音楽雑感

2017.06.19

「朝市コンサート」を終えて 歌謡曲について

市場で歌った後はいつものラーメン屋さん。
ラーメンをすすりながらその日の演奏をふりかえるのがすっかり習慣になってしまった。
数年前まではその場は「喫茶いずみ」だったっけな。

8月のおーるどたいむライブをにらんで歌謡曲特集だった今日の朝市コンサート。

歌謡曲は身体にしみこんでいる。
幼い頃からあたりまえに聞いてたもんな。
学校の行き帰り大声で歌ってたもんな。
「骨まで 骨まで 骨まで愛して ほしいのよ」なんてね。

僕を通り抜けた歌謡曲は昭和40年代だった。
小学生~中学生、そして高校生のころだ。
つまり思春期から青春期の多感な時期に流れていた流行歌だ。

中学生頃からビートルズなどの洋楽も聞き始め、高校時代はフォークソングいっぺんとうだった。
それでも流行歌=歌謡曲は同居していた。

次のおーるどたいむライブのテーマは「私を通り抜けた昭和40年代の歌たち」ってのもおもしろいかも。
そうすると歌謡曲だけでなく洋楽も守備範囲に入ってくるしね。

なにより自分自身が無邪気に楽しめそうな気がする。

しばらくの間、選曲にかかりっきりになりそうだな。
なにしろ昭和40年代はものすごい数の歌を聞いてたからな。
好きな歌で、ちゃんとかたちにできる歌を選ぶ。
悩ましくも楽しい作業になりそう。

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2017.06.18

衣替え

梅雨に入った。

明日の「お好み焼きの三貴ライブ」から夏に向かって舵を切る。

年に数度の歌の衣替え。
春の歌は蔵に収め、梅雨~初夏の歌をひっぱりだした。

明日は虫干しをかねて雨の歌を中心に歌おうか。

そして明日は三貴ライブを始めて12年目の一里塚。(あれ?13年目だっけか?)
当時よく歌ってたヤツもたくさんやろう。
あの頃よりは多少なりともよくなってるだろう。

明日が楽しみお好み焼きの三貴ライブ。

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2017.03.20

影法師 「シークレット」という歌

山形県のフォークグループ影法師の「影法師30」というアルバムを聴いている。

最後の1曲に「シークレット」という歌が入っている。

最初は気がつかなかった。

何しろ1分間の無音の後におもむろに始まるのだから。

聴きながら不覚の涙。

この歌は手さぐりでフォークソングを歌い続けてきた彼らのいわば「独白」。


壁にぶつかり、己が道を手さぐりしながら歌ってきた影法師の「独白」はそのまま僕自身にも重なってくる。


「遠い世界に」あこがれ、「夜明けは近い」と信じた若者が、壁にぶつかり道しるべもないままに手さぐりを続け、今に至っている。

アルバムの最後に1分もの無音の後におさめた意図はわからない。わからないけどここに影法師の決意を感じる。

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シークレット
           影法師

今さらこの道が 
間違っていたなんて 言えるわけがない
あの頃の僕には 道しるべなんて なかったから
何度も何度も 転げながら 
何も見えぬ闇の中を
手さぐりで 歩いて きたんだ
ただ 光さすところにゆきたくて 
そうするしか  なかったんだ  
そうするしか なかったんだ

いつか熱病に 取りつかれたかのように 
身も心も燃やしたことがあった
いつか目の前に 壁がたちはだかり 
ぼうぜんと 立ち尽くしたこともあった
いつかひとりきりの 淋しさに 耐えきれず
膝を抱えて 泣いた こともあった
いつか壊れた 夢のかずかずを 
拾い集め 涙の川に 
流してやったこともあった

今さらこの道を 
ひき返すことなんて できるわけがない
今 ぼくは 道しるべを 
ここに 刻もう
たとえ嵐が 吹き荒れようと 
道しるべ さす方へ 
迷わず 歩いてゆこう
いつか夜明けは やってくるのさ 
これが僕の 道なんだ  
これが僕の道なんだ

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2017.01.11

今年1年のライブ活動の指針 「起承転結」

昨年のライブ記録のデータを見ると、年間71回のステージをさせていただいている。
そのうち55%が2時間ステージ。25%が1時間ステージ。30分ステージは10%に満たなかった。

もともと単独ライブ指向が強く40代のころからその傾向は顕著だった。
その延長上に今があることを考えれば極めて自然な成り行きではある。

...

