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2024.10.11

会話を楽しむ音楽会

「歌声音楽会」はどんなカタチが望ましいのか。
長年あの手この手と試行錯誤をくりかえしてきた。
現段階で到達しているのが「会話を楽しむ音楽会」。
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演者が音楽やトークを「提供」するのは「会話」ではない。
ライブや歌謡ショーなどでは一方通行のそういうカタチもあり。
でも会話とは一堂に会して互いに話し合うこと。
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演者である自分が話のタネを投げかける形で歌や会話は始まる。
それを肴にして「会話」が生まれる。
さらに演者と参加者というかたまりのやりとりだけではなく、参加者同士の間にも会話が生まれる、膨らんでいく。
その会話が次の歌につながっていく。
この循環が次々と間断なくくりかえされていく。
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いわば「道しるべのない歌の旅」。
道草を食みながら、刹那刹那をつなげて目的のない「旅するための旅」を楽しむ。
そんな風なのが僕の理想とするカタチ。
それが「会話を楽しむ音楽会」だ。
そういう音楽会を「井戸端音楽会」とか「お茶の間音楽会」と称している。
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今現在こういう歌声音楽会をあちこちでさせてもらっている。
ベースになっているのは次の3つの歌声音楽会。
・デイサービスで10年ほど続けている「さんすまいる音楽会」。
・喫茶店JUNEでやはり10年近く続けている「歌声喫茶」。
・おーるどタイムでやっている「フォークの歌声音楽会」。
うれしいことにこの3つの音楽会では理想とするカタチで進められるようになっている。
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水先案内人の僕の役割は
①最初の出だしの歌と会話のきっかけを作ることと、
②会話の内容をうまく集約して次の歌につなげること、
③そして音楽会のラストを適切な着地点に軟着陸させること。
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あえてリクエストを募る必要はない。
なぜなら会話の中から自然に浮き彫りになってくるから。
浮き彫りになった複数の歌の中から選別すればいい。
(以前はリクエストを掘り起こすために色々策を弄し、四苦八苦していた)
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歌う楽しみだけではなく、会話すること自体もまた楽しみ。
歌と会話とがシームレスにつながり渾然一体となった音楽会になりつつある。
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ただ「会話を(も)楽しむ音楽会」をやるにはいくつか条件があるようだ。
①こじんまりとした小さな小さな音楽会であること。
参加人数が20人にもなると会話は成立しにくくなる。
②ひとつの場所で長い期間続けられていること。
音楽会のカラーが定着するには何年もの時間が必要だ。
③核になる参加メンバーが何人かいること。
そういう人たちがいることで初めての参加者への気配りが会全体としてなされる。
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「会話を楽しむ音楽会」にするために水先案内人として気をつけていることもいくつかある。
①己の存在を極力消すこと。
できれば空気のような存在でありたい。
司会者(水先案内人)の強い個性や仕切りで音楽会を運営していくのはどうもなじまない。
②道草話の中にも絶えずアンテナの感度を上げていること。
なんてことない馬鹿話であったとしても、その中に次の歌につながるお宝が潜んでいる。
それを見過ごさずにスポットライトを当てるためには感度良好でいなければならない。
③それらを保つために心はいつも開いていたい。
心を開いていなければ自分のこだわりや好みに左右されてしまうこともあり、独善に走る危険性が生まれる。
なんでもありの精神。Everythings OKだ。
④参加者全員をたえず視野に収めておくこと。
いろんな年代や好みの方が一堂に会する。
中には知らない歌、あまり好みではない歌を選別されることも当然起きる。
大人の集まりだからそういう状況ではにこにこしながら聴き手にまわったりしてくださる。
でもその状況がずっと続けば疎外感だって生まれる。
それを避けるため参加者全員を視野に収めておきたい。
音楽会全体を通して一人の取りこぼしも起こさないように交通整理したい。
歌声音楽会は参加者全員で作り上げられる時間・空間でありたいから。
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さんすまいる音楽会、歌声喫茶@JUNE、フォークの歌声音楽会の3本柱。
長い年月をかけてようやっと理想とする「会話も楽しむ音楽会」として定着しつつある。
そして五里霧中・暗中模索の中で試行錯誤をくりかえしてきたことは決してむだではなかったと思いたい。
試行錯誤をしてきたあれこれは、新しく始めた「井戸端音楽会@楽龍時」などにも活かしていきたい。
また時々お声のかかる出前コンサートにも活かされている。
さらにはショー形式のライブにも歌声音楽会の要素が自然と含まれるようになってきた。
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今のカタチが最終到達点かどうかは分からない。
この先変わっていくかもしれない。
変わることなく練度・精度が上がっていくだけなののかもしれない。
ただ何十年もいろいろ迷いながら歌い続けてきて、今もっとも心地いいのは「会話も楽しむ音楽会」というカタチ。
これが70歳時点でのひとつの到達点のように思える。

