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2014.01.13

おかげさまで「歌初め2014祝ライブ」、いい感じでやることができました

1部は前座のMartin古池

20140112again_with_lazylovers_1

2部は主役のLazy☆Lovers

20140112again_with_lazylovers_2


お客様は仲のいいお友達。
そして「レイ・ラバ」(Lazy☆Lovers)の順ちゃんのご家族。
(どうしてもニラレバと言ってしまう…(~_~;))...

100%アットホームのパーソナルライブっていいもんです。
共通の土台があるから二言三言でわかりあえるってのがなんといってもいい。

清津峡のキャンプ仲間、「へた親」(「へたくそ親父のギター弾き語り」という音楽コミュ)の友人たち、「品川子ども劇場」のメンバーたちが集まってくれました。
実は「へた親」のメンバーの幾人かは清津峡仲間でもあるんです。
「へた親」の隊長・Lazy☆Loversの柴ちゃんが第1回オフ会の開催地を清津峡キャンプ場にしたって流れもあるし、
メンバーの多くは「Live in 清津峡」にも出演してくれてることもあり・・・。
Lazy☆Loversの母体は品川子ども劇場。
「品川子ども劇場」は清津峡のメンバーでもあり

結果的に今回のライブは「品川子ども劇場」と「へた親」と「清津峡」が三つ巴で融合した感じになりました。
アットホームにならないわけがない!
ふるさとで演奏するような心地よさに身をまかせて歌うことができました。

テーマは「2014祝」
Lazy☆Loversのさやかの結婚祝いであり
僕の3回目の成人式(還暦)の祝いであり
秋の「Live in 清津峡」が10回目を迎える祝いであり

「祝」は「歩み」の結果であり、それは「感謝」
そんなことを意識しながら歌い進め、エンディングはメドレーで1部を閉じました。

  あすなろの歌~大空に~彗星

Lazy☆Loversの2部は前回テーマだった「挑戦」を継続しつつ
イキのいい演奏を展開してくれました。

エレキに挑戦した柴ちゃん。
ベースに挑戦したさやか。
それに乗りパワフルに歌う順ちゃん。

あっという間の2時間でした。
 

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2014.01.12

【お知らせ】 今宵は…「歌初め2014年祝ライブ」

2014

今夜、武蔵小山駅前の「ライブ・カフェ・アゲイン」で
新春・歌初めライブに出演します。

長年の音楽友達&キャンプ友達・柴ちゃん隊長率いるユニットLazy☆Loversとの競演。
今年が2回目になります。

テーマは「祝」。
2014年は僕にとってはいろんな点で節目の年。
我々にとっても秋の「Live in 清津峡」が10回目の節目。
「祝」とは「歩み」であり、その道すがら支えてくれた方々への「感謝」でもあります。

そんな思いを込めて歌いたいと思います。

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2014.01.02

60年を足早にふりかえる 4 「秋の時代」編 2 朝市コンサートと三貴ライブ

【秋の時代 2】 「朝市コンサート」と「お好み焼きの三貴ライブ」

市場でのコンサートに当初違和感を感じた。
とても歌える場所ではないと思った。
しかし組合長の強い後押しがあり、できるところまでやることにした。

中小企業同友会は一発ものの出前ライブだった。
その打ち上げで同友会の役員をしていた「お好み焼きの三貴」さんに連れて行かれた。
そこでオーナーから継続的なライブのオファーを受けた。
食事をしたり、飲んでいる場で歌うことの難しさは容易に想像できた。

「街角ライブ」の存続が危うくなっている時だった。
とにかくやれるまでやろうと腹をくくって始まった二つのライブ・コンサートだった。
どちらも手探りだった。


ところがこの2つのライブが始まった役1か月後。
新越谷駅コンコースでの演奏活動は終日完全禁止となった。
場を失ってしまった僕は「朝市コンサート」と「三貴ライブ」を続けることを真剣に考えざるをえなくなった。

