「ナマギターとナマ歌へのこだわり」にちょっと迷いが
ここ5~6年ライブのセッティングは完全アコースティック(ナマギターとナマ歌)に強くこだわってきた。
ちゃんと歌を届けるためには素の状態で演奏することが一番いいと感じてきたからだ。
スピーカーを通した音は素の音量を増幅してくれるけど、その分体内から絞りだされた情感のようなものが薄まってしまう感じがしてきたからだ。
お客様との間に薄いベールがかぶされてしまうような気がしてきた。
だからライブの基本は完全アコースティック。
「朝市コンサート」のようなだだっ広いところで歌う状況ではコンデンサーマイクを1本だけ立てギターと歌がうまくミックスされたところを拾うようにしてきた。
ギターの音をラインで拾うのは「お好み焼きの三貴ライブ」のような喧騒の酒席ライブくらいだった。
完全ナマ音ライブをやるために呼吸法や発生法を鍛錬した。また使うギターもその場の環境に合わせて選んできた。
声を張り、ギターをかき鳴らせば少しくらい広いスペースや大人数でも十二分に音は伝わる。でもそれでは歌の情感は失われてしまう。大事なのはピアニシモの声を届かせること、それに見合ったギターの奏法を工夫すること。そのための研究や鍛錬を積み重ねてきた。
ここ数年、かなり納得のいくところまで持ってこれるようになったと思う。
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そんな「自負」にちょっと迷いが生じてきている。
それは函館帰省のたびにやってきた「特養・旭ヶ丘の家コンサート」の録音を聴いてからだ。
妙な力が入っていて、演奏が雑に感じられたのだ。
コンサート会場はかなり広いスペースで、そこに何十人ものご老人たちが集まる。年が年だけに耳が遠い方も多い。
そんなところで歌うためか知らずのうちに力みが出ているように感じられたのだ。
ふりかえれば1時間ちょっとのコンサートの半ばで何度か声がかすれてしまい、それをごまかす唱法になっていた。
どれだけ歌っても喉をつぶさず歌える自信があっただけにこれはショックだった。
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その後特に広いところで歌う「朝市コンサート」でもその傾向があることに気がついた。広さと買い物客の喧騒に負けぬよう、知らずのうちに力み出ているのだ。その結果喉が締まっていることに気がついた。
「自然に歌えてない」
これが迷いの生じた大きな要素だ。
(続く)
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