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2021.05.29

【追悼 チャコちゃん】



僕と同じ日に生まれのチャコちゃんが天に召された。
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ショックだ。
悲しい。
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チャコちゃんと最後に共演したのは2020年3月22日。
富安秀行(ハゲ)さんとのジョイント・ライブ。
僕のステージで「テネシー・ムーン」を一緒に歌った。
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この後1回目の緊急事態宣言が出された。
ホームの「Live cafe おーるどたいむ」も休業を余儀なくされた。
宣言が開けお店が再開した後、チャコちゃんとは連絡が取れなくなった。
持病との闘いで、苦しんでいたとのことだ。
そして昨年の11月に旅立たれたそうだ。
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そのことは、ちっとも知らなかった。
今日初めてその知らせを聞いた。
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僕のライブには必ず足を運び、華を添えてくれたチャコちゃん。
「みんなで歌おう・弾こうフォークソング@おーるどたいむ」ではいつも元気に歌ってくれたチャコちゃん。
妙にウマがあったチャコちゃん。
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同じ日に生まれたあなたを同志のように思っていました。
まさかこんなに突然、こんなに早く、先に行くとは思ってもいなかったよ。
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好天気に誘われて  本日も野外演奏開始

好天気に能天気。
絶好のお日和だぁ。
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ありがたいことに、今日も聴いてくださる方に恵まれました。
そのうち1組のご夫婦は前回やったときもじっくり聴いてくれました。
歌い始めると、待ってましたとばかりに現れて🙋
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今回ははなっから本気モード全開❗こちらが本気モードで歌うと、自然と聴いてくれる人も現れます。
練習モードだとどっか腰が引けてるんでしょうね。
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歌うにつれおしゃべりも飛び出し、いい感じ。
そうそうこれこれ。
これを求めて外に出たんです。
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びっしり2時間半。
いいひとときになりました。

