「欲と無欲について」ふりかえる
「欲と無欲」 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-c52e.html
4年前の今日、こんな文章を書いていた。
若いころから自分が歌い続ける原動力になっていたのは「欲」だった。
少しでもいいライブをしたい。うまくなりたい。表現力を高めたい。お客様の反応を瞬時に感じ取り、いち早く反応できるようになりたい。
長いことこの一心で積み上げてきた。
4年前、原動力だった「欲」に対し「無欲」でありたいと願った。
肩の力を抜き、虚心坦懐に歌うことが自分にとってより自然な状態だと感じ始めていたからだ。
正確に言うと稽古では欲の塊であっても、ライブでは「無欲」でありたいという願いだった。
「無欲でありたい」という願いはそれ自体が「欲」である。
それでも意識的に「無欲」であることに努めなければそうならないものだ。
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4年が経過した。
今の自分はどうであるか。
ふとそう思い、ふりかえってみた。
なんかいい感じで歌ってるな
そんな気がする。
「欲」だの「無欲」だのって言ってたことが遠い過去のことのように思える。
ライブだからといって特別な思いは今はほとんどない。
おしゃべりをしていたその延長が気がつくと歌に変わっている。
それが次のおしゃべりにつながっている。
おしゃべりの結果として脱線や道草、寄り道をしても最後は元のテーマにいつのまにか戻っている。
言ってしまえばとても「ゆる~いライブ」になっている。
でもこのゆるさが今はとても心地いい。
ここ数年のうちに意識せずとも自然にそんな風に変わってきたんだと思う。
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欲は無くなったのか?
決してそんなことはないとも思う。
よりいいものを目指したいという思いは以前にも増して強くなっている。
でなければ一つのフレーズを延々と歌い続け・弾き続けるような「練習」はできない。それも毎日などとてもできるものではない。
少しでもうまくなりたい、よりよいものをめざしたいという思いは依然として強い。
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もしかしたら「よりいいもの」のイメージが4年前とは変わってきているということなのかもしれない。
4年前、ライブとは「自己表現の場」というような意識が根強く残っていた。
より良い表現をすることでお客さんに喜んでいただく。
それが自分の充足感につながるという感じだった。
最近は「そいつはちょいとおこがましい」と思うようになった。
昨今気持ちがいいのはお客さん、共演者、自分とで共作していくライブ。
自分はその「水先案内人」というのが一番気持ちよく、充足感あるものに感じられる。
指向(嗜好)が変わってきているのかもしれない。
「ゆる~いライブ」=「井戸端ライブに」。
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今自分が一番やりたいライブ。
それは数少ない「お客さん」と車座になり、おしゃべりを重ねながら歌っていくような音楽会だ。
もしかしたらこれは「無欲」の極致につながるものかもしれない。
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【追記メモ】
高校生の頃、宇野重吉と北林谷栄の芝居を観た。
淡々とした演技に静かな感動を覚えた。
あの静かな感動の本当の良さが最近やっとわかってきた。
演技・表現とは決して大げさなものであってはならない。
それはこけおどしに過ぎず、驚きはするが感動とは別の次元のものだ。
体全体からにじみ出るそこはかとしたものこそが、心のひだに浸透していくものだ。
表現とは感じさせぬもの、演技とは感じさせぬもの。
自然な立ちふるまいから感動を覚えさせるものこそが大切。
それは演技者の感性だけではなしえぬ、稽古の積み重ねが下敷きになっている。
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