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2024.11.27

2024年12月 ライブ・音楽会予定

2024_12
12月08日(日) 井戸端音楽会@楽龍時
時 間  13:00~15:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
参加費  ¥550+オーダー
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12月13日(金 つくろうカフェ 歌声音楽会 @羽生 MD Library
時 間   14:30~15:30
場 所   MD Library @羽生
       羽生市中央2-5-26
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12月15日(日 フォークの歌声音楽会@おーるどたいむ
時 間  14:00~17:00
場 所  場 所  Live cafe おーるどタイム
      https://oldtimemk.exblog.jp/
出 演  Martin古池
参加費  ご注文をお願いいたします。
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11月21日(木) SOMPOケア 配信ライブ
時 間  15:00~16:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
★日本各地のSOMPO関連グループホームをオンラインでつなぐ歌声音楽会
 見学・応援大歓迎!(お気に召したらの投げ銭ライブ)
Sompomartin
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12月20日(金) さんすまいる音楽会
時 間  13:30~14:30
場 所  デイサービス・さんすまいる
地元、越谷は蒲生のデイサービス・さんすまいるで長年やっている歌声音楽会。
じいちゃん、ばあちゃんたちと世間話に花が咲き、気がついたら歌っていた。
歌とおしゃべりがシームレスにつながっている音楽会です。
見学をご希望の方はご連絡をお願いいたします。(martinkoike@gmail.com)
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1225日(  歌声喫茶 @ JUNE

時 間  16:30~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 (1ドリンク付き)
水先案内人 Martin古池

★昭和の香り漂う喫茶店で昭和を思いおこす歌の数々を参加者みんなで歌います。
歌とおしゃべりあふれる黄昏時をご一緒しませんか。

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12月11日(水) ギター・ワークショップ@JUNE
12月26日(木)→仮予定です。変更ある場合は後日ご連絡いたします。
時 間  16:00~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 +オーダー
水先案内人 Martin古池
★11月26日は仮予定です。変更があった場合あらためてお知らせいたします。
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12月(土)  青空演奏

時 間  12:30頃~15:30頃
場 所  越谷中央市民会館前の川沿い芝生広場

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2024.11.25

駅 STATION

高倉健主演の映画「駅 STATION」をあらためて見直した。
何度目だろう。
いつ見ても、胸が熱くなり涙腺がゆるむ。
監督は降旗康男、脚本は倉本聰、そして撮影は木村大作。
映画は三上英二(高倉健)をめぐる三人の女たちが横糸に、警察官・三上英二の男としての生き方をめぐる苦悩と男の美学(?)を縦糸に展開する。
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[1968年 銭函 直子]
物語の始まりは雪の銭函駅ホーム。
妻・直子(いしだあゆみ)との別れから始まる。
原因は詳しく描かれていない。
道警の刑事であり、同時に東京オリンピック(1969年)の射撃選手に選ばれていた英二。
多忙の故に家に戻れぬ日々が続いたのだろう。
淋しさの故にか直子はただ一度の「あやまち」を犯す。
英二はその事実を受け入れられず、離婚につながったのだろう。
走り始めた汽車から半身を乗り出し敬礼する直子の眼には涙が。
英二は気づいていなかったのか、ホームから線路を見つめるのみ。
もしかしたら気づいていても見返すことをしなかったのかもしれない。
二人の心理を映画では説明されず、視聴者の想像にゆだねられている。
連続警官射殺犯、森岡(室田日出男)の張り込み中の出来事。
英二の上司であり、射撃の先輩でもあった相馬(大滝秀次)は、英二の眼前で森岡に射殺される。
森岡は車で逃走し、姿をくらます。
森岡は指名手配22号とされる。
追跡を続けたかった英二だが、道警からの命令で外されオリンピックに専念することになる。
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[8年後、1976年 増毛 すず子]
英二はオリンピック強化コーチを務めながら、一方で赤いミニスカートの女だけを狙う通り魔を追っていた。
増毛駅の近く、風待食堂で働くすず子(烏丸せつこ)の兄・五郎が犯人として捜査線上に浮かんできた。
道警はすず子を張りながら五郎の現れるのを待っていた。
しかしすず子は警察の張り込みを知りながら「とろい女」を演じながら隠し通していた。
そんなある日、すず子は人目を忍んで留萌に出かけチンピラ・雪夫(宇崎竜童)の子を堕ろす。
雪夫は英二に喧嘩を売り、コテンパンにのされたのをきっかけに、(勝手に)捜査への協力を申出る。
すず子は雪夫に思いを寄せていた。
雪夫は結婚を口実にすず子を口説く。
すず子は雪夫を兄・五郎に会わせるために五郎の潜伏する上砂川に。
夜陰に乗じ、線路を歩いて来る五郎(根津甚八)。
五郎に駆け寄りしがみつくすず子。
突然あたりから現れる警官隊。
すず子の悲鳴。
(このシーンの舞台となった上砂川は後に『昨日、悲別で』というドラマの舞台となった駅。)
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[3年後、1979年 暮れ 桐子]
実家のある雄冬に帰省するため増毛に再びやってきた英二。
死刑が執行された五郎の墓に参る。
その後立ち寄った風待食堂ではすず子がまだ働いていた。
時化のため連絡船は欠航。
夜の増毛をさまよう英二の目に赤提灯が。
「桐子」という名の居酒屋に客は誰もいない。
女将の桐子(倍賞千恵子)所在なげにテレビの歌番組を見ている。
ひかえめに交わしあう言葉。
テレビからは八代亜紀の「舟唄」が流れる。
外には深深と降りしきる雪。
自分と同じ孤独の影をやどす桐子に惹かれる英二。
大晦日、留萌の映画館で観て肩を寄せ合いながら雪道を歩く二人。
そして結ばれる。
二人で出かける初詣。
物陰で桐子を見つめる男の視線に気づく英二。
雄冬での正月を終えて札幌へ帰る増毛駅。
船着き場に迎えに来ていた桐子。
そのまま増毛の駅へ。
待合で言葉を交わす二人。
初詣で桐子を見つめていた男のことを話す桐子。
「昔ちょっとあった人。もう帰った。終わったわ」
その視線の先には壁に貼られた指名手配のポスター。
そこには「指名22号・森岡茂」の似顔絵。
札幌へ帰る列車の中で警察官を辞す覚悟を決める英二。
心の中には雄冬に暮らす年老い「惚けてきた」母(北林谷栄)のこと。
桐子とのことがあったかもしれない。
その頃警察に森岡茂が増毛にいるとの「女からのたれ込み」があった。(通報したのは桐子だった)
英二は札幌の警察署から再び増毛へ。
居酒屋「桐子」は店を閉じていた。
吹雪の中を桐子のアパートを探し当てる。
桐子の部屋には森岡が潜んでいた。
英二に銃を向ける森岡。
森岡に発砲し胸を打ち抜く英二。
その夜、居酒屋「桐子」の暖簾をくぐる英二。
視線を合わせることもなく、言葉にもならない桐子。
重苦しい空気。
テレビから流れる「舟唄」に耳をかたむける桐子。
一筋の涙がこぼれる。
再び増毛駅。
そこにはすず子が。
札幌で働くことが急に決まったと馴染みの駅員の問いかけに応えるすず子。
道警本部長にあてた退職願を握りつぶす英二。
デレッキで石炭ストーブの蓋を開けそれを放り込む。
列車に乗り込むすず子のうしろ姿を見つめる英二。
深川に向けて発車する最終列車。
列車には乗らず一人たたずむ英二。
「舟唄」が流れる。
.....................................................................................................
いささか長くなった。
英二の胸に残ったものはなんだったのだろうか。
警察官としての職務を果たす中で三人の女たちの運命を変えてしまったという慚愧の念か。
それでも警察官として生きていくしかないとの想いか。
脚本を書いた倉本聰は映画の中でその結論を出してはいない。
映画を観た者に投げかけて終わっている。
実はこの映画の脚本はもともと2倍の量だったそうだ。
しかしそれではとても2時間ほどの尺には収らないため、降旗監督や田中プロデューサーとケンケンガクガクの上半分まで削除したという。
もし、最初の脚本通りの映画であったならと考えてしまう。
直子との離婚のいきさつやすず子と兄・五郎との関係、そして桐子と森岡の関係なども描かれていたかもしれない。
それを知りたいと思う反面、視聴者の想像に委ねた完成版でも良かったのかもしれないとも思う。
数年前、僕は北海道の炭鉱町を旅したことがある。
その時この映画の主なロケ地もまわった。
増毛、留萌、上砂川などをまわりながら「駅 STATION」のシーンを思い浮かべていた。
映画が公開された1981年。
まだ鉄道は走っていた。
増毛や上砂川は当時の駅舎は保存されている。
留萌は取り壊しを決定したらしい。
(陸路のなかった雄冬はこの年雄冬トンネルが開通しオロロンラインで行き来することができるようになっている)
この映画の最初の脚本ではタイトルが「驛舎」だったそうだ。
銭函、増毛、留萌、上砂川などの驛舎でくり広げられたいくつかのドラマ。
それぞれに個別の独立したドラマではあるが、主人公三上英二(高倉健)を通してつながっていく。
何度観ても見飽きることのない映画だ。
https://youtu.be/_LyYZQsNWnk