毎回、毎回工夫を凝らし試行錯誤をくりかえした。
試した結果をふりかえっては次に備えた。
それはまるで牛が反芻をくりかえすがごときであった。

気が付くと今年10年目に突入する。
ここ数年ようやっとそれぞれのライブ・コンサートへの立ち位置が定まってきた。



一方、別のルートからあらたな演奏の場が生まれてきた。

昔「喫茶いずみ」で歌っていたころ親しかったモスバーガーの店長からのオファーだった。
蒲生駅前のモスバーガーでのライブだった。
およそ1年続いたが店を閉めることになり頓挫した。
(記事「Good by モスライブ」)
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けれどモスライブのお客さんがモスライブに変わるライブの道をつけてくれた。
ひとつは「すみれコンサート」だった。
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「蒲生の街から音楽の火が消えるの忍びない」
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そう言ってすみれ美容室を演奏の場として提供してくれたのだ。
これは数年続いたが、残念ながら僕の退職と再就職という事情で現在中断中。
かろうじて年に1度の「寿コンサート」としてつながっている。
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もう一つは「喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ」。
やはりモスライブのお客さんEさんとのご縁がきっかけで始まり、今ではレギュラーライブとして定着している。
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年が明けて今年4月で60歳。
約10年ごとに様々な節目が訪れてきた。
この10年一区切りを、北山修さんにならって人生の季節になぞらえてきた。
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60歳=還暦以降次の10年までを「秋の時代」の延長としてとらえるのか、
「冬の時代」に足を踏み入れるものとしてとらえるのか。
それはわからない。
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昨日と今日の間に特別な違いがあるわけではない。
昨日の延長が今日であるともいえる。
でも昨日とまったく同じ今日でもない。
おそらくまた何年か年月がたち、例によって牛のように反芻した時に後付けられていくのだろうと思う。
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人の人生は春夏秋冬などで区切られるものでもない。
便宜的にこういう言い方をしているだけだ。
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60を迎える今でも自分の中に若者のような憧れや夢はあるわけだし、同じように青さもある。
それを青春の名残と強弁はできないが、20歳の頃と同じ心持であることもまた事実だ。
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60歳という節目を迎える平成26年。
この先どんなことが待っているのかワクワクする自分がいる。
今はそれがうれしい。

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2014.01.01

60年を足早にふりかえる 3 「秋の時代」編 1 街角ライブの頃

【秋の時代 1】街角ライブの頃

「街角ライブ」は順風満帆とはいかなかった。
何千人と通り抜けるターミナル駅だったが、耳を傾けてくれる人は少なかった。
近くで屋台をやっている甘栗屋のおっちゃんや、夜遅くなって出没する客引きの中国人の姉さんたちには評判良かった。
でもほとんどの人は通り抜けていくだけだった。

コンコースにはあちこちで若者たちが歌っていた。
追っかけに取り囲まれながら盛大にやっている連中もいれば、一人暗く歌う若者や練習なのか本番なのかわからない若者も多かった。
中には傍若無人なふるまいをする輩も少なくなかった。
コンコースを行きかう人たちは厄介なものに関わらぬよう、避けるように通り過ぎて行った。

それまでの僕のライブはトークがひとつの生命線だった。
歌と歌をトークでつないで組曲のようにしてストーリーを紡いでいった。

街角ではそのやり方は一切通用しない。
1曲、1曲で完結させなければならない。
「表現力」が問われることになる。
「3分間のドラマ」として歌いきることができるかどうかが大切だと思った。

「継続は力」とはよく言ったものだ。
薄い反応に耐えながら毎週歌い続け、1年も過ぎたころから徐々に手応えを感じるようになった。


  若者に混じっておっさんが歌っている
  最初は不思議な感じがしてました
 
  柱の影からいつも聴いてました


そんな反応が増えていったのだ。

2年目に入るころには人だかりができるようになっていた。
常連さんも増え、ちょっとした風物詩のようになっていった。
4年目の頃にはオーディエンスが途切れることなく続き、毎回トイレタイムをとるのにも苦労するようになった。

