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2022.12.29

【年の瀬の慣わし】

年の瀬になるとスイッチが入る。
親の代から我が家で食べられてきたおせち料理の復元だ。
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北海道の実家を離れ内地に移り住むようになってから10年ほどはおせち料理など思いも寄らなかった。
子供が生まれて以降、自分が子供時代に食べてきたおせち料理を伝えたいという想いが少しずつ強くなっていった。
手始めにしっかり出汁をとり、小松菜を浮かべただけの簡素な「古池の雑煮」から始めた。
年々手作りおせちの数が増えていき、ここ10年でほぼ復元できるまでになった。
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およそ60年前、世の中は戦後の混乱期を脱し高度経済成長に向けて右肩上がりの活況を呈していた。
ご成婚(昭和34年)を皮切りに東京オリンピック(昭和39年)~大阪万博(昭和45年)とエポックメイキングな出来事が多々あった。
そして白黒テレビや洗濯機、さらに冷蔵庫といった「三種の神器」と呼ばれる家電が一般家庭にも少しずつだが入っていった。
とはいえ、庶民の暮らしは今とは比べものにならぬほど質素だった。
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その一例がおせち料理だ。
今のようにコンビニやスーパーのみならず一流料理店のおせちがお金を払いさえすれば簡単に手に入るような時代ではなかった。
どこの家庭も身の丈に合ったおせち料理を手作りするのが普通だった。
我が家の年の瀬から正月にかけての料理はほぼ母親の手作りだった。
子供たちはそのお手伝いをさせられた。
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我が家の場合おせち作りは「出汁とり」から始まった。
昆布と鰹節で取る出汁は雑煮や煮物では欠かすことのできないものだった。一番出汁は雑煮に。二番出汁は煮物に。
僕の仕事は鰹節を削ることだった。
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出汁をとった後の大鍋で引き続き作るのはゆで豚だった。
大量のネギや生姜とともに豚肉の塊をコトコトと煮込んだだけのシンプルなものだったが、滅多に肉など食べられない子供たちには人気の一品だった。
子供の仕事は石炭ストーブにかけた鍋をかき回し続けることだった。
煮汁が少しずつ濃くなっていくたびに「味見」と称してつまみ食いをするのが何よりの楽しみだった。
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次に作るのは黒豆の煮物だった。
一晩ふやかした黒豆を大量の砂糖などでコトコト煮込んでいく。
ここでも火の番が子供の仕事だ。
少し固い黒豆は子供には不人気だったが、味見は楽しみだった。
なにしろ砂糖が貴重だった時代、甘ったるい煮汁は美味しかった。
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子供たちに火の番をさせている間、母親はなますや田作りを作っていた。
どうやって作っていたのかは記憶が定かではない。
甘酸っぱいなますは好きではなかったが、田作りは大好物だった。
我が家では大きめの煮干しを使っていたように思う。
骨が弱いと言われた弟のカルシウムを補うため、煮干しは欠かせないものだった。
味噌汁の出汁とりはもちろんのことだが、出汁殻も食べさせられた。
その甲斐あってか弟も僕もそして妹も頑丈な身体に育った。
(生まれながらのくる病だった飼い犬・ポン太の餌にも煮干しの出汁殻は入っていたっけ)
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昨日ドン・キホーテに食材を買い出しに行った。
物価高のご時世、少しでも安いにこしたことはない。
ましてこちとらしがない年金暮らし。
質より量を狙っての買い出しだ。
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年明け2日の晩方、我が家には家族が集まり恒例の新年宴会をやる。
総勢10名の胃袋を満たしてやる必要がある。
明日から2日がかりで一気におせち作りに取りかかろうと思っている。
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来年もまたおせちのいわれや、我が家の古くからの慣わし、そして当時の世相を語りながら食べる。
子供たちも、お嫁ちゃんたちも、まして孫たちもどこまで聞いているのかはわからない。
たぶん「また始まった」と聞き流されるのが落ちだろう。
それでも家族の歴史の一端を語り続けるのがジジイの役割だと思い、来年も語るつもり。
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それが年の瀬から正月にかけての我が家の慣わしだ。