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洞爺丸台風のこと、そして映画「海峡」のこと

昭和29年9月26日。
函館を巨大な台風が襲った。
この台風で函館湾沖で洞爺丸をはじめとして5隻もの青函連絡船が沈没、大破した。
これにより1400人もの人たちが海の底に消えた。
最も被害の大きかった洞爺丸の名から「洞爺丸台風」と呼ばれた。
日本海難史上最悪のものとされた。
この時僕は生後5ヶ月だった。
暴風雨によって高台にあった我が家の屋根は吹き飛ばされたそうだ。
僕はベビーベッドの上で雨にさらされていたものと思われる。
(多分両親が何らかの手当てをして守ってくれていたんだと思う)
後に父に聞いた話では、夕方5時頃、台風の目に入り飛ばされた屋根越しに青空が見えていたそうだ。(文字通りの青空天井)
僕は青空を見ながらキャッキャと手を振りながら笑っていたそうだ。
洞爺丸台風の記憶は僕には全くない。
後に小学校に上がった。
当時の校長はオシザワ・シゲタカ先生。
オシザワ先生は洞爺丸に乗っていたことを朝礼の時に話されていたのをうっすら覚えている。
洞爺丸が沈没したのは深夜10時45分ごろ。
暴風雨と辺り一面の闇でまったく方向感覚が分からなかったそうだ。
沈没直前に洞爺丸から海に飛び込み当たりをつけて泳いだ。
運良く泳いだ方角は七重浜方面。
荒れ狂う波に呑まれることもなく、運良く浜にたどり着き一命を取り留めることができた。
そんな話をしながらオシザワ校長先生は抜き手のような、横泳ぎのようなジェスチャーをされていたのを子供心に覚えている。
(もしかしたら先生は海軍出身だったのかもしれない)
洞爺丸台風から丸70年が過ぎた。
昨夜、高倉健さんの映画「海峡」を観た。
青函トンネルを準備を含めて30年に渡り掘り続けた男達の物語。
何度も観た映画だが、いつも襟を正して観ている。
青函トンネルは洞爺丸台風が直接のきっかけだったそうだ。
今新幹線で青函トンネルを走ると25分で通り抜けてしまう。
味も素っ気も風情のかけらもない時間だ。
でも車内放送では必ずこんなアナウンスが流れる。
  ただいまここより青函トンネルに入ります
  ただいま青函トンネルをでて北海道に入りました
たんなる事務的なアナウンスではある。
でもその裏には想像を絶する30年にもおよぶ男達の闘い、そしてそれを支える家族達の歴史が刻まれている。
函館に帰る時、僕はこのアナウンスに合せて黙祷をささげている。
「トンネルさん」たちだけにではなく、洞爺丸台風の犠牲者にもささげる祈りのようなものも含まれている。
最近そんな風に思うようになってきた。
「海峡」(公開年月日 1982年10月16日) 予告篇

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楽しかったマイルス・ジャズ・カフェ・ライブ

Romantic Bandさんにお声をかけていただきマイルス・ジャズカフェで歌わせていただいた。
初めてのお店、初めてのお客様に歌うのはやはり緊張する。
どんな流れで、何を歌うか。
まったく見当のつかないままにマイルス・ジャズカフェに到着。
なんと店内はすでに満員状態。
お客様はみなRomantic Bandの演奏を心待ちにしてるんだな。
そんな様子がひしひしと伝わってくる。
ざっと見渡すとお客様のほとんどが「団塊の世代」とお見受けした。
「団塊の世代」の方々はビートルズ世代であり歌謡曲世代でもある。
フォークソングや日本語カバーポップスなども聴いて来られた方々。
琴線に触れる選曲をするのは容易に思える反面、意外と難しさもある。
1部のRomantic Bandの演奏が始まってもまだ決めかねていた。
Romantic Bandはドラム、ベース、ギターが伴奏し二人の女性ボーカルが歌うスタイルのベテランバンド。
厚みのある演奏、個性の違う二人の歌い手が織りなすステージは聴き応えがある。
そして僕の選曲のヒントも頂戴することができた。
歌謡曲や映画音楽などいろんなジャンルの音楽を奏でるRomantic Band。
それもごくごく自然なアレンジ。
個を前面に押し出す演奏ではなく、お客様に溶け込んでいくような演奏が心地いい。
バンド演奏とソロ演奏の違いはあれど、僕とはとても親和性のある組み合わせだなと思う。
そんな演奏を聴きながらお客様の表情をうかがう。
皆さん、ゆったりと音に身を委ねるようなここちよさげな表情。
Romantic Band作った場の空気に乗せてもらい、それを受け継ぐようなステージにしようと思った。
当初口開けの1曲は「めぐりあい」を考えていた。
  来たこともない街に来て
  来たことがあるような気がしたの
  会ったこともない人に会い
  あったことがあるような気がしたの
  ただそれだけのことなのに
  その日はとてもいい日です
初めてのお店には適当かなと思っていた。
でもやめた。
この歌は初めての場所に感じる自分自身の感情の歌。
見方を替えれば、そんな自分と初めて会った人たちとの間に距離があるともとれる。
どこかよそよそしさをも感じてしまう。
この場合演者とお客様の間にある距離を徐々につめていくというステージワークになる。
でもRomantic Bandが作った空気感がすでにある。
だからいきなり身を投げ出し、委ねるところから始めようと思った。
「なんとなく なんとなく」が口開けの1曲に。
  君と会ったその日から なんとなくしあわせ
  君と会ったその日から 夢のようなしあわせ
これが功を奏したようで、いきなり皆さん一緒に歌い出す。
そこで方針が決まった。
今日は歌声音楽会風にしていこう。
可能な限りお客様も一緒に歌える選曲にしよう。
ひとつだけ不安があった。
お店の作りが鰻の寝床のように縦長になっている。
ナマ声、生ギターでは(特にフィンガーピッキングは)お店の一番奥にまでちゃんと届くだろうか。
アルペジオ伴奏の歌は「この歌は静かに聴いてねー」と一声かけることでなんとかなったようだ。
歌い終わってみると選曲も多岐にわたるアラカルト。
・秋の花3題。
 「追伸」~「秋桜」~「曼珠沙華」
・洋楽カバーポップス
 「ヴァケーション」~「ダイアナ」~「愛の賛歌」~「テネシーワルツ」
・演歌、歌謡曲
 「津軽海峡冬景色」(特急はつかり5号の車内放送付き)
 「いいんでないかい」(青函連絡船の終着、函館のソウルソング)
このほかにも何曲か歌ったが忘れた。
あっという間のステージだったが、皆さん一緒に歌ってくれありがたかった。
Romantic Bandの作ってくれた場の空気感をこわさず、さらにあたためることができたかな。
このあとのRomantic Bandの第2ステージに無事バトンをつなげることができたように思う。
ライブの最後はそれぞれのアンコール。
僕は「故郷に帰りたい」(カントリー・ロード)の日本語バージョン。
Romantic Bandのお三方にベース・ドラム・ギターでバックアップしていただいた。(いきなりふってしまってごめんなさい)
Romantic Bandさんとはまたいつかどこかでジョイントしたいものだ。
マイルス・ジャズ・カフェでまた歌いたいものだ。
すべてのリアクション:
吉田 嘉秀、蒲田 祐子、他30人