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2021.05.27

【街角ライブ その3 駅前で歌う】

新越谷駅 街角ライブ
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お店のお客様やコアなファン、さらには仲の良い友人たちに支えられて歌ってきたライブハウス「ぶどうの木」での演奏。
それは反面「温室培養のライブ」とはいえないか。
お客様に守られているからこそ、わがままに歌えるし、やりたいことも自由にできる。
でも僕のことを知らない「不特定多数」の人たちに共感を持って受け入れてもらえるものなのか。
そんな疑問が頭をもたげはじめ、いつしかそのことで頭の中がいっぱいになってしまった。
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2002年(平成14年)、新越谷駅の前で僕は歌い始めた。
不特定多数の市井の人々に自分の歌を問う気持ちだった。
48歳の冬だった。
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当時新越谷駅前では何組かの若者たちが鳴り物入りでにぎやかに「ストリート・ライブ」をやっていた。
そこに混じって中年オヤジが歌う。
思いっきり浮いていた。
通り過ぎる人たちもうさんくさそうな目でチラリと眺めて足早に去っていく。
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最初の頃は歌ってもあまりリアクションはなかった。
「ぶどうの木」などでは打てば響くというような反応を返してもらっていた。
自分はいかに守られてきたのか身にしみて感じた。
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何よりも困ったのは、長年慣れ親しんだ「ストーリー仕立てのライブ」というやり方がまったく通用しないことだった。
通り過ぎる人々に歌いかけるわけだ。ストーリーもへったくれもない。
それまで自作曲や少々マニアックな歌はストーリーの中に位置づけて歌ってきた。そういう歌もまた歌う機会が減った。
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  足を止め、じっくり聴いてもらうには
  どうすりゃいいんだ
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それまでほとんど歌ってこなかったポピュラーな歌を取り上げることにした。
ポピュラーな歌とは昭和の頃の流行歌だったり、「神田川」や「22才の別れ」といったフォークソングの有名どころだ。
内心大きな抵抗があった。
自分のライブのやり方やアイデンティティを否定するような気がしたからだ。
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しかし背に腹は変えられぬ。
せめてそれぞれの歌に自分なりの解釈を加ようと思った。
その歌に込められた物語だったり、歌の背景だったり。
そしてその歌が流行っている頃の自分はどうだったのかを考えた。
一つの歌と自分との関係性を位置づけることで、ようやっと歌えるようになった。(このやり方はいまだに続く習慣となっている)
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もう一つは1曲1曲を丁寧に歌うことを心がけた。
街角ライブにストーリー仕立てはなじまない。
これはもう「1曲勝負」を積み重ねるしかない。
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1年くらいはそんな試行錯誤に明け暮れた。
徐々にだが足を止めて聴いてくれる人も現れるようになった。
毎回お見かけする顔も増えてきた。
少し遠巻きにして、柱の影から聴いてくれる人も増えた。
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2年目に入った頃、「遠巻き族」をなんとか柱の影からひきづり出したいと思い始めた。
それもこちらから声をかけずとも、自然に顔を出してくれるのがいい。
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いろいろ考えたが妙案は浮かばない。
「遠巻き族」の方々が歌を聴いてくださっているのは間違いがない。
ただ積極的な反応を返すにはためらいがある。
そのためらいをとりのぞくにはどうすればいいのか。
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「遠巻き族」のひとりに勤め先の同僚がいた。
ある日職場で僕にこう漏らした。
  コイケちゃんさぁ
  スピーカーの音でなんとなく近寄りがたくなるんだよなぁ
  薄いベールかバリアが張られてるような感じがしてさ
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ハツとした。
それは僕自身なんとはなしに感じていることだった。
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ライブハウスなどではスピーカーを通して増幅された音で聴いてもらうのが普通だ。
演奏する側も聴く側もそれがあたりまえのことだ。
「ライブ慣れ」しているということだ。
でも「遠巻き族」の人たちも、駅前を歩く人たちもほとんどの人が「ライブ慣れ」などとは縁遠いところで暮らしているんだろう。
駅コンコースという場所がら、大音量は控えてはきた。
それでも慣れぬ人には抵抗感があるのかもしれない。
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その週の「街角ライブ」は生音で臨んだ。
あら不思議。
通りすがりの方に笑顔の会釈を頂戴したり、お声をかけてくださる方が少しずつ出てきたのだ。
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翌週、翌々週と生音演奏で臨むにつれ、そんな人たちが増えていった。
かたくなに柱の影で聴いていてくださっていた方々にも変化が。
柱の影から姿を現し、一歩また一歩と距離が縮まってきたのだ。
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徐々に人が集まるようになっていった。
毎週土曜の晩、僕が歌い出すのを待ち構えている人たちも増えていった。
やがて常時、誰かしら必ず聴いていてくださるという状態は普通になっていった。
時にはちょっとしたフォーク集会みたいになることもあった。
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街角ライブを始めて4年目になって突然の通告がでかでかと貼り出された。
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 「駅構内での演奏は一切禁止いたします。 ○○鉄道」
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その予兆は1年ほど前から表れていた。
まるで雨後の竹の子のように若い衆がたくさん集まり、駅コンコースで歌うようになった。
広いコンコースは彼らに占拠されたかのようだった。
真摯に路上ライブに取り組む若者たちも多かった。
でも中に練習もせず出たとこ勝負で歌い始め、失敗して途中でやめちゃうというようなちゃらんぽらんな連中もいた。
彼らは総じてマナーも悪く、「路上ミュージシャンの仁義」は無視された。
若者同士の中でトラブルが起きるようになった。
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加えてペルーのフォルクローレバンドが大挙押し寄せ、大音量で演奏をするようになった。
音量や場所の問題で彼らともトラブルが発生するようになった。
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僕は年齢がら、ペルー人たちとの交渉役をやるようになった。
時にはトラブルの仲裁役もやった。
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  いずれ、鉄道会社か警察が介入してくるだろうな
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そんな予感は的中した。
それまでは鉄道会社からも警察からも黙認されてきた「街角ライブ」だった。
でもそれ以降は10分も歌ってると警備員が血相変えてやってきて中止を宣告した。
「中止しない場合は警察に通報する」というのが決まり文句だった。
当時、駅の目の前に交番があった。通報を受けた警官がやってきて、取り締まられた若者グループもあった。
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  ああ、街角ライブもそろそろ潮時だな
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(第2期)街角ライブはこうして4年間の幕を降ろした。
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(「街角ライブ その4」に続く)
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【街角ライブ その2 街角ライブにいたるまで】

