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2014.01.01

60年を足早にふりかえる 2 「夏の時代」編

【夏の時代】

10年の活動の傷が癒えぬまま日々の暮らしは続いていた。
僕は胃を患い、仕事をしばらく休むことになる。
復帰したものの長時間の夜勤には耐えられぬ状態だった。
およそ2年間、間接部門で昼勤専門の品質管理者として体力(そして気力の)回復に努めることになる。

印刷労働者として第一線から退くことになった僕に転機が訪れたのは33歳だった。
外注協力会社に対する技術指導をするチームに配属されたのだ。
たかだか十数年の印刷経験と品質管理の経験で技術チームへの配属はあまりにも荷が重すぎた。
案の定判断ミスや判断すらできぬありさまであった。
ありがたかったのは周囲は左翼分子というレッテルを貼ることなく扱ってくれたことだ。

ここで印刷知識を一から再びたたき込まれることになる。
「師匠・Mさん」は容赦なしだった。「一子相伝」、職人の世界だった。
呵責ない下積みの末、なんとかモノになり協力会社からの信頼を得るようになるまで数年の歳月を要した。

僕にとって「夏の時代」がようやっと始まった。
今思えば長い下積み時代は「人生の梅雨」だったように思う。
うっとおしく耐え難い数年だったが、それが後につながっていったと考えればやはり必要な季節だった。

師匠から「免許皆伝」となった僕は走りに走った。
ウィークポイントだった実地経験を協力工場で積んでいった。


一方でプライベートも充実していった。
「梅雨の時代」、明日の見えない不安のせいか僕は音楽やスポーツに傾斜していった。
仕事で追いつめられ、張りつめた精神状態だった。
プライベートではその逆のことをやらなければ心のバランスが取れなかった。

地元・蒲生の「喫茶いずみ」に僕は入りびたっていた。
マスターと二人で店のはねた深夜の店内で連日のようにセッションを重ねた。
セッションといっても一風変わっていた。
目にとまるもの一つ一つを即興の詩とメロディで歌い継いでいくものだった。
ひとつのテーマをマスターが歌い、それを受けて僕が展開し歌う。
さらにそれを受けてマスターが・・・
こんなことを延々とくりかえすセッションだった。

これをベースにして「いずみ」でお客さんを前に歌いはじめた。
珈琲や食事をしに来ているお客さんは音楽が始まるとは思っていない。
そんなお客さんに満足してもらえなければ、マスターは二度と歌わせてくれない。
けっこうの重圧だったが、なんとか数年間続けることができた。

同時並行的に始めたのが蒲生の街おこしに音楽を通して関わることだった。
「いずみ」のマスターが中心になって活動していた「考動集団 やじろべえ」は様々な企画をたてた。
(「朝市」「おばけ屋敷」etc…etc
そのテーマ音楽をマスターと僕がになう。
たくさんの歌が生まれ、商店街に流れた。


   通常営業中のお店の中で見知らぬ人に歌う
   地元に根をおろした音楽活動


今あらためて思う。
今現在自分がやっている音楽のスタイルの原型はここにあったと。




「喫茶いずみ」で自信をつけた僕はさらに自分を試したくなった。

越谷のライブハウス「あがれば」(後の「ぶどうの木」)に通うようになる。
「あがれば」のマスター・ぺけさんとデュオを組み、耳の超えたお客さん相手に歌いはじめた。
2週間ごとにやっていたのだから、けっこう無理もあったし背伸びもしていた。
満員の時もあれば、お客さんが一人という時もあった。

残念ながらぺけさんとのデュオは彼が突然行方不明になり、1年で自然消滅した。
でもこの1年間は大きな財産になった。

ぺけさんはいなくなったが、僕はひとりでステージを続けるようになる。
回数は大幅に減ったが、その分練りに練ってステージを組んだ。
この時期にいろいろと実験的なライブを試みている。

・フォーク寄席(即興性の強い、いきあたりばったりのライブ。スタートとゴールだけを決めていた)
・おしゃべりコンサート(日々の出来事、読んだ本や観た映画について語り、そこから派生する歌を歌うスタイル)
・物語コンサート(テーマを決め、物語を作り歌と語りで紡いでいくスタイル。芝居の要素も取り入れたりした)

こんな試みを積み重ねながらノリにノッていた30代後半だった。
(仕事もこのころ絶好調、公私両輪フル回転で走り続けていた)



追い風に乗ったかのような順風満帆な日々にいきなり終止符を打ったのは父の死だった。

癌による闘病生活と別れ。
それはちょっと早い、夏の終わりの嵐のようだった。
嵐が通り過ぎた後、僕の心は荒れ果て草木1本残っていなかった。

そんな時だからこそ仕事も音楽も積極的に立ち向かおうと自分をけしかけたりもした。
でも今一つ燃えるものが生まれぬまま2年が過ぎた。
40歳を迎えようとしていた。


  「このままじゃだめだ…
   なんとかしなくちゃぁ…」


そんな時ひとつのプランが沸き起こってきた。

父の3回忌と僕の40歳の誕生日の4月。
生まれ育った函館から高校時代を過ごした伊達・室蘭を経由し
実家のある札幌まで自転車で走ろう

距離にするとおよそ400キロ。
これを2日に分けて走ろうと思った。
自転車によるそれまでの最長距離は東京-糸魚川の300キロ。
2日に分ければ400キロはかなり厳しいが走れぬ距離ではないと思った。
問題は膝の古傷と峠の天候だった。
山中でリタイアすれば助けを呼ぶことすら難しい。
北海道の4月はまだ冬の名残を残している。