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認知症カフェで歌う in 羽生

羽生のMDライブラリーで行われている「認知症カフェ」。
羽生市の後援を受けて毎月1回開催されているそうだ。
主催しているのは次男の細君。
ここで歌うのは今回が2回目。
前回は半年ほど前だった。
2回目とはいえ、来たこともない街に来て会ったこともない人に歌う。
ほとんどそんな状態だ。
前回は顔見せ的なステージだったんで、あらかじめプログラムを組んで臨んだ。
でも今回はここに集う方々とつながりを深めようと思っていた。
だから全くの白紙状態で、参加者と語らいながら歌い進めることにした。
決めていたのはオープニングの「なんとなく なんとなく」。
そしてエンディングの「上を向いて歩こう」だけ。
参加された方々の年齢層は60代半ばから70代半ば。
ほぼ同世代。
自然に交わされるおしゃべり。
そしてふんわりと浮かび上がってくる歌の数々。
おかげさまで飾りもなにもない「普段着の音楽会」となった。
主催の次男の細君も僕がやりたい音楽会の性質をよく理解してくれている。
セッティングを対面式ではなく、一つの輪になるように気を配ってくれた。
対面式の座席だとどうしても歌う人と聴く人という感じになりがち。
輪になるようにセッティングすることで、歌う人と聴く人が同じ位置関係になる。
だから参加者同士のおしゃべりや、一緒に歌えるという感じになる。(スペースの関係で完全な輪ではなく、楕円形に近いけど)
過去の経験から感じていることがある。
認知症予防にとって「話す」「聞く」「思い出す」「歌う」というのが大事なこと。
これらが一連の流れになると、脳が刺激され泥縄式に様々な記憶が呼び起こされる。
それぞれ個人の記憶が歌に結びついた時、それは「時代の記憶」になる。
そんな音楽会になったことがうれしい。
来月もまた認知症カフェで歌うことになっている。
さらにつながりを深めていければいいな。

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2024.11.07

おーるどタイム de ライブ 秋の陣 その2 日本フォークソングの夜明け

「秋の陣」の2部は日本フォークソングの黎明期について歌い、語った。
黎明期とは1965年前後、アメリカのフォーク・リバイバルの影響を受けて始まった。
まず東京の大学生に広がり、やがて関西に飛び火した。
様々なフォークシンガーを輩出し、
そして1970年に吉田拓郎がアルバム「青春の詩」を発表し新時代につながっていく。
僕は「黎明期」=「フォークの夜明け」をそんな風に捉えている。
「黎明期」に登場したフォークシンガー達を1時間ほどの枠の仲で跡づける。
それはほとんど不可能だ。
お客様に黎明期の流れや雰囲気をなんとなく感じとっていただければいい。
個々の歌は知らなくてもステージ全体として楽しんでいただければいい。
そんな内容にしたかった。
①パフ
アメリカのPPM(ピーター・ポール&マリー)の有名な歌。
アメリカのフォーク・リバイバルのひとつ。
東京の大学生を中心に演奏スタイルがコピーされた。
「日本フォークの夜明け」のきっかけになったフォーク・リバイバルの1曲を歌う。
②若者たち
ブロード・サイド・フォーが歌って大ヒットした。
テレビドラマ、映画の主題歌として広まった。
フォーク・リバイバルの影響を受けた演奏として欠かせない唄のひとつ。
③この広い野原いっぱい
森山良子のデビュー曲。(1967年)
高校時代にジョーン・バエズのレコードを聴きフォークソングを歌い始めた。
★ここまでは東京中心のカレッジ・フォーク(キャンパス・フォーク)。
アメリカのフォークソング・リバイバルの演奏スタイルの踏襲だった。
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お客様にも馴染みの深い唄ばかりで皆さん一緒に口ずさむ。
やがてフォークブームは関西に飛び火する。
関西にはフォーク・リバイバルの思想的側面が受け継がれる。
フォーク・リバイバルでは古いアメリカの伝承歌に回帰するばかりではなかった。
当時のアメリカ社会の問題(公民権問題、ベトナム戦争など)を取り上げ、政治を批判するプロテスト・フォークも重要視されていた。
④帰ってきたヨッパライ
⑤イムジン河~悲しくてやりきれない
ともにフォーク・クルセダーズ。
コミカルソング、社会問題、日常生活の実感を歌ったフォークルの活動はフォークソングのひとつの規範になったように思う。
⑥受験生ブルース
ボブ・デュランの「North Country Blues」を元に中川五郎が作詞をした。メロディをカントリータッチに替えた高石友也が歌ってブレイクした。
1965年頃、受験戦争が激化し始める世相。
それをコミカルに笑い飛ばした。
⑦拝啓大統領殿
高石友也・加藤和彦
フランスのボリス・ヴィアンがド・ゴール大統領の徴兵制を批判した歌が元歌。
1954年、フランスはベトナムとの戦争に敗北。その後の処理をアメリカに託した。
その15年後、1968年に高石友也がこの歌を歌った。
背景にはアメリカによるベトナム戦争の泥沼化があったように思う。
⑧生活の柄
高田渡
社会の底辺に生きる浮浪者へ共感を込めた切なくも暖かい視線を感じる。
⑨山谷ブルース
岡林信康
日雇い労働者のドヤ(宿)暮らしの哀感、絶望感、かすかな希望を歌う。
岡林はこの後「流れ者」「ガイコツの唄」「それで自由になったのかい」「チューリップのアップリケ」など社会の腑に落ちない現実を批判を込めて歌にした。
⑩友よ
岡林信康
反戦運動などと結びつき、政治集会や新宿西口ゲリラなどで広まっていった「友よ」。
岡林は反体制の象徴=フォークの神様と呼ばれるようになる。
岡林自身はこの歌を賛美歌のようなものと捉えていたようだ。
絶望的に暗い世の中だからこそ火をつけて希望を見いだしたいという願いの唄。
⑪遠い世界に
五つの赤い風船
作者の西岡たかしはこの唄を「フォークソングに対するプロテストソング」と位置づけて作ったと語っている。
フォーク=反戦歌・プロテストソングでなければいけないという風潮に対する抵抗だったとのこと。
「友よ」~「遠い世界に」~「これがボクらの道なのか」は皆さんよくご存じ。
全員でのシングアウトになった。
★関西フォークは多くの若者の心を捉えた。
その背景には「社会の流動化」ということがあったように思う。
日本は昭和39年の東京オリンピックに象徴される高度経済成長を成し遂げた。
でもその影には高度経済成長の恩恵から振り落とされた多くの人たちもいた。
持てる者と持たざる者の格差が一気に広がった時代でもあった。
加えてアメリカのベトナム戦争への加担と泥沼化。日本もその片棒を担いでいた。
日本国内でもベ平連等によるベトナム反戦運動が盛り上がっていた。
そして日米安保条約への反対運動(70年安保闘争)へ集約していった。
関西フォークが作られ、歌われ、受け入れられていった背景にはそんな社会情勢があった。
⑪イメージの詩
吉田拓郎
反戦・反体制の空気が色濃かったフォークに一石を投じたのが吉田拓郎だった。
「青春の詩」で彼女と喫茶店に入ってコーヒーを注文することも、スポーツに熱中し泥と汗にまみれることも、フォークソングにしびれちゃって反戦歌を歌うことも、みなすべて「ああ それが青春」とちょっとシニカルな眼で歌う。
それまでフォーク=プロテストソングと絶対化されてきた風潮を相対化したのが吉田拓郎だと思う。
今回僕はアルバム「青春の詩」のなかから「イメージの詩」を歌った。
「古い舟を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という拓郎のメッセージを強く意識しながら。
何十年ぶりかでハモニカフォルダをぶら下げ、およそ8分間の超大作に挑んだ。
★拓郎がフォークを相対化することによって、その後様々なタッチのフォークソングが歌われるようになる。
やがてそれはニューミュージックへとつながっていく。
(70年安保闘争の敗北によって社会の空気も大きく変わっていった)
実は今回「日本フォークの夜明け」をテーマに選ぶことで、僕自身が10代の頃強く影響を受けたフォークソングに対する総括をしようと思っていた。
親の庇護の元で頭でっかちに社会に向って牙をむいて歌っていたあんちゃんだった。
70歳になった今それをどう消化するのか。
そしてこの先どう昇華していくのか。
だから今回はやれなかった10曲や、選曲の最終候補に絞り込む過程で外れていったたくさんの古いフォークソングすべてを歌い込んだ。
多くの歌の背景にあるものや歌のメッセージをあらためて確かめ、跡づけた。
若い頃歌いつけた歌ばかりとはいえ、なかなかの準備作業となった。
今回歌わなかったたくさんの歌たちを後にぶら下げての今回のセットリストだ。
いわば重量級セットリスト。
①フォーク黎明期の流れをいかに伝えるか。
②内容は重量級ではあるが表現は軽量級に。
③その上でお客様が腑に落ち、楽しんでもらえるようなステージング。
これらのことに気を配ったが、はたして聴いてくださった方々にはどう映ったかな。