48歳のいいオヤジが若者に混じって駅前に立ち、歌う。
最初はかなりの勇気が必要だった。
新越谷の駅前を行き交う人たちからは好奇の目で見られているのを感じた。
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路上ライブ(街角ライブ)を始めたのにはそれなりの理由があった。
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45歳の時にそれまでメインでライブをやっていたライブハウス 「ぶどうの木」が店を閉めたのだ。
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「ぶどうの木」で僕は10年ほどレギュラーライブをさせてもらっていた。
2時間枠のソロライブを年に数回だったけど、続けることでいろんな実験をすることができた。
テーマを決め、ストーリー仕立てのステージを展開するというスタイルはこの10年間で形作られていった。(このスタイルは形ややり方を変え、今につながっている)
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ライブは毎回ほぼ満席だった。
集客は僕も頑張ったが、やはりお店の努力は並々ならぬものだったと思う。
それは「ぶどうの木」のスタッフが僕のステージを気に入ってくれていたからだろう。(今でも「ぶどうの木」のママさんはおーるどタイムライブに毎回足を運んでくださっている)
僕は「ぶどうの木」に育ててもらった。
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「ぶどうの木」という場が無くなった後、僕は自力でライブを企画した。
当時演奏をさせてくれる店は少なかった。
あってもそのほとんどは対バン形式だった。
しかもノルマ制の店が多かった。
持ち時間もせいぜい30分がいいところだった。
これではそれまで培ってきたストーリー性のあるステージは望むべくもない。
僕はソロライブ、それも2時間枠にこだわった。
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公共施設や市内のスナック・ホールなどを借りて、それまでと同じペースで同じ内容のライブを続けた。
ちがうことは100%自力で集客をしたことだ。
おかげさまで毎回ほぼ満席となった。
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でもこれはかなり大きな負担となってのしかかった。
普段は会社勤めをしていて、同時に練習や準備を続け、さらに加えて集客まで!
ステージの準備以上に集客に費やすパワーの方が大きいというのは決して正常ではない。
すっかり疲れ果ててしまった。
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同時にそれまでの自分のライブに少しずつ違和感を感じ始めていた。
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  オレはこれまでお客さんに守られた中で歌ってきた
  それはとてもありがたいことだ
  でもそれは温室でぬくぬく育てられてるってことじゃないか
  自分をを知らぬ人にオレの歌は通用するんだろうか
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こんな疑問が頭をもたげてきてしまい、日に日に強くなっていった。
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不特定多数の人たちにでも「いい!」と思ってもらえなければ、歌に力があるとはいえない。
ミュージシャンや「音楽の素養」のある人だけではなく、音楽にあまり縁のない市井の人たちにも「いい」と感じてもらうにはどうしたらいいのか。
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出した結論は街角で歌うことだった。
道行く人たちは誰もオレのことを知らない。
そんな人たちに聴いてもらってこそ、唄歌いといえるのではないか。
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そうは思ったが、なかなか踏ん切りがつかなかった。
フォークゲリラを気取って街角で歌い、苦い思いを重ねた若い日が頭をよぎった。
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  あれは若さにまかせた
  独りよがりのマスターベーションだった
  当時より経験を積んだとはいえ、今の自分はどうなんだ
  それを問うのが街に立つ意味じゃないのか
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そんな自問自答の末、勇気をふりしぼり新越谷駅前に立った。
最初の一声を出すまでのなんと長いことか。膝頭はガクガクしていた。
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2002年の冬のことだった。
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(「街角ライブ その3」に続く)
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ぶどうの木ライブの模様
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【街角ライブ その1】

15年ぶりに「街角ライブ」を復活させようと思っている。
長引くコロナ時代のあおりを受け、ほぼ壊滅状態のレギュラー・ライブ。
ライブ勘を錆びつかせないことが当面の目的。
いつかレギュラーライブを再開させる時にちゃんとステージができるようにしとかなきゃね。
今の状況で自分にできる最大限の取り組みが「街角ライブ」。
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なにしろ屋外で歌うわけだから、演奏条件としては密閉・密集・密接の点で比較的安全だものね。
それに青空・生音ライブでは小細工抜きのストレートな演奏でなければ伝わっていかない。
この際いったん歌うこと、弾くことの原点に立ち返るのも悪くはないかなと思う。
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ただ、やみくもに外で歌い始めるってのも芸がない。
以前やっていた「街角ライブ」をふりかえり、自分の中に位置づけておかなければなるまい。
いつもながらまったくめんどくさい性癖だ。
でも長年こんなやり方でやってきたわけで、今更変えることもできない。
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そんなわけで、これまでやってきた「街角ライブ」の総括めいたことを2回に分けて跡づけてみたいと思う。
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歌い始めてかれこれ50年になるが、大きく分けて二つの時期に「街角ライブ」をやってきた。
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一つは10代~20代の頃。
当時僕はフォークゲリラの影響を少なからず受けていた。
新宿西口広場のフォークゲリラを実際には見たことはなかった。体感したことがないから、逆に妄想で脳裏ははち切れそうだった。
最初にフォークゲリラ的な街角ライブをやったのは東室蘭駅の東口だった。(当時は「街角ライブ」などとはいってなかったけどね)
自分の思い・若者の主張を声量にまかせて歌いあげていた。
東京に出てきてからもそこかしこで同じように歌っていた。
自己主張だけの一方通行の「ライブ」だった。
とても「ライブ」などと呼べるシロモノではなかった。
当然のことながら道行く人は歌う僕を避けて、遠回りして去って行った。
ひとりよがりのライブだったことに気づき、打ちのめされた。
そしていつしか挫折していった。
(この後数年、まったく歌えなくなってしまった)
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もう一つは48歳~52歳までの4年間だ。
土曜日の夜、7時頃から終電のなくなる12時半頃まで新越谷駅前で歌っていた。
当時の記録によると「出勤率」97%だったから、ほぼ欠かさず毎週歌っていたことになる。
この4年間の「街角ライブ」はその後の自分のライブ・スタンスに大きく影響を及ぼした。
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今回「街角ライブ」を再開するにあたり、ふりかえらなければならないのはこの時期の活動。
今の自分のスタイルに直結する季節だから。
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この点についてはまた後日書きたいと思う。