しかしいいことはそうそうは続かない。

若者同士のトラブルやペルーのフォルクローレバンドとのいざこざなどがあいついだ。
警察による演奏中止が頻繁にかかるようになってきたのだ。
演奏の完全禁止は時間の問題だと思えた。

数年がかりでようやっと軌道に乗ってきた「街角ライブ」だった。
今ここで完全禁止にされると演奏の場を失うことになる。
今更ライブハウスで演奏する気にはなれなかった。


そんな時出会いがあった。
それも二つ同時に。

「街角ライブ」を見た越谷市場の組合長から市場で継続的なコンサートをやってほしいとオファーを受けたのだ。
もう一つはやはり演奏を見聞きした中小企業同友会の会長から、総会のアトラクションで歌ってほしいというオファーだった。


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60年を足早にふりかえる 2 「夏の時代」編

【夏の時代】

10年の活動の傷が癒えぬまま日々の暮らしは続いていた。
僕は胃を患い、仕事をしばらく休むことになる。
復帰したものの長時間の夜勤には耐えられぬ状態だった。
およそ2年間、間接部門で昼勤専門の品質管理者として体力(そして気力の)回復に努めることになる。

印刷労働者として第一線から退くことになった僕に転機が訪れたのは33歳だった。
外注協力会社に対する技術指導をするチームに配属されたのだ。
たかだか十数年の印刷経験と品質管理の経験で技術チームへの配属はあまりにも荷が重すぎた。
案の定判断ミスや判断すらできぬありさまであった。
ありがたかったのは周囲は左翼分子というレッテルを貼ることなく扱ってくれたことだ。

ここで印刷知識を一から再びたたき込まれることになる。
「師匠・Mさん」は容赦なしだった。「一子相伝」、職人の世界だった。
呵責ない下積みの末、なんとかモノになり協力会社からの信頼を得るようになるまで数年の歳月を要した。

僕にとって「夏の時代」がようやっと始まった。
今思えば長い下積み時代は「人生の梅雨」だったように思う。
うっとおしく耐え難い数年だったが、それが後につながっていったと考えればやはり必要な季節だった。

師匠から「免許皆伝」となった僕は走りに走った。
ウィークポイントだった実地経験を協力工場で積んでいった。


一方でプライベートも充実していった。
「梅雨の時代」、明日の見えない不安のせいか僕は音楽やスポーツに傾斜していった。
仕事で追いつめられ、張りつめた精神状態だった。
プライベートではその逆のことをやらなければ心のバランスが取れなかった。

地元・蒲生の「喫茶いずみ」に僕は入りびたっていた。
マスターと二人で店のはねた深夜の店内で連日のようにセッションを重ねた。
セッションといっても一風変わっていた。
目にとまるもの一つ一つを即興の詩とメロディで歌い継いでいくものだった。
ひとつのテーマをマスターが歌い、それを受けて僕が展開し歌う。
さらにそれを受けてマスターが・・・
こんなことを延々とくりかえすセッションだった。

これをベースにして「いずみ」でお客さんを前に歌いはじめた。
珈琲や食事をしに来ているお客さんは音楽が始まるとは思っていない。
そんなお客さんに満足してもらえなければ、マスターは二度と歌わせてくれない。
けっこうの重圧だったが、なんとか数年間続けることができた。

同時並行的に始めたのが蒲生の街おこしに音楽を通して関わることだった。
「いずみ」のマスターが中心になって活動していた「考動集団 やじろべえ」は様々な企画をたてた。
(「朝市」「おばけ屋敷」etc…etc
そのテーマ音楽をマスターと僕がになう。
たくさんの歌が生まれ、商店街に流れた。


   通常営業中のお店の中で見知らぬ人に歌う
   地元に根をおろした音楽活動


今あらためて思う。
今現在自分がやっている音楽のスタイルの原型はここにあったと。




「喫茶いずみ」で自信をつけた僕はさらに自分を試したくなった。

越谷のライブハウス「あがれば」(後の「ぶどうの木」)に通うようになる。
「あがれば」のマスター・ぺけさんとデュオを組み、耳の超えたお客さん相手に歌いはじめた。
2週間ごとにやっていたのだから、けっこう無理もあったし背伸びもしていた。
満員の時もあれば、お客さんが一人という時もあった。