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おーるどたいむ de ライブ 秋の陣 その1 青空演奏の再現をめざして

ピロSugawara(ピロちゃん)とジョイントしての「秋の陣」。
おかげさまで満員のお客様に囲まれて、アットホームなライブになった。
ピロちゃんと僕とは毎週土曜の昼下がり、一緒に青空演奏をやってきたお仲間。
今回は青空演奏隊がおーるどタイムに大集結。
と言っても、お客様として来てくれた山田さん含めて3人だけどね。
でも青空演奏隊としてライブができたことがなによりうれしい。
青空演奏はそれぞれが演りたいものを、思いつくままに無節操に歌える自由がある。
基本的には人様に聞いてもらうことよりも、自分たちが楽しむという性格が強い。
いわば内向きの演奏だ。
演奏を耳にして、聴いてくださる方が現れた時に初めて外向きの演奏に切り替わる。
そんなゆる~い感じが売りの(?)青空演奏。
そんな青空演奏隊がおーるどタイムでお客様を前にして演奏し、聴いていただく。
100%の外向き演奏。
それが実現したことがなによりうれしいことだ。
内向きのゆる~い青空演奏の良さが完全外向きのライブでどこまで再現できるか。
これが「秋の陣」全体を通してのテーマだと思っていた。
①まず意識を「内から外へ」切り替えること。
②ライブ本番に照準を合わせてしっかり準備をすること。
③本番ではお客様と歌や演奏を肴にキャッチボールを交わせるか。(これこそが青空演奏の青空演奏たるところ)
.
.
1部はピロちゃんによるソロステージ。
さすがに最初は緊張している様子だった。
  気楽いこうよ 俺たちは♫
そう歌いながらも、緊張感がにじみ出る。
(そのアンバランスが良かったけど)
でも徐々に場の空気になじんできたようで、いつものピロちゃんに。
お客様からも暖かい視線が送られ、ピロちゃんのトークに応えてくれる。
そして演奏(歌とウクレレ伴奏)は完璧に外に向っていた。
ピロちゃんらしさ全開のいいステージだった。
極めつけは青空演奏で知り合ったパトリックさんとのコラボ。
ライブに来てくれたパトリックさんを巻き込み歌った「美しき狼たち」。
達者な日本語と粘りのあるパトリックさんの声がピロちゃんの力の抜けたウクレレにマッチする。
聴きながらなんだか涙が出てきたよ。
前記の①~③について、ピロちゃんと特段打ち合わせをしたわけではない。
でも毎週顔つき合せて3年以上も一緒に演ってきた仲。
以心伝心で共有できていたように思う。
返すがえすもいいステージだった。
ピロちゃんのステージの最後は僕とのコラボで「通り過ぎる街」~「想い出の渚」。
深い満足感を覚えながら演奏した。
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2部、僕のステージテーマは「日本フォークソングの夜明け」
これについてはまたあらためてしたためることにします。
すべてのリアクション:
吉田 嘉秀、蒲田 祐子、他45人