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2024.10.09

変貌 「太陽のない街」から「陽のあたる街」へ

かつて務めていた共同印刷とその周辺を歩いた。
退職したのは2011年3月。東北大震災の直後だった。
それからすでに13年にもなる。
このあたりに足を向けたのは実に10年ぶりほどだ。
会社のそして街の変貌ぶりに驚き、ちょっと切なさを感じた。
会社が全面的に建て替えられ、新社屋になったという話は聞いていた。
以前の社屋は戦前に建てられた鉄筋コンクリートのゴツゴツした古めかしい建物だった。
それがすっかり近代的に。
カーブを描いたフォルムで全面ガラス張り。
威風堂々としたビルがそびえ立っていた。
僕が40年近くうごめいていた印刷現場は地方工場に移設され、今ではオフィスビルに特化されたらしい。
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 俺にとっての共同印刷はもう心の中にしかない
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そんな感慨にふけってしまった。
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そしてそれ以上に切なかったのは街の変貌だった。
かつては共同印刷の周辺の陽もあたらぬような路地裏には小さな印刷屋や製本屋がひしめいていた。
大通りから路地に入れば、あちらこちらから印刷の音や製本の音が聞こえてくる。
タンタンタンタンという小気味のいいリズミカルな機械の音。
溶剤や油の入り交じったような独特の香り。
そして紙の匂い。
バラックに毛の生えたような建物を開けっぴろげにして作業する製本屋。
路地のあちこちでは菜っ葉服を着た人たちが一服する煙草の香りが漂っていた。夏には日影を求め、冬には日だまりを探しながら。
そんな風景は路地という路地で見ることができた。
それがこの街の風物詩。
僕の好きな風景だった。
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それらは見事に消え去っていた。
路地という路地はきれいに整備され、明るく「健康的」な雰囲気に変わっていた。
静かでおだやかな雰囲気が漂っていた。
機械の音が聞こえない。
印刷や製本の匂いも漂ってこない。
菜っ葉服と煙草の香りもない。
みんなない、なにもかも根こそぎない。
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かつてこの街は「太陽のない街」と言われた。
大正末期の共同印刷の労働争議を題材にしたプロレタリア小説から来ている。(徳永直:著、戦旗社:刊)
僕が勤めていた頃はさすがに「太陽のない街」に描かれた風景はもうなかった。
それでも路地裏に「太陽のない街」の雰囲気をかすかに感じることができた。
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今は「陽のあたる街」にすっかり変貌してしまった。
ここで暮らす人たちにとってはそれは良いことなのだろう。
健康的で文化的な今風の暮らしを手にすることができたのだから。
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でも失われた街の風物詩を思うと淋しく、切なさを禁じ得ない。
失われたものへの哀憐の情とでもいうのだろうか。
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駅に向う帰路、昔よくお世話になった飲み屋や古本屋が健在だったことが救いだった。
さすがに古本屋は代替わりしたようだ。かつての白髪のおじちゃんから金髪に染めたあんちゃんが奥で店番をしていた。
なじみだった飲み屋・遠州屋の名物、モツ煮で一杯やろうかと思った。
残念ながら開店前であきらめて、帰りの電車に乗り込んだ。