人生80年とするならば40歳は折り返し地点。
次の40年をちゃんと生きるために避けては通れない道。
そう思い込み、自らをけしかけるように挑んだ。


これが僕の「夏の時代」だった。


 





【秋の時代へむかって】

札幌への自転車旅行からもどり、次に考えたことはギターのことだった。
高嶺の、いや天空の華だったMARTINギターを買うことにしたのだ。

「MARTIN」

それは憧れであり、触れてはならないものだった。
値段からして一介の労働者が手に入れるには相当の根性と無理を伴った。
また自分程度の技量の者が弾いてはいけないという畏れがあった。

それでもあえて手に入れようとした。
40歳の始めに(背伸びをしつつも)目的をひとつ果たした自信がある。
それ以上に今この気持ちの時に買わなければ一生買うことはないかもしれないという想いだった。
金銭的にも、ギターの技量の点でもアキレス腱が切れる寸前ギリギリの背伸びだった。

父を失ったことは自分にとって人生の羅針盤を失うのと同じくらい大きな痛手だった。
でも今この時にギリギリの背伸びをして「MARTIN」を手にすることで、
ほんとうの意味でひとり立ちにつなげたかった。


池袋の楽器屋で一日を費やし、気に入った1本を選び出した。
ステージネームも「Martin古池」とあらためた。


このころのライブはほとんど「ぶどうの木」(「あがれば」改め)1本だった。

30代で試した様々なスタイルの延長上だったが、徐々に「物語コンサート」の色彩を強めていった。
テーマに沿ったストーリーを組み立て、歌とトークと芝居でつないでいくライブだ。
1部と2部でそれぞれ違ったストーリーを組むが、双方が微妙な連関がある。
そんなやり方だった。
(中島みゆきが「夜会」で始めたやり方の影響も強かった)


同時期、「オカリナ・アンサンブル かざぐるま」での10年間の活動が重なるが本質的なことではないので割愛する。


「ぶどうの木・ライブ」はおかげさまでいつもほぼ満席となった。
店のお客さんを始めコアなファンがけっこうたくさん来てくれた。
(選曲もマニアックというかコアというか、自分の好み100%のわがままなライブだった)

得意の絶頂にいたある日、突然ママさんに切り出された。


  ごめんなさい。
  お店閉めます。
  これ以上は経営が…


いつかこの日が来ることは予想していたが、やはりショックだった。
ハコが客で埋まるライブは多くはなかった。
僕の知る範囲では「高橋ゲタ夫さんのラテンライブ」と「オフロッカーズのビートルズ・ライブ」はいつも超満員だった。
「Martin古池ライブ」も「超」はつかぬまでも、安定的にほぼ満席だった。
ほかのライブは残念ながら苦戦を強いられることが多かった。


「場」を失った僕は市内のスナックやホールなどを借りてライブ活動を続けた。
しかしそれは2年と続かなかった。
お客さんを呼ぶのに疲れ果ててしまったのだ。
ライブの回数を減らしたものの毎回ハガキを書き、チラシを作り、口コミや人づてを通してなんとか足を運んでもらった。
だからライブ自体はどれも成立はした。
でも集客を始め事前準備で使うパワーの方が、ライブ自体に使うパワーよりも上回ってしまったのだ。

「ぶどうの木ライブ」ではお店が集客の多くをになってくれていたことがよくわかった。

本末転倒してまでこのスタイルのライブを続ける意味があるのかと考え始めた。

さらに加えて思ったことがある。
自分のライブはこれまで店に守られ、お客さんに守られながら成立してきた。
店もお客さんも僕のライブになにがしかの魅力を感じてくれたから足を運んでくれた。
それはとてもありがたいことだ。

でも反面そういう守られた環境で歌うことに甘えていたんじゃなかろうか。
いわゆるホームの状況では何をやっても受け入れてもらえる。
それは本当の力ではない。
ゆるい環境で培ったものはゆるい環境でしか通用しない。

いったんそう思い込むともうダメ。
そのことが頭から離れない。

悩んだ末、街角に立って歌うことにした。
そこに自分を知る人はいない。
そこで歌うことで身につけたものが初めて実力になっていくはずだ。
そう信じ「街角ライブ」をスタートさせた。
毎週土曜日の夜、新越谷駅のコンコースで4~5時間歌う。
余力があるときは他の日に別の場所に遠征する。

そんな生活が数年間続いた。
40代の終盤、すでに「夏の時代」は終わり、「秋の時代」に足を踏み入れていた。


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