【年の瀬の慣わし】
年の瀬になるとスイッチが入る。
親の代から我が家で食べられてきたおせち料理の復元だ。
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北海道の実家を離れ内地に移り住むようになってから10年ほどはおせち料理など思いも寄らなかった。
子供が生まれて以降、自分が子供時代に食べてきたおせち料理を伝えたいという想いが少しずつ強くなっていった。
手始めにしっかり出汁をとり、小松菜を浮かべただけの簡素な「古池の雑煮」から始めた。
年々手作りおせちの数が増えていき、ここ10年でほぼ復元できるまでになった。
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およそ60年前、世の中は戦後の混乱期を脱し高度経済成長に向けて右肩上がりの活況を呈していた。
ご成婚(昭和34年)を皮切りに東京オリンピック(昭和39年)~大阪万博(昭和45年)とエポックメイキングな出来事が多々あった。
そして白黒テレビや洗濯機、さらに冷蔵庫といった「三種の神器」と呼ばれる家電が一般家庭にも少しずつだが入っていった。
とはいえ、庶民の暮らしは今とは比べものにならぬほど質素だった。
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その一例がおせち料理だ。
今のようにコンビニやスーパーのみならず一流料理店のおせちがお金を払いさえすれば簡単に手に入るような時代ではなかった。
どこの家庭も身の丈に合ったおせち料理を手作りするのが普通だった。
我が家の年の瀬から正月にかけての料理はほぼ母親の手作りだった。
子供たちはそのお手伝いをさせられた。
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我が家の場合おせち作りは「出汁とり」から始まった。
昆布と鰹節で取る出汁は雑煮や煮物では欠かすことのできないものだった。一番出汁は雑煮に。二番出汁は煮物に。
僕の仕事は鰹節を削ることだった。
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出汁をとった後の大鍋で引き続き作るのはゆで豚だった。
大量のネギや生姜とともに豚肉の塊をコトコトと煮込んだだけのシンプルなものだったが、滅多に肉など食べられない子供たちには人気の一品だった。
子供の仕事は石炭ストーブにかけた鍋をかき回し続けることだった。
煮汁が少しずつ濃くなっていくたびに「味見」と称してつまみ食いをするのが何よりの楽しみだった。
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次に作るのは黒豆の煮物だった。
一晩ふやかした黒豆を大量の砂糖などでコトコト煮込んでいく。
ここでも火の番が子供の仕事だ。
少し固い黒豆は子供には不人気だったが、味見は楽しみだった。
なにしろ砂糖が貴重だった時代、甘ったるい煮汁は美味しかった。
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子供たちに火の番をさせている間、母親はなますや田作りを作っていた。
どうやって作っていたのかは記憶が定かではない。
甘酸っぱいなますは好きではなかったが、田作りは大好物だった。
我が家では大きめの煮干しを使っていたように思う。
骨が弱いと言われた弟のカルシウムを補うため、煮干しは欠かせないものだった。
味噌汁の出汁とりはもちろんのことだが、出汁殻も食べさせられた。
その甲斐あってか弟も僕もそして妹も頑丈な身体に育った。
(生まれながらのくる病だった飼い犬・ポン太の餌にも煮干しの出汁殻は入っていたっけ)
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昨日ドン・キホーテに食材を買い出しに行った。
物価高のご時世、少しでも安いにこしたことはない。
ましてこちとらしがない年金暮らし。
質より量を狙っての買い出しだ。
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年明け2日の晩方、我が家には家族が集まり恒例の新年宴会をやる。
総勢10名の胃袋を満たしてやる必要がある。
明日から2日がかりで一気におせち作りに取りかかろうと思っている。
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来年もまたおせちのいわれや、我が家の古くからの慣わし、そして当時の世相を語りながら食べる。
子供たちも、お嫁ちゃんたちも、まして孫たちもどこまで聞いているのかはわからない。
たぶん「また始まった」と聞き流されるのが落ちだろう。
それでも家族の歴史の一端を語り続けるのがジジイの役割だと思い、来年も語るつもり。
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それが年の瀬から正月にかけての我が家の慣わしだ。
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