我が家の元旦の雑煮は毎年決まっている。
昆布と鰹節でとった一番出汁に少々の塩と香り付け程度の少量の醤油で味付けした汁。
餅のほかには小松菜を散らしただけの簡素な雑煮だ。
祖父母の代から今にいたるまで長年食べ続けてきた、いわば「古池の雑煮」だ。
100年近く食べ継がれてきた雑煮にはそれなりにいわれがあるし、少しずつ変遷もしている。
この正月は「古池の雑煮」についてちょっと書いてみたい。
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祖父母は明治37年に愛知県知多半島から北海道・函館に移り住んだ。祖父19歳、祖母18歳の時だ。祖母のおなかの中には赤ん坊がいた。
祖父は呉服関係の小商いで身を起こし、後に冠婚葬祭に関わるご祝儀用品専門店・レンカ堂という小さな商店を構えた。
(現在も従兄弟が3代目として細々と商いを続けている)
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苦労して身を起こした祖父は「質素倹約」を旨としていた。
最初の「古池の雑煮」はそんな祖父の意向を反映したものだったと思われる。
醤油汁に小松菜と一緒に餅を煮込んだだけの文字通り簡素な雑煮だったという。
これは愛知県知多半島の雑煮は小松菜を使うことが多かったことからきていると思われる。
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大家族だったことに加え、住み込みの丁稚さんたちも多数いた。
また正月は冠婚葬祭の最たるものだ。師走から正月にかけて忙しくしていた家だ。
(僕の父は11月30日に生まれたが、祝い事はまとめてやってしまえと言うことで役所には1月2日生まれとして届けられたぐらいだ)
おせち料理などゆっくり味わえる正月ではなかったようだ。
おそらく大正時代の初めからこれが「古池の雑煮」だった。
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昭和28年、父と母が結婚した。
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母は初めて本家レンカ堂で食べたこの雑煮に辟易したようだ。
母が子供時代から食べてきた雑煮はしっかりと出汁をとり、柏肉、なると、三つ葉を浮かべた上品なすまし汁だった。
(母の実家の名を取って「伊藤の雑煮」とよんでいた)
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小松菜雑煮を初めて食べた時はグェーッとなったさ
大鍋の底に餅がぐでぐでに伸びてこびりついてるし
醤油汁は煮しまってるし、小松菜はくったくた
食べられたもんでなかった
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とはいえ嫁の立場では長年続いてきた雑煮を大幅に変えるわけにも行かない。
一計を案じた母は小松菜雑煮の形はそのままにしつつ、昆布と鰹節で出汁をとった。
加えて餅を焼くことで表面を固め、ドロドロにならぬようにした。
味付けも醤油汁ではなく、少量の塩と風味付けに醤油をたらしたものにした。
これが我が家の雑煮のスタンダードになった。
一見質素な雑煮だが、それなりに手間暇をかけることで上品な味付けになった。
母にしてみると大正時代から続く「古池の雑煮」の形は変えずに味付けを大幅に変えることができ、内心ほくそ笑んでいたのではなかろうか。
はたして父の口から出てきた言葉は以下の通り。
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簡素だけど、一番餅の味がわかる
それが小松菜雑煮だ
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それから30年の時を経て、独立した子供たちはそれぞれの家庭でそれぞれの小松菜雑煮を継承している(と、思われる)
僕は子供の頃の母の作る雑煮をそっくり真似つつも自分の感覚で小松菜雑煮を作っている。
毎年出汁の取り方や餅の焼き方を少しずつ変えて試している。
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今年はこれまでより少し薄くのした餅を厚手のフライパンでじっくり焼いてみた。
このやり方だと餅が焦げすぎない。
今まではガスの直火で焼いてきたため、餅の表面が焦げすぎて真っ黒になっていた。
昔は石炭ストーブの上で餅を焼いていたため、そのなごりともいえる。
真っ黒になった餅をお湯に通すのは雑煮造りの欠かせぬ一工程で、僕もそれに倣ってきた。
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今回フライパンで焼いた結果、湯通しをする必要が無くなった。
出汁汁がにごることもない。適度に焦げた風味も残る。
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こうして少しずつマイナーチェンジをくりかえしながら、大正時代から続いてきた「古池の雑煮」を綿々と食べ続けている。
(ちなみに我が家の正月の雑煮は3種類。カミサンの実家の味、豚肉とゴボウの醤油味。「山形雑煮」。そして母から教えられた「伊藤の雑煮」)
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毎年1月2日の晩、我が家には子供たちがそれぞれの家族とともにやってきて新年宴会を催す。
僕はその歴史を語りつつ、「古池の雑煮」を食べさせている。
いつの日かこの雑煮を子供たちが僕のために作ってくれる日が来るのを想像しながら。
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昭和の初め頃と思われる。本家レンカ堂の店先。
椅子に座っているのが若き日の祖父。
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