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2018.03.27

7年前の「キックオフライブ」

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7年前の今日、神田の欧風屋さんでライブをやりました。
37年勤めた共同印刷を退職し、「天下御免の素浪人」を決めた決意表明のライブでした。

題して「キックオフライブ 今日まで。。。そして明日から」

折しも大震災のあった直後。
震災のこと、自分のこと。(そしてこれからの共同印刷のこともちょっぴり)
さまざまな想いが行き来するライブでした。

長年ライブ活動をやって来ましたが、いくつか節目のライブがあります。
欧風屋さんでのこのライブはその中でも特に大きな節目となりました。
そしてそれは今の自分にとって羅針盤になるライブとなりました。

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【以下、ライブ記事

Martin古池ライブ「今日まで。。。そして明日から」 at 欧風屋 

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喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ 2018年3月

「喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ」終了。

実は内心今日が今月のメインイベント、総仕上げと思っていた。
朝市コンサートやお好み焼きの三貴ライブでの演奏はすべてが今日のための準備でもあった。

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1部に集約したテーマ、「卒業、別れと旅立ちそして出会い」。
3月だからこそ歌える歌の数々でストーリーを組んだ。

このテーマはこの20年、毎年毎年しつこくやって来たものだ。
選曲も8割以上が同じ歌をくりかえし歌ってきた。2割はその時々のストーリーに応じて入れ替えてきた。

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20年同じテーマ、同じ歌をやって来たが去来するものは毎年変わっている。
最初のころは子供たちの卒業や旅立ちを父親の立ち位置から歌っていた。

やがて子供たちは巣立つ。心に去来するものも徐々に変わっていく。

還暦を過ぎたあたりからは若き日の自分の旅立ちに立ち位置が変わってきた。

還暦を過ぎて初めて自分の青春時代に真っ正面から向き合い、歌えるようになったと言うべきかもしれない。

同じ歌も立ち位置が変われば歌い方も変わる。ギターのアレンジ=サポート方法も変わる。

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今日ふと気づいたことがある。
以前に比べおしゃべりが少なくなったことだ。
歌とおしゃべりでストーリーを展開するのが長年僕のライブスタイルだった。

そうすることでその時々の想いを伝えようとしてきた。

最近はお客様に投げたボールをどう受け止めてもらってもかまわないと思えるようになってきたようだ。
むろん歌う側としては明確なストーリーはある。
でも聴く側がいかように受け止めてもかまわないと思えるようになった。
だからストーリーを補完するためのお膳立て=おしゃべりの数が減ったんだと思う。

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おそらくこの先も毎年3月は同じテーマで同じ歌を歌い続けるだろう。
10年後、どんな風に歌いどんなやり方でライブを展開しているか。
なんだか楽しみだ。

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2018.03.21

「あすなろの歌」 by チャーリー

https://www.youtube.com/watch?v=TsOsOtllArk&feature=youtu.be

甲州の友人、チャーリーさんが僕の「あすなろの歌」をPCで大編曲してくれました。
カントリーフレーバー満載の素晴らしい編曲。

本人歌唱よりずっといいわぃ。
照れくさくも、うれしいできごとでしたっ

‼️

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【音楽雑感】 淡々と歌うことのむずかしさ

淡々と歌うことの難しさ。
一人でただ歌うだけならいくらでも歌える。
でもお客さんを前にして淡々と歌うとなれば話は別だ。
淡々とした中にもたしかな存在感を残せなきゃならない。

理想はその場にあって「空気」のような存在たること。
あたりまえのように存在し、かつその場に欠くべからずといった歌い手であること。

強い個性や自己主張はしないけれど、聞く人に心地のよさがしみこんでいたというのがいい。

それは冬の寒さの中のほのかな暖かみだったり、夏の暑さの中の涼やかな風だったり。

十数年、市場やお好み焼き屋さんなどで歌ってきて感じる理想の姿。
市場もお好み焼き屋さんも喫茶店も通常営業の中で不特定の方々に歌っている。
ライブを聴きに来たわけではない方々と時間と空間を分かち合うためには「空気」のような歌い手であることが一番の近道のような気がする。

感情も歌もギターもすべてぎりぎりまで抑える。
でも抑制された中に圧縮された密度の高いものが隠されている。それが情感としてにじみだしてくる。
それが淡々と歌うということのような気がする。