残念ながらぺけさんとのデュオは彼が突然行方不明になり、1年で自然消滅した。
でもこの1年間は大きな財産になった。

ぺけさんはいなくなったが、僕はひとりでステージを続けるようになる。
回数は大幅に減ったが、その分練りに練ってステージを組んだ。
この時期にいろいろと実験的なライブを試みている。

・フォーク寄席(即興性の強い、いきあたりばったりのライブ。スタートとゴールだけを決めていた)
・おしゃべりコンサート(日々の出来事、読んだ本や観た映画について語り、そこから派生する歌を歌うスタイル)
・物語コンサート(テーマを決め、物語を作り歌と語りで紡いでいくスタイル。芝居の要素も取り入れたりした)

こんな試みを積み重ねながらノリにノッていた30代後半だった。
(仕事もこのころ絶好調、公私両輪フル回転で走り続けていた)



追い風に乗ったかのような順風満帆な日々にいきなり終止符を打ったのは父の死だった。

癌による闘病生活と別れ。
それはちょっと早い、夏の終わりの嵐のようだった。
嵐が通り過ぎた後、僕の心は荒れ果て草木1本残っていなかった。

そんな時だからこそ仕事も音楽も積極的に立ち向かおうと自分をけしかけたりもした。
でも今一つ燃えるものが生まれぬまま2年が過ぎた。
40歳を迎えようとしていた。


  「このままじゃだめだ…
   なんとかしなくちゃぁ…」


そんな時ひとつのプランが沸き起こってきた。

父の3回忌と僕の40歳の誕生日の4月。
生まれ育った函館から高校時代を過ごした伊達・室蘭を経由し
実家のある札幌まで自転車で走ろう

距離にするとおよそ400キロ。
これを2日に分けて走ろうと思った。
自転車によるそれまでの最長距離は東京-糸魚川の300キロ。
2日に分ければ400キロはかなり厳しいが走れぬ距離ではないと思った。
問題は膝の古傷と峠の天候だった。
山中でリタイアすれば助けを呼ぶことすら難しい。
北海道の4月はまだ冬の名残を残している。


人生80年とするならば40歳は折り返し地点。
次の40年をちゃんと生きるために避けては通れない道。
そう思い込み、自らをけしかけるように挑んだ。


これが僕の「夏の時代」だった。


 





【秋の時代へむかって】

札幌への自転車旅行からもどり、次に考えたことはギターのことだった。
高嶺の、いや天空の華だったMARTINギターを買うことにしたのだ。

「MARTIN」

それは憧れであり、触れてはならないものだった。
値段からして一介の労働者が手に入れるには相当の根性と無理を伴った。
また自分程度の技量の者が弾いてはいけないという畏れがあった。

それでもあえて手に入れようとした。
40歳の始めに(背伸びをしつつも)目的をひとつ果たした自信がある。
それ以上に今この気持ちの時に買わなければ一生買うことはないかもしれないという想いだった。
金銭的にも、ギターの技量の点でもアキレス腱が切れる寸前ギリギリの背伸びだった。

父を失ったことは自分にとって人生の羅針盤を失うのと同じくらい大きな痛手だった。
でも今この時にギリギリの背伸びをして「MARTIN」を手にすることで、
ほんとうの意味でひとり立ちにつなげたかった。


池袋の楽器屋で一日を費やし、気に入った1本を選び出した。
ステージネームも「Martin古池」とあらためた。


このころのライブはほとんど「ぶどうの木」(「あがれば」改め)1本だった。

30代で試した様々なスタイルの延長上だったが、徐々に「物語コンサート」の色彩を強めていった。
テーマに沿ったストーリーを組み立て、歌とトークと芝居でつないでいくライブだ。
1部と2部でそれぞれ違ったストーリーを組むが、双方が微妙な連関がある。
そんなやり方だった。
(中島みゆきが「夜会」で始めたやり方の影響も強かった)