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断腸の思い

明日の「おーるどたいむ de ライブ 秋の陣」。
『日本フォークソングの夜明け』と題し、黎明期の1960年代後半~70年の歌を準備をしてきた。
この時代は僕も影響をたっぷり受け、歌い始めた頃だ。
思い入れの深い唄が玉手箱のようにつまっている時代。
選曲が難しくて難しくて。
あれもやりたい、これも外せないってやってたらあっという間に30曲近くに。
とても1時間の枠では収らない。
テーマがテーマだけに、しゃべり出すと止まらなくなる恐れがあるしね。
.
選考ラインに登っている30曲ほどはすべて歌い込んだ。
そして「おこもりリハーサル」で最終的にふるいをかけた。
断腸の思いで削った10曲。
せめてここに記載しておいてやろう。(順不同)
①出発の歌(六文銭)
小室等さんはPPMフォロワーズがスタートなので流れとしては東京のカレッジフォークなのかもしれない。
でも六文銭では骨のある名曲をたくさん残している。
僕はこの歌を高校の卒業式で体育館の壇上を「占拠して」歌った。
②戦争しましょう ~ ③教訓Ⅰ(加川良)
僕の中ではワンセットになっている歌。東洋大学・社会問題研究会の先輩が愛した歌。
彼が「この歌はりっぱに反戦歌だよ」と言っていたのを忘れられない。
④翼をください ~ ⑤血まみれの鳩 ~⑥竹田の子守歌(赤い鳥)
赤い鳥はアメリカから伝えられたフォークソング・リバイバルの運動を正しく受け継いだグループだと思う。
フォークソング・リバイバルではアメリカの伝承歌や時事的な事柄もテーマにして歌っていた。
その色合いが鮮明だったのはPPMだった。(東京のカレッジフォークはそのスタイルを真似ていたが社会的な部分は希薄だった。
⑦死んだ男の残したものは(高石友也・他)
谷川俊太郎の詩、武満徹の曲。1965年、アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまっていく頃に作られた。
60年の時が経過しているが、今なおなにひとつ変わっちゃいない世の中だ。きわめて現代的な意味をも持つ歌。
⑧私たちの望むものは(岡林信康)
日本フォークソングの黎明期。岡林信康は「フォークの神様」と呼ばれた。
彼自身牧師の息子であり、その風貌はキリストを連想させるものだった。かくして反戦歌、プロテストフォークの象徴とされた岡林だった。
その岡林が「フォークの神様」と呼ばれることが苦しくなり内心の葛藤をつづけた。
視点が社会(外面)から自分自身(内面)に向けられるようになる。
その転換点になったのが「私たちの望むものは」だったと思う。
岡林は第3回フォークジャンボリーではっぴぃえんどを従えてロックのサウンドとして歌った。
その表情は苦しげだったのではないかと想像している。
高校時代、同級生のアラヤ君と一緒にフォークバンドをやっていた。そのバンドには欠かせない歌だった。
⑨今日までそして明日から ~ ⑩青春の詩(吉田拓郎)
第3回フォークジャンボリーで岡林の歌うそばにあるサブステージでは拓郎は「人間なんて」を延々2時間歌い続けたそうだ。
後に「フォークの旗手」が岡林から拓郎に変わった瞬間とも言われた。
高校時代、クラスの中で拓郎派と高石・岡林派が激しく論争を交わしたのを想い出す。
社会派が絶対的価値観を持っていた時代に、拓郎はそれを相対化させたと思う。その第一声ともいえる歌が「青春の詩」だった。
拓郎は時代の転換点にいて、相対化された視点がニューミュージックにつながっていったものと僕は理解している。
⑪室蘭の空(高石友也「ベトナムの空」の替え歌。作詞は古池雅彦・隆彦)
⑫新・高校生ブルース(古池雅彦)高石友也の主婦のブルースに触発されて書いた歌。
フォーク黎明期の影響を強くうけ活動してきた次の世代を「フォーク第二世代」と松山千春は言っている。
それにならうならば僕もまた第二世代。
第一世代の影響のもとに駄作ながらいくつか書いた歌。
これらの歌はいつか機会があったら歌いたいと思う。
でもそういう機会はもう多くはないんだろうな。
自分の唄蔵の中にしまい込んでいた唄の数々。
何十年ぶりに向き合ったということに意味があったのかもしれない。

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2024.11.01

2024年11月 ライブ・音楽会予定

2024_11
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11月03日(日 おーるどたいむ de ライブ 秋の陣 2024
時 間   15:00~18:00
場 所   Live cafe おーるどタイム
       https://oldtimemk.exblog.jp/
出 演   ピロSugawara : Martin古池
木戸銭   ¥2000(別途ご注文をお願いいたします)
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11月08日(金 つくろうカフェ 歌声音楽会 @羽生 MD Library
時 間   14:30~15:30
場 所   MD Library @羽生
       羽生市中央2-5-26
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11月10日(日 井戸端音楽会@楽龍時
時 間   13:00~15:00
場 所   民家ライブハウス 楽龍時
水先案内人 Martin古池
参加費   ¥550 + オーダー
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1013日(  歌声喫茶 @ JUNE

時 間  16:30~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 (1ドリンク付き)
水先案内人 Martin古池

★昭和の香り漂う喫茶店で昭和を思いおこす歌の数々を参加者みんなで歌います。
歌とおしゃべりあふれる黄昏時をご一緒しませんか。

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1116日(土) マイルスカフェ ライブ 

時 間  13:30~、14:30~
場 所  マイルスジャズカフェ&アンティーク喫茶
      春日部市備後6-14-1
      048-735-0741
料 金  ¥1000 (1ドリンク・お菓子付き)
出 演  Romantic Band : Martin古池

2024_11_16live-in
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10月20日(日 フォークの歌声音楽会@おーるどたいむ
時 間  14:00~17:00
場 所  場 所  Live cafe おーるどタイム
      https://oldtimemk.exblog.jp/
出 演  Martin古池
参加費  ご注文をお願いいたします。
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11月21日(木) SOMPOケア 配信ライブ
時 間  15:00~16:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
★日本各地のSOMPO関連グループホームをオンラインでつなぐ歌声音楽会
 見学・応援大歓迎!(お気に召したらの投げ銭ライブ)
Sompomartin
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11月12日(火) ギター・ワークショップ@JUNE
11月26日(火)→仮予定です。変更ある場合は後日ご連絡いたします。
時 間  16:00~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 +オーダー
水先案内人 Martin古池
★11月26日は仮予定です。変更があった場合あらためてお知らせいたします。
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11月(土)  青空演奏