そんな中で今年は30分程度の短時間ステージを充実させたいと思っている。
演奏時間が短いとその中に様々なことを凝縮させることになる。
言い方を変えると不要なものをそぎ落とす必要が出てくる。
僕はどんなステージでも準備段階で起承転結を考慮している。
それはたとえ15分でも、2時間の長尺であっても変わりない。

長尺ステージの場合は遊びがあるので道草、寄り道をしながら最終的には「結」に持ってくることができる。
これは極めて楽しいステージである。反面ちょっと間違えると冗長になってしまう。(幸い最近そういうことは少なくなってはいるが)

起承転結のしっかりしたミニステージを増やして余分なものをそぎ落とすトレーニングは必要なことだと感じている。
「起承転結」がしっかりしていれば流れの中で「序破急」も活きてくるように思う。

今の自分のやっているライブで短時間物は極めて少ない。
そんな中で比較的自由に組み立てることのできる「朝市コンサート」などの構成を工夫してみるのも一手だと思う。
例えば現状の1時間2本勝負から30分4本勝負に分割してみるのもいいかもしれない。

4つの起承転結で2時間を構成するやり方だ。
当面はそれぞれに連関を持たせることは難しいかもしれない。
でもいずれ4つの小ストーリーや小テーマ自体が「起承転結」になっているという風になれば楽しいだろうな。

どこまでやれるかはわからないが今年の目標は
「起承転結」を強く意識すること、
そのために余分なものをそぎ落とすこととしよう。

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2017.01.03

ゆく年くる年 昨年をふりかえって「基礎データ」

2016_2
ボタン操作を誤り、書いた文章がすべて消してしまった。

ショック!

くやしいので昨年のライブ記録のみ基礎データとして掲載。

時間ができて気分がのったら昨年総括を再度書こうと思います。

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2016.12.30

「My ゆく年くる年」に向けて

今年も残すところあとわずかとなった。

先週の土曜日、「朝市コンサート」で今年のライブ活動を〆め、昨日仕事を納めた。

この1年が自分にとってどうであったかを毎年ふりかえる、次にどう歩むかを探るのが長年の習わしになっている。

ライブ活動に限ればこの1年をふりかえるためには2年前、2014年に戻るのが適当だと思われる。

今の自分のライブ活動は2014年がベースになって続いているからだ。

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この年印刷業界に別れを告げ、まったく違う職業につき3年近くが経過していた。

新しい仕事に少しずつ慣れ始め、慣れたがゆえにその難しさに困惑を深める毎日だった。

心身ともに追い詰められ、ゆとりのかけらもない日々だった。

そんな中でもライブ活動は続けてきた。

自分のライフワークとしてこれだけは死守したかったのだ。
(ほかの多くのことは自粛し犠牲にせざるをえなかった)

そんな中でライブの位置づけやスタンスを見直した。

以前にもまして地元志向が強まった。地元・越谷以外の場所まで遠征する時間的(精神的)余裕がなかったためだ。

また毎月やっている様々なライブを単独のものととらえず、それぞれ連関してとらえるようになった。

これによってひとつのライブの本番が次のライブへの準備として位置付けられるようになった。

この流れを月ごとではなく年間を通して継続するためにQC思考を意識した。

ライブ準備と本番、次の準備への移行の流れを円滑にするために「PDCAのサークル」(Plan→Do→Check→Actione)を回すように意識したのだ。

試行錯誤の末やっと今の暮らしの中でできるライブ活動の形が見えてきた2014年だった。

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あれから2年が経過した。この視点から見た時今年・2016年はどうであったか。

あらためてふりかえりたいと思っている。

→「2014年の音楽活動をふりかえって」(一昨年の記録より)
http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/2014-9e63.html

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2016.12.02

「たきび」

元荒川の土手で小さくたきびをした。

よぎった歌は「たきび」。

かきねの かきねの まがりかど...
たきびだ たきびだ 落ち葉たき

子供の頃好きだった歌のひとつ。
歌詞のリズム感が良いせいか、歌ってて気持ちいい    

      さざんか さざんか さいたみち
      たきびだ たきびだおちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