高校生のころ室蘭市民センターで観た宇野重吉と北林谷栄の芝居がそうだった。すべてにおいて抑制された表現だったがなにか深く残るものがあった。
あの静かな感動は40年以上の時を経て、今よみがえってくる。

そんな歌い手になりたい。

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2018.03.11

あの日のこと 3

震災のおよそ2週間後、僕は共同印刷を退職し「天下御免の人生浪人」の暮らしに入った。
天下御免とは言いながら内心は穏やかではなかった。
50代半ばを過ぎてからの再就職は容易ではない。
いくつかの印刷会社からお誘いはあったが、丁重にお断りをさせていただいた。
せっかく印刷の仕事を辞したのだから何か新しいことに挑戦したいと思っていた。
50代半ばはそれができる最後のチャンスとも思っていた。
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けれどもそれは容易ではないことだったし、震災後、求職の需給関係も悪化していた。
震災で家族や家だけではなく職までも失った方々がたくさんいた。
それは地震の直接の打撃を受けることの少なかった東京や埼玉の求職事情にも影響していた。
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失業給付の切れる1年後まではじっくりと構えることにした。
どんな職業であれ自分が意義を見出し納得できるものをぎりぎりまで探すことにした。
腹をくくった形だ。
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そんな時友人から被災地へ慰問活動参加の打診を受けた。
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迷った。
「震災直後の被災地に出向き歌うことなんかできない」
率直な気持ちだった。
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震災直後からSNS(ミクシー)などで多くの書き込みがなされていた。
「今すぐにでも被災地に向かい音楽を通し被災者を励まし、力を与えよう。それはミュージシャンの務めだ」という考えと
「これだけ大打撃を受け、生きることに汲々としている被災者に音楽が与えられるものはない」という考えが真っ向から対立していた。
そこから派生する様々な意見が飛び交っていた。
みんな迷い悩んでいた。
音楽に携わるものとして何ができ、なにができないか。
また何をなすべきか、なにをなすべきではないか。
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人生浪人を始めたばかりの僕には時間はあった。
でも軽い気持ちでは決められなかった。
人様に「与えるべき何か」など自分にはないというのが正直な気持ちだった。
一方で「慰問キャラバン」参加の返答期限は迫っていた。
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被災地に出向き、そこで自分が歌えるかどうかはわからない。
でもこの目で現実の一端を凝視すべきだ。
そう思い参加を決めた。
キャラバン隊は2人のマッサージ師、3人の歌うたいの5人。
ハイエースに機材とキャンプ道具を積み込んで宮城県に向かった。
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現地の惨状をみた。
避難所ではたくさんの方と話をした。
それでも「ステージ」に立つ瞬間まで迷いは続いた。
「ステージ」に立ち段ボールで仕切られた体育館を見渡した瞬間スイッチが入った。
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「歌おう。言葉はいらない。ただ歌おう。自我を捨て、この体育館の空気になろう。」
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そんな気持ちだった。
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宮城県の数か所の避難所を回る数日間の旅で感じたことは多かったし、大きかった。
困難に耐え、後ろに引きずられながらも前を向こうとする被災された方々に自分の今の状況(人生浪人と先の見えない再就職活動)を重ね合わせた。
自分もまた復興途上と思った。
その後の音楽やライブ活動に対する自分の立ち位置も少し整理された。
大切なキーワードは「己を捨てて空気になる」ということだった。
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その後、いくつもの復興支援チャリティコンサートへの出演を依頼された。
被災地での活動について述べるように頼まれた。
でも多くを語ることにためらいがあった。
チャリティコンサート主催者は「何をなすべきか」について語ってほしかったようだ。
でもそれを決めるのは個々人で、僕にはそれを先導、扇動などできはしない。
だからこの目で見たことを淡々と話すだけにとどめてきた。
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あの日から7年目の今日、親しい友人からのお誘いでチャリティコンサートに出演する。
震災当初とは違い、「風化」が進んでいるように感じる。
これまでとはちょっと違った切り口で臨もうと思っている。
言葉はいらない。ただ歌うのみ。
参加する方々の胸にほんの少しでも引っかかることを願うばかりだ。