同時期、「オカリナ・アンサンブル かざぐるま」での10年間の活動が重なるが本質的なことではないので割愛する。


「ぶどうの木・ライブ」はおかげさまでいつもほぼ満席となった。
店のお客さんを始めコアなファンがけっこうたくさん来てくれた。
(選曲もマニアックというかコアというか、自分の好み100%のわがままなライブだった)

得意の絶頂にいたある日、突然ママさんに切り出された。


  ごめんなさい。
  お店閉めます。
  これ以上は経営が…


いつかこの日が来ることは予想していたが、やはりショックだった。
ハコが客で埋まるライブは多くはなかった。
僕の知る範囲では「高橋ゲタ夫さんのラテンライブ」と「オフロッカーズのビートルズ・ライブ」はいつも超満員だった。
「Martin古池ライブ」も「超」はつかぬまでも、安定的にほぼ満席だった。
ほかのライブは残念ながら苦戦を強いられることが多かった。


「場」を失った僕は市内のスナックやホールなどを借りてライブ活動を続けた。
しかしそれは2年と続かなかった。
お客さんを呼ぶのに疲れ果ててしまったのだ。
ライブの回数を減らしたものの毎回ハガキを書き、チラシを作り、口コミや人づてを通してなんとか足を運んでもらった。
だからライブ自体はどれも成立はした。
でも集客を始め事前準備で使うパワーの方が、ライブ自体に使うパワーよりも上回ってしまったのだ。

「ぶどうの木ライブ」ではお店が集客の多くをになってくれていたことがよくわかった。

本末転倒してまでこのスタイルのライブを続ける意味があるのかと考え始めた。

さらに加えて思ったことがある。
自分のライブはこれまで店に守られ、お客さんに守られながら成立してきた。
店もお客さんも僕のライブになにがしかの魅力を感じてくれたから足を運んでくれた。
それはとてもありがたいことだ。

でも反面そういう守られた環境で歌うことに甘えていたんじゃなかろうか。
いわゆるホームの状況では何をやっても受け入れてもらえる。
それは本当の力ではない。
ゆるい環境で培ったものはゆるい環境でしか通用しない。

いったんそう思い込むともうダメ。
そのことが頭から離れない。

悩んだ末、街角に立って歌うことにした。
そこに自分を知る人はいない。
そこで歌うことで身につけたものが初めて実力になっていくはずだ。
そう信じ「街角ライブ」をスタートさせた。
毎週土曜日の夜、新越谷駅のコンコースで4~5時間歌う。
余力があるときは他の日に別の場所に遠征する。

そんな生活が数年間続いた。
40代の終盤、すでに「夏の時代」は終わり、「秋の時代」に足を踏み入れていた。


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60年をあしばやにふりかえる 1 「春の時代」編

人は忘却の動物である。
自分の都合の良いところだけ覚えていて、都合の悪いところはえてして忘れてしまうものでもある。
おそらく自分もそういうサガからは逃れられないとは思う。

また自分のする評価と他人のする評価が必ずしも一致するわけではない。
むしろまったく違った評価であることの方が多いのも事実。

それでも自分というフィルターを通してふりかえることは決して悪いことではない。
それはこれから先、どう生きるかを占う羅針盤になっていくように思う。


そんなわけで5回目の年男を迎えた平成26年正月。
自分のこれまでの60年を足早にふりかえってみた。
それはこれまでも何度となくくりかえしてきた作業ではある。
僕は物心つくころからおよそ10年単位で人生の節目がやってきた。
そのたびにそれまでの10年をふりかえるのが習慣になっていたからだ。


大雑把な分け方として北山修さんがかつて提唱した「夏の時代」という考えを踏襲させてもらった。
人生を季節によってざっくりと分けてみた。
僕の中ではそれがとてもおさまりが良いので。