2番を口ずさんでふと気がついた。

子供の頃さざんかのなんたるかを知らずに歌ってた。
北海道にはさざんかは咲いていない。
津軽海峡を走るブラキストン・ラインを境に動植物の植生は変わる。

考えてみると北海道ではたき火をする文化はない。
なにしろたき火をする前にすぐに冬が来てしまう。
落ち葉は雪の下に埋もれてしまう。

たき火を囲んでよもやま話。
いい文化だよね。

来週、デイサービス・さんすまいるでコンサート。
その翌週は函館の特別養護老人ホームでコンサート。

今月の童謡・唱歌コーナーはこの歌を歌おうか。
ブラキストン・ラインの話をしながら。

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「場末のフォークシンガー」

「場末のフォークシンガー」

自分の歌うたいとして描いてきたイメージだった。
若い頃はイメージだけだった。
40代後半「街角ライブ」を始め、「朝市コンサート」や「お好み焼きの三貴ライブ」につながり、「喫茶店JUNEライブ」老人施設などで歌うようになり少しずつ現実的なものになってきた。

...

昨年の今頃書いた文章が出てきた。この先「場末のフォークシンガー」としてあるべき姿を感じさせられた1シーン。忘れぬために再掲載することとした。

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今週もなんとか切り抜けた。
寒空に背を丸めてとぼとぼ。
ふらっと足を踏み入れる古ぼけた中華屋。

ラーメンの湯気と煙草の煙。...
あったかい空気と満員のお客のしゃべり声。
濃密。

お客はけっこう年配のおっさんだらけ。
料理人もおっさんなら、接客も白髪パンチパーマのおっさん。
紅一点の皿洗いもオバサン。

そこかしこでオダをあげるおっさんたち。
多分定年過ぎて、第一線を退いた70にちょっと手のかかるおっさんたち。

仕事の仕方談義に唾を飛ばしてる。
でもどこか実態のない論議がちょっと哀しい。

一線を退いても、戦ってきた日々をどこかにまだ引きずっているのかも。
社会や家庭や仲間内の中にあって自分の存在を確かめたいのかも。

あと何年かすると、自分もまた仲間入りするだろうお年頃。
どこか哀しく、どこか親しみを覚えるのは自分もそこに近づいているから?

みんな何十年もこの店にかよいオダをあげてきたんだろうな。

壁には巨人軍の松原選手と駒田選手に寄贈された硝子。年月を感じる。
長い年月かけっぱなしの札が油で茶に薄汚れている。
ラーメン 350円也

餃子とかた焼きそばをつつきながら疲れが少しずつ薄れていくのを感じる。

ふと思う。
オレが一番歌いたいのはこんなおっさんたちになんだよな。

場末の片隅でひっそりと、おっさんたちやオバサンたちに囲まれて。
何とはなしに人生を語りあいながら歌い、時を同じくする。

そんな歌うたいにオレはなりたいんだと思う。

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2016.08.30

「欲と無欲について」ふりかえる

「欲と無欲」 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-c52e.html

4年前の今日、こんな文章を書いていた。

若いころから自分が歌い続ける原動力になっていたのは「欲」だった。

少しでもいいライブをしたい。うまくなりたい。表現力を高めたい。お客様の反応を瞬時に感じ取り、いち早く反応できるようになりたい。

長いことこの一心で積み上げてきた。

4年前、原動力だった「欲」に対し「無欲」でありたいと願った。

肩の力を抜き、虚心坦懐に歌うことが自分にとってより自然な状態だと感じ始めていたからだ。

正確に言うと稽古では欲の塊であっても、ライブでは「無欲」でありたいという願いだった。

「無欲でありたい」という願いはそれ自体が「欲」である。

それでも意識的に「無欲」であることに努めなければそうならないものだ。

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4年が経過した。

今の自分はどうであるか。

ふとそう思い、ふりかえってみた。

なんかいい感じで歌ってるな

そんな気がする。

「欲」だの「無欲」だのって言ってたことが遠い過去のことのように思える。

ライブだからといって特別な思いは今はほとんどない。

おしゃべりをしていたその延長が気がつくと歌に変わっている。

それが次のおしゃべりにつながっている。

おしゃべりの結果として脱線や道草、寄り道をしても最後は元のテーマにいつのまにか戻っている。

言ってしまえばとても「ゆる~いライブ」になっている。

でもこのゆるさが今はとても心地いい。

ここ数年のうちに意識せずとも自然にそんな風に変わってきたんだと思う。

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欲は無くなったのか?

