前回の「朝市コンサート」はイベントがあったため買い物客でごったがえしていた。久々の大盛況だった。
うってかわり、今朝の越谷市場は閑散としている。
セッティングを終え、どのタイミングで歌い始めようか迷っていた。それほどお客さんは少なかった。
向かいの乾物屋の親父さんが話しかけてきた。
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ほんとに客が減ったよね
震災で客足がぐっと遠のいたんだよ
やっと少し回復したかと思ったら消費税だろ
これで一気に冷え込んじまった
売上のデータにハッキリ表れてるよ
入口の八百屋も先月いっぱいで廃業したしな
あんたも長いこと、ここで歌ってるからわかるだろ
ギャラももらえなくなったんだろ
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3~4年前からかな
元々は前の組合長に頼まれて始めたことでね
「足代」としてちょこっとはもらってたけどね
組合長が変わった後、景気が落ち込んでそれも無くなったよ
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オレも当時は執行部だったから事情はよく知ってる
あんたにゃ申し訳ないと思うよ
あれでもう市場には来なくなるかなって思ってたけど
今でもこうして歌ってくれてる
ありがたいと思ってるよ
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そんな話をしていると、友人のMさんがひょっこり顔を出してくれた
川口からわざわざ足を運んでくれたんだ
それをきっかけに湿っぽい話を切り上げて「朝市コンサート」をスタートさせた。

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2005年4月25日に「朝市コンサート」はスタートした。
新越谷駅前で「街角ライブ」をやっている時に市場の元組合長に声をかけられた。それがきっかけだった。
最初は1回こっきりの出前コンサートのつもりだった。
思いのほか反応が良く、なりゆき上2回目もやることになった。
事実上の旗揚げは10年前の今日ということになる。
⇒第1回「朝市コンサート」の記録
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最初の5~6年、「朝市コンサート」は一般客に市場での買物を楽しんでもらうためのアトラクション的なものだった。
客層は多岐にわたってはいたが総じてやや高めの年齢層だった。飲食店などの仕入れの人たちが多いためだった。
越谷市場ではそういう固定客以外にも一般消費者も呼び込みたいという思いがあった。そのため第2、第4土曜日を市場開放デイとして位置づけていた。1000円以上の買い物で景品をもらえるという取り組みだった。
一般のお客さんの年齢層は40代~70代とバラバラだった。
僕の役目は景品交換所の前で演奏し、お客さんに楽しんでもらうというものだった。
そのためにどんな選曲をして、どのようなアレンジや唱法で歌うか。毎回勉強しながらいろいろ試していた。基本はお客さんがよく知っているものがメイン。自分の嗜好は二の次にせざるを得なかった。あまり好まない歌でも歌わざるを得ないという部分もあった。
まずはお客さんに沿った歌を重ね、その中に少しだけ自分がその時歌いたい歌をもぐりこませるという形をとった。
定着した選曲の柱は昭和の歌謡曲やグループサウンズやフォークソングなどだった。
実は僕は『場末のフォークシンガー』と名乗りながら「フォークソング」と言われるものをそれまで歌うことはあまりなかった。フォークソングに対する強いこだわりがあったためだ。どんなにヒットした歌でも自分にとってフォークソングたりうるかということにこだわていた。市場のアトラクションとして歌う以上はそれに拘泥してはいけないと考えるようになった。(「街角ライブ」で不特定多数の人に歌うようになってからは多少緩和されてきてはいたが)
まずはお客さんありき
おのれを殺すべし
そういう縛りの中で最大限できることを追求する。
けっして簡単なことではなかった。むしろ思い通りに行かずうちのめされることの方が圧倒的に多かった。
なにしろじっくり聴いてくれる人が少ない。ほとんどの客は忙しく買物を済ませ足早に帰っていく。
そんな状況が毎回続くと市場で歌うことに疑問が生まれてくる。同時に自分の歌に自信が持てなくなってくる。
それまでの数年間、「街角ライブ」でおのれを鍛えてきたというプライドがあった。毎回オーディエンスが途切れることがなかったという自負も強かった。
それらのものがすべて吹っ飛んでしまった。
お客さんにしてみると買い物のあいまにじっくり聴くなんてことはできるものではない。ちょっと足を止め何曲か聞いてくださるのが関の山。
街角と市場の条件の違いは分かっていたはずだが、それでも反応の悪さには自信喪失になりがち。
自分の弱気の虫との闘いから始まった。
その上でたえず流動する客の流れになにがしかのインパクトを与える。そのためになにをなすべきか。試行錯誤をつみかさねた。五里霧中だった。