時 間  12:30~16:30
場 所  越谷中央市民会館前の川沿い芝生広場

★8日は他のライブ出演のためお休みいたします。

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想い出 東洋大学 学食

今朝のテレビで東洋大学(以下「洋大」)の学生食堂(学食)の取材番組が放送されていた。
1000人以上の学生が入れる、広くて、明るくて、清潔な、そして近代的ま学食。
様々な店舗の入るフードコート方式とのこと。
そして旨そうな料理がすべて600円以下で食べられる。
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50年前、僕は洋大の学食でアルバイトをしていた。
当時の学食は半地下に設けられていたので薄暗く、吹き込む風の生で少々ゴミくさかった。
僕たちは学食のことをメスホールと呼んでいた。(メスホールとはアメリカ海軍の植民地時代の軍人用施設)。
そこは食堂であり、同時に学生達のたまり場でもあった。
広い学食のあちらこちらで学生達は語らい、本を広げるという風景があった。
半地下の学食の出入り口の階段を上ったところには植え込みがあり、ブルーグラスバンドなどが練習をしていた。
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僕はこの学食でおよそ1年間アルバイトをしていた。
最初は大ホールの配膳係。
メイン料理は自動回転式の大鍋や巨大なフライパンで作られ、その料理はワンプレートの皿に盛りつけられる。
皿はベルトコンベアに乗せられ次々に流れてくる。
配膳係はその皿にガロニー(付け合わせ)を乗せていく。
ベルトコンベアのスピードは速くて、集中しなければ追いつかない。
ずっと中腰、たちづくめでその作業をしていると、だんだん腰が痛くなってくる。
まるで工場労働者のようだった。
その後別室にあった蕎麦コーナーに配属されたので配膳作業からは解放された。
蕎麦コーナーでは蕎麦つゆの仕込み方などを職人さんから教えてもらったりして楽しさの方が多かった。(配膳係とはえらい違いだった)
また管理者の目が届かなかったこともあり、あまった蕎麦や天ぷらを食べさせてもらえた。
貧乏学生にはありがたかった。
.
3年の夏休み、学生アルバイト達は休みとなった。一時帰休というヤツだ。
約2ヶ月の長い夏休みは収入がなく、最低限の暮らしで乗り切った。
他のバイトを探すこともできたが、そうすると夏休み明けに学食に戻ることは難しいと考えたからだ。
洋大学食の給料は比較的高かったので、それを捨てることは考えられなかった。
ひと夏、ご飯と納豆、時々キャベツだけでなんとか乗り越えた。
夏休みが明け、職場復帰のため学食に向った。
僕のタイムカードはなかった。
いぶかしく思い社長を探し出し問いただした。
.
  売り上げが思わしくないんで
  学生さん達にはやめてもらうことにした
.
必死に抗議した。
.
  夏休みの間、他のバイトに探さず新学期に備えてきた
  そのために借金までして堪えてきたんだ
  それはないでしょう
.
しかし聞き入れられるはずもなく交渉決裂。
悔しさ、憤りをかかえながら僕は次のバイト探しのため新聞求人欄に目をやった。
洋大のある白山からひと山を越えた小石川にある共同印刷の求人広告が目に飛び込んだ。
.
  文化創設の担い手、共同印刷
  安定的雇用
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というような文句が書かれていた。
洋大では文学部国文科を専攻していたので、活字を扱う印刷会社に惹かれた。
でも
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  夜勤あり
  2ヶ月の試用期間あり
.
小さく書かれたこれらの文句には気を留めなかった。
夜勤明けに学校に行けばいいとか、真面目にやれば本採用になるだろうと都合のいいように解釈した。
はたして共同印刷に雇われてみると、夜勤明けでの通学はほとんど無理であることを知った。
重たい紙を扱う印刷作業(当初は補助作業)は重労働だった。
大学に籍を置いていては本採用の道はないことを知った。
腹をくくった。
学生であることをやめ、労働者として生きることにした。
テレビで放送された今の洋大の学食の風景を見ながら、そんな記憶がよみがえった。

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旭ヶ丘の家コンサート

函館駅を降りたのは昼過ぎ。
腹ごしらえに駅前のラーメン屋で塩ラーメン。
タクシーを飛ばして旭ヶ丘の家に着いたのは2時過ぎだった。
再会の挨拶もそこそこに、コンサート会場のホールに通される。
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エレベーターを降りて目をやると50人ほどのご老人たちが。
.
  ん?
  なんだこの熱気は!
.
開始時間の2時半よりもかなり早くに集まり、待ちかねていたご様子。
慌ててギターのチューニングを済ませ、定刻よりかなり早くにコンサートスタート。
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特養での演奏は5年ぶり。
コロナの影響ですっかりご無沙汰していた。
馴染みの顔もちらほら見えるが、ほとんどは初めてお会いする方々。
5年前のコンサートには母もまだいた。(その半年後に帰天している)
時の流れの速さと残酷さを感じる。
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気を取り直し、挨拶がわりの「高原列車は行く」。
挨拶がわりのつもりだったのに、のっけからみなさん一緒に歌い出す。
みなさん歌詞を諳んじている。
これは予想外。
当初1時間のコンサートの最後にみんなで歌えればいいと思ってた。
急遽方針転換。
歌謡ショー形式から歌声音楽会形式に。
それに伴って選曲も入れ替える。
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港町十三番地〜東京キッド〜東京ブギウギ〜銀座カンカン娘。
4曲を短めのトークで一気につなげて歌う。
おなじみの歌をつなげて流れを途切れさせたくなかった。
驚いたことにみなさん歌詞を覚えていて、一緒に歌ってくれる。
それも大変な勢いで。(中には身振り手振りで踊るポーズをとる方も何人かいる)
僕は流れに任せるだけでよかった。
大変な盛り上がりようだったので、少し空気を落ち着かせようと思った。
赤とんぼ〜夕焼け小焼け〜あの町この町〜里の秋と唱歌をゆったりしっとりと歌う。
実は何人かの方がのっけからの盛り上がりについていけないご様子。
じっとこちらを凝視しながらも、表情を変えずにいた。
盛り上がりを煽りさらに沸騰することで、こういう方々に疎外感を持たれることを恐れた。
静かに唱歌を歌うことで場が落ち着き、そんな方も音楽会にはいりこんで来やすい土壌ができた様子。
表情が少し緩んできた。
函館(上磯)出身の三橋美智也の「リンゴ村から」〜五木ひろしの「ふるさと」。
やはり三橋美智也の歌はみなさん諳んじていらっしゃる。
ここからおしゃべり全開、舌好調。
古い函館の話をテーマに語りだすと、みなさんからもリアクションがどんどん出てくる。
昭和30年代の函館を参加者も僕も共に生きていた。
実際にあった通りや、店や、映画館の話などがぼんぼん飛び出す。
話が共有できるということは大きいことだと思う。
そこで函館港まつりで歌われる「いいんでないかい」になだれ込む。
馴染み深い歌に座ったまま踊る仕草の方も飛び出す。
勢いづいたまま終盤、「ダイアナ」へ。
興奮は絶好調に。
「テネシーワルツ」につなげ、再び場を落ち着かせ軟着陸を目指す。
最後にリクエストを頂戴する。
「津軽海峡冬景色」(上野発の夜行列車、特急はつかり5号のナレーション付き)。
エンディングは「上を向いて歩こう」。
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歌とおしゃべりに包まれたいい歌声音楽会になった。
胡散臭げにこちらを凝視していた人たちも、最後は表情も緩み一緒に口ずさんでくれた。
ほっとした。
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  また来てねぇ
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というばあちゃんたちの黄色い声(いや茶色い声か)がやたら嬉しかった。

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お好み焼きの三貴ライブ

僕にとってライブの道場だった「お好み焼きの三貴ライブ」。
ここで16年に渡って毎月やってきたライブ。
とてつもなく多くを学び、鍛えてもらった。
ひとたび演奏が始れば逃げ場はもうない。
酔客に対峙して真剣勝負の2時間だった。
コロナ以降三貴ライブは中断している。
果たして再開する日が来るのかどうかは分からない。
.
でも再開する日が来たとして、あのプレッシャーに再び向き合うことができるものだろうか。
そんなことを考えるともなく考えながら、古い記事を読んでいた。
仕事を終え、三貴ライブに向かう車の中。
胃がキリキリ痛み、吐き気をこらえる。
逃げ出してしまいたい思いと戦いながら車を走らせる日々。
耐えられるかなぁ。
.
.
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
月に一度の「お好み焼きの三貴ライブ」。
今宵も楽しくやらせていただきました。
大入り満員、ぎゅうぎゅう詰め。
その分にぎやか過ぎて音が埋もれる。
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ギブソンLG-2をアンプにつなぎ、音量をやや上げてスタート。
この上げ具合が難しい。やり過ぎてもいけないし、その逆もまたよろしくない。
そのバランスは長年の経験でなんとなく分かってはいる。分かってはいるが確証はない。
えいままよと歌い始めた。
.
今日場を支配しているのは2組の団体さん。
一組は学生さんっぽい。こちらは比較的お行儀がよい。
もう一組の会社員グループがなかなかにぎやか。
ことに若者の絶え間ない高笑いというかバカ笑い。高笑いをすることで自分の存在をアピールしている様子。若さゆえの大背伸びがほほえましくもやかましい。
トーク抜きで1曲勝負を積み重ねることにした。
.
一方できっちり聴いてくれるお客さんも。
常連・松村くんはもとより、盟友・ふく助さん。
楽器屋MACSのSさんもギター教室の生徒さん二人を伴い奥の卓に陣どっている。
加えて年配のご夫婦は目をつぶりうなずきながらじっくりと。
年配ご夫婦のために「星屑の街」「十九の春」「舟唄」等をおりこむ。
あとは好きな唄を勝手放題に歌う。
トークはほとんどなし。休憩なしでひたすら歌うこと2時間ちょい。
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団体さん二組が帰り、店内は落ち着いた空気に。
アンプのスイッチを切り、完全生音演奏。
LG-2の本領発揮。ギブソン特有の直線的な音にボディ音の控えめなバックアップがいいバランス。
歌はギターに合わせて滑舌を意識した。
チョロチョロ入るリクエストにお応えしつつも相変わらず勝手気ままに歌う。
決してやりやすい状況ではなかった。
場との共存をはかりつつ、集中を切らすことなく歌いきることができた。
終わってみると納得の行く2時間の歌旅だった。