【春を思う時代】

最初の節目は20歳を前にした1年だった。

クリスチャンの家庭に生まれ育った自分はそのことを疑うこともなく受け入れて育ってきた。
友人たちとはちょっと環境が違うとは思いながらも特に苦にすることもなかった。
ある意味すくすくと、やりたい放題の生き方をしてきた十代だった。
そのツケが大学受験の失敗だった。

浪人生として1年間を過ごすことになる。
この時期「受験勉強に専念する」と称して家を出た。
伊達カトリック教会の伝道館(通称ウマ小屋)で一室を借りて暮らすことになる。
早朝の新聞配達のアルバイトとウマ小屋での勉強漬けの1年になるはずだった。

しかしながら実際開いた本は参考書ではなく小説。
ラジカセから流れてくるのは録音したラジオ講座ではなく音楽だった。
遠藤周作をむさぼるように読みあさった。
エアチェックした「ジーザス・クライスト・スーパースター」を細かなところまで聴きこんだ。
時間は潤沢にあった。

遠藤周作も「ジーザス・クライスト・スーパースター」もそれまで心の中にあったイエス像とはあまりにかけ離れていた。
人を救うことも、世界を変えることもできない弱い人物像だった。
「救世主」のイメージとはあまりにもはかけ離れていた。
若さゆえの浅読み(一知半解)であり、逆の意味での深読み(拡大解釈)ではある。
でもそれまで生きてきた20年を覆すには充分すぎる威力があった。
それまで培ってきた価値観と自分自身を一から否定する1年。
それが最初の「人生の節目」だった。
(後に父親から「水平思考」の時期だと指摘され妙に納得した)


【春の時代】


20歳の春。
東京に出てきた。
都会への憧れと、自分を「しばりつけてきた価値観」から逃れた安堵感.
そして見知らぬ土地・見知らぬ人との出会いへの期待と不安。
大学生活は様々な気持ちが入り混じった気持ちで始まった。

しかし授業は退屈極まりないものだった。
万葉集の解読などをもっぱらとする国文科だったのだ。
自分は近代文学を学びたかったのだが学科の選択ミスだった。
授業よりも社会問題研究会で社会学やマルクス経済学の本を読んで過ごす時間の方が増えていった。
キリスト教への疑問を反対物ともいえる「唯物論」によって解き明かそうとしていたともいえる。

学校では朝霞校舎新設問題と川越移転問題が浮かび上がっていた。
70年安保の残り火がまだくすぶり残っている頃だった。
僕は「川越移転反対クラス連合会」の学年代表に祭り上げられていた。
MG同盟なる左翼党派に関わり、また社会問題研究会の一員として活動していた。
左翼活動に従事するようになるのに時間はそうかからなかった。
左翼活動が本格化するのはMG同盟との意見の違いから袂を分かち
社会問題研究会の先輩の影響でML同盟に身を置くようになってからだ。

ML同盟の考え方は「正統派」マルクス・レーニン主義にのっとっていた。
社会を変えていくのは学生運動ではなく、労働者の階級闘争のみという考え方に潔さを感じ共鳴した。
しかし自分は学生でありながら労働者に向かって「労働者の闘い」を呼びかけることの矛盾に悩むことになる。
3年生の9月、バイト先の学生食堂を一方的に解雇されたのを期に学校を辞めた。
工場労働者として働き始め、左翼活動にどっぷりつかり始めることになる。

しかしその頃労働運動はすでに衰退を始めていた。
総評からの脱退、連合への統合、労働者の「中産階級化」。
正直左翼運動に明るい見通しなどなかった。
搾取されつくし、心身ともに虐げられていたロシア革命の頃とは明らかに状況が違っていた。
ロシア革命時代の労働者達がいまだ階級として成熟していなかったとすれば、
1970年代の日本の労働者たちはすでに成熟しすぎていた。
高度経済成長によって国としては富を手に入れ、そのごく一部を労働者階級に「分配」し「中産階級」意識が形成されていた。

