底から覆され、途方に暮れる主人公・柿見。
戦後になり「象徴天皇」を政治に利用しようとする国家と人々の変節に対する激しい憤り。
かつての大義はなんだったのか?
大義をつくした天皇とは何か?
鋭く問いかける『大義の末』。
.
『大義の末』を読みながら、僕は苦しさを禁じ得なかった。
ここに描かれていることはかつて父とさんざん議論したことと同じ内容だった。
若かった僕は「戦争知らない子供たち」を自認し、反戦平和運動に身を投じていた。
戦争を体験した父は僕に賛意を示しながらも、その一面性を鋭く指摘してきた。
戦争は二度と起こしてはならない。でも同時にあの戦争に身を投じた若者たちの青春やその生き方までも否定してはならない。
そんな論点だった。
.
城山三郎より3歳年長の父は予科練ではなく、学徒出陣だった。
やはり昭和20年に海軍に入隊し、訓練中に敗戦を迎えた。
父が『大義』を読んだかどうかはわからない。
読んだとしてもその影響を受けたかどうかはわからない。
少なくとも函館中学時代(現函館中部高校)に戦争一色の中で「学生はペンを持て」と語りボコボコにされたという「武勇伝」(?)を持っている。
その父が大学に進学してまもなく学徒出陣に応じたわけだ。
もしかしたらそこに心境の変化があったやもしれない。
読書家だった父のことだから『大義』を読んでいたとしても不思議ではない。
.
父の兄は昭和13年に日中戦争で頭に銃弾を受け戦死している。
『大義』の著者・杉本五郎中佐が戦死して3ヶ月後のことだった。
階級こそ中尉であったが杉本と同じ歩兵部隊中隊長だった。
函館の町では新聞一面に「軍神・古池中尉」と書かれ、多くの弔問客が訪ねて来たと聞く。
周囲の父に対する期待は大きかったと想像する。
「軍神の弟がその仇討ちをする」というようなことも言われていたらしい。
父がどんな心境で入隊したか、今では想像するしかできない。
しかし問題は父にもまた『大義の末』があったことだ。
敗戦によりすべてが根底から覆され、すべてを失った。
信ずるものを失い、精神的に追い込まれた。
加えて栄養失調が一因となり肺結核を患う。
七飯の療養所で過ごした長きにわたる無為の時。
精神的にも社会的にも己を取り戻し「復帰」できるまでに何年もの時を要さざるをえなかった。
.
杉本五郎の『大義』。
城山三郎の『大義の末』。
そして戦死した叔父や若き日の父。
そのどれにもそれぞれの真実があろう。
思いを巡らすと苦しくなってくる。
城山三郎が口癖のように言っていたという言葉が何度も何度も頭の中をよぎっている
  戦争はすべてを失わせる。
  戦争で得たものは憲法だけだ。
   (談:佐高信)

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2026.01.06

【謹賀新年】

2026_01_01-3
今年は午年。
6回目の年男となります。

写真の彫り物は還暦の時にお寺さんの夜店で買い求めた物。
その時は還暦を迎えたとはいえ、まだまだひとっ走りと思っていました。

ひとまわりして今思うことは
大地を踏みしめ、日々の一歩をゆっくりしっかり歩きたいということ。
急がず、慌てず、かみしめてってところでしょうか。

ふるさと北海道には道産子と呼ばれる馬がいます。
江戸時代に内地の南部馬が海を渡り、全道に広がった馬です。
開拓の時代、畑を耕し荷を運び、開墾の力となった馬。
人々の日々の暮らしを支え、共に歩んできた馬。
それが道産子です。

サラブレットのような競走馬と違い速く走ることはできません。
でも重い荷を担ぎ、荒れた大地を力強く進んでいく姿に感動を禁じ得ません。

ふりかえり自分のことを思う時、残念ながら若い頃のようには速くは走れません。
今から孤高の競走馬のようにはなれないし、なりたいとも思いません。
むしろ道産子のように一歩一歩を力を込めてゆっくりと歩きたいと思います。