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2021.05.26

公園で歌う

午後から3時間ばかりぽっかり時間が空いた。
風はちょっと強いが、お天気はいい。
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つと思い立ち、ギターを背負って元荒川へ。
人もまばらな中央市民会館の緑地広場で屋外練習を始める。
1時間も歌ううちに、気づくとご夫婦連れが3組がちょっと離れて腰を下ろしている。
しっかりと聴いてくれている。
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そのうちのお一人が近寄ってきて、おずおずとリクエストのお申し出。
二つ返事でお応えすると、次から次へと舞い込むリクエスト。
フォークソングが多かった。
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やがて別のご夫婦連れからもリクエストが。
こちらは歌謡曲系。
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この段階で「屋外練習」から「屋外ミニ音楽会」に切り替える。
リクエストにお応えするだけではなく、ちょっとだけストーリー仕立てにして歌う。
自作曲やポピュラーではない歌もちょっと紛れ込ませる。
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背後には小さな子供が張り付き、「パプリカ」やってとせがむ。
「パプリカ」は少々荷が重かった。
苦肉の策で自作の「お化け屋敷の歌」や「ハエ・ハエ・ハエ」を歌ってあげた。
歌に合わせてダンスを始める男の子。
さすがに今時の子供だ。
そんな孫の姿におばあちゃんがちょっと離れたところで目を細めて眺めている。
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期せずしての「街角ライブ」(?)になったが、人様の前で歌うのはひと月ぶり。
得るものは多かった。
「百の練習より1回の本番」だね。
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エンディングの「テネシー・ワルツ」を歌い終えると、通りすがりの方たちからも盛大に拍手を頂戴した。

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光の中のかたつむり


まだ眠ってる街を通り抜け
人気のない川沿いの道を歩く
昇りだしたお天道様に向かって
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両手に持った杖をゆっくりゆっくり前に出す
それに合わせて足を前に運ぶ
運ぶ足に腰を乗せ、その上に頭を置く。
大地に身体をまっすぐ乗せる
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お天道様に話しかけ
足下の小さな花に目を向ける
そこかしこで鳥の鳴き声
川面を跳ねる魚の水を打つ音
肌をなで、通り過ぎていく風
目覚めた街から、風に運ばれるご飯の炊ける薫り
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不意に沸いて出る、忘れていた古い歌
思わず口ずさむ
遠い記憶がよみがえる。
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同じ動きがただ、ただ、くりかえされる
ゆっくり、ゆっくり
どこまでも、ゆっくり
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ああ、まるで光の中のかたつむり
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  光の中のかたつむり
  せめて夢を背負いながら
  歩いてゆくよこの道を
  君に出会うまで
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こんな歌があったっけ
なんだっけ
あ、そうか
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「道連れは南風」だ。
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とても大切なひととき
思うともなく思い
考えるともなく考える
そして、いつのまにか自分と向き合っている
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時に歩き、時に自転車で風を感じる朝。
こうして僕の一日は始まる。
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今日もいい日でありますように。

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2021.05.25

2021年 6月のライブ・音楽会予定

06月06日(日) 喫茶店JUNE たそがれ歌声音楽会 

時 間  16:00~18:00
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 (1ドリンク付き)
水先案内人 Martin古池

★昭和の香り漂う喫茶店。
 昭和を彷彿とさせる歌の数々を参加された方々と歌います。
 歌と切っても切り離せないのがおしゃべり。
 ひとつの歌から様々なおしゃべりが飛び出す井戸端音楽会です。
 今回は布施明を特集するコーナー。
 マスターが語り、マーチンが歌う。
 すっかり恒例となったコーナーです。

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06月18日(金) さんすまいる歌声音楽会 

時 間  13:30~14:30
場 所  デイサービス さんすまいる
      東武スカイツリーライン 蒲生駅 西口 徒歩2分
      HP→https://sansumairu-corp.hp.gogo.jp/pc/free4.html

★蒲生のデイサービスで人生の先達の皆様とともに歌い、ともに語る「井戸端音楽会」。
 Martin古池が水先案内人を務めさせていただきます。

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06月19日(土)  第3回 味亭オープンマイク

時 間  13:00~17:00
      Martin古池は14:00~14:20の予定
場 所  韓国料理 味亭
      東武スカイルリーライン 春日部駅 東口 徒歩5分
       越谷に向かって線路沿い
       食べログの紹介記事(地図)

★Shimo音楽教室主宰のオープンマイクです。
 たくさんの出演者が様々なジャンルの音楽を奏でます。(朗読もあり)

 Shimo音楽教室の塾頭・下坂さんは長年に渡って僕の音楽的ブレーンのような存在でした。
 僕の音楽スタイルはもちろん、好みの音などにも精通しており、
 これまでさまざまなアドバイスを頂戴してきた方です。
 恩返しを兼ねて今回も出演させていただきます。

 

