昨日の「井戸端音楽会@楽龍時」はお客様0人という結果だった。
途中誰か来てくれるかもしれないという淡い期待で待っていた。
ひとりでもいればマンツーマンライブとして音楽会は成立する。
でも残念ながら淡い願いだった。
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ライブ・音楽会というものは「水物」。
運やお客様によって左右されるもの。
だからこんなことも当然ありうることだ。(運に恵まれたか、過去あまり経験はなかったけれどね)
残念ではあるけれど、ショックはない。
むしろ「井戸端音楽会」の今後のあり方についていろいろ考える機会となった。
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僕がイメージし、これまでやってきた「井戸端音楽会」は参加者同士のおしゃべりと歌で進めていく歌声音楽会だ。
一方通行のライブとは違う、伝統的な歌声喫茶ともちょっと違う音楽会を目指している。
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ベースになっているのは若い頃に工場現場で経験してきた終業後の宴会だ。
現場にパレットを敷き車座になる。
車座の中心には一升瓶がドンと置かれ、思い思いに茶碗酒を呑む。
酒酌み交わし、酔いも回り、口もなめらかになるにつれ誰からともなく飛び出す歌。
演歌であり、民謡であり、流行歌であり。
歌に合せ、小皿をたたいてやんややんやのチャンチキおけさだ。
そんな車座宴会を音楽会で再現したいというのが願いだ。
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「井戸端音楽会」という名称はそこに由来している。
井戸端で世間話をするようにしゃべり歌う。(「車座音楽会という名称でもいいかも)
「歌」や「音楽」は特別なものではなく、日々の暮らしにさりげなく横たわるものであって欲しい。
そのためには音楽と暮らしの間にある「見えない敷居」を極力低くしたい。
これが僕の思っている「井戸端音楽会」のイメージだ。
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そしてこの試みは各所でやっている歌声音楽会では定着している。
楽龍時で音楽会を始めてからまだ1年半くらいだろうか。
これまでの実感としては定着するにはほど遠いかなという印象。
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毎回、集客は運頼みでしのいできたのが現状。
他の歌声音楽会との違いを考えてみると、まだ核になる人の存在がないことのように思う。
どの音楽会も「水物」であることに変わりはないが、何人かの核になる人達がいる。
その人たちがいて、さらにその時々でいろんな人たちが足を運んでくれて成立している。
「井戸端音楽会@楽龍時」では残念ながらまだまだそこには至っていない。
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一朝一夕に核を作ることはできないもの。それは自明の理。
それには主催の楽龍時さんとの打ち合わせや意志一致も必要だろう。
例えば僕の抱いている「井戸端音楽会」のイメージを見直す必要があるのか
また、「井戸端音楽会」を地元・吉川市に深く根ざしたものにするのか、あるいは一般的に広く呼びかけるものにするのか。
それによっては呼びかけの手法なども変わってくることだろう。
ここまで流れにまかせてやってきた「井戸端音楽会@楽龍時」。そろそろ細部までつめていく時期がきているような気がする。
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