函館日記 2014年冬

2014.02.09

函館「こだるま」 なんとなくゲリラライブ

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ネットを通して親しくしてもらっている友人が函館には数人います。

その中で僕よりも少し先輩になる食堂「こだるま」のこだますおぢさんから、
函館に帰ったらちょこっと歌ってけれやとのお誘いがありました。

じつは「こだるま」は数年間店を閉めていました。

今年に入り再開したばかり。

歌で花を添えるのもいいなと思い、大いにその気になりました。

実は再開なったこだるまで二つのライブが予定されました。

1月31日 ふるさと帰りのMartin古池・ミニミニ・ライブ。

2月3日  あがた森魚さんのゲリラ・ライブ。

僕としてはあがたさんの露払いの気分もありました。

なんってったってあがた森魚さんは僕の出た潮見中学の大先輩。

そのあがたさんと時こそ違え同じ店で歌えるのはうれしい話です。

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こだますおぢさんはちょこっと不安があったみたい。

あがたさんはともかくMartin古池といってお客が来るのか・・・?

僕のライブを観たことないから、どんな雰囲気でどんなことをやるのかもわからないわけだしね。

だから、ちょっと弱気で

お客さんの様子みて、
行けそうなら数曲歌ってけれや

という感じでした。

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いざフタをあけてみると・・・

知り合いのミッキーさん(赤帽子屋・店主)をはじめ
ミッキーさんやこだますおぢさんの仲間
興味を持ってきてくださった同年代の親子連れ、
帰省のたびにお世話になっているハイヤー運転手Hさんとその友人
フリーで来てくれた若いカップル
・・・

なんだかんだと集まってくれました。

僕にしてみると得意なシチュエーション。

こりゃ、数曲なんかで終われないヮ
様子見ながら、いけるまでいくべ

と、歌い始めました。

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店内は木の壁で囲まれ生音ライブには絶好の作り。

例によって音数を減らしてさりげなく歌い始めます。

通常営業中のライブでは、この「さりげなく」ってのがキーポイント。

いきなりガツンとかますんではなく、そっと歌い始め店内の空気に同化していくのが大事。

お客さんと波長が合ってきたら少しずつパワーアップ。

いい感じでやらせてもらえました。

選曲は冬の歌から始まります。

薄暗い店内から眺める窓の外は降りしきる雪。

雪見ライブって、雰囲気があっていいなぁ。

そして後半はカントリーソングのオンパレード。

こだますおぢさんも、ミッキーさんもトミ藤山さんをリスペクトしてくれています。

てなわけでトミさんのアルバムの中からも数曲。

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気がつけば(実は確信犯)1時間をかる~く超えるステージに。

吹雪の函館の夜。

忘れられないライブになりました。

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こだるまに向かう電車を待ちながら、吹雪く十字街

 

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2014.02.04

旭が丘の家 ボンジュール・コンサート

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高い天井、広い空間。

窓の外は一面の冬景色。

大きな窓から差し込む光は優しい。

旭が丘の家のレストルーム・ボンジュール。

この広い部屋に十数人の老人たちとスタッフ6~7人。

昼食をとりながらゆったりと聴いてくれる。

なんて贅沢ですてきな空間なんだろう。

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年に1~2度、ここで歌い始めてから10年に近い月日が流れました。

最初の頃はスタッフと僕の間に少々遠慮があり、どこかぎくしゃくするものもありました。

「入居者の息子」ということでむげにもできない。

かといってどんなことをするのかもわからない

そんな戸惑いがあっただろうと思います。

回数を重ねるうちに入居者の老人たちが楽しみにしてくれるようになりました。

帰省のたびに歌うということが定着していき・・・

スタッフも当然のこととして受け入れてくれるようになりました。

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ここで歌う時、親の世代と子の世代の接点になる歌を意識しています。

子供だった僕がラジオなどから聞き覚えた歌。

それは同時に若き母親・父親たちが聴いていた歌でもあります。

昭和30年代のはやり歌をベースにして、その前後の時代の歌を選びます。

これに季節を感じさせる歌を絡めていく。

今回は初めての真冬のコンサート。

雪のふる町を
ペチカ
雪が降る(アダモ)
津軽海峡冬景色(特急はつかり5号のナレーション入り)