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2021.05.20

ごめんネ・・・ジロー



濃霧の中を早朝ポタリング。
今朝はトレーニング的な走りを試みる。
先日ペダルに取り付けたトウクリップを活かす走り方を試す。
トウクリップをつけることで「ペダルを漕ぐ」のではなく「回す」イメージに変わる。
ペダルを漕ぐのはピストンの上下動。
回すのはエキセンのカムによるロータリー的な円運動。
ギアを軽くし、その分回転速度を上げてひたすらまわし続けた。
90分はそれでいけたが、すねに違和感を覚えた。
以降30分はピストン運動にもどし、ゆっくり帰宅。
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BGMは今日も「歌謡スクランブル」。
「プレイバック 1960年代の流行歌 パートⅢ」。
「ああ上野駅」など、昭和30年代半ばの集団就職=「金の卵」世代の心を捉える歌をたくみに取り込んでいた。
よく考えられた構成に感心する。
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そして本日の1曲は奥村チヨの「ごめんネ・・・ジロー」。
1965年(昭和40年)にデビューした奥村チヨの最初のヒット曲。
僕は小学5年生。思春期を前にしてそろそろ色気づいてきたころ。
いわゆる「恋に恋するお年頃」だったように思う。
「ごめんネ・・・ジロー」をテレビの中で歌う奥村チヨを観ながら甘酸っぱい思いで、胸がキュンとしていた。
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奥村チヨは和製シルビー・バルタンのキャッチで売り出された。
でもあらためてこの歌を聴くとアメリカンポップスの香りがする。コニー・フランシスが歌ってもちっともおかしくないメロディラインだ。
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この後1967年(昭和42年)に「北国の青い空」でベンチャーズサウンドのヒット曲をだした。
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その後「恋の奴隷」「恋泥棒」などの官能的なお色気路線に転じる。
中学に進み、思春期まっただ中の僕は興味津々のくせに親の前では恥ずかしく、無関心を装っていた。
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そして1971年(昭和46年)、名曲「終着駅」のヒット。
お色気路線の後だけに、しっとりした大人の女の歌に胸がつかまれた。
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いわゆる正統派の歌唱力とはちがうけど、奥村チヨには聴き手の心をつかむ歌のうまさがあるように思う。
そしてそれは「ごめんネ・・・ジロー」にも充分に発揮されてるなと思う。
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2021.05.19

【遠くへ行きたい】


2021_05_19
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小雨混じりの早朝散歩。
ストックを持ち、ゆったりと歩を進める。
住宅街のかたわらにある小さな田んぼでは田植えが始まっている。
最近我が家では越谷産の米が多い。
もっちりとしてなかなかイケる。
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本日のお供も「歌謡スクランブル」。
「プレイバック 1960年代の流行歌特集 パートⅡ」。
前半はアラカルトで耳になじんだ歌をたくさん取り上げている。
後半は畠山みどり特集。
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畠山みどりも昭和30年代の小学生にはピンとこない歌手だった。
初めてちゃんと聴いたけど、得手不得手は別としてやっぱりうまいなぁ。
浪曲をベースにした歌謡曲で、自分の中にはない音使いだった。
畠山みどりもまた北海道、稚内出身だそうだ。
デザイナーを志して上京したが、歌手になる夢をすてきれず古賀政男ギター学院で歌の勉強をしたそうだ。
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永六輔と中村八大、六八コンビによる名曲。
子供の頃から好きな歌で、カバーしてはいるがとてもむずかしい。なかなか思うようには歌えない。
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元々はNHKのテレビ番組「夢であいましょう」のために作られた歌。僕はこの番組で「遠くへ行きたい」を知った。
子供心にいい歌だなと思い、「旅」へのあこがれがかき立てられた。
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TBSのラジオ番組、「永六輔の誰かとどこかで」のテーマソングとしても使われた。
この番組はリスナーからのはがきを読みながら進めていくスタイル。
後のラジオ番組(深夜放送)の原型になっているように思う。
毎回胸の熱くなる番組だった。
昭和42年(1967年)から永六輔が亡くなる2016年まで半世紀も続いた長寿番組だった。
(死後放送された「千秋楽」は涙が止まらなかった)
僕は仕事で外回りをしていた時期があり、カーラジオから流れるこの番組とテーマ曲「遠くへ行きたい」を楽しみしていた。
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最近では倉本聰・脚本の「やすらぎの刻~道」によぼよぼになったジェリー藤尾が出演していた。
若い頃共に悪さをした悪友・マロ(ミッキー・カーチス)の葬儀でジェリー藤尾演じる辛坊修が「遠くへ行きたい」を歌うシーンがあった。
途切れ途切れのかすれ声で、かみしめるように歌うジェリー藤尾の歌。
涙があふれ出た。
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ラジオから流れる若き日のジェリー藤尾の歌声に、年老いた辛坊修の声が重なった。
60代も後半にさしかかった自分が今この歌を歌えばどんなふうになるのかな。
そんなことを思いながら歩みを進めた。
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2021.05.18

