函館日記 2019年3月
雪はすっかり溶け、風だけが吹き抜ける中洲の町・函館。
特別養護老人ホーム・旭ヶ丘の家に母の陣中見舞い。
うつらうつら状態の母。
声をかけても帰ってくる反応は乏しい。昨年末の帰省時よりいっそう表情が乏しくなっている様子。僕の顔を観てもただうなずくのみだ。しばらくは手を握っているのだがやがてその手はポタッとベッドに落ちる。そして再び眠りの世界に。
醒めているときよりも眠りの時間がいっそう増えているとのこと。当然栄養や水分の補給は追いつかない。おそらく自分の体に蓄えてきた脂肪分を少しずつ燃やしながら命を繋いでいるのだろう。心なしか昨年末よりも母はしぼんでいるように思える。
話しかけて無理に返事や反応を待つことはやめにした。かわりにベッドのそばに椅子をおき、ギターを弾くことにした。
眠っているように見えてもどこかで醒めている部分もあるようだ。かすかだが首を動かしている。
いつものように「組曲・北の国から」を弾きはじめる。
次は母の慣れ親しんだグレゴリアン聖歌やミサ曲。そしてカトリック聖歌集から知っているものを繋げながら弾き続ける。
やがて童謡や唱歌へと変わっていく。僕がまだ幼かった頃母に歌ってくれとせがんだ歌だ。
母の反応が変わってくる。それまではあまりリアクションがなかったのに、細い指を歌にあわせて動かす。(実際は遅れがちであってはいないのだが、明らかに歌に合わせようとしている)
胸が突かれる思いがする。
60年以上も前に僕がせがみ母に歌わせた歌の数々を今逆の立場で僕が母に弾いて聞かせている。
当時僕は1~2才。まだ言葉を知らなかった。今母は92才。言葉を認識しても応えることができない。
メロディだけのやり取りであり、言葉のない会話だ。
懐かしい歌の数々はしみこんでいるせいか、母の目にはうっすらと光るものが。
それを見て僕もまた涙腺が緩んでくる。
途切れることのない3時間のギター演奏。濃密な時間だった。
帰りしな母に語りかけた。
「がんばんなさいよ」
子供の頃、登校するとき握手をしながら母は毎朝そう語りかけた。
当時の僕はこの言葉がはむずがゆかった。そう言われる度に軽い反感を感じていた。
今母は残された最後の体力と気力でおのが命を繋いでいる。
しぶとく、しぶとく命を繋いでいる。
そんな母に僕がかけられる言葉があるとしたら「がんばんなさいよ」。
母は軽く首を振った。そんな気がしている。
おそらく僕にできる最後の親孝行は(いや罪滅ぼしだ)、子供の頃母にしてもらったこと、母にかけてもらった言葉をお返しすることだけかもしれない。
そしてそれは僕にとっての「祈り」なんだろうと思う。
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