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さらば「あすなろ山の会」

65年の歴史をかさねてきた「あすなろ山の会」がその幕をおろした。
会員はみんな歳を重ね、自由に山登りを続けるのが難しい年齢となった。
この10年は会としての山行もままならず、個人山行主体となった。
それぞれの山行記録を会報「あすなろ通信」に投稿することくらいしかできなくなった。
決定的な出来事がふたつあった。
ひとつはコロナの影響。
会としての山行がこれをきっかけでまったくできなくなった。
もうひとつは「あすなろ山の会」長老として会の支柱だった大杉二郎さんが昨年亡くなったこと。
これが決定的だったように思う。
二郎さんは確かに最長老のひとりだったけれど、初期メンバーはみな御年90歳に近い方々ばかりだ。
僕はあすなろ山の会では一番の若者。
その若者からして70歳の峠を越えている。
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最後の集まり(解散式)が小石川後楽園の涵徳亭で行われた。
人生の大半を「あすなろ山の会」と共にしてきた者が集まり、昔話に花を咲かす。
国内の山はもちろんだが、アルプス山脈に挑んだ人たちもいれば、ヒマラヤトレッキングに何度も通った先輩方も多い。
富士山やその近辺の山々にこもり、富士山写真の撮影に情熱を燃やす先輩もいる。
谷川岳の一の倉沢の初登に挑み完登した強者もいる。
話題にはことかかない。
僕が「あすなろ」で学んだ一番大きなこと、それは山を楽しむこと。
でも楽しむことのほんとうの意味は、しっかりトレーニングを積み準備を重ね自分を追い込まなければならないということだ。
そういうことがなければほんとうの意味で「山を楽しむ」ことにつながらない。
解散式に出席された方々は正直若い頃の剛健さからはほど遠かった。
大病された方もいれば、かつての健脚ぶりが嘘のようにストックをついてヨレヨレと歩く方もいる。
でも皆さんその年なりに、身体の状態なりに日々トレーニングを重ねている。
もう二度と山には入れないかもしれない。
にもかかわらずご自分にできる範囲のトレーニングを今もまだ積んでいらっしゃる。
トレーニングは決して特別なことではなくすでに日常なんだろう。
ストックをつきながらよたよたと歩く先輩方の姿を思い浮かべる。
涙が出る。
解散式の最後に「あすなろの歌」をみんなで歌う。
この1曲を歌うためだけに僕はギターを背負っていった。
「あすなろの歌」は40年前、創立25周年に向けて作った歌だ。
当時30歳だった僕が先輩方の山旅の姿をイメージしながら書いた。
「あすなろ山の会」の集まりがあるたびに歌い続けてきた。
それは山の中であったり、亡くなった大杉二郎さんの「あすなろ小屋」で20年に渡って毎年やってきた「森の音楽会」だったりした。
「あすなろの歌」ができてから40年の時を経た。
山の会の最後になってようやっとこの歌に現実味が生まれたような気がする。
  長い道のりを 君は歩いてきたんだね
  想い出しておくれよ さまよい歩いた日々を
  ザックに夢をつめて はるか山の彼方
  いつまでこの道を 君は歩き続けるのか
  何を求めてゆくのか 何かがそこにあるのか
  旅するための旅を また始めるのだろう
  あすなろ あすなろ 心の旅人
  あすなろ あすなろ 心のふるさと
みんな長い道のりをお疲れさまでしたという気持ちもある。
同時にこれからも「旅するための旅をまた始めるのだろう」というメッセージにもつながるように思う。
大切に生きれば充分に長い人生の旅路。
「明日はなろう檜になろう」と日々を一生懸命生きるという「あすなろ精神」は人生の終盤を迎えた今だからこそ問われることなんだろう。
「あすなろ山の会」昨日をもって解散した。
そして「あすなろ」は文字通り「心のふるさと」となった。
こんな写真が出てきた。「あすなろ山の会P2」での春山山行。(P2とはPeak2という若者グループ)
雨飾山に行った時の写真。(多分30代の中頃だったと思う)
この時は頂上直下で大雨にと雷に襲われた。(雷が横に走るのを初めて見た)
馬の背のくぼみにテントを張り一晩中緊張で眠れなかった。
翌朝はウソのようなピーカン。でも頂上を目指す気力も萎えて早々と下山した。
下山途中、雪原を渡り終えた直後、雪崩が起き冷や汗をかいた。
この写真は安全地帯まで降りてほっとしたところ。
P2ではよく板さんと組んであちこちの山や沢を登った。
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