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2017.04.30

【記録】 おーるどたいむ de ライブ 2017年春の陣 with ツカサ

これまで何年も続けてきた「おーるどたいむ de ライブ」に初めて平成生まれのゲストプレーヤー登場。

清津の若武者・ツカサ。

De20174

ツカサが中学2年の時に清津峡キャンプ場で初めてであった。

「Live in 清津峡」だった。

嬉々としてギターに興じるおっさん、おばさんたちを目にしてギターを始めたツカサ。

以降秋の「Live in 清津峡」や年明け「Againライブ」で競演しながら成長を眺めてきた。

雨後のたけのこのように力をつけてきたツカサと「おーるどたいむ」で共演するのを楽しみにしていた。

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透き通った透明な歌声、繊細なギターワーク、さわやかな笑顔。

新鮮で気持ちのいいステージを展開してくれた。

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1部が終了しての休憩時間にツカサと話していて驚くべき事実が判明した。

このお店、ブルーグラスのお店なんですね
僕のおじもブルーグラスのバンドでマンドリン弾いてるんです

彼の口から「ブルーグラス」って言葉を聞いたのは初めてで驚いて聞くとなんと「JELLY FISH」のマンドリン弾き・石坂研介さんだという。

おーるどたいむでも何度も演奏しているベテランマンドリン弾き。

その話をマスターやママさんに話すとびっくり、一同大興奮。

10年つきあってきて今日初めて知った事実。

驚きと興奮を引きずったまま2部に突入。

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僕が歌い始めたのはツカサと同じ中学2年生。

反戦・プロテストフォーク全盛の頃だった。

70年安保闘争やベトナム反戦運動を時代背景に
「歌で世の中が変えられるんじゃないか」

そんな熱病のような空気があった。

やがて70年安保闘争の敗北、ベトナム反戦運動の終息のなかで「社会派フォーク」も下火になっていく。

そんな流れの中で僕は自分の歌うべき歌は何かともがいていた。

「20年目の少年」

「シークレット」

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一方で北海道から東京に出てきた僕は3畳一間の学生下宿で1年を過ごしていた。

当時の学生のご多分に漏れず、腹をすかせながらわびしい貧乏生活をしていた。

神田川

悲しい気持ちで

De201714

それがツカサと同じ年頃の僕の毎日だった。

少々屈折した、決して明るいとは言えぬ時代は30歳ごろまで続いた。

そんな時代に別れを告げたきっかけは子供たちの誕生だった。

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暮らしに根差した歌を歌いたい。

社会的な歌もまた暮らしの中から生まれてくるものだろう。

そんな思いで僕は自分なりの羅針盤を作った。

人のなにげない営み、家族の歴史そんなことが大きなテーマになっていった。

De201713

この日、孫の奏吾(2歳半)が初めてライブに連れられてやってきた。

ジイチャンになった僕はこれまで「家族」の守備範囲は自分の両親と自分と子供たちだった。

孫ができることでその守備範囲が自分のじいさん、ばあさんから始まり孫にいたるまでの五代に広がった。

家族の歴史が一直線で見通せるようになった。

「夢」

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平成生まれのツカサをゲストに迎えた今回のライブ。

自分の歌の足跡をたどる試みになった。

45年の歩みを1ステージに詰め込むことはできないが、大きな流れだけでもさらうことができて良かったと思う。

夏草のように

ありのままに

Hony Power

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部活・虎の穴で1曲インスト。今回マッスーはお休み。あいちゃんのハープ初登場

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エンディングテーマの「さよならが云えない」。名ブルーグラッサー研さんの甥っ子ツカサも参加

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さくら

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反省点がいくつかある。

演奏の質が今ひとつだったこと。

トークが長くステージの時間が長引いてしまったこと。

「壮大なテーマ」に挑んだだけに、もっと余分なものをそぎ落とすべきだった。

テーマに沿った新曲が多かった。
そのため納得のいくところまで仕上げきれていなかった。

今後の大きな課題として残った。

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次の「おーるどたいむ de ライブは8月」。

7~8年前、一緒にやっていたちさこちゃんをゲストにお迎えする。

何曲かは一緒に歌おうと思っている。

今から楽しみだ。

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今回ゲストのツカサと次回ゲストのちさこちゃん

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2017.04.29

【あらためてお知らせ】 「おーるどたいむ de ライブ 2017年春の陣」

明日に迫った「おーるどたいむ de ライブ 2017年春の陣」

昭和の日にお届けするこのライブ。...
平成生まれの若武者・ツカサと、昭和の香りプンプンオヤジのMartin古池がお届けする世代間競演ライブ。

僕がツカサの年頃に何を聴き、何を歌っていたのか。
それは今にどうつながってゆくのか。
ふたを開けてみなければわからぬ楽しみが・・・。

時間 : 4月29日(土)14:00開場 14:30頃開演
場所 : Live cafe おーるどたいむ
      東武スカイツリーライン 北越谷駅東口
      徒歩10分
      越谷郵便局の目の前
出演 : 1部 ツカサ : 2部 Martin古池と仲間たち
木戸銭: 1000円(ご飲食をお願いいたします)

