やぎたこ 「We Shall Over Come」
「We Shall Over Come」
初めてこの歌を聞いたのは函館労音で開かれた「高石友也リサイタル」だった。
1969年。70年安保を控えたきな臭い年だった。
中学3年生、受験生だった僕は「安保」の何たるかもわからずに、雰囲気だけは社会変革に共鳴する早熟な小僧だった。
昨日に引き続き寒風の中をストックを携え、長い時間歩いた。
お供はやはり昨日と同じやぎだこの「We Shall Over Come」。
2枚組のこのアルバムを聴きながら、いろんな思いがわいては消えていった。そして深く考えた。
このアルバムの歴史的な意味は大きい。
日本のフォークソングの一つの源流を若きやぎたこがトレースしたこと。それを支えたのが源流の担い手だった「長老」の皆様。
彼らの織り成すフォークソングの世界は、フォーク第二世代の若き日の僕にはあこがれであり、お手本でもあった。
50年のあゆみ、それは音楽シーンの表舞台からは離れたところでひそかに、ゆっくりとはぐくまれてきたのだと思う。
やぎたこがその歩みをアルバムの共同制作を通して受け継ぐ営み。
僕はそこに大きな歴史的価値を感じる。
このアルバムとその作成過程に大いに共感・共鳴を覚える。
一方でひとつひとつの歌をじっくり聴きながら、僕はある種の違和感をも感じていた。
それはもし自分がこの歌を歌うとするならばどうやるのだろうかという問いかけからくるのだと思う。共感を覚えるものに対してむしろ距離を置くという、性癖というか習慣が僕には昔からある。たぶんひとつひとつの歌を咀嚼し、自分の中に落とし込み、なじませていくにはまだ時間がかかりそうだ。
違和感を感じさせてもらえるということはそこに引っかかるものがあるということだ。(良い意味で引っかかるということだ)
そんな思いを抱えながら聴き進め、アルバムは終盤にさしかかる。
そして流れてきた「We Shall Over Come」。
のどにためて歌うやなぎさんのアカペラソロで始まる1番。(やなぎさんの声、歌い方にアーロ・ガスリーをいつも感じる)
2番は透明でストレートな歌声の貴子さんにつながれていく。
そしてギターが入りオートハープが入り全員の歌声。まさに60年代のフォークフーテナニーを思い起こさせる。
そしてフェイドアウトで終わる。
そしてやなぎさんの「旅という生活 生活という旅」
まさにNGDBの「Will The Circle Be Unbroken」(永遠の絆)~「青春の光と影」をほうふつとさせるエンディング。
「We Shall Over Come」を聴きながらここでもまた考え込んでしまった。
かつてこの歌は「勝利を我らに」という邦題で歌われた。
70年安保を前にしていたあの頃、明確な闘争課題が当時の若者にはあった。安保闘争に限らず、ベトナム反戦運動、被差別部落問題etc.etc.と盛りだくさんだった。
「We Shall Over Come」はそんな中で歌われた。「勝利を我らに」というタイトルも違和感なく定着した。
しかし安保闘争の敗北、学生運動の衰退と過激化という流れの中で「何に対する勝利なのか」という疑問が僕の中に生まれた。
この歌を封印した。
アメリカの公民権運動やキング牧師のことは当時はよくわからなかった。ピート・シーガーがどういう状況下でこの歌を歌っていたのかもまたよく知らなかった。(北海道の田舎町・室蘭でそういう情報を得ることは至難の業だった)
つたない英語力では「We Shall Over Come」を「勝利を我らに」とは訳せなかった。そこにも違和感を覚えた。
のちに知ったことだがキング牧師は有名な演説の中で直接的な闘争課題について語ってはいない。むしろ人間として「あるべき姿」を目指したものだった。それが直接的闘争課題に拘泥する人たちからは非難を浴びた。
「We Shall Over Come」を今思う時、勝ち負けではない人類の理想を求めたキング牧師のことが思い出される。
あの時代から50年が過ぎた。今やぎたこがどんな思いでこの歌を選んだのか。
今度お会いした時にそんな話ができればうれしいのだが。
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