などを盛り込みました。

広い室内にもかかわらず音がよくまわります。

天井が高いのと、三方がガラス窓という作りのためでしょう。

ギターも歌もさらりと歌うくらいがちょうどいい。

声を張ったり、力んだりするとやかましい感じになります。

淡々と歌うと笑顔で迎えてくれる。

演者としての僕を見るのではなく、僕から出ていった歌が宙を舞うのを受け取っていく。

必要なのは激しさでも自己表現でもない。

宙を舞う歌をゆっくりしみこませながら、それぞれの思いを重ねていく。

そんなイメージの音楽会。

それがボンジュール・コンサート。

今回もいい時間を持つことができました。

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2014.02.02

【知らなかった話 4】 父の戦争体験

父は海軍で、人間魚雷の乗組員でした。

そのことは人づてに聞いてはいましたが、父の口からはついに聞くことがありませんでした。

父と戦争についての話はけっこうしたんですがね。

とうとう最後まで特攻隊員であったことを聞けずじまいでした。

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実は長年父と議論を積み重ねてきた自分としては父が特攻隊員だったことがどうしても考えられませんでした。

陸軍の部隊長として青島で戦死した兄を持ちながら、
父は若いころから自由主義的な思想の持ち主だったようです。

戦時下、学徒出陣が喧伝された頃、父は函館中学(今の中部高校)の学生でした。

周囲が「学生たるものお国のために参戦すべし」というような議論が巻き起こり、大勢を占めていました。

学生はペンをとるべし
武器に非ず

そう主張した父は教師たちにぼこぼこに殴られたと聞きます。

戦争中、俺にとっての「人生劇場」だった

後に父はそう述懐しています。

その父が翌年亜細亜大学に進学し、インドネシア語を専攻します。

ところが学業半ばで海軍の特攻部隊の一員になる。

僕にはその変遷がどうしても理解できませんでした。

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敗戦が近くて国内に若者がいなくなった頃
残ってるのは志願しなかった学生だけ
そんな若者を国は洗いざらい徴兵して
お父さんもその一人だったわけ
だから自分で選ぶことなんてできなかった
お父さんはむしろ戦後の日本のために
学生が何をしなければならないかってことを考えてた
だから考え方としては首尾一貫してと私は思うよ
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俺が昔反戦運動やってた頃
オヤジに特攻隊は犬死だったみたいなことを言ったんだ
そしたらものすごく悲しげな顔して言われたことあるよ
「一面的なものの見方はするもんでない」って
その時「聞けわだつみの声」を渡されたんだわ
その頃はまだ俺も若かったからピンとこなかったんだけどね
でも当時の自分と同じ年頃の人たちが、
死と向き合ってもがいていたことは伝わったな

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学業半ばで心ならずも戦争にとられた父。

しかも国家のために自らの命を差し出すことを余儀なくされる特攻隊。

そこで自分の生と死に向き合わざるをえなかった

それは己の「死」に意味を持たせなければとうてい受け入れがたい思いだったろう。

自分を納得させる理由が国家だったなのか。

いやそうは思えない。

母と話しながらふと浮かんできた父の言葉ある。

俺の友は「お母さん!」と言って死んでいった

おそらく死んでいった友の言葉を借りてその当時の自分の思いを託したのではないか。

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若き日の父。函館中学時代か。

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【知らなかった話 3】 いつ、なぜ洗礼を受けクリスチャンとなりしか