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しりとりと連想でつなぐフォークの歌声音楽会

先月に引き続き今回も1時間毎の3クール。
長年前半・後半と2部制だったけど、3部制にしたことで1クールごとに違った選曲、違った切り口になった。
変化にとみ、新鮮な気持ちの状態で3時間歌うことができる。
これは大きな発見だった。
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第1クールはフォークソングに特化して、しりとりと連想を積み重ねて選曲していく。
これがとてもおもしろかった。
例えば本日の口開けは「もしもピアノが弾けたなら」。
西田敏行さんへの追悼としてしっとりと歌う。
歌が終わり何気なく言った。
.
 「さぁて、ピアノの後はどうしようかね」
.
すかさず帰ってきた反応は
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 「そりゃ、ピアノときたら次はギターでしょう」
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で『白いギター』を歌う。
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 「白の後は黒でしょう」
 「いや、黒は暗いから赤がいいよ」
 「紅白でめでたくね」
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そんな会話が重ねられ「赤い花 白い花」へ。
こんな調子でしりとり風にえんえんと連想を積み重ねて歌いつないだ。
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第2クールは「Oさんコーナー」と称して、参加者で最高齢(80歳超)のOさんのお好きな歌謡曲や童謡・唱歌、合唱曲などを中心に。
参加者のほとんどが60代~70代前半。
80代のOさんと若干のズレが生じる。
そこで先月から最長老のOさんをリスペクトするコーナーを設けたんだ。
これが大当たり。
これまで時々知らない歌でちょっとさみしい想いをしてきたOさんも心置きなく歌える。
さらに古い歌謡曲などとフォークソングやグループサウンズなどの歌と棲み分けができるようになった。
「Oさんコーナー」も第1クール同様、連想ゲームのような展開。
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そして第3クール。
こちらはなんでもありのアラカルト。
従来の「フォークの歌声音楽会」の進め方に。
「連想とこじつけ」でおしゃべりを展開し、そこから次の歌を探る。
これまで水先案内人としての僕の役割だった。
それが今では水先案内人だけではなく参加者みんなが「連想とこじつけ」のリクエストになっている。
長年続けるうちに音楽会のスタイルとしてみごとに定着したわけだ。(まる8年も続いてるんだからりっぱなもんだ!)
「みんなで作る音楽会」に育ったことがなによりうれしい。
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今回は久しぶりに参加してくれたタッキーさんのフルートや、マスターのフィドル。そして河辺さんのピアノが随所随所にいろどりを添えてくれた。
あっという間の3時間。
うれしく、楽しいひとときとなった。
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次回は11月17日(日)。
時間は通常通り14:00~17:00。
今から楽しみでしょうがない。

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♫とってもいいんでないかい♫ 函館夜会

ありまじろうさんが企画してくれた「ライブ・函館夜会」。
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いやんや、なんまらいがったゎぁ。(とっても良かった)
出演者4組全員が函館生まれ、函館育ち、そして深く函館に縁ある人たちばっかり。
ライブが始まる前から東京中野のじみへんは函館弁が飛び交う。
さながらリトル函館。
それぞれの個性が色濃く漂うステージの連続だった。
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一番手のありまじろうさん。
古き良きフォークシンガーの血統を受け継ぐ歌い手。
自分の言葉を大切にとつとつと歌う姿がとってもいいんでないかい。
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二番手の指田真理子さん。
歌い、走るケアマネージャー。
ご自身と社会の関わりを元気よく歌う。
この元気良さこそが真理子さんの歌の魅力。
とってもいいんでないかい。
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三番手はワタクシMartin古池。
内地にあって長年函館を、北海道を歌ってきた。
おしゃべりと歌がシームレスにつながり、とってもいいんでないかい。
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四番手の雨宮弘哲&広瀬波子のおふたり。
雨宮さんのリズミカルなギターとボーカル。
それにかぶせる波子さんのティーン・ホイッスルとアルトサックス。
確かな技術と若さあふれる演奏。
とってもいいんでないかい。
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本日僕が演った歌は
①「函館物語」
   中学の同級生、工藤信也が書いたご当地ソング。
②「僕の星まで」
   函館山から見おろす市街地は「百万ドルの夜景」。
   ふもと元町から見上げる函館山には星が瞬いている。
③「元町(MOTOMACHI)」~「元町ファンタジー」
   ありまじろうさんと共演。
   ふたつの元町がひとつになった夜。
④「いいんでないかい」
   函館港祭りでは欠かせぬ函館ソウル・ソングのひとつ。
   函館人気質を的確に表した1曲。
⑤「故郷に帰りたい 北海道編」
   ジョン・デンバーの名曲。
   北海道の炭鉱町に置き換えた歌。
   これもありまじろうさんと共演。

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さんすまいるコンサート

地元のデイサービスで2ヶ月毎の定例コンサート。
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今年で10年目を迎えている。
ひとつの老人施設で長年歌い続けるということはありがたくも切なくもある。
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「ありがたさ」は皆さん楽しみに待っていてくれること。
それこそ首を長くして待っていることがひしひし伝わってくる。
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「切なさ」は馴染みの方々が歯が抜けるようにいなくなること。
10年前にいらっしゃった方々も今ではもうおひとりだけ。
初期の方々はコンサートの形を一緒に作ってきた方々でもある。
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ひとつの場所で長年歌い続けるとはそういうことと向き合わざるを得ないこと。
そして演者の僕も少しずつそういう世代に近づいていく。
さんすまいるコンサートでは歌う楽しさを満喫してもらうと共に、人生の哀感もほのかに漂う音楽会にしていきたい。
10年目にしてそんな思いがいっそう強くなっている。

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SOMPOケア 配信ライブ Martin古池の歌謡ショー@楽龍時