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2018.03.10

あの日のこと 2

2012.03.11に投稿した日記を再投稿します。
震災と共に始まった1年間の浪人生活にやっと終止符をうち、再就職を控えた時の日記です。


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日記  あの日

14:46  
突然、横に大きくゆれだす。 
同僚たちは叫びながら机の下にもぐりこむ。 
瞬間、中学生の時体験した十勝沖地震のことが脳裏をよぎり、出入り口まで急ぐ。 
  あの時は末広町の同級生の家が真ん中から裂けた。 
  道路には亀裂が入った。 
  3階建ての函館大学の1階が押しつぶされた。

出入り口から外に出ようと地面を見ると建屋と道路の境目に亀裂が入りそれぞれ左右逆方向に揺れている。 
危険を感じる。 
上を見上げると5階建ての建屋を這うように設置された配管パイプが音をたてている。 
建屋がつぶれるのが先か、配管が落ちるのが先か。 
コーポレートマークを大書きした金属の巨大な壁が屋上の上でぶるぶる波打っている。 
いつでも飛び出せるように身構えながら揺れがおさまるのをまつ。


15:30 
社内放送で全社員の避難を促し始める。 
場所は播磨坂の桜並木。 
広く、長い坂は多くの人で埋めつくされている。 
くりかえしやってくる余震だが、皆つとめて冷静に事態をうかがっている。

この日退職の挨拶をしに得意先SB社を訪問する約束だった。 
先方の様子をうかがうとともに、延期の依頼をしなければなるまい。 
そう思い、何度も電話をするがつながらぬ。


17:00 
避難命令は解除され、社にもどる。 
ただちの退社を促す放送。 
同僚たちが帰るのを見届け、18:00に退社。


少し歩きはじめるが手のカバンが邪魔になる。 
白山のオリンピックに立ち寄りザックを買う。 
自転車売り場は人の列が延々とつながっている。


19:00 
上野の山を裏道伝いに抜け、日光街道をめざす。 
途中三ノ輪のAb印刷に立ち寄る。若い工場長は教え子だ。 
他のオペレータを帰し、ひとりで印刷機を回している。

  なんとしてもこいつだけは上げとかなきゃなんないんですよ 
  あしたの朝一が、引き取りなんで。

  ばかやろ、明日なんかトラック走らねぇべ! 
  しゃあねぇな、俺も手伝ったるよ


20:30 
Ab印刷を出て再び歩きはじめる。 
日光街道は車も人も自転車も身動きとれぬほど込み合っている。 
どこまでものろのろと続く長蛇の列。 
急いでもしょうがないと腹をくくり、その動きに身をまかせる。


23:00 
竹ノ塚を抜けようやっと埼玉県に入る。 
人の群れは少しずつだが隙間ができはじめる。 
急に冷え込んでくる。 
空腹になるがコンビニは店を閉めている。あいている店も買い物客でごった返している。 
あきらめて列からはずれひと休み。 
家族に電話をするもののいまだにつながらない。


24:00 
草加を抜ける。 
人はずいぶん少なくなるが車道はあいかわらず渋滞が続く。 
旧日光街道に面した自治会館では急設休憩所が設けられている。ありがたい。 
水を分けてもらい一服する。煙草がうまい。


1:00 
やっと松原団地の松並木。土の道が疲れた足にやさしい。 
人はばらけ、数えるほどになる。 
ベンチで一服していると、見知らぬおじさんに声をかけられる。

  すいません。煙草を1本分けてもらえませんか。

疲れはてた表情でうまそうに煙草を吸うおじさんと話す。 
袖振り合うも多生の縁というが、みょうな一体感を感じる。


1:30 
蒲生に入る。 
あと一息。 
ラーメン屋「まんぷく」が店を開けている。 
店内は客がひしめいている。 
急に腹が減り、吸い込まれるように店に入る。 
なじみの店主に広東麺を頼む。 
とろみのある熱い麺が五臓六腑にしみわたる。生き返った心地だ。

家に電話。 
やっとつながり、全員の無事を確認する。 
長男は足場の上にいる時に地震がきたという。やばかった。

2:00 
ようやっと家にたどり着く。 
「まんぷく」からの1キロが途方もなく長く感じられた。

テレビに目をやる。 
とんでもないことになっている。

小石川から越谷にたどり着くので精いっぱいだった。 
こんなことになってるなんてちっとも知らなかった。

あまりの状態に発する言葉もない・・・

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昨年の今日のできごと。 
メモ帳に記録した走り書き。 
1年たって昨夜読み返した。 
そうしなければならないという思いがあった。

