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2017.04.07

昭和49年の冬。

僕は駒場の三畳間で寝袋にくるまっていた。
枕元のテーブルがわりのミカン箱には秋葉原で買ったばかりのラジカセ。
パンとラーメンで
パンとラーメンで
毎日でパンとラーメンで
ああ まっぴらさ
おいらの持ってる金じゃ
おいらの持ってる金じゃ
電車賃高くて出られない
ああ まっぴらさ
だけど おいらにゃ足がある
だけど おいらにゃ足がある
どこでも行かれる 足がある
ああ まっぴらさ
いくら歩いても
いくら歩いても
悲しい気持ちは かわらない
ああ まっぴらさ
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くりかえし聴いていた加川良のアルバム「教訓Ⅰ」。
大学の社問研(社会問題研究会)の2級先輩の一条さんに録音してもらったテープだった。
(一条さんは釧路出身で同じ道産子の僕をかわいがってくれた)
どの歌も好きだったが、この「悲しい気持ちで」は身につまされる歌だった。
まるで自分のことを歌ってるように感じられた。
それほど暮らしは困窮していた。
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親元を離れて半年を過ぎ、授業と授業外の「社会勉強」とそしてアルバイトにあけくれていた。
時間が惜しかったんでアルバイトは最低限に抑えていた。
結果いつも財布は薄っぺらで、胃袋もまた薄っぺらだった。
目先の金に困り、せっかく買った定期も月半ばには解約するなんてことを繰り返していた。
朝、駒場の学生下宿を出て歩いて渋谷に出る。
渋谷のデパートの食品売り場の試食で腹を満たし、白山の大学まで歩く。
片道2時間は歩いていたように思う。
自然と口ずさむ「悲しい気持ちで」。
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学校では専攻の国文学の授業は全く熱心ではなく、地下の社会問題研究会部室に入りびたっていた。
大真面目で社会学やマルクス経済学の本を読みふけり、疲れるとギターもって地上にはいずりだして歌っていた。
アルバイトはいろいろやったがほとんどが食べ物関係だった。
残り物にありつける魅力的なアルバイトだった。
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当時は僕のようなアルバイト学生は結構たくさんいた。
だから人と比べてとりわけ素寒貧を嘆くこともなかった。
とはいえ慢性的な空腹感だけはいかんともしがたかった。
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一方で100%親のすねをかじり車を乗り回し、ガールハントにうつつを抜かすようなイヤァナやつもまた増えてきていた。
そういうやつらに限ってフォークソングクラブなどでチャラチャラした歌を歌っていた。
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若かった僕はそんな連中に敵愾心を燃やし、彼らに象徴される富に資本主義の矛盾を見た。
彼らが切なそうな顔をして「神田川」なんかを歌おうもんなら、闘争心がむくむくと頭をもたげてきていた。
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親元でぬくぬくやってるオメらに
三畳ひと間の小さな下宿の悲哀なんて
わかるはずがねえべや!
だいたい男と女が三畳間に同棲なんてできるわけねえべや!
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昭和49年=1974年ごろ。
70年安保闘争が終息し、ベトナム反戦運動も勢いをなくしてしまったころ。
ひとつの時代が角を回り次の時代に移行する過渡期だったのかもしれない。
若者の向こう見ずな正義感に支えられていた社会運動から、個々の暮らしに個人主義的な風潮への転換点と過渡期。
マクロな視点では若者たちは2極化した。(しらけ世代という言葉に象徴されもした)
ミクロな視点では生き方の指向が細分化し始めていた。
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当時の僕には「神田川」や「赤ちょうちん」よりも「悲しい気持ちで」の方がはるかにしっくり来ていた。
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「悲しい気持ちで」のおさめられた加川良のアルバム「教訓Ⅰ」。
久しぶりに針を落とした。
加川良のレコードで今手元に残ってるのはこいつだけだ。
取り立てて加川良の影響うぃうけたわけではないけれど、アルバム「教訓Ⅰ」だけは生涯手放せないレコード。
いわば僕にとっての「青春の墓標」だ。
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僕の「二十歳の原点」につきあってくれた加川良さんの死を悼みます。

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投稿: BigBonusPar | 2017.04.07 01:13

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