想い出 東洋大学 学食
今朝のテレビで東洋大学(以下「洋大」)の学生食堂(学食)の取材番組が放送されていた。
1000人以上の学生が入れる、広くて、明るくて、清潔な、そして近代的ま学食。
様々な店舗の入るフードコート方式とのこと。
そして旨そうな料理がすべて600円以下で食べられる。
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50年前、僕は洋大の学食でアルバイトをしていた。
当時の学食は半地下に設けられていたので薄暗く、吹き込む風の生で少々ゴミくさかった。
僕たちは学食のことをメスホールと呼んでいた。(メスホールとはアメリカ海軍の植民地時代の軍人用施設)。
そこは食堂であり、同時に学生達のたまり場でもあった。
広い学食のあちらこちらで学生達は語らい、本を広げるという風景があった。
半地下の学食の出入り口の階段を上ったところには植え込みがあり、ブルーグラスバンドなどが練習をしていた。
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僕はこの学食でおよそ1年間アルバイトをしていた。
最初は大ホールの配膳係。
メイン料理は自動回転式の大鍋や巨大なフライパンで作られ、その料理はワンプレートの皿に盛りつけられる。
皿はベルトコンベアに乗せられ次々に流れてくる。
配膳係はその皿にガロニー(付け合わせ)を乗せていく。
ベルトコンベアのスピードは速くて、集中しなければ追いつかない。
ずっと中腰、たちづくめでその作業をしていると、だんだん腰が痛くなってくる。
まるで工場労働者のようだった。
その後別室にあった蕎麦コーナーに配属されたので配膳作業からは解放された。
蕎麦コーナーでは蕎麦つゆの仕込み方などを職人さんから教えてもらったりして楽しさの方が多かった。(配膳係とはえらい違いだった)
また管理者の目が届かなかったこともあり、あまった蕎麦や天ぷらを食べさせてもらえた。
貧乏学生にはありがたかった。
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3年の夏休み、学生アルバイト達は休みとなった。一時帰休というヤツだ。
約2ヶ月の長い夏休みは収入がなく、最低限の暮らしで乗り切った。
他のバイトを探すこともできたが、そうすると夏休み明けに学食に戻ることは難しいと考えたからだ。
洋大学食の給料は比較的高かったので、それを捨てることは考えられなかった。
ひと夏、ご飯と納豆、時々キャベツだけでなんとか乗り越えた。
夏休みが明け、職場復帰のため学食に向った。
僕のタイムカードはなかった。
いぶかしく思い社長を探し出し問いただした。
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売り上げが思わしくないんで
学生さん達にはやめてもらうことにした
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必死に抗議した。
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夏休みの間、他のバイトに探さず新学期に備えてきた
そのために借金までして堪えてきたんだ
それはないでしょう
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しかし聞き入れられるはずもなく交渉決裂。
悔しさ、憤りをかかえながら僕は次のバイト探しのため新聞求人欄に目をやった。
洋大のある白山からひと山を越えた小石川にある共同印刷の求人広告が目に飛び込んだ。
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文化創設の担い手、共同印刷
安定的雇用
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というような文句が書かれていた。
洋大では文学部国文科を専攻していたので、活字を扱う印刷会社に惹かれた。
でも
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夜勤あり
2ヶ月の試用期間あり
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小さく書かれたこれらの文句には気を留めなかった。
夜勤明けに学校に行けばいいとか、真面目にやれば本採用になるだろうと都合のいいように解釈した。
はたして共同印刷に雇われてみると、夜勤明けでの通学はほとんど無理であることを知った。
重たい紙を扱う印刷作業(当初は補助作業)は重労働だった。
大学に籍を置いていては本採用の道はないことを知った。
腹をくくった。
学生であることをやめ、労働者として生きることにした。
テレビで放送された今の洋大の学食の風景を見ながら、そんな記憶がよみがえった。
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