決してそんなことはないとも思う。

よりいいものを目指したいという思いは以前にも増して強くなっている。

でなければ一つのフレーズを延々と歌い続け・弾き続けるような「練習」はできない。それも毎日などとてもできるものではない。

少しでもうまくなりたい、よりよいものをめざしたいという思いは依然として強い。

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もしかしたら「よりいいもの」のイメージが4年前とは変わってきているということなのかもしれない。

4年前、ライブとは「自己表現の場」というような意識が根強く残っていた。

より良い表現をすることでお客さんに喜んでいただく。

それが自分の充足感につながるという感じだった。

最近は「そいつはちょいとおこがましい」と思うようになった。

昨今気持ちがいいのはお客さん、共演者、自分とで共作していくライブ。

自分はその「水先案内人」というのが一番気持ちよく、充足感あるものに感じられる。

指向(嗜好)が変わってきているのかもしれない。

「ゆる~いライブ」=「井戸端ライブに」。

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今自分が一番やりたいライブ。

それは数少ない「お客さん」と車座になり、おしゃべりを重ねながら歌っていくような音楽会だ。

もしかしたらこれは「無欲」の極致につながるものかもしれない。

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【追記メモ】

高校生の頃、宇野重吉と北林谷栄の芝居を観た。

淡々とした演技に静かな感動を覚えた。

あの静かな感動の本当の良さが最近やっとわかってきた。

演技・表現とは決して大げさなものであってはならない。

それはこけおどしに過ぎず、驚きはするが感動とは別の次元のものだ。

体全体からにじみ出るそこはかとしたものこそが、心のひだに浸透していくものだ。

表現とは感じさせぬもの、演技とは感じさせぬもの。

自然な立ちふるまいから感動を覚えさせるものこそが大切。

それは演技者の感性だけではなしえぬ、稽古の積み重ねが下敷きになっている。

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2016.07.22

「ナマギターとナマ歌へのこだわり」にちょっと迷いが

ここ5~6年ライブのセッティングは完全アコースティック(ナマギターとナマ歌)に強くこだわってきた。

ちゃんと歌を届けるためには素の状態で演奏することが一番いいと感じてきたからだ。

スピーカーを通した音は素の音量を増幅してくれるけど、その分体内から絞りだされた情感のようなものが薄まってしまう感じがしてきたからだ。

お客様との間に薄いベールがかぶされてしまうような気がしてきた。

だからライブの基本は完全アコースティック。

「朝市コンサート」のようなだだっ広いところで歌う状況ではコンデンサーマイクを1本だけ立てギターと歌がうまくミックスされたところを拾うようにしてきた。

ギターの音をラインで拾うのは「お好み焼きの三貴ライブ」のような喧騒の酒席ライブくらいだった。

完全ナマ音ライブをやるために呼吸法や発生法を鍛錬した。また使うギターもその場の環境に合わせて選んできた。

声を張り、ギターをかき鳴らせば少しくらい広いスペースや大人数でも十二分に音は伝わる。でもそれでは歌の情感は失われてしまう。大事なのはピアニシモの声を届かせること、それに見合ったギターの奏法を工夫すること。そのための研究や鍛錬を積み重ねてきた。

ここ数年、かなり納得のいくところまで持ってこれるようになったと思う。

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そんな「自負」にちょっと迷いが生じてきている。

それは函館帰省のたびにやってきた「特養・旭ヶ丘の家コンサート」の録音を聴いてからだ。

妙な力が入っていて、演奏が雑に感じられたのだ。

コンサート会場はかなり広いスペースで、そこに何十人ものご老人たちが集まる。年が年だけに耳が遠い方も多い。

そんなところで歌うためか知らずのうちに力みが出ているように感じられたのだ。

ふりかえれば1時間ちょっとのコンサートの半ばで何度か声がかすれてしまい、それをごまかす唱法になっていた。

どれだけ歌っても喉をつぶさず歌える自信があっただけにこれはショックだった。

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その後特に広いところで歌う「朝市コンサート」でもその傾向があることに気がついた。広さと買い物客の喧騒に負けぬよう、知らずのうちに力み出ているのだ。その結果喉が締まっていることに気がついた。

     「自然に歌えてない」

これが迷いの生じた大きな要素だ。

(続く)

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