小松菜雑煮と我が家の歴史
今年も最初の雑煮はじいさんの代から伝わる小松菜雑煮で始まりました。
明治の終わりに愛知県知多半島からトミばあちゃんと二人、北海道に渡った義一じいちゃん。
水飲み百姓の次男に生まれ、食い詰め、新天地を北海道に求めての旅だったとか。
呉服商として身をおこし、後に廉価堂(レンカ堂)というご祝儀屋さんを作ったのはちょうど100年前のことでした。
商人は質素倹約を良しとするとの考えから始まったのが小松菜だけの雑煮だったと聞きます。
質素倹約の暮らしは美徳ではあるけれど、反面栄養が偏りがち。戦後の食糧事情もあいまって、義一じいさんの子供たちは何人も肺病でこの世を去っています。
僕の父・信夫は「質素倹約」に反旗をひるがえし家を出ます。
食生活が貧しいから生きられる命も生きられないと考えたといいます。
父の口癖は「どんなに貧乏しても食い物だけはちゃんと食わせる。エンゲル係数の高さは俺の誇りだ」でした。
そんな父も小松菜雑煮だけは毎年欠かさず食べていました。
「餅本来の味をかみしめるには余分なものはいらない」
「雑煮に限らず人生の本質は単純なものだ。余分なものをそぎ落とし最も単純なものを見つめることが大切」
父が模索した生き方は小松菜雑煮に象徴されていたのかもしれません。
母・郁子は古池の家に伝わる小松菜雑煮にどうしてもなじめなかったといいます。カシワ(鶏肉)を中心にした京風の雑煮で育ってきたからです。
母は自分の口にも合うように昆布と鰹節で出汁をしっかりと取るようになりました。(当時古池の本家は出汁らしい出汁は取っていなかったそうです)
かくして我が家の雑煮は父の小松菜雑煮と母の京風の出汁が合わさって出来上がったものです。
僕が作る小松菜雑煮はそれを受け継いでいます。
毎年かたくなに作り続けるのは子供たちにもこの習慣を何らかの形で引き継いでほしいという思いからです。
ありがたいことに長男も次男も何の抵抗もなくあたりまえのものとしてこの雑煮を食べてくれます。
これまで味のバトンは渡せたと思います。
でも本当に伝えたいことはその味に隠された歴史と思いです。
新天地を求めて「ゼロからの旅」に挑んだ祖父の心意気。
余分なものをそぎ落とし、ことの本質を見定めようと試行錯誤を続けた父の生き方。
雑煮の味とともにそんな思いも一緒に伝えていきたい。
でもそれには自分自身がそういう生き方をちゃんと受け継いでいかねばならないわけで。
2016年、新春。
そんな生き方をあらためて志すことが、今年の僕の抱負なのかもしれません。
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