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2022.12.25

【お知らせ】 ギターワークショップ@JUNE

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今週の火曜日(12月27日)ティールーム・ジュンで年内最後のギターワークショップを開催いたします。

マンツーマンによるギター弾き語りのエクササイズ。
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先日の「たそがれ音楽会」の場を借り、この1年の成果を発表させていただきました。
合い言葉は「ひとつの本番は100回の練習にも勝る」。
参加者はそれぞれのパフォーマンスを遺憾なく発揮してくれました。
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さて年内最後の今回は1年の総集編として取り組んできた歌をワークショップ内で披露する場にできたらと思っています。
あるいは来年に向けて新しい課題曲への挑戦ということになるかもしれません。
(フタを開けてみなければわからない?)
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「千里の道も一歩から」といいます。
ワークショップが始まってから1年半になります。
参加者のみなさんは着実に何歩かは進めたように思います。
来年に向けてさらに歩みを進めるために善きひとときで締めくくりたいと思います。
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同時にあらたに来年からギター弾き語りに取り組みたいとお考えの方。
すでに弾き語りをされているがもう一歩突っ込んで取り組みたい方。
ご興味がおあおりでしたらワークショップへいらっしゃいませんか。
見学は無料です。(ご注文のみお願いいたします)
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「ギターワークショップ@JUNE」はMartin古池が水先案内人を務めさせていただきます。
参加者それぞれの課題をさらに一歩前に進めるための道のりを一緒に考え、場合によってはヒントを提供するというスタイルでやっています。

皆さまのご参加をお待ち申し上げます。

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青空(寒空?)演奏



快晴の越谷でしたが、風が強く体感温度は実際の気温より低く感じられる青空演奏でした。

いつものように前半2時間は中央市民会館の建物の影で独り演奏。
後半1時間ちょいは菅原さんと青空越冬隊での演奏でした。
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ひとり演奏では午前中に蔵出しした「自分を通り過ぎた冬の歌たち」を次々と歌いつなげました。
自作曲、フォークソング、歌謡曲、演歌、カントリーソングと節操なしにくりひろげる「冬の歌」メドレー。

広場にはほとんど人影なく、自分と向き合いながらの演奏となりました。(寒い冬はどうしてもこんな形になってしまいがち)
ひとつひとつの歌と向き合うことができるので、これはこれでいいなとは思っています。
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そんな中でも警備員のオジサンに声をかけていただいたり、時折通り過ぎる散歩の方々に会釈や拍手をもらったりということはありがたいものです。
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今回は85歳のおばあさんが遠慮がちにとなりに腰をおろし、しばし聞き入ってくれました。
「群青」を歌っている時でした。
「群青」は戦死した息子を思いやる老いた父親の心情の歌。
僕は「群青」を歌う時いつもイメージするのは日中戦争のさなか青島で戦死した叔父とその父、つまり僕の祖父です。
兵隊おじちゃん(会ったことのない叔父のことを僕たちはそうよんでいました)は当時の函館の新聞では大きく取り上げられたそうです。
「名誉の戦死」だの「軍神」だのと言う言葉で埋め尽くされていたとか。
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表向きは気丈にふるまったであろう祖父ですが、内心では傷心を抱えていたのではないか。
そんな風に思えてなりません。
傷心をいだきながら冬の大森浜をひとりさまよい歩く祖父のイメージが僕の中では定着しています。
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そんなことを想い浮かべながら「群青」を歌っていると、それまで少し離れたところで聴いていたばあさんがすっと近寄ってきました。
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  となりに座って聴いてもいいかしら
  その歌、もう一度聴かせて
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それまでは歌と自分自身に向かっていた意識をこのばあちゃんに向け直して再び歌う「群青」。
突然ばあちゃんの目からひとしずくの涙。