あの晩歩いた道を今日ふたたび歩いた。 
あの晩買ったザックを背負い、あの時履いてた靴で。 
そうしなければならないという思いがあった。

何も考えずに歩こうと思った。 
心にいろんな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。 
思考を拒否し、想念に身をまかせた。

14:00過ぎ 
草加駅前のSMCK野外コンサートにいた。 
今回は出番はなかったがなんとはなしに足が向いた。

14:46 
主催者がオーディエンスや道行く人たちに黙祷を呼びかけた。 
1分間の黙祷。 
草加駅前の雑踏が静寂に変わる。 
長い1分だった。 
重い1分だった。

 

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あの日の自分 3月11日 その1

【あの日のこと その1】

共同印刷退職を2週間後にひかえ、心落ち着かぬ日々を過ごしていた。
残されたわずかな日々で後輩たちに、そして親しくしてきた協力会社に何を残していけるのか。
そんな使命感に駆られ、今できる最大限のことに力を尽くしていた。

3月11日の午後。

突然大きな揺れがおきる。
それはしばらく続き、その後も揺れは断続的に続く。
突然のことに身体がすくみ動けぬ者。とっさにデスクの下に身を隠す者。いち早く外に飛び出す者。

僕の脳裏には中学生の頃体験した十勝沖地震のことがよぎる。

あれは大きな地震だった。
体育の授業中で体育館で腹筋運動をしていた僕たち。普段はなにものにも動じない体育のコン先生のあわてふためいた顔が妙に印象に残っている。
地割れした地面。三角屋根が真ん中から裂けた同級生の家。
そして3階建ての函館大学の校舎の1階が押し潰され2階建(❓)になってしまった。

まずい。外にでなくちゃ。

戦前からある5階建ての古い建家の1階が僕らの職場だった。声をかけ出入り口まで走る。

外に飛び出そうとして踏みとどまる。
建家と屋外通路にはヒビが入り左右逆に揺れている。
建家には全面に直径10センチ以上の鉄のパイプが這わされている。
もし万が一この揺れでパイプが外れ、頭上に落下したらおだぶつだ。

出入口で地面の揺れをじっと見つめながら身構える。
建家が崩れそうになったらすぐにでも飛び出そう。

やがて揺れは落ち着く。
断続的な余震は続いていたがひとごこちついた様子。

社内放送で避難の呼びかけ。
会社そばの播磨坂のグリーンベルトが避難場所。
何百人の従業員たちは押し合うこともなく、粛々と正門からグリーンベルトを目指す。
グリーンベルトには近所の住人たちがすでにたくさん集まっている。

寒い夕暮れだった。
あと1週間もすれば播磨坂は桜が咲き乱れ、桜のトンネルになるはずだ。
しかしまだつぼみの桜は寒さをいっそうきわだたせる。

時間にすればわずか30分ほど。
とてつもなく長く感じられた。

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2018.03.09

遠い日の恋

仕事を終えた帰り道、家の近くの小公園。
小一時間のだらだら散歩。
体調を整えるために闇の中をゆっくり歩く。
小公園といってもただの空き地。
足の向くまま、気の向くままに縦横無尽に歩くんだ。

いつもはひとけのない公園。
片隅のベンチになにやら人影がうごめいてる。
目を凝らすと若いアベックが肩を寄せあってなにやら語り合ってる。
学ランの金ボタンが光ってる。
高校生だ。

ほほえましいなぁ。
うらやましいなぁ。

オジサンが高校生の頃は好きな娘と手もつなげなかったっけ。
ふたりで歩く時もつかず離れずが二人の距離感だったっけ。

内心は手をつないで歩きたかったのに、その勇気がなかったなぁ。
もどかしいほどの距離感は縮まることなく、二人の恋は終わってしまった。

実はこの頃のエピソードや手探りの恋物語は僕のライブのモチーフとして何度も何度も焼き直しながらえんえんとくりかえされている。
遠い日の幼すぎた恋物語を牛が何度も反芻するようにかみしめる。
もうすっかり消化され、跡形もないほどだが、いまだにかみしめてるんだ。