慣れてきたとはいえ配信ライブは緊張する。
オーディエンスの表情が見えない、直接のやりとりができない。
配信を聴いてくれている施設の様子はモニターに小さく映されるのだが小さくて僕からはほとんど見ることができない。
オーディエンスの表情を見て、やりとりをくりかえしながら進めるのが僕のライブスタイル。
なかなか厳しいものがある。
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最近はあらかじめプログラムを組み、こちらから一方的に歌いかける「ショー形式」に切り替えている。
モニターを見ているスタッフさんからは施設での反応は悪くないと聞いている。
しばらくは「歌謡ショー」形式を続けてみようと思う。
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今日のプログラムは次の通り。
第一部は頂戴していたリクエスト(宿題)を軸に組み立てる。
①港町十三番地~東京キッド
②東京ブギウギ
③銀座カンカン娘
④兄弟船~ソーラン節
第二部は童謡・唱歌からふるさとシリーズ
①赤とんぼ~夕焼け小焼け~あの町この町
②里の秋
③リンゴ村から
④ふるさと
そして第三部は洋楽の日本語バージョンシリーズ
①愛の賛歌
②テネシーワルツ
③ヴァケイション
④ダイアナ
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[その他の記録メモ]
★本日頂戴したリクエストは「公園の手品師」(フランク永井)。
銀杏の老木を手品師に見立てたワルツ。
知ってはいたがうろ覚え。その場で歌いきる自信が無かったので宿題にさせていただいた。
★初めてガットギターで演奏する。
やさしい音色と豊かな音量が歌謡ショーには似合っているのではないかと思ってのこと。
結果は?まあまあかな。
次回もガットでやってみようかと思っている。
★マイクのセッティングを変更する。
これまでは生音を基本にしてやや離れたところからコンデンサーマイクで配信用に音を拾っていた。
聞こえにくく、配信にはこのスタイルは適さないとのこと。
ダイナミックマイクを歌とギターそれぞれにセットして音を拾った。
なんとなくがんじがらめにされているようでやりにくかった。
でもまあこれに慣れるしかない。
1人、ギター、テキストの画像のようです

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函館ステップ

「ライブ 函館夜会」の準備をしていてふと思い出した「函館ステップ」という歌。
子供の頃良く耳にしたメロディ。
「青い海 函館の~」のメロディは身体にすり込まれている。
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調べてみたら作詞は高橋掬太郎。作曲は飯田三郎。そして歌は瀬川伸。
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高橋掬太郎は根室出身。函館日日新聞の記者時代に「酒は涙か溜息か」で作詞家デビューしている。
飯田三郎も根室出身の音楽家。根室商業学校の先輩高橋掬太郎と組んで「ここに幸あれ」(大津美子)などをヒットさせている。
このコンビで書いたのが「函館ステップ」。
歌の瀬川伸は函館蓬莱町出身の歌手。そして瀬川瑛子の父親。
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昭和38年の作品とのこと。
軍歌調の曲調なのでもっと古い歌かと思っていた。
昭和38年というと右肩上がりの高度経済成長時代。
翌39年は東京オリンピックの年だ。
歌詞の中に景気の良かった時代が織り込まれている。
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  行こうか大門 もどろうか銀座
  まねくネオンの 赤と青
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函館の繁華街が大門に移ったとはいえ、いまだに今でいう西部地区の宝莱町から十字街あたりを銀座通りと称して大して賑わっていた。
歴史ある繁華街の銀座から新興繁華街の大門に千鳥足で遠征する酔客が浮かんでくる。(多分僕の父親世代のサラリーマンだろう)
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「ライブ・函館夜会」では歌わないが、翌週の函館「旭が丘の家コンサート」では歌ってみようかと思う。
実は5年ほど前に特養入居者の方から「函館ステップ」のリクエストを受けていた。
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  「とにかくこの歌が好きで好きでたまんないのさ」
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とのことだった。
僕の母親の幼なじみと言うことなので御年98歳くらい。
お元気でいられるといいのだが。
https://youtu.be/Q1ltzy15VB4

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20年目の第18回 Live in 清津峡

20年間、よくぞ続けてくることができた。
そんな感慨がこみ上げてくる第18回 Live in 清津峡だった。
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20年の間に2回中止せざるを得なかった。
一度は台風と大雨による土砂崩れだった。
キャンプ場に続く山道が壊滅した。
道が土砂に飲み込まれて無くなってしまったんだ。
1年がかりで管理人のアキラッチは修復作業と新たな道を作った。
誰もが再開を信じつつも、心は半ば折れかけた。
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もうひとつはコロナの影響だった。
得体の知れぬ「伝染病」に誰もが不安におののいた。
「濃厚接触」などあろうはずのないキャンプ場。
なのにマスクをつけざるを得ない空気だった。
社会はライブハウスを目の敵にし、人が集まることを非難した。
そんな状況ではたとえ広大なキャンプ場であったとしても音楽祭など開催できようはずがなかった。
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中断が入れば人の心は弱る。
翌年の再開・再会に向けたパワーは半減する。
それでも18回までこぎ着けることができたことがうれしい。
キャンプ場管理人のアキラッチはもちろん、音楽会の言い出しっぺで1回目から深く関わってきた僕にとって今回のLive in 清津峡は20周年記念でもあった。
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中止せざるを得なかった2回もその後音楽祭を続けることができたことによって意味を持った。
第1回目は出演者2名、お客さん4名、管理人一家数名のこじんまりとしたライブだった。
その時3歳の小さな娘だった萌ちゃんが、「カレシ」を連れてやって来るまでに育った。
中学生の若武者ツカサがいつのまにか三十路を越えて達者な演奏を聴かせてくれる。
そしてなにより胸に来たのはそのツカサのバックアップを受けて19歳の健太郎がデビューしたことだ。(健太郎の父親は当時まだ高校生だったヤエちゃん)
10年前の僕とツカサのステージが思い浮かぶ。
(健太郎とツカサの写真を撮り損ねたのが悔やまれる)
バトンは間違いなく受け渡されている。
彼らのステージを観ながら、そんな感慨にひたり少々涙目になる。
20年という時間はそれだけでひとつの歴史だな。
そんな思いにふける。
.
.
20周年を彩る試みがなされた。
これまでは日曜日の昼間に開催されてきたLive in 清津峡。
それを土曜日の晩、「夜祭り」に形を変えた。
これまでやってきた前夜祭の枠と時間を拡大した。
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ランプの灯りだけが頼りのステージは幻想的だった。(まぶしすぎるLEDは使用不可とした)
客席の後ろで盛大にたき火をして暖をとった。
たき火でお尻をあぶりながらステージを見つめる。
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マイクもスピーカーもない生の音が木々にぶつかり、すり抜け流れくる。
キャンプ場には電気がない。スポットライトもなければPA装置もない。
ランプの灯りと自分の身体、そしてたき火の暖かさだけが頼り。
まるで原始時代にいるような錯覚と高揚感が生まれる。
.
便利さと快適さに包まれた我々「現代人」にとって、あえて不便さに身を置くことは貴重なことのように思える。
昔の人たちがあたりまえにやってきたことをたとえ一時であったとしても体感することに意味がある。
重たいザックをかつぎ、さらにかさばる楽器をかかえ、標高差150メートルの山道を歩かなければたどりつけない清津峡キャンプ場。
この山道を歩く時間は現代社会から大昔の社会へのタイムトンネル。
そこでくり広げられる音楽祭。
僕にとってなにものにも替えがたい大切な場所であり、大切な時間。
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この先何年、この山道を往復できるか分からない。
身体の続く限りこれからもLive in 清津峡に通おう。
そう、想いを新たにした第18回 Live in 清津峡だった。
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