【街角ライブ その2 街角ライブにいたるまで】
48歳のいいオヤジが若者に混じって駅前に立ち、歌う。
最初はかなりの勇気が必要だった。
新越谷の駅前を行き交う人たちからは好奇の目で見られているのを感じた。
.
路上ライブ(街角ライブ)を始めたのにはそれなりの理由があった。
.
45歳の時にそれまでメインでライブをやっていたライブハウス 「ぶどうの木」が店を閉めたのだ。
.
「ぶどうの木」で僕は10年ほどレギュラーライブをさせてもらっていた。
2時間枠のソロライブを年に数回だったけど、続けることでいろんな実験をすることができた。
テーマを決め、ストーリー仕立てのステージを展開するというスタイルはこの10年間で形作られていった。(このスタイルは形ややり方を変え、今につながっている)
.
ライブは毎回ほぼ満席だった。
集客は僕も頑張ったが、やはりお店の努力は並々ならぬものだったと思う。
それは「ぶどうの木」のスタッフが僕のステージを気に入ってくれていたからだろう。(今でも「ぶどうの木」のママさんはおーるどタイムライブに毎回足を運んでくださっている)
僕は「ぶどうの木」に育ててもらった。
.
「ぶどうの木」という場が無くなった後、僕は自力でライブを企画した。
当時演奏をさせてくれる店は少なかった。
あってもそのほとんどは対バン形式だった。
しかもノルマ制の店が多かった。
持ち時間もせいぜい30分がいいところだった。
これではそれまで培ってきたストーリー性のあるステージは望むべくもない。
僕はソロライブ、それも2時間枠にこだわった。
.
公共施設や市内のスナック・ホールなどを借りて、それまでと同じペースで同じ内容のライブを続けた。
ちがうことは100%自力で集客をしたことだ。
おかげさまで毎回ほぼ満席となった。
.
でもこれはかなり大きな負担となってのしかかった。
普段は会社勤めをしていて、同時に練習や準備を続け、さらに加えて集客まで!
ステージの準備以上に集客に費やすパワーの方が大きいというのは決して正常ではない。
すっかり疲れ果ててしまった。
.
同時にそれまでの自分のライブに少しずつ違和感を感じ始めていた。
.
オレはこれまでお客さんに守られた中で歌ってきた
それはとてもありがたいことだ
でもそれは温室でぬくぬく育てられてるってことじゃないか
自分をを知らぬ人にオレの歌は通用するんだろうか
.
こんな疑問が頭をもたげてきてしまい、日に日に強くなっていった。
.
不特定多数の人たちにでも「いい!」と思ってもらえなければ、歌に力があるとはいえない。
ミュージシャンや「音楽の素養」のある人だけではなく、音楽にあまり縁のない市井の人たちにも「いい」と感じてもらうにはどうしたらいいのか。
.
出した結論は街角で歌うことだった。
道行く人たちは誰もオレのことを知らない。
そんな人たちに聴いてもらってこそ、唄歌いといえるのではないか。
.
そうは思ったが、なかなか踏ん切りがつかなかった。
フォークゲリラを気取って街角で歌い、苦い思いを重ねた若い日が頭をよぎった。
.
あれは若さにまかせた
独りよがりのマスターベーションだった
当時より経験を積んだとはいえ、今の自分はどうなんだ
それを問うのが街に立つ意味じゃないのか
.
そんな自問自答の末、勇気をふりしぼり新越谷駅前に立った。
最初の一声を出すまでのなんと長いことか。膝頭はガクガクしていた。
.
2002年の冬のことだった。
.
.
(「街角ライブ その3」に続く)
.
ぶどうの木ライブの模様
| 固定リンク | 0
「『街角ライヴ』」カテゴリの記事
- 今年の音楽活動は滞りなく終了できました(2024.12.28)
- 3年前の青空演奏の歌い納めの記録(2024.12.28)
- 友 遠方より来たる(2024.06.17)
- 車座で青空演奏会(2024.05.31)
- 春近し! 唄の棚卸し そしてミニ歌謡ショー(2024.02.18)
コメント