【霧雨のポタリング】


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走り始めは曇り空だった。
10キロほど走るうちに霧雨に。
気温はさほど低くなくむしろ気持ちがいい。
濡れるにまかせて走り続ける。
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本日のお供は「歌謡スクランブル」の聴き逃し配信。
1960年代の歌謡曲特集。
前半は昭和35年~40年くらいの歌を集める構成。
後半は同じ時代の歌手、守屋浩の特集だった。
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これらの歌が流行った頃、僕は小学生だった。
テレビが我が家にやって来た頃。
でもテレビではまだ歌番組は多くなく、流行歌はもっぱらラジオから流れていた。
同級生たちの家もおおかた似たようなもんだと思う。
ラジオで聞き覚えた流行歌を学校の休み時間に蛮声張り上げていた。
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  ぼぉくは泣いちっち~
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  あぁりがぁたや ありがたや~
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印象的なフレーズ満載だった。
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今日一番心をつかまれた1曲はこまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」だった。
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小学生の頃はこまどり姉妹があまり好きになれなかった。
というかピンとこなかった。
着物姿で三味線もっておんなじ顔のおばさん二人。
子供には古くさく、へくさく(ダサいの函館弁)、不気味ですらあった。
ザ・ピーナッツの方がはるかにカッコよく、魅力的だった。
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この年になりあらためてじっくり聞いてみて目からうろこが落ちる思いだ。
歌もうまいし、双子ならではユニゾンの魅力はザ・ピーナッツに引けをとらない。
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「ソーラン渡り鳥」の歌詞もまたいい。
津軽海峡を越え、内地に飛んできたねぐらを持たないツバメ。
ツバメに自分を重ねた歌。
三味線の角付で日々の糧を得ながらも思うは故郷、江差の町よ。
つらいことには泣かないが、人の情けがほしくてつい泣かさってしまう。
旅のソーラン 渡り鳥。
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思いっきり望郷の歌だ。
当時の道民にとって津軽海峡は内地との距離を阻む大きな障壁だった。
だからこそ故郷を偲びつつも、自分が生きるのはここという覚悟のようなものすら感じさせてくれる。
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小学生だった自分に望郷の心情がわかるはずもない。
長じて北海道を出てこの町で暮らし、この年になった。
今になってようやっと「ソーラン渡り鳥」がしみるようになったということか。

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ちなみにこまどり姉妹は厚岸に生まれ、炭鉱の町を転々としていたそうだ。最後には極貧のため三味線の角付で一家の生計を立てていたときく。
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2021.05.16

【歌謡スクランブル】



早朝散歩やポタリングのお供としてNHK・FMの聴き逃し録音を聴くことが多い。
ジャズ番組だったり、クラシック番組だったり、時に邦楽も聴いたりしている。
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「歌謡スクランブル」は特によく聴く番組だ。
1時間半という長さがちょうどいい。
朝の6時頃から聴き始め、番組が終了した後はニュース(NHK札幌)を聞き終えるとちょうど2時間。
散歩の時間にぴったり収まる。
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今朝聞いたのは「和田弘とマヒナスターズ」特集だった。
「お座敷小唄」、「愛して愛して愛しちゃった」、「ここがいいのよ」などは小学生のころ同級生たちと蛮声を張り上げた愛唱歌だった。
「お座敷小唄」にいたっては前奏から始まり、伴奏、エンディングとすべてまるごと覚えて「口コピ」(?)して歌っていた。
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  ズッ チャン チャカチャ チャッチャ (×2)

   ∧富士ぃのたっかねぇにふぅるゆぅきもぉ(雪)

   ∧京都先斗町に降ぅるゆぅきも(雪)

   ∧雪にかぁわりはないじゃぁなしぃ

   ∧融けぇてなぁがれりゃみぃなおぉなじ

  ズッ チャン チャカチャ チャッチャ (×2)
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なんてね。
お座敷のなんたるかも知らずに、悪友たちとアカペラ唱和をやっていた。
(ガッタンや泣き虫むっちゃん、今でも歌えるかぁい)
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この番組のいいところはひとりの歌い手を特集し、ポピュラーな歌からそうでもない歌まで聴かせてくれるところだ。
時に前半はテーマを決めていろんな歌手の歌を流し、後半はひとりの歌手を特集することもある。
担当パーソナリティがあれこれ考えながら構成した「苦労」がそこはかとなくにじみだしてくるのがいい。
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僕が毎月やっている「喫茶店JUNE たそがれ歌声音楽会」にも通じるところがある。
「たそがれ歌声音楽会」でも前半はテーマに沿った歌のアラカルトからスタートさせる。
後半はひとりの歌手にターゲットを絞って特集する。
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選曲や構成には毎月いろいろ知恵を絞っている。
むずかしくも楽しいひとときだ。
「歌謡スクランブル」の切り口を参考にさせてもらうことも多い。
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実は「歌謡スクランブル」の前身は「昼の歌謡曲」という番組だった。
「昼の歌謡曲」は1974年に放送が始まり、紆余曲折を経て今の形になったそうだ。
1974年といえば僕が北海道から東京に出てきた年だ。
好きな歌手の特集はラジカセで「昼の歌謡曲」をエアチェックし、くりかえし聴いていた。(ラジカセは数少ない家財道具のひとつだった)

数年前、偶然ラジオから流れてきた「昼の歌謡曲」のテーマソングを聴き、驚いた。
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  今でもまだ放送してるんだぁ!
  もう50年近くも続いてるんだぁ。

感動した。
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テーマソングは「昼の歌謡曲」ではビッグバンドジャズのアレンジ。
「歌謡スクランブル」ではシンセサイザーに変わっている。
でも耳になじんだメロディにちょっとうるっとした。
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質の高いこういう番組はこれからもずっと残していってほしいものだ。
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【野外稽古】