函館という街は異国情緒あふれる街といわれます。

それは江戸時代の末期に長崎、横浜と並んで初めて諸外国に門戸を開いた港町だということが大きいんだろうと思います。

特に当時街の中心だった今の西部地区にはカトリック教会、プロテスタントの教会、ロシア正教の教会などが立ち並んでいます。

キリスト教と共に西洋の文化が持ち込まれることが今の函館の風土を彩ってきたのかなと思います。

でもキリスト教は必ずしも市民の間で一般的なわけではない。

多くの市民はやはり仏教徒であったりするわけです。

元町界隈のキリスト教会群とともに本願寺がデンと構えていたり、護国神社が坂の上にあったり、ちょっと行くと巨大な八幡宮があったりします。

日本に根付いてきた文化と西洋文化との共存が函館の風土を形作っているのかもしれません。

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我が家はカトリックの家庭でした。

父も母もその実家は仏教徒なので、自分の意志でカトリックを選んだのだろうということは容易に想像できます。

でもこれまで両親がなぜ、いつ、どのようにして洗礼を受けたのかということは聞くチャンスがありませんでした。

知っていることは父も母もカトリック元町教会の青年会の活動を通して知り合い、恋におち、家庭を築いたということぐらいでした。

青年会の話は何度か聞いていましたが、その前のことは全く知らなかったのです。

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戦争だね

母は当時のことを初めて語ってくれました。

戦時中、キリスト教は敵性宗教ということでやはりごくごく少数派だったそうです。

たとえば酒井武雄先生一家などは戦時中からの信者でした。

酒井武雄先生は函館の音楽家で、僕の出た潮見中学の校歌を作った方です。

娘の淑子さんは声楽家でもあります。

戦時中は「アーメンさん」と揶揄を込めてよばれていたそうです。

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やがて戦争が終わります。

それまで良しとされてきたの価値観は一変します。

信じ込んできたものが否定され、国に裏切られたという思いが当時の若者たちの広がっていきます。

一方で西洋やロシアの文化が一気に入ってきます。

もともとそういうものを受け入れる土壌のあった函館。

若者たちの少なくない者たちはキリスト教の持つものに新しさを感じ入信していきます。

父も母もそういう若者の一人だったわけです。

終戦の年、父は21歳、母は20歳。

まさに多感な季節でした。

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終戦から70年に近い年月が過ぎ、キリスト教から離れていった人もいます。

反面で自己表現や「若さの発露」としての教会・青年会活動から脱皮し、信仰心を深めていった人たちもまた多い。

父や母はその典型かもしれません。
(父はかなりの紆余曲折があり、晩年に一気に信仰心を固めていったのですが)

戦争だね

そう、母が語る時

戦争というネガティブなものの中にさえ「一粒の麦」は蒔かれているという、確信に満ちた迫力を感じさせます。

僕も幼児洗礼を受けていますが、両親と違いお世辞にもカトリック教徒とはいえず
むしろカストリックな自分にはとうてい到達しえない境地です。

それでも「家族の歴史」の始まりを、たとえその一端でも垣間見ることができたことは大きな収穫となりました。

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旭が丘の家にある小聖堂。木彫りの「最後の晩餐」

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御御堂にて。
このすぐわきに父の遺骨が眠っている。
数年前、札幌の月寒教会の納骨堂から移し今は母のもとに帰っている。

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【知らなかった話 2】 握手 習慣の始まり

我が家には60年にわたる習慣があります。

それは別れしなに「握手」を交わすことです。

僕に物心がついた時、すでにそれは定着していました。

父が仕事に出かける時は握手を交わしながら

いってらっしゃーぃ!

と送り出しました。

僕が幼稚園に通うようになってからは逆に握手で送り出されました。

それは僕に対しても、弟や妹に対しても変わることなく続けられました。

やがて大人になり3人の子供たちは家を出、それぞれに内地で暮らすようになります。

たまに帰省しても、別れしなは握手。

まもなく60歳まで成長した僕ですが、我が家でも握手の習慣はいまだに続いています。

父と母が60年ほど前に始めた「握手」の習慣。

それがいつ、どのように始められたのかは知りませんでした。

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お父さんがプロポーズした時の話

私は島田神父さんに呼ばれたんだヮ

郁ちゃん
あんた、古池信夫のことどう思ってんのさ (島田神父)

いい人だと思います (母)

ノブちゃんがあんたと結婚したいって言ってるんだヮ (島田神父)

うちに帰って家族に相談します (母)

あんたね。
家族は関係ないっしょ
あんたがた個人がどう思うかの問題だべさ (島田神父)

