断腸の思い
明日の「おーるどたいむ de ライブ 秋の陣」。
『日本フォークソングの夜明け』と題し、黎明期の1960年代後半~70年の歌を準備をしてきた。
この時代は僕も影響をたっぷり受け、歌い始めた頃だ。
思い入れの深い唄が玉手箱のようにつまっている時代。
選曲が難しくて難しくて。
あれもやりたい、これも外せないってやってたらあっという間に30曲近くに。
とても1時間の枠では収らない。
テーマがテーマだけに、しゃべり出すと止まらなくなる恐れがあるしね。
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選考ラインに登っている30曲ほどはすべて歌い込んだ。
そして「おこもりリハーサル」で最終的にふるいをかけた。
断腸の思いで削った10曲。
せめてここに記載しておいてやろう。(順不同)
①出発の歌(六文銭)
小室等さんはPPMフォロワーズがスタートなので流れとしては東京のカレッジフォークなのかもしれない。
でも六文銭では骨のある名曲をたくさん残している。
僕はこの歌を高校の卒業式で体育館の壇上を「占拠して」歌った。
②戦争しましょう ~ ③教訓Ⅰ(加川良)
僕の中ではワンセットになっている歌。東洋大学・社会問題研究会の先輩が愛した歌。
彼が「この歌はりっぱに反戦歌だよ」と言っていたのを忘れられない。
④翼をください ~ ⑤血まみれの鳩 ~⑥竹田の子守歌(赤い鳥)
赤い鳥はアメリカから伝えられたフォークソング・リバイバルの運動を正しく受け継いだグループだと思う。
フォークソング・リバイバルではアメリカの伝承歌や時事的な事柄もテーマにして歌っていた。
その色合いが鮮明だったのはPPMだった。(東京のカレッジフォークはそのスタイルを真似ていたが社会的な部分は希薄だった。
⑦死んだ男の残したものは(高石友也・他)
谷川俊太郎の詩、武満徹の曲。1965年、アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまっていく頃に作られた。
60年の時が経過しているが、今なおなにひとつ変わっちゃいない世の中だ。きわめて現代的な意味をも持つ歌。
⑧私たちの望むものは(岡林信康)
日本フォークソングの黎明期。岡林信康は「フォークの神様」と呼ばれた。
彼自身牧師の息子であり、その風貌はキリストを連想させるものだった。かくして反戦歌、プロテストフォークの象徴とされた岡林だった。
その岡林が「フォークの神様」と呼ばれることが苦しくなり内心の葛藤をつづけた。
視点が社会(外面)から自分自身(内面)に向けられるようになる。
その転換点になったのが「私たちの望むものは」だったと思う。
岡林は第3回フォークジャンボリーではっぴぃえんどを従えてロックのサウンドとして歌った。
その表情は苦しげだったのではないかと想像している。
高校時代、同級生のアラヤ君と一緒にフォークバンドをやっていた。そのバンドには欠かせない歌だった。
⑨今日までそして明日から ~ ⑩青春の詩(吉田拓郎)
第3回フォークジャンボリーで岡林の歌うそばにあるサブステージでは拓郎は「人間なんて」を延々2時間歌い続けたそうだ。
後に「フォークの旗手」が岡林から拓郎に変わった瞬間とも言われた。
高校時代、クラスの中で拓郎派と高石・岡林派が激しく論争を交わしたのを想い出す。
社会派が絶対的価値観を持っていた時代に、拓郎はそれを相対化させたと思う。その第一声ともいえる歌が「青春の詩」だった。
拓郎は時代の転換点にいて、相対化された視点がニューミュージックにつながっていったものと僕は理解している。
⑪室蘭の空(高石友也「ベトナムの空」の替え歌。作詞は古池雅彦・隆彦)
⑫新・高校生ブルース(古池雅彦)高石友也の主婦のブルースに触発されて書いた歌。
フォーク黎明期の影響を強くうけ活動してきた次の世代を「フォーク第二世代」と松山千春は言っている。
それにならうならば僕もまた第二世代。
第一世代の影響のもとに駄作ながらいくつか書いた歌。
これらの歌はいつか機会があったら歌いたいと思う。
でもそういう機会はもう多くはないんだろうな。
自分の唄蔵の中にしまい込んでいた唄の数々。
何十年ぶりに向き合ったということに意味があったのかもしれない。
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