今年も1年、どうぞよろしくお願い申し上げます。
そして皆様のご多幸をお祈り申し上げます。





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2025.12.18

キンカン塗って~また塗って~

昨日のお話。

7弦ギターコンサートの予約をしに「のんの」に出向く。
てんこママの作るレモネードが好きで、注文するとあてに金柑の甘露煮を出してくれた。
これもママさんの手作り。
適度な甘さと柑橘の酸味や苦みがほどよく美味しかった。

もしかしたら、金柑を口にするのは初めてかもしれない。(知らずに口にしたことはあるかもしれないが)

生まれ育った北海道では金柑は作られていない。(今はどうかわからないが)
金柑を食べるという習慣もなかったと思う。

ふと思い出したのは、真冬に手足の指先がよくしもやけになっていたことだった。
母親によく言われた。

  あんた、掻くんでないよ
  金柑塗っときなさい

当時の道民には金柑というとかゆみ止めだったんだ。
そういえば祖母が何かを焼酎に漬け込んでいるのを何度か見たことがある。

そんな記憶がよみがえり、てんこママに「北海道では金柑は焼酎に漬け込んでかゆみ止めにしていたんだよと伝えた。

帰宅後、なんか違うよなと思い記憶の糸をあらためてたぐってみた。
金柑が採れない北海道で金柑を焼酎に漬け込むなんてことあるはずがないよね。
子供の頃「キンカン塗って~また塗って~」というコマーシャルソングを口ずさんでたぐらいだから、しもやけに塗っていたのは医薬品として売られていた「キンカン」という商品だろうな。

てんこママにはいい加減なことを言ってしまった。
後で訂正しなきゃな。

でもおばあちゃんが焼酎に漬け込んでたものはなんだったんだろう?
またまた記憶の糸をたぐっていった。

  そうだ!あれはトチの実だ。
トチの実はその辺にゴロゴロ転がっている。
容易に焼酎漬けを作ることができる。
「とち水」(焼酎漬けをそう呼んでいた記憶がある)はどんな時に塗ってたんだろう。記憶が定かじゃない。
調べてみた。
トチ水の効用は打撲・筋肉痛・肩こり・関節痛などの痛みに塗る湿布代わりや、虫刺され・疲労回復・冷え性改善だそうだ。
そうか頻繁にケガをしていた僕は、湿布がわりにトチ水を塗られていたんだろうな。

おばあちゃんはいろんなものを手作りしていた。
真っ黒に変色した専用のアルミやかんでハブ茶を煮出していた。
こちらは目の健康維持(疲れ目、充血)、便秘改善、高血圧予防、コレステロール値低下、肝機能サポート、疲労回復に効能があるらしい。
味や香りもなかなか良くて子供の頃は僕も愛飲していた。