私も・・・
好きです (母)

したら教会の裏でノブちゃん待ってるから
行ってやんなさい (島田神父)

そこでお父さんに結婚、申し込まれて…
握手されたんだヮ

それが始まり。

そのあと青年会の集まりがあっても別れ際に必ず握手して
いやんや、周りの人たちは大騒ぎさ

だって戦後まだ5~6年の頃だから
握手なんてする人はまわりには全然いないからね

それが我が家の「握手」の始まり。

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20年前、死を目前に控え父が書き残した文章
掌のぬくもりについて

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【知らなかった話 1】 結婚式の裏話

母は見事なまでに回復していました。
夏に帰省した時はただただ体の痛みだけを訴えるのみで、10分と話していられませんでした。
あいかわらずベッドに横たわったまま、自力で起き上がることすらできないけれど…
顔色もよくなり、痩せてしわだらけになっていた頬も張りが戻っていました。
そして、しゃべることしゃべること!

尽きることのない母の昔話につきあうことが最大の陣中見舞いと腹を決めました。
過去何十回も聞かされた話だけど、ぜいたくは言えないですもんね。
夏の弱り具合から考えると御の字!
...
そんな中で初めて聞く話がいくつかありました。
おそらく記憶がしっかりしているうちに話しておかなけれなばらない
そんな衝動に突き動かされたのかもしれません。
これは記録しとかないばなんない!
ぼくもじっくりと話につきあいました。
そんな話をいくつかシリーズで書き残します。



【僕の結婚式の時の話】

当時僕は家族は大切だが、家族制度は認めがたい。
したがって結婚式はしない
そう言い張っていて、周囲から猛反対を受けていました。
左翼的活動に身を投じていたころの話です。

結果的には身内だけの式を平服でやるということで妥協しせざるをえませんでした。



そんな折、母はカミさんに話したといいます。



あんたがたが平服で式をあげる分にはいい。
でもいずれ産まれてくる子供たちが将来結婚する時、
自分の両親の結婚式の写真がなかったらどう思う?

可哀想でしょ。
せめて写真だけでも撮っておきなさい



そう言って母は自分が結婚式で着たウェディングドレスを手渡したといいます。



何がどうしてどうなったかさっぱり覚えていませんが

あれだけ拒絶していた結婚式を身内だけで、しかもそれなりの格好で挙げることになります。


(このウェディングドレスはその後、妹が結婚式で着たと言っていましたが
妹の証言ではそんなことはないそうです。
おそらく思い込みも多少は含まれているんだと思います)


今回帰省の手土産に長男の結婚式の写真を持参しました。
これで両親、僕たち、そして長男と親子三代に渡る結婚式写真がそろいました。
おかげで「家族の歴史」を長男に伝えることができたかっこうです。


母の策謀のおかげとも云えそうです。

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それにしても、そんな話……
チッとも知らなかった!

ほじくれば、まだまだいろいろ出てきそう。

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自力で食べられるまで回復!

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函館日記 2014年 冬 旅の目的

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久しぶりに真冬の函館に帰りました。

今回の旅の目的。

・母の陣中見舞い。

母は昨年夏帰省した折には自力で食事をとるのすら困難で、すっかり弱っていました。
10分も会話を続けることができず、ひたすら眠っていました。
食事の介助をお願いし、少しずつ回復してきているのはわかっていました。
それを自分の目で確かめたかった。

・叔母の陣中見舞い。

今年100歳に王手をかける叔母の様子も気にかかっていました。
母と叔母合わせて190歳。
大正生まれの二人の様子が気がかりでした。

・今年の夏に企画している中学校の還暦同窓会の下打ち合わせ。

昨年夏に帰省した時に集まった同級生たちとそんな話で盛り上がりました。
具体化の第一歩は同窓生たちの住所録つくりから。
そのために在函の友人たちと打ち合わせ。

この他にも
・母の暮らす老人ホーム「旭が丘の家」でコンサート、
・「こだるま」食堂のこだますおぢさんのところでゲリラライブ等々

2泊3日の中にたっぷり詰め込んでの帰省でした。

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