試行錯誤を何年もくりかえすうちに、市場の商店主や買い物客からも次第に認知されるようになってきた。
手をふりながら通りすぎたり、会釈をしてくれたり、微笑んでくれたりという消極的ではあるが、好意ある反応を返してもらえるようになった。
つらかったのは、たまにやってくる音楽友達の反応だった。
マーチンさん
あんた一体何やってるんだい
そんなのライブでもコンサートでもないでしょ
口にこそ出さぬが目が語っている。彼らは僕がライブハウス「ぶどうの木」でやっていた時代を知っている連中だった。「わがままライブ」を縦横無尽に展開していた頃の僕を知っているだけに、「朝市コンサート」でのやり方が驚きにだったものと思われる。(僕の知らぬところでそんな話をしていた人もいたという)
オレは音楽嗜好の強い人や、あんたらプレイヤーの目線で納得、満足するようなものを目指しているわけじゃない。ごくごく「普通」の人たちが聴いて良かったと思ってもらえる、そんなライブが目標なんだ。
自分にそう言いきかせながら回を重ねていった。
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4年ほど前、僕に声をかけてくれた件の元組合長がすまなそうな顔をしてこう言った。
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古池さん、ゴメン
組合総会で経費節減が決定して
今までみたいに「謝礼」が払えなくなったんだ
だからやめても仕方ない
続けてくれるならば場所はこれまでどおり提供させてもらうよ
あんたの好きな方を選んでくれ
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冗談じゃないと思った。
ここでやめたらこれまで積み重ねてきたものが灰燼に帰してしまう。ようやっと軌道に乗ってきたところじゃないか。
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このまま続けさせてもらうよ
お金の問題じゃなく、自分のポリシーの問題だから
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あんたなら、きっとそう言うと思ったよ
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同じ年の元組合長はどうやら僕の性格も呑み込んでくれていたようだった。
反面でチャンスとも思った。
これまで「縛り」になっていた集客のためのアトラクションから解放されるワケだから。むろん市場という場を借りて歌うわけだから、この先も意識せざるを得ないことではある。でもそれはもう「義務」ではない。
客受けのいいフォークソングや歌謡曲にこだわる必要も無くなった。
自分の好きな歌をもっと歌えるだろうし、様々な実験的な試みもやれるようになる。
そんな試みを市場というたやすくはない環境の中でやる。
それも組合の後ろ盾を失った状態で歌い続ける。
これ以上の修行の場はないと思った。
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同時に「朝市コンサート」の新たな位置づけをしなければならないと考えた。
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「市場の風物詩たらんこと」
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買い物の場であり、越谷の台所でもある「越谷市場」。
その中で「歌う」という異質のものが共存しうる状態を目指す。
これが新たな位置づけであり目標となった。
目標とはいっても「市場の風物詩」であるかどうかは自ら評価できることではないし、するべきことでもない。
歌い続けたその結果そうなっていたというたぐいのものである。気がついたら当たり前にそこにあった。無きゃ無くとも困りはしないが、なにか物足りない。
風物詩とはそんなもののような気がする。
言葉を変えると市場という場との共存。市場にいる人・来る人との共存。
それがいいあんばいでできている状態とでも言うのだろうか。
大事なことは可能な限り、できるところまでやり続けること。
市場から拒絶されることだってありえない話ではない。
自分の体調や精神状態が変わることだって充分に考えうる年齢にもなっている。
問題は「今」を「1回1回」「1曲1曲」を大切に歌い続けることができるかどうかだと思う。
ありふれた、わかりきった結論ではあるが結局はそれ以外ない。
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まる10年経過した「朝市コンサート」。
大きな節目であるには違いないが、ひとつの一里塚に過ぎないこともまた事実。
「継続は力なり」などと嘯き「10年の経験」にあぐらをかくことなく、一歩ずつ進んでいきたい。
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