僕は少々ドギマギしながらも歌い続けます。
歌い終えてそっとばあちゃんに目を向けます。

ばあちゃんは問わず語りで自分の半生を語り始めます。
現在85歳になったこと。
ご主人を亡くして21年になること。
ご主人は69歳で他界されたこと。
そしてピアノを弾くのが好きだったこと。
その他もろもろ・・・
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そんな話しをうかがいながら、僕の父も68歳で亡くなったこと。
音楽が好きであったこと。
父を失った母は92歳までひとりで生きてきたこと。
そして僕自身は父の逝った年齢を超えることが出来、来年69歳になることなどを語ります。
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請われるままに何曲か歌いつづります。
そのひとつひとつに深く頷きながら聞き入るばあちゃん。
やがて腰を上げ
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  どうもありがとう
  寒いから、お身体に気をつけて歌ってくださいな
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そう言い残して去って行きました。
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これが今回の「青空演奏」のめぐりあいでした。
寒風の中、歌ってて良かったと思える瞬間です。
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2部は菅原さんの待つ陽のあたる場所に移動して一緒に演奏。
常連の井上じいちゃん、そして安嶋さんが聴きに来てくださいました。お寒い中を本当にありがたいことです。
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「青空越冬隊」の今回の出し物は手慣れた「ナターシャセブン集」です。
今回は菅原さんが「明日になればね」等、新曲を仕入れてきたので、そこからスタート。

冬至を超えたばかりで陽が落ちるのが早い冬の夕暮れ。
陽が陰るまでの1時間をみっしり歌いました。
1年半を毎週一緒に歌ってきた菅原さん。
アイコンタクトと阿吽の呼吸。
いいあんばいで青空越冬演奏を進めることができました。
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次回は12月31日。
大晦日が「青空演奏」となります。
1年の締めくくり。歌いおさめていきたいと思います。

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2022.12.22

再会

自転車散歩中、公園のトイレに立ち寄った。
用をたしてトイレから出るとじいさんが順番を待っていた。
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  お待たせしました
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と、挨拶を交わし目が合う。
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  おおっ!
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互いに声を出す。
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  お久しぶりでした! (僕)
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  最近見かけないね (じいさん)
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越谷市場でやっていた「朝市コンサート」で顔見知りになったじいさん。
16年もの間、ほぼ毎回顔を合わせていた。
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  コロナになってからというもの
  市場開放デイが中断していて
  コンサートもできなくなったんですよ (僕)
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  ここ数年、
  市場は火が消えたようになっとるよ (じいさん)
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実はこのじいさん、忘れられない人だった。
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「朝市コンサート」を始めた頃、じいさんはチャーミングな奥さんを伴って買い物に来ていた。
5~6年もの間、睦まじく通っていた。
まさにおしどり夫婦だった。
奥さんは離れたところでいつも足をとめて聴いてくれていた。そして小さく手をたたき、軽く会釈をして二人は去って行った。
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ある日突然、奥さんは車椅子の人になった。
じいさんは車椅子を押しながらそれまでと変わらず買い物をしていた。
奥さんは離れたところに車椅子を停めてもらいしばし歌を聴いてくれた。
そして以前と同じように小さな拍手と会釈を残して帰って行った。
そんなことが何年か続いた。
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おしどり夫婦の姿が突然見えなくなったのは「朝市コンサート」が10年目を迎えた頃だろうか。
なんとなく気にはなっていたが、いつのまにかおしどり夫婦のことを忘れていた。
それから2年ほど経ち、じいさんが一人で市場に姿を現した。
目はどことなくうつろだった。
歌っている僕のすぐ目の前を通っても心ここにあらずという体で通り過ぎていった。
僕も前のようにじいさんに会釈をするのがためらわれていた。
そんなことが1年近く続いたろうか。
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ある日、若い夫婦(と思われる)を伴ってじいさんが現れた。
たぶん息子さんがお嫁さんを迎えたんだろう。
じいさんは彼らを連れて買い物に来始めたのだと思う。
じいさんの目には光りが戻っているように感じた。
以降3人連れの買い物ツアーが続く。
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息子さんも、お嫁ちゃんも僕の歌には好意的でいつもしっかり聴き、惜しみない拍手を送ってくれた。
若いだけ合って反応がストレートだ。
チャーミングなばあさんが控えめの拍手と会釈だったのとは対照的だった。
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やがてこの買い物ツアーに赤ん坊が加わった。
赤ん坊は音に合わせて首を振っていた。
そして赤ん坊は成長し歩くようになる。
歩きながら歌に合わせて身体をゆするまで育った。
孫を見るじいさんの目はやさしかった。
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そんな頃、巷にコロナの嵐が吹き荒れた。
越谷市場の市場開放デイは密を避けるため中断することとなった。
それに伴って「朝市コンサート」もまた中断せざるを得なかった。
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あれから3年の月日が流れた。
じいさんの顔に刻まれたシワは以前よりも深くなった。
声もしわがれていた。
すっかり老いていた。
それでも笑顔はあの日のままだった。
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「朝市コンサート」はおそらくこの先再開されることはないだろう。
それでも16年もの間続けることができたことは僕にとっては大きな財産だと思う。
ひとつの家族の歴史を(ほんのわずかとはいえ)かいま見させてもらうことができた。
じいさんに想いを馳せさせてもらえた。
2週間ごとにくりかえされる小さなめぐりあいの数々。
そのありがたさが今になってなおさらに感じられる。
僕にとってこのじいさんは「朝市コンサート」の象徴だったように思えてならない。