そんな状況の中で「オルグ」と称する「一本釣り」の説得を通して、闘いへの参加を呼びかけることはつらいものがあった。
中産階級化しているとはいえ、それでも決して楽な生活をしているわけではない。
会社・雇用主から不当な扱いを受ける人も少なくなかった。
そんな人たちは耳を傾けてくれた。中には行動を共にしてくれる人もいた。

当時の僕の悩みは、意を決して行動を共にしてくれる人たちへの思いだった。
彼らの一生を自分のオルグによって変えてしまうことに対する恐れと申し訳なさだったように思う。
当時の僕は一生を左翼革命運動に堵するつもりでいた。
たとえ出口の明かりが見えなかったとしても。
その思いを固めるために必死に勉強もした。

けれどどんなに学んでも「確信」を持つまでにはいたらなかった。
確固たる「信条」を持てぬまま、迷いをかかえながら数年活動を続けた。
(この数年間、音楽活動も完全にストップしていた。とても歌える心境ではなかった)

迷いが飽和を迎えたのは党を二分する大議論が起きたころだった。
自分の立ち位置がどちらにあるのかを問われた。
悩みぬいたがとうとう結論は出せなかった。

出てきたのは全く別の結論だった。

「これ以上活動を続けることはもう自分には無理だ。」
「自分は扇動者にも組織者にもなれない。」

離党届には自分の正直な心情を書き連ねた。
組織から見ると(どちらの陣営からしても)それは裏切り行為であり「日和見主義」以外のなにものでもない。
しかしすでにそんなことはどうでもよくなっていた。

  「なにが正しいのかなんて自分にはわからない。
   でも少なくとも自分の今の気持ちに正直に生きたい」

それが偽らざる心境だった。


  『人は人を裁いたり、変えたりすることなどできはしない。
   それはとんでもない思い上がりだ。
   もしできることがあるとするならば、俺は代弁者たりたい。
   せめて人の心の痛みに寄り添える人でありたい』


左翼活動を始めた二十歳そこそこの頃、父と議論した。
その時父が僕に語った言葉が頭の中を行ったり来たりしていた。
まもなく30歳を迎えようとすることだった。

自分の「春の時代」は終わりを告げた。

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2014年01月 ライブ・コンサート予定

01月11日(土)  朝市・歌い初めコンサート

             時 間   8:30~10:30
             場 所   越谷市場
             地 図   

             ★越谷の台所「越谷市場」で毎月第2、第4土曜日

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01月12日(日)  歌い初め2014年 「祝」ライブ

             時 間   18:00
             場 所   ライブカフェ・アゲイン
                     (東急目黒線・武蔵小山駅 徒歩1分)
                      http://www.cafe-again.co.jp/access.html
             出 演   LAZY☆LOVERS
                    Martin古池 
             料 金   1,500円 (1オーダー制)

2014

★古くからの音楽友達しばちゃん(Lazy☆Lovers)主催の対バンライブです。
  今回が2回目。

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01月17日(金)  お好み焼きの三貴ライブ 

             時 間   21:00~23:30
             場 所   「お好み焼きの三貴」
                      東武伊勢崎線 新越谷(東口)
                      武蔵野線 南越谷(南口)
                       各徒歩5分
              地 図   

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01月17日(土)  西方自治会新年会ライブ (パーソナルライブ)

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01月19日(日)  喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ 

             時 間   14:00~16:00
             場 所   tea room JUNE(喫茶店JUNE)
                     東武伊勢崎線 松原団地駅 東口 徒歩3分
                     地図 http://tabelog.com/saitama/A1102/A110203/11013496/dtlmap/
             出 演   Martin古池
             木戸銭   無し (ご飲食をお願いいたします)

01月25日(土)  朝市忘年コンサート 2013年歌い納め

             時 間   8:30~10:30
             場 所   越谷市場
             地 図   

             ★越谷の台所「越谷市場」で毎月第2、第4土曜日

.

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01月31日(金)   函館 こだるま ゲリラライブ

時 間   8:00~
場 所   こだるま
        新川町

            ★こだるま食堂 再開記念

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あけましておめでとうございます

2014

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