カントと散歩
オレはなぜ歩くのかな。
時間にすれば走れば1時間。自転車なら40分。速歩きなら2時間。
距離にすると多分10キロ~15キロくらい。
なのに3時間、時には5時間もかけて歩くのが好きだ。
好きな音楽を流しながら、ぼんやりとまるでカタツムリのように。
いい景色に出会ったらシャッターを切り、いい雰囲気の小径をみつけたら分け入る道草だらけの散歩。
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思い出せば子供の頃から「道草を喰む」のが好きだったようだ。
幼稚園の頃、チョウチョを追いかけてあらぬ方へ行ってしまい捜索されることが度々あったらしい。
小学生、中学生の頃は「遠征」と称して市内あちこちを歩き回りあれこれ首を突っ込んでいた。
一カ所に留まりじっとしていられない、落ち着きのない子供だった。
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高校生の頃授業で習ったカント。
カントおじさんは毎日決まった時間を歩いていたそうだ。
歩きながら思索をしながら形而上学をまとめたそうだ。
憧れた。
あいもかわらず落ち着きのない自分に歩きながら思索を重ねるカントの挿絵が心に焼きついた。
形而上学がなんたるかはさっぱりわからなかったが「歩きつつ、思索する」ことがカッコイイと思った。
自分の散歩のイメージはカントおじさんが原型になっているように思う。
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大人になり30代半ばから走るようになった。
年一度のフルマラソンを走るために毎日ひたすら走った。
好きなトレーニングはLSD。(Long Slow Distance)
ゆっくりと長い距離を走る練習だ。
走りながらいろんな思いが交錯し、時にはランナーズハイになったりもした。
カントの「思索散歩」が「走禅」に形を変えた。(「走禅」とは当時のランニング指導者・山西哲郎さんが使った言葉だったと記憶している)
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サッカーで負傷したアキレス腱の古傷と膝の負傷で走るのをやめたのは40代半ば。
再び歩き始めた。
ランナーズハイのようなイッチャウことはないが、物思いをするには歩くことの方が適していた。
本格化していた音楽ライブのイメージ作りに散歩はもってこいだった。
カントおじさんのような哲学的思索には縁遠かったけれど、様々なイメージを膨らませる散歩が定着した。
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50代半ばに転職をした。
精神的にハードなストレスのかかる仕事だった。
一日の大半が電話を介しての交渉ごと。そんな毎日が続いた。
心の平穏を保つ必要があった。
人とちゃんと接するために、一人になり自分の中に沈潜する時がなければやっていけなかった。
なにも考えずぼんやりと歩くことがいつしか習慣となった。
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60代半ば、その仕事も定年退職となり「ありあまる時間」を過ごせる幸せを感じている。
(実際にはありあまってはおらず、なにやかやと落ち着きなく忙しく過ごしてはいるが)
歩きまわることが日々の暮らしの柱になっている。(時に自転車や水泳に変わるのだが)
なにも考えずぼんやり歩くことが今の自分には一番合っている。
ぼんやり歩きながらも心の中には様々なイメージが去来する。
心の奥深くからぷくぷくと浮かんでは消えていくあぶくのようなものだ。
でもこのあぶくがいい。
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カントおじさんは「思索散歩」が「形而上学」として形をなした。
残念ながら僕の「あぶく散歩」からは人様に役立つようなものは生まれそうにない。
でも自分の充足感や納得感を得るためには欠かせない習慣なんだろうと思う
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