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2014.06.21

10年目を踏み出した「お好み焼きの三貴ライブ」

「お好み焼きの三貴ライブ」から一夜明け、
いつものコースをかたつむりのようにゆっくり散歩しています。
歩きながら例のごとく牛のように昨夜のライブを反芻。

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10

僕にとっては大きな通過点だった昨夜のライブ。

大入り満員の中で歌いに歌いました。

初期の三貴ライブでやった歌を今の自分の感覚で歌い直す。

たとえ同じアレンジだったとしても、まったく違っているのがおもしろくてね。

ほんとうは1曲ずつ練りあげ稽古をしっかりやって臨むべきなんでしょう。

でもあえてそれはせず、歌詞とコードの確認だけにとどめました。

その場、その時の感覚でどのように歌えるかってのがテーマだったんで。

「独り旅ライブ」だからこそできることですよね。

まる9年という時間はあっというまだったけど、でも大きかったなと感じます。

毎月毎月歌ってはうまくいったと喜んだり、うちのめされしおれたり…。
(うちのめされることの方が圧倒的に多い!)

そんなことをくりかえしながらやってるうちに、自分なりの形ができてきました。

10年目の歌い直しにはそんなくりかえし=歩みがしみこんでいたように思います。

お客さんも暖かく、すばらしい反応を返してくれました。

数少ない常連さん以外は初めて聞いてくださる方ばかり。
(誰もお好み焼き屋でライブに出くわすなんて思いもしないわけで…)

この先二度とあいまみえることがないかもしれない。

最初で最後かもしれない出会いに全力で歌う。

結果、偶然いあわせたお客さんにヨカッたなと思っていただく。

そのための時間を「歌とトークと笑顔」で演出していく。

これこそが三貴ライブでつちかわれた最大のことかもしれません。

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「一期一会のおもてなし」

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こう書いちゃうと大袈裟でちょっと気恥ずかしいけど…

そんな気持ちで「お好み焼きの三貴ライブ」、

10年目の航海に漕ぎ出しました。

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【お好み焼きの三貴ライブ これまでの歩み 節目の記録】

9年目の記録(昨年) http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-e3ef.html

8年目の記録(一昨年) http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-47da.html

7年目の記録 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/7-35da.html

6年目の記録 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/60-af08.html

5年目の記録 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_429e.html

4年目の記録 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_e662.html

3年目の記録 http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/616_8925.html

三貴ライブことはじめ http://martinkoike.cocolog-nifty.com/blog/2005/05/post_e57b.html

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2014.06.05

【「1969年」 その1】

このところ自分の音楽の原点について思うともなく思っている。
原点をどうとらえるかってこともあるんだけどね。

...

子供の頃歌謡曲で育ったことが土台になっているとすればそれが原点ともいえる。
父が好きで頻繁に触れるチャンスのあったクラッシックやグレゴリアンも下地になっているともいえるし。
母にせがんで歌ってもらった童謡・唱歌の類だってそれ抜きには考えられない。

でも自らが求めて聴き、なおかつ演ずるようになった音楽をひとまず原点にするべきかな。

そう考えると「1969年」とそれに連なる数年間が僕の中でとてつもなく大きな意味を持ってくる。

この年僕は中学3年生だった。

世の中はきわめて流動的であり、混沌としていた。
高度経済成長の絶頂期で大人たちは「モーレツ」に働いていた。
人類が初めて月面に降り立ち、科学技術の進歩に大人も子供も胸を熱くした。

一方で日米安保条約の撤廃を求める学生運動がピークを迎えた。
その象徴が東大安田講堂に立てこもった学生たちと機動隊の「闘い」だった。
が…安保条約は自動延長となり安田講堂は「落城」した。
ジグザグデモを制圧する機動隊、壁に向かってホールドアップさせられている学生たちの手を映し出すニュース映像が今でも焼き付いている。

時を同じくして新宿西口広場で毎週開かれたフォークゲリラによる反戦フォーク集会。
広場を埋め尽くす若者たちの歌う様子が白黒のテレビに映し出される。
それは北国の小さな町にもつたわってきた。
やがて「広場」は「通路」と改称され、道路交通法違反とされ規制される。
警官に腕をつかまれながらもギターを弾き歌い続ける学生たち。
やがて警察隊に制圧され、収束していくフォーク集会。

熱と挫折に彩られた「1969年」。

田舎の中学生はわずかなニュース映像を便りに妄想をかきたてた。
「社会」について真剣に考え、行動を起こす大学生たちにあこがれた。
カッコいいと思った。
そして同時に「憐憫」を感じた。

「動」なるものと「静」なるものの同居する「1969年」

そんな頃函館の労音会館に高石友也や岡林信康らがやってきた。
フォークソング・フーテナニーってヤツを初めて体験した。
「思い出の赤いヤッケ」に胸を熱くし、身につまされながらも笑い転げた「受験生ブルース」(高校受験をひかえていた)、そして「勝利を我らに」や「友よ」の大合唱に胸が震えた。
フォークは生きている!

そう感じた。

そして自分もまたギターを弾き、歌い始めた。

憧れと妄想が原動力だった。

「1969年」

フォークソングとの出合いの年だった。

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