みなさまのおこしをお待ち申し上げます。

De_2017

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2017.04.26

父と子

先日、初めて孫・奏吾と二人きりで1日を過ごした。

孫との接し方、僕はそれまでは一歩引いたところにいた。
いいじいちゃんを演じていたともいえる。

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ところが二人きりだとそうもいかない。
真正面から向き合う必要があり、そうである以上は甘い顔ばかりもしていられない。
「過激」に遊びまわり、時に叱る。
かつて自分が子供たちに接していたやり方が顔をのぞかす。

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子供たちが小学生まで、僕は親父の趣味嗜好を彼らに押しつけてきた。
サッカーしかり、山登りしかり、自転車しかり、そして音楽しかりだ。
過激に遊びまわった。
子供たちにしてみると楽しいひと時ばかりではなく、苦痛なこともあったろう。

同じ屋根の下で暮らしていたからこそできたことだ。

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孫は「スープの冷めない距離」に住んではいるが、別のかまどで暮らしている。
彼に僕のやり方で接するのはなんとなく気が引ける。
それは自分の子供たちには責任を持つ立場だったが、孫には責任を持てない立場だからかもしれない。

これが孫に対して一歩ひいた場所から接してきたワケかもしれない。

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僕の父もそうだった。
札幌と越谷、年に1回会えるかどうかというほど離れていたから余計そうだろう。
父は孫たちを可愛がってくれたが、やはり距離を置いていたのが僕にはわかった。
おそらく責任ある立場の親たる僕に対する配慮があったと思う。
子を諭すのは、そして子を叱るのは親の役目だから。
子を諭す僕を見つめながら、満足そうに笑っていた。

  30年前に俺がおまえにしてきたことを
  おまえが今時分の子供たちにしているのだよ

そう言いたげな顔だった。

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1日孫と向き合った晩、息子一家と食事をした。
僕はじいちゃんの顔と同時によみがえったオヤジの顔をにじませていたと思う。
回転寿司屋で食事をしながら、少しワルサした奏吾。

間髪を入れずに

  それはダメだっ!

と言った息子と僕。

同時に同じ口調で叱った息子と僕だった。
何ともおかしかった。

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2017.04.19

【感謝】 63回目の春を通過することができました

昨日、63回目の誕生日を迎えることができました。
思いもよらぬほどたくさんの方々からメッセージをいただきました。

忙しさにかまけて日頃不義理の極みを尽くしている自分にとりそれはありがたく、心あたたまるメッセージの数々でした。
心より御礼申し上げます。...
ありがとうございます。

「この日を迎えられる有難さ」を年々深く感じるようになっています。
特別なことがあった1年というわけではないけれど、
道草・寄り道を重ねながら歩いてきた日々をまた積み重ねることができたうれしさ。
明日からもまた歩いていける喜び。

たくさんの方々とのかかわりの中で、そういう日々はささえられているんだとあらためて感じています。

目的のある旅ではない、旅するための旅。
大切に生きれば充分に長い人生の旅路を
また一歩踏み出そうと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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     あすなろの歌

   
   雪よ 岩よ 雲よ
   川よ 谷よ 樹木よ
   長い道程を君は 
   歩いてきたんだね
   おもいだしておくれよ
   さまよい歩いた日々を
   ザックに夢をつめて
   はるか山の彼方
   あすなろ あすなろ 心の旅人
   あすなろ あすなろ 心の故郷

   風よ 鳥よ 空よ
   水よ 露よ 朝日よ
   いつまでこの道を君は
   歩き続けるのか
   何を求めて行くのか
   何かがそこにあるのか
   旅するための旅を
   また始めるのだろう
   あすなろ あすなろ 心の旅人
   あすなろ あすなろ 心の故郷

             (Martin古池雅彦)
   