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2022.12.09

時計が再び動き始めた 絵本「おせちのおしょうがつ」の歌



10月に突然、懐かしい方から電話がかかってきた。
出版社・世界文化社の絵本制作部署のN女史だった。
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  古池さぁん
  「おせちのおしょうがつ」が重版を重ねてるんです
  今年15年目になるんで新装版を作ることになったんです
  そこで古池さんの作った「おせちのおしょうがつ」の歌を
  あらたに録音していただきたいんです
  それと楽譜も書いていただければ助かります
  カバーの折り返しに楽譜を載せて、
  QRコードで歌に飛べるようにするっていう企画なんです
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正直驚いた。
まさか再び、それも今頃になって絵本の歌に関わることになろうとは!
僕が印刷業界を去ってはや10年になる。
もうすっかり印刷とは縁が切れたと思っていた。
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15年前の秋、世界文化社発行の新刊絵本「おせちのおしょうがつ」の印刷に関わっていた。
印刷設計~印刷立ち会いまでが僕の守備範囲だった。
印刷立ち会いにはN女史も来られた。
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その道すがら、車中の雑談の中から絵本の歌を作ることになった。
絵本作家・ねぎしれいこ先生の文章にメロディをつけるというものだ。
やがてそれを元に書店や幼稚園などで「絵本コンサート」を開催するという販促企画にふくらんだ。
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絵本作家、出版社、印刷会社、書店と、印刷・出版業界の連携による企画は業界としては前代未聞の試みだった。
さいわい絵本コンサートは各処で好評を博することができた。
 

そして翌年、「おつきみどろぼう」という絵本でも同様の取り組みがなされた。
さらに翌年には「おうちピクニック」という絵本コンサートにつながっていた。
足かけ4年にわたり、絵本の歌3部作ができ、何度も絵本コンサートをさせてもらった。
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第1回 絵本コンサート@ジュンク堂池袋本店の記録
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装いも新たになった「おせちのおしょうがつ」を頂戴した。
懐かしい絵柄はそのままに、カバーの折り返しには楽譜が挿入されている。
「おうちピクニック」の新刊時にも楽譜を載せてもらった経験はあるが、あれから十余年の歳月が流れている。
しかもQRコードで歌にジャンプする仕掛けまで。
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うれしいような、怖いようなちょっと複雑な心境だ。
絵本コンサートの場合は歌ったその瞬間から消えていく。
でもQRコードを読み取れば自分の歌に飛び、それはずーっと残るものだからね。
煙のように消えていく「瞬間芸能」を旨としてきただけに、自分の音源が残されていくというのはちょっと恐怖だ。
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さて話しはこれだけで終わらなかった。
「おせちのおしょうがつ」を入稿し、ほっとしているとN女史からあらたな新曲作成の依頼が飛び込んだ。
ひな祭りをテーマにした新刊本のテーマソングだ。
さらに追いかけるようにして別の担当者・H女史からは幼稚園・保育園の卒園をテーマにした新刊本のテーマソング作成の依頼があった。

