【街角ライブ その3 駅前で歌う】
お店のお客様やコアなファン、さらには仲の良い友人たちに支えられて歌ってきたライブハウス「ぶどうの木」での演奏。
それは反面「温室培養のライブ」とはいえないか。
お客様に守られているからこそ、わがままに歌えるし、やりたいことも自由にできる。
でも僕のことを知らない「不特定多数」の人たちに共感を持って受け入れてもらえるものなのか。
そんな疑問が頭をもたげはじめ、いつしかそのことで頭の中がいっぱいになってしまった。
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2002年(平成14年)、新越谷駅の前で僕は歌い始めた。
不特定多数の市井の人々に自分の歌を問う気持ちだった。
48歳の冬だった。
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当時新越谷駅前では何組かの若者たちが鳴り物入りでにぎやかに「ストリート・ライブ」をやっていた。
そこに混じって中年オヤジが歌う。
思いっきり浮いていた。
通り過ぎる人たちもうさんくさそうな目でチラリと眺めて足早に去っていく。
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最初の頃は歌ってもあまりリアクションはなかった。
「ぶどうの木」などでは打てば響くというような反応を返してもらっていた。
自分はいかに守られてきたのか身にしみて感じた。
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何よりも困ったのは、長年慣れ親しんだ「ストーリー仕立てのライブ」というやり方がまったく通用しないことだった。
通り過ぎる人々に歌いかけるわけだ。ストーリーもへったくれもない。
それまで自作曲や少々マニアックな歌はストーリーの中に位置づけて歌ってきた。そういう歌もまた歌う機会が減った。
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足を止め、じっくり聴いてもらうには
どうすりゃいいんだ
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それまでほとんど歌ってこなかったポピュラーな歌を取り上げることにした。
ポピュラーな歌とは昭和の頃の流行歌だったり、「神田川」や「22才の別れ」といったフォークソングの有名どころだ。
内心大きな抵抗があった。
自分のライブのやり方やアイデンティティを否定するような気がしたからだ。
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しかし背に腹は変えられぬ。
せめてそれぞれの歌に自分なりの解釈を加ようと思った。
その歌に込められた物語だったり、歌の背景だったり。
そしてその歌が流行っている頃の自分はどうだったのかを考えた。
一つの歌と自分との関係性を位置づけることで、ようやっと歌えるようになった。(このやり方はいまだに続く習慣となっている)
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もう一つは1曲1曲を丁寧に歌うことを心がけた。
街角ライブにストーリー仕立てはなじまない。
これはもう「1曲勝負」を積み重ねるしかない。
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1年くらいはそんな試行錯誤に明け暮れた。
徐々にだが足を止めて聴いてくれる人も現れるようになった。
毎回お見かけする顔も増えてきた。
少し遠巻きにして、柱の影から聴いてくれる人も増えた。
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2年目に入った頃、「遠巻き族」をなんとか柱の影からひきづり出したいと思い始めた。
それもこちらから声をかけずとも、自然に顔を出してくれるのがいい。
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いろいろ考えたが妙案は浮かばない。
「遠巻き族」の方々が歌を聴いてくださっているのは間違いがない。
ただ積極的な反応を返すにはためらいがある。
そのためらいをとりのぞくにはどうすればいいのか。
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「遠巻き族」のひとりに勤め先の同僚がいた。
ある日職場で僕にこう漏らした。
コイケちゃんさぁ
スピーカーの音でなんとなく近寄りがたくなるんだよなぁ
薄いベールかバリアが張られてるような感じがしてさ
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ハツとした。
それは僕自身なんとはなしに感じていることだった。
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ライブハウスなどではスピーカーを通して増幅された音で聴いてもらうのが普通だ。
演奏する側も聴く側もそれがあたりまえのことだ。
「ライブ慣れ」しているということだ。
でも「遠巻き族」の人たちも、駅前を歩く人たちもほとんどの人が「ライブ慣れ」などとは縁遠いところで暮らしているんだろう。
駅コンコースという場所がら、大音量は控えてはきた。
それでも慣れぬ人には抵抗感があるのかもしれない。
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その週の「街角ライブ」は生音で臨んだ。
あら不思議。
通りすがりの方に笑顔の会釈を頂戴したり、お声をかけてくださる方が少しずつ出てきたのだ。
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翌週、翌々週と生音演奏で臨むにつれ、そんな人たちが増えていった。
かたくなに柱の影で聴いていてくださっていた方々にも変化が。
柱の影から姿を現し、一歩また一歩と距離が縮まってきたのだ。
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徐々に人が集まるようになっていった。
毎週土曜の晩、僕が歌い出すのを待ち構えている人たちも増えていった。
やがて常時、誰かしら必ず聴いていてくださるという状態は普通になっていった。
時にはちょっとしたフォーク集会みたいになることもあった。
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街角ライブを始めて4年目になって突然の通告がでかでかと貼り出された。
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「駅構内での演奏は一切禁止いたします。 ○○鉄道」
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その予兆は1年ほど前から表れていた。
まるで雨後の竹の子のように若い衆がたくさん集まり、駅コンコースで歌うようになった。
広いコンコースは彼らに占拠されたかのようだった。
真摯に路上ライブに取り組む若者たちも多かった。
でも中に練習もせず出たとこ勝負で歌い始め、失敗して途中でやめちゃうというようなちゃらんぽらんな連中もいた。
彼らは総じてマナーも悪く、「路上ミュージシャンの仁義」は無視された。
若者同士の中でトラブルが起きるようになった。
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加えてペルーのフォルクローレバンドが大挙押し寄せ、大音量で演奏をするようになった。
音量や場所の問題で彼らともトラブルが発生するようになった。
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僕は年齢がら、ペルー人たちとの交渉役をやるようになった。
時にはトラブルの仲裁役もやった。
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いずれ、鉄道会社か警察が介入してくるだろうな
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そんな予感は的中した。
それまでは鉄道会社からも警察からも黙認されてきた「街角ライブ」だった。
でもそれ以降は10分も歌ってると警備員が血相変えてやってきて中止を宣告した。
「中止しない場合は警察に通報する」というのが決まり文句だった。
当時、駅の目の前に交番があった。通報を受けた警官がやってきて、取り締まられた若者グループもあった。
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ああ、街角ライブもそろそろ潮時だな
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(第2期)街角ライブはこうして4年間の幕を降ろした。
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(「街角ライブ その4」に続く)
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