60をとうにすぎたオジサンがいまだに新鮮な気持ちで恋物語を歌っていられるのはそのおかげかも。

肩寄せあい、冬の公園で語り合う高校生に心の中でつぶやいた。

がんばれよ🎵

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2018.03.08

2018年03月 ライブ・コンサート予定

03月10日(土)  朝市コンサート

時 間   8:30~10:30
場 所   越谷市場
         地 図   

越谷の台所「越谷市場」で毎月第2、第4土曜日

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03月11日(日)  リメンバー・コンサート

時 間    14:00~20:00
場 所    LIVE Station Janny
         上尾駅 西口 徒歩数分
出 演    たくさん出演。
        Martin古池は16:35~16:55ごろ

Photo

03月16日(金)  お好み焼きの三貴ライブ 

時 間    20:00~23:00
場 所    お好み焼の三貴
         https://www.hotpepper.jp/strJ000181914/map/

通常営業中のライブです。ご自由にご飲食、おしゃべりをお楽しみください。
お供にMartin古池の歌をいかがですか。

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03月17日(土)  池上本門寺 雪灯り回廊

時 間    15:00~20:00
場 所    池上本門寺
         案内ポスターリンク

今年も山形県長井市から雪を運んでやってくる。
長井市のオカリナ吹き、金子さんもやってくる。
金子さんのバックアップで今年もギターを弾きます。

2017

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03月24日(土)  朝市コンサート

時 間   8:30~10:30
場 所   越谷市場
         地 図   

越谷の台所「越谷市場」で毎月第2、第4土曜日

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03月25(日)  喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ

時 間    14:00~16:00
場 所    tea room ジュン (喫茶店JUNE)
         https://r.gnavi.co.jp/p0jfesdk0000/map/
木戸銭    なし (ご飲食をお願いいたします)

昭和の香りただよう喫茶店で
昭和を感じる歌のかずかずを

通常営業中のライブです。お気軽にお運びください。

 

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03月31日(土)  歌おう! 弾こう! うたごえフォークソング

時 間    14:00~17:00
場 所    Live cafe おーるどたいむ
         水先案内人(司会&伴奏) Martin古池

壮年歌声音楽会
いい演奏を聴くのも音楽の楽しみ
好きな歌を歌うこともまた音楽の楽しみ
歌いたい人も楽器で参加の人も一緒に楽しくやりましょう!.

201712

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2018.03.04

【お知らせ】 リメンバーコンサート

1520170096033.jpg

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1577170925736800&id=100003317244396

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2018.03.03

母の陣中見舞い

1520057998358.jpg 函館・旭ヶ丘の家。 窓の外は雪景色。うらはらに施設内は暖房が効き暖かい。

弾丸帰郷だった今回、短い滞在時間に合わせるかのように母は目を覚ましていた。
このところ眠る時間が圧倒的に増え、ひとたび眠ると2~3日は目覚めない。
旭ヶ丘の家ではそんな母を「眠り姫」とよんでいる。
眠ること自体は悪くはないが栄養の補給が追いつかない。
せめて母の好きな食べ物をしこたま持参した。
イチゴにみかん、アイスクリームにプリン。そしてセイコマートのお握り 。
ガツガツとむさぼりペロリとたいらげた。
たまげた。食欲旺盛な母をみるのは久しぶりだった。
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食事をする母を見ながら、僕は終始ギターをつま弾いていた。
母の好きなメロディを次々と引き続ける。
北の国から組曲、グレゴリアン聖歌やカトリック聖歌、童謡唱歌、映画音楽、フォークソングetc.etc..
途切れることなく弾き続ける。
食べ終えた母はじっと聴いている。
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ギターの音だけが静かに室内を満たす。
言葉はない。 いや、言葉は不要と感じる。
流れる沈黙の時を共に過ごすことがなによりも雄弁な会話と感じる。
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ふと気がつくと、口を開けたまま母は軽い眠りに落ちていた。
多分心地よかったんだろう。 .
僕はそのまま弾き続ける。
そして思い出していた。
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札幌の月寒教会の中にあった納骨堂に眠る父。
墓参りのたびに僕は同じようにギターを弾き、父と会話をしていた。
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母に残された時間がどれほどあるのかはしらない。
おそらくこれからはますます言葉は不要になるだろう。
必要なことはただ寄り添うことのみ。
静かに手を握ることであり、静かにギターをつま弾くこと。
こういうことが寄り添い、心を通わせることなんだろう。
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そんな気がする。

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