わずか2ヶ月の間にリメイク1曲と新曲2曲の作成に忙殺された。
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さいわいすべて納期内に入稿を終えることができた。
あとは共同印刷でかつてコンビを組んでいた営業担当・K女史と印刷現場の後輩たちが無事印刷・製本を終えてくれるのを祈るばかりだ。
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15年の時を経て、止まっていた時間が再び動き出したように思える。
直接印刷に関与することはもうできないが、なんらかの形で印刷につながっていられることはありがたいことだ。
そして僕を育ててくれた出版・印刷界へのわずかばかりの恩返しのように思える。
2022_12_07
2022_12_07-2

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2022.12.07

喫茶店JUNE たそがれ音楽会

今年最後の「喫茶店JUNE たそがれ音楽会」が終わる。
おかげさまで今回も満席。
初めてのお客さまも交え、歌におしゃべりににぎにぎしい音楽会となった。
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加えて「ギターワークショップ」のプチ発表コーナーもさせていただいた。
ワークショップの参加者が1年間の成果を披露する場だ。
お客さまの見守る温かくも興味津々の視線。
緊張しながらものびのびと弾き語る。
「1回の本番は100回の練習にまさる」
まさにそんな発表となった。
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「喫茶店JUNE たそがれ音楽会」を始めて3年になる。
それまでは「喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ」として、通常営業中のソロライブとして10年続けてきた。
コロナの時代にはいり、形を変えて再スタートした。
「昼下がりライブ」ではそこに居合わせたお客さまに歌いかける、いわば一方通行のライブだった。
そこでなにがしかの化学変化を起こし、一方通行から相互通行に変えていくというのが狙いだった。
「たそがれ音楽会」ではお客さまからリクエストを頂戴し、一緒に歌うという相互通行の音楽会に形を変えた。
時間帯も日曜の昼下がりから、夕刻たそがれ時に移した。
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「ライブ」というよりも「音楽会」という名の方がふさわしいと思った。
共に音を楽しむ会にしていきたいとの願いから「たそがれ歌声音楽会」として再スタートした。
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順風満帆というわけでは決してなかった。
コロナの影響で世の中全般、人の動きは低調だった。
多くの人々は家に閉じこもり「不要不急」の外出は控えていた。
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最初の1年は「昼下がりライブ」時代からの常連さん3~4人でこぢんまりとした音楽会が続いていた。
お客様からのリクエストを軸に進める音楽会だから、演奏する側としてはたくさんの歌を知っていなければならない。
知っているだけでは不十分で、それらをちゃんと演奏できなければならない。
昭和の歌謡曲やフォークソングなどをあらためて聴き込み、歌詞を吟味し、稽古するところから準備を始めた。
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さいわい子供時代に「歌謡曲少年」だった僕はかなりたくさんの歌を覚えていた。
以前やっていた「新越谷駅前・街角ライブ」や「お好み焼きの三貴ライブ」、「朝市コンサート」などでの経験も活きた。
地元のデイサービスや函館の特養での「歌謡ショー」の経験も活かすことができた。
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一人の歌い手にスポットライトを当て、マスターが語り僕が歌うというコーナーを設けた時期もあった。
一人の歌手のデビュー時代から全盛期にかけてを追いかける試みは大いに勉強になった。
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それらをもとにして昭和の歌謡曲を中心とした200曲ほどの歌集を作るところからスタートした。
常連さんの年齢は70代~80代。
彼ら・彼女らのリクエストや好みを取り入れながら、歌集は少しずつ増え今では500曲ほどにまで増やすことができた。
そんな作業を積み重ねた最初の1年~1年半。
いわば「たそがれ音楽会」の準備期間だったように思う。
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この1年、お客さまの数は少しずつ増えてきた。
年齢層も同年代(60年代)の方が増え、選曲も多彩になってきた。
毎回楽しみにしていてくれているようで、いつもほぼ満席の音楽会に育ってきた。
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お客さまが増えたことや年齢層が広がったことに伴う別の難しさが生まれてきてはいる。
80代の方と60代の方とでは青春時代に親しんだ歌が違うからだ。
各年代に等しく喜んでもらえるような選曲や進行の仕方に心をくだく昨今。
それはより楽しく、より実り多き音楽会に成長するための「欠かせぬ苦労」だと思っている。
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2022年最後の「喫茶店JUNE たそがれ音楽会」を進めながら、これまでの道のりを思い起こしていた。
無事つつがなく終えることができ、来年に向けて思いをあらたにしている。

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