2021_05_15

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野外での練習が心地いい季節になった。
このところ連日越谷市内の公園や土手、橋の下などで野外練習をしている。
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この1年ライブや音楽会がのきなみ中止となっている。
今月などはただの一度も人様に聴いていただけないでいる。
正直致命的な状態だ。
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なにより長年毎週のライブを軸に生活を組み立ててきたが、その生活パターンがすっかり崩れさってしまった。
モチベーションを維持するのに四苦八苦してきた。
次にいつライブができるかわからぬままに練習をしても気合いが入らない。
自宅で音を出すのも近所に迷惑をかけぬよう気を遣う。
アレンジや歌いまわしなどの確認をするのが関の山だ。
本気モードにはほど遠い。
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ライブはお客様とのやりとりから生まれる「化学変化」こそがすべて。「化学変化」のおかげでイキイキしたステージが初めて生まれる。
ライブ・音楽会といった「化学変化」を体感することから遠ざかっていると、ステージで歌うこと、しゃべることが恐くなる。
「ライブ勘」を取り戻せるか不安になる。
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いい季節がやってきた。
そんな不安を払拭するため、屋外での練習を復活させた。
当面6月の「喫茶店JUNE たそがれ歌声音楽会」を想定した選曲で歌っている。
できるだけ人のいないところで、100%の歌唱とそれに合わせたギターアレンジでやっている。
100%の声量と発声がきちんとできれば、後は場に応じて声量やギター音量は抑えることができる。(逆はできない)
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人のいないところを探して歌うのにはワケがある。
練習、稽古なので同じフレーズや歌を何度も何度もくりかえすことになる。
とても人様にお聴かせするしろものではない。
でも100%で歌うことは不安を払拭し、自信につながる。
自宅にこもりちまちま歌っているよりもはるかにいい。
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この先不安を払拭できるようになったなら、野外稽古ではなく「街角ライブ」を復活させるのもいいなと思っている。
なにしろ、この先以前のように頻繁にライブができるようにはなかなかならないだろうからね。
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でもいずれライブや音楽会が自由にできる日が来ることを信じたい。
その日のために「ライブ勘」を錆びつかせちゃならない。
それには人様の前で本気モードで歌い続けなきゃね。
15年ぶりに「街角ライブ」を復活させること。
それが当面の僕の目標になっている。
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ちなみに今日は木陰に隠れて寝そべりながら、3時間近くもずっと聴いてくれているオジサンが二人ほどいた。
お稽古演奏でもそんな方が一人でもいるとうれしいもんだ。
励みになった。

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2021.05.14

【人生賛歌】


Photo_20210514104901
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初めて東京に来たのは五十数年前だった。
大学受験のため、生まれて初めて飛行機に乗り、羽田空港に降り立った。
(この受験は失敗に終わり、1年間の自宅浪人を余儀なくされた。それはまた別の機会に)
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モノレールから家々を見ていて、おもわず胸が苦しくなった。

今にも川に崩れ落ち、モノレールに倒れてきそうにびっしりと密集した家々。
そのほとんどが古ぼけた木造2階建てだった。
窓の桟はさびて赤茶けているように見えた。
それぞれの桟には干された布団や洗濯物が風にたなびいていた。
自分が生まれ育った北海道ではおよそ考えられない光景だった。
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  あの窓の中で人々は生活を営んでいるんだな
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そう思うとなんだか切なくやるせなく、そして人の人生がとても虚しく哀しいものに思えた。
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  オレもいずれ、こんな暮らしをするようになるのかな
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そんなことを思うともなく思いながら、ふとよぎった歌。
それが「人生賛歌」だった。

昭和39年に始まった森繁久弥が主演した「七人の孫」というテレビドラマの主題歌。

昭和39年というと高度経済成長と東京オリンピックで日本中がわきかえったころだ。
「戦後」は終わり、敗戦からの復興を世界に示す時と言われていた。
一方でそれらを担ってきた人々は「働き蜂」とか「小市民」「中産階級」などと呼ばれていたように記憶している。
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川にせりだすように立てられた木造2階建てのアパート群は「ウサギ小屋」ですらないと感じた。
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  それでも人々は生きている
  それでも人々は日々の暮らしを営んでいる
  あの屋根の下で、あの小さな窓の向こうで

  嗚呼、人生とは哀しくも、愛おしいものなんだなぁ
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なんだか泣きたくなった。
19の春のことだった。