今思うと昔の人たちは身近なものを使って民間薬にしていたんだなとあらためて感心している。

内地に移り住み半世紀となり、しもやけになることも今ではもうない。
「キンカン」のお世話になることもなくなった。

それでもあの懐かしい「キンカン塗って~また塗って~」のフレーズを忘れることはないだろうな。
子供の頃のおぼろな記憶とともにね。

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インターバル・ウォーキング

昨日から毎日の散歩にインターバル・ウォーキングを取り入れている。
3分間追い込むくらいの速歩きをし、次の3分間は普通の早さでゆったり歩く。
これを1セットにして5セットくりかえす。
時間にするとちょうど30分。
結構疲れるが、終わった後は爽快。
やっとインターバルができる体の状態に回復した。
今はそれがうれしい。
今年の正月、「スクッと立ち、スクッと歩く」ことを1年の計とした。
大地に直立した形で立ち、その状態を維持しながら前へ歩く。
言葉を換えれば足の裏から腰、頭へと一直線であることを科した。
当然これでは速くは進めない。
ゆっくりでも大地を踏みしめて一歩ずつ進むことが大事だと思った。(しばらく体調を崩していて「一歩ずつゆっくり」せざるをえなかった)
そしてこれは散歩だけではなく、普段の暮らしや音楽生活もまた同様と思っていた。
今年は背伸びすることなく、できることをひとつずつゆっくりと進めていこうと思っていた。
およそ1年が経過した。
順調に「スクッと立ち、スクッと」歩けるようになった矢先、殺人的な夏の暑さにすっかりやられた。熱中症だ。
10月半ばまで倦怠感のため歩くのもかったるかった。
「スクッと」どころか、足を引きずるようにしか歩けなかった。
自転車も同様でスピードも距離もさっぱり回復しなかった。
それでもできる範囲でできることを続けられたのが良かったんだろう。
徐々に体調回復の兆しが見え始めた。
相変わらずのカタツムリのような歩みだが、少しずつ距離を伸ばすことができるようになった。
ゆっくり長く歩き距離を踏む、L.S.D.(Long Slow Distance)に徹した。
距離も少しずつ伸びてきたことだし、ここらで一発身体にカツを入れよう。
そう思いインターバル・ウォーキングをしてみた。
数年ぶりのインターバルだったが、速く進もうと気持ちが先行しフォームはだいぶ崩れていたと思う。
ここは原点に立ち返り、スクッと立った状態からの速歩を試みようと思っている。
とはいえ、今はふたたびインターバル・ウォーキングに挑戦できるようになったことがなによりうれしい。

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『一粒の麦』より

   [砂上の楼閣]
  孜々として
  築き上げ来し楼閣も
  一夜の風に倒れ行く
  唯、手を拱きて唖然たり
  我が血と汗の結晶の
  噫脆かりき今は亡く
  然れども
  風徒に吹かざりき
  砂上に立てし楼閣は
  倒るべきこそ運命なれ
  固き大地に根を据ヘて
  新しき塔を築きゆかん
  風徒に吹かざりき
      昭和21年8月4日 コイケヤーノフ・ノブオンスキー
父は若い頃から万年文学青年・情緒過多症を自認していた。
膨大な数の文章をコイケヤーノフ・ノブオンスキーの名で書き残している。
父の死後、母と子供たちでそれらの文章を整理し『一粒の麦』
という遺稿集を作った。
B5版120ページの並製本にはとうていすべてを収めることができず苦労した。
そこで自分のフィルターを通し父から引き継がれているもの、また引き継ぎたいと思う文章を選んだ。
上記の詩歌は終戦後、復員し函館の街を歩き回っていた頃に認めたもの。
『一粒の麦』の巻頭を飾った。
父の文章としては最も古いもののひとつであり、その後の人生の出発点になったように思えた。
昭和20年の「敗戦」が父に与えた衝撃は心身共に甚大なものだった。
一夜にして信じ込んできた価値観が一変するもの、それが「敗戦」だった。
孜々(しし)として築き上げてきた大日本帝国は玉音放送を以ってすべて崩れ落ちる砂上の楼閣だった。
一命を取り留めて復員した父は崩れ落ちることのない「新しき塔」を探し、作り上げることが自分の生きる意味ではないかと考えたものと思われる。
この1年後、肺結核で数年にわたる療養所暮らしをし死と向き合うことになる。(当時肺病は「死の病」と呼ばれていたそうだ)
戦争で特別攻撃隊員として「死」に向き合い、数年後肺病持ちとしてふたたび「死」と向き合わざるを得なかった。
「新しき塔」への希求は特別な思いがあったに違いない。
僕にはそのように思えてしょうがない。
幸か不幸か父のごとき苛烈な人生経験を僕は持ってはいない。
しかし父の紡ぎ出した文章から垣間見られる彼の生き方をあらためて跡づけたいと思っている。
そうすることで父・古池信夫を自分の中に消化し、自分自身の血肉にしたいと思っている。
写真は昭和23年、肺結核のため七飯療養所にいた頃の父
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