ラヂオの想い出 最終回 「放送委員」
中学時代、僕は放送委員をやっていた。
小6の時も放送委員だったと通信簿に書いてあったが、こちらはほとんど印象に残っていない。
でも中学時代の放送委員の記憶は強烈に残っている。
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それは深夜放送の影響が強かったためだと思う。
放送委員会には予算が付いていて、それでレコードを買うことができた。
深夜放送で聞き覚えた音楽を、校内放送でも流したい。
そんな思いが強く、一緒に放送委員をやっていた工藤信也と一緒に選曲に血眼になっていた。
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昼休みに流す校内放送ではフォークソングの数々やベンチャーズ、ビートルズなどが多かった。
ただこの頃はエレキギターに対する大人たちのアレルギーは強かった。
フォークは受け入れられるがエレキはダメだって感じが強かった。
エレキを弾くやつは不良だ!
そう言われた時代だった。
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自由な校風だった我が潮見中学にしても先生方の中には眉をひそめる人も少なくなかった。
グループ・サウンズ特集を放送中に放送室に入いりこみ、放送中止を言い渡されたこともあった。
そこで僕と信也は一計を案じた。
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放送室にじょっぴんかうべや
流しちまえばこっちのもんだべさ
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なんてことはない単なる実力行使だった。
(「じょっぴんかう」とは古い北海道弁で「鍵をかける」という意味)
昼の校内放送を深夜放送にしたいというのが暗黙の了解だった。
(「昼の信也放送」などと密かに命名もした)
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はがきの代わりに「目安箱」という投稿ボックスを作ったりもしたがこれは失敗だった。投稿する生徒は数えるほどしかいなかった。
チャン太・ポン太・ピン太&キン太(CPP&K)書き下ろしの「連続ラジオ小説 帰ってきた酔っ払い」なるものの生放送を試みたが、これは自己満足で終わってしまった。(僕のペンネームはポン太だった)
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深夜放送は受け手の立場だったが、校内放送ではとにかく発信する側に立ちたかったんだ。
ラジオ文化全盛期の影響はモロだった。
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幸いにもやりたい放題、かけたい放題はなんとか概ね貫徹できた。
当時の合い言葉は「オレたちの聴きたい音楽をまず流すべ。して生徒たちが聴きたいと思う音楽も全部流すべ」。
今思うと後の音楽活動のスタンスの萌芽は放送委員を通して生まれていたのかもしれない。
ちなみに一緒に放送委員をやった工藤信也は今も音楽酒場「サウンド・インS」を経営しながら歌い続けている。
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