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2021.05.11

【日本沈没】

今日のNHK BS映画は「日本沈没」。
忘れられない思い出の1本。
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劇場公開されたのは1973年の年の瀬。
かれこれ半世紀も前のことだ。
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当時僕は1年の自宅浪人(タクロウ)暮らしを終え、翌春には弟と東京に出る予定だった。
そんな頃合いに家族全員で観に行ったのが「日本沈没」だった。
父親は「家族で観る最後の映画」との思いがあったんだろう。(今になってやっとそれが分かるようになった自分が情けない)
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我が家には毎週日曜の晩、映画について語りあう習慣があった。
「日曜洋画劇場」の淀川長治さんの「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」とともに始まった。
映画好きの父が口火を切る。
映画の時代背景や、登場人物の心情、淀長さんの映画評について。。。
父の解釈に対して高校生だった僕と弟は言いたい放題言っていた。(小学生の妹はぽかんとしていたが)
古い映画はもちろんだが「イージーライダー」や「俺たちに明日はない」などのニューシネマに対しても父は偏見を持たず正面から解釈をしていた。
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家族で観に行った「日本沈没」はそんな我が家の最期の映画討論会となった。
何を考え、何を語ったかなど覚えてはいない。
でも日本が水に飲み込まれ消えてなくなるという設定は強烈だった。
原作も読んだ。
小松左京は単なる思い付きと想像力だけで書いたわけではないと思った。
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2011年の大震災を経験した今、50年前の映画が決死って絵空事ではないと感じてしまう。
自然の猛威に対して、人にできることは決して多くはないのだろう。
でも人知の及ばぬ出来事であったとしても、人はいかにそれを受け止め立ち向かうべきか。
とりわけ為政者の方々にはしっかり受け止めていただきたいものだ。
コロナで日本が沈没する前に。

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【NHK 音楽の泉 その2 『新世界』】



今朝の「音楽の泉」で流した曲はドボルザークの『新世界』だった。

『新世界』も全楽章が思い出とともに身体にしみこんでいる。

思い出のひとつは函館市立青柳小学校の卒業式のことだ。
我々卒業生の入場に「新世界・第2楽章」(家路)が流された。
式典の中で「先輩の挨拶」のようなコーナーがあり、父がその挨拶をした。
父は青柳小学校の第一期卒業生。
どんないきさつで挨拶をすることになったかは知らない。
なんの準備もしなかった父に、前日から母がやきもきしていたのをうっすらと覚えている。
父は壇上で何を読むでもなく、いきなり切り出した。

  君たちはこれから中学校という新世界に旅立つ

その後、どんなことを話したかなんてことはさっぱり覚えていない。
でも今聴いたばかりの音楽に触発されて、話しを膨らませていった父に少なからず驚いていた。

卒業式の後、同級生のおふくろさんに声をかけられ褒められた。
(彼女も青柳小学校一期生で父とは同級生だったそうだ)

  さすがに古池君だね
  小学校の頃とちっとも変わってない
  いいお話だったわよ

おそらく、アドリブで話しを組み上げて「いい話」にでっち上げたんだろう。
誇らしいような、恥ずかしいようななんとも不思議な気分だった。

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もうひとつの思い出は函館市立潮見中学校。
生徒に下校を促す音楽が「新世界 第2楽章」だった。
夕暮れの校庭に「家路」が流れるもの悲しさが心にしみた。

僕は放送委員だった。
昼休みは放送室を「占拠」し、当時の洋楽ヒット曲を流し悦に入っていた。
流した歌はベンチャーズだったりビートルズだったりアメリカンフォークソングだったりした。
生徒からは評判良かったが、先生方からは時々クレームを頂戴した。エレキ楽曲をかけると中学生には不適当だと言われた。(「不良」とまでは言われなかったが)

でも下校の時間になると一転して「新世界 第2楽章(家路)」を流し続けた。
僕が選曲したわけではなく、「家路」が下校の曲として代々流れていたんだと思う。

昼休み時間はやりたい放題で、放送室を私物化していたぼくらだった(もう一人相棒がいたのです)
でも、夕方のこの時間だけは神妙な面持ちで「家路」をかけていたような気がする。
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今でもドボルザークの「新世界」を聴くと、思春期の頃を思い出す。
まるで条件反射のようにね。
https://youtu.be/AScd-0uvz9o
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【NHK 音楽の泉 その1 テーマ曲】

昨日からサマータイム。
早朝散歩が気持ちいい季節になった。
今朝は5時半に家を出て、自転車で3時間ほどポタリング。
BGMにNHKラジオを聴く。
8時には「音楽の泉」のテーマ曲、『楽興の時・第3番』(シューベルト)が流れてくる。
この番組、この曲は幼い頃から耳になじんでいる。
クラシック音楽が好きだった父は毎週日曜の朝に聴くのが習慣だった。
調べてみたら「音楽の泉」は1949年(昭和24年)から続く超長寿番組。
僕の生まれる前から続く「音楽の泉」。
産まれた時分から毎週聴かされてきたんだろうな。
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僕が音楽好きになったワケはいろいろあると思う。
そのひとつが毎週聴かされ続けた「音楽の泉」だと思う。
もうひとつは、「音楽の泉」を聴き終えた後、毎週通ったカトリック元町教会。
聖歌隊の歌うグレゴリアン聖歌の旋律が心地よかった。
さらに毎日放送されていた「歌のおばさん」。
番組名は覚えていないが安西愛子さんの歌う童謡・唱歌が大好きだったらしい。
番組が終わった後ももっと歌えと母にしつこく催促したという。
母は母で、あまりのしつこさに閉口しながらもそれに応え続けてくれたらしい。(僕がまだ1歳の誕生日を迎える前からそうだったという)
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その後僕は歌謡曲少年に育っていくのだが、そのスタート地点に「音楽の泉」があったことはまちがいないんだろうな。
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