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2018.03.11

あの日のこと 3

震災のおよそ2週間後、僕は共同印刷を退職し「天下御免の人生浪人」の暮らしに入った。
天下御免とは言いながら内心は穏やかではなかった。
50代半ばを過ぎてからの再就職は容易ではない。
いくつかの印刷会社からお誘いはあったが、丁重にお断りをさせていただいた。
せっかく印刷の仕事を辞したのだから何か新しいことに挑戦したいと思っていた。
50代半ばはそれができる最後のチャンスとも思っていた。
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けれどもそれは容易ではないことだったし、震災後、求職の需給関係も悪化していた。
震災で家族や家だけではなく職までも失った方々がたくさんいた。
それは地震の直接の打撃を受けることの少なかった東京や埼玉の求職事情にも影響していた。
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失業給付の切れる1年後まではじっくりと構えることにした。
どんな職業であれ自分が意義を見出し納得できるものをぎりぎりまで探すことにした。
腹をくくった形だ。
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そんな時友人から被災地へ慰問活動参加の打診を受けた。
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迷った。
「震災直後の被災地に出向き歌うことなんかできない」
率直な気持ちだった。
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震災直後からSNS(ミクシー)などで多くの書き込みがなされていた。
「今すぐにでも被災地に向かい音楽を通し被災者を励まし、力を与えよう。それはミュージシャンの務めだ」という考えと
「これだけ大打撃を受け、生きることに汲々としている被災者に音楽が与えられるものはない」という考えが真っ向から対立していた。
そこから派生する様々な意見が飛び交っていた。
みんな迷い悩んでいた。
音楽に携わるものとして何ができ、なにができないか。
また何をなすべきか、なにをなすべきではないか。
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人生浪人を始めたばかりの僕には時間はあった。
でも軽い気持ちでは決められなかった。
人様に「与えるべき何か」など自分にはないというのが正直な気持ちだった。
一方で「慰問キャラバン」参加の返答期限は迫っていた。
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被災地に出向き、そこで自分が歌えるかどうかはわからない。
でもこの目で現実の一端を凝視すべきだ。
そう思い参加を決めた。
キャラバン隊は2人のマッサージ師、3人の歌うたいの5人。
ハイエースに機材とキャンプ道具を積み込んで宮城県に向かった。
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現地の惨状をみた。
避難所ではたくさんの方と話をした。
それでも「ステージ」に立つ瞬間まで迷いは続いた。
「ステージ」に立ち段ボールで仕切られた体育館を見渡した瞬間スイッチが入った。
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「歌おう。言葉はいらない。ただ歌おう。自我を捨て、この体育館の空気になろう。」
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そんな気持ちだった。
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宮城県の数か所の避難所を回る数日間の旅で感じたことは多かったし、大きかった。
困難に耐え、後ろに引きずられながらも前を向こうとする被災された方々に自分の今の状況(人生浪人と先の見えない再就職活動)を重ね合わせた。
自分もまた復興途上と思った。
その後の音楽やライブ活動に対する自分の立ち位置も少し整理された。
大切なキーワードは「己を捨てて空気になる」ということだった。
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その後、いくつもの復興支援チャリティコンサートへの出演を依頼された。
被災地での活動について述べるように頼まれた。
でも多くを語ることにためらいがあった。
チャリティコンサート主催者は「何をなすべきか」について語ってほしかったようだ。
でもそれを決めるのは個々人で、僕にはそれを先導、扇動などできはしない。
だからこの目で見たことを淡々と話すだけにとどめてきた。
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あの日から7年目の今日、親しい友人からのお誘いでチャリティコンサートに出演する。
震災当初とは違い、「風化」が進んでいるように感じる。
これまでとはちょっと違った切り口で臨もうと思っている。
言葉はいらない。ただ歌うのみ。
参加する方々の胸にほんの少しでも引っかかることを願うばかりだ。

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