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2017.04.07

昭和49年の冬。

僕は駒場の三畳間で寝袋にくるまっていた。
枕元のテーブルがわりのミカン箱には秋葉原で買ったばかりのラジカセ。
パンとラーメンで
パンとラーメンで
毎日でパンとラーメンで
ああ まっぴらさ
おいらの持ってる金じゃ
おいらの持ってる金じゃ
電車賃高くて出られない
ああ まっぴらさ
だけど おいらにゃ足がある
だけど おいらにゃ足がある
どこでも行かれる 足がある
ああ まっぴらさ
いくら歩いても
いくら歩いても
悲しい気持ちは かわらない
ああ まっぴらさ
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くりかえし聴いていた加川良のアルバム「教訓Ⅰ」。
大学の社問研(社会問題研究会)の2級先輩の一条さんに録音してもらったテープだった。
(一条さんは釧路出身で同じ道産子の僕をかわいがってくれた)
どの歌も好きだったが、この「悲しい気持ちで」は身につまされる歌だった。
まるで自分のことを歌ってるように感じられた。
それほど暮らしは困窮していた。
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親元を離れて半年を過ぎ、授業と授業外の「社会勉強」とそしてアルバイトにあけくれていた。
時間が惜しかったんでアルバイトは最低限に抑えていた。
結果いつも財布は薄っぺらで、胃袋もまた薄っぺらだった。
目先の金に困り、せっかく買った定期も月半ばには解約するなんてことを繰り返していた。
朝、駒場の学生下宿を出て歩いて渋谷に出る。
渋谷のデパートの食品売り場の試食で腹を満たし、白山の大学まで歩く。
片道2時間は歩いていたように思う。
自然と口ずさむ「悲しい気持ちで」。
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学校では専攻の国文学の授業は全く熱心ではなく、地下の社会問題研究会部室に入りびたっていた。
大真面目で社会学やマルクス経済学の本を読みふけり、疲れるとギターもって地上にはいずりだして歌っていた。
アルバイトはいろいろやったがほとんどが食べ物関係だった。
残り物にありつける魅力的なアルバイトだった。
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当時は僕のようなアルバイト学生は結構たくさんいた。
だから人と比べてとりわけ素寒貧を嘆くこともなかった。
とはいえ慢性的な空腹感だけはいかんともしがたかった。
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一方で100%親のすねをかじり車を乗り回し、ガールハントにうつつを抜かすようなイヤァナやつもまた増えてきていた。
そういうやつらに限ってフォークソングクラブなどでチャラチャラした歌を歌っていた。
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若かった僕はそんな連中に敵愾心を燃やし、彼らに象徴される富に資本主義の矛盾を見た。
彼らが切なそうな顔をして「神田川」なんかを歌おうもんなら、闘争心がむくむくと頭をもたげてきていた。
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親元でぬくぬくやってるオメらに
三畳ひと間の小さな下宿の悲哀なんて
わかるはずがねえべや!
だいたい男と女が三畳間に同棲なんてできるわけねえべや!
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昭和49年=1974年ごろ。
70年安保闘争が終息し、ベトナム反戦運動も勢いをなくしてしまったころ。
ひとつの時代が角を回り次の時代に移行する過渡期だったのかもしれない。
若者の向こう見ずな正義感に支えられていた社会運動から、個々の暮らしに個人主義的な風潮への転換点と過渡期。
マクロな視点では若者たちは2極化した。(しらけ世代という言葉に象徴されもした)
ミクロな視点では生き方の指向が細分化し始めていた。
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当時の僕には「神田川」や「赤ちょうちん」よりも「悲しい気持ちで」の方がはるかにしっくり来ていた。
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「悲しい気持ちで」のおさめられた加川良のアルバム「教訓Ⅰ」。
久しぶりに針を落とした。
加川良のレコードで今手元に残ってるのはこいつだけだ。
取り立てて加川良の影響うぃうけたわけではないけれど、アルバム「教訓Ⅰ」だけは生涯手放せないレコード。
いわば僕にとっての「青春の墓標」だ。
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僕の「二十歳の原点」につきあってくれた加川良さんの死を悼みます。

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2017.04.06

「さんすまいる・マーチン古池コンサート」

 

Photo

今回が19回目になるそうだ。
隔月、年に6回だから4年目に入るわけだ。
もうそんなになるかというのが実感。

...

最初の1年半ほどは「マーチン古池の歌謡ショー」という音楽会だった。
ご老人たちとのおしゃべりを通して僕が一方的に歌うという形だった。
皆さんしっかり耳を傾けてくださり、それはそれで楽しんでいただけたとは思う。
いわゆる「井戸端コンサート」だった。

いつの頃からか、僕の歌に合わせて皆さん口ずさんでくれるようになった。
ならばと、さらに水を向けるようにした。
どんどん一緒に歌ってくださるようになった。

音楽会は聴くだけのものではない。
自らが参加し歌うことで真に音を楽しむ会になるということを学んだ。
当たり前のことなんだが、演者の側に立つと案外気がつかないものだ。

回を重ねるに従い音楽会の性格が歌声音楽会として定着していった。
歌集もでき、その内容は毎回充実していく。
キーも僕のキーではなくご老人が無理なく歌えるキーに変わってきた。

ほぼ完全なる相互通行のひとときになって久しい。
「井戸端コンサート」から「井戸端ライブ」に変貌した。
僕の役割も歌い手から水先案内人に変わった。
こういう音楽会が本当に楽しく、ありがたい。

おそらくデイサービスという比較的若く元気なご老人たちだからこそなんだと思う。

これがさらに高い年齢層の、そして多くの病気を抱え、介助の欠かせない特別養護老人ホームではどうか。
おそらく同じような井戸端ライブは成立しにくい。

毎年数回やっている函館の特養「旭ヶ丘の家」では、歌謡ショーというスタイルだ。
デイサービスと特養での演奏の違いについてはまたいずれしたためるつもり。

4年目に足を踏み入れた今日の歌声音楽会。
楽しく、おかしく、気持ちよく進めることができた。

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