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2014.01.01

60年をあしばやにふりかえる 1 「春の時代」編

人は忘却の動物である。
自分の都合の良いところだけ覚えていて、都合の悪いところはえてして忘れてしまうものでもある。
おそらく自分もそういうサガからは逃れられないとは思う。

また自分のする評価と他人のする評価が必ずしも一致するわけではない。
むしろまったく違った評価であることの方が多いのも事実。

それでも自分というフィルターを通してふりかえることは決して悪いことではない。
それはこれから先、どう生きるかを占う羅針盤になっていくように思う。


そんなわけで5回目の年男を迎えた平成26年正月。
自分のこれまでの60年を足早にふりかえってみた。
それはこれまでも何度となくくりかえしてきた作業ではある。
僕は物心つくころからおよそ10年単位で人生の節目がやってきた。
そのたびにそれまでの10年をふりかえるのが習慣になっていたからだ。


大雑把な分け方として北山修さんがかつて提唱した「夏の時代」という考えを踏襲させてもらった。
人生を季節によってざっくりと分けてみた。
僕の中ではそれがとてもおさまりが良いので。





【春を思う時代】

最初の節目は20歳を前にした1年だった。

クリスチャンの家庭に生まれ育った自分はそのことを疑うこともなく受け入れて育ってきた。
友人たちとはちょっと環境が違うとは思いながらも特に苦にすることもなかった。
ある意味すくすくと、やりたい放題の生き方をしてきた十代だった。
そのツケが大学受験の失敗だった。

浪人生として1年間を過ごすことになる。
この時期「受験勉強に専念する」と称して家を出た。
伊達カトリック教会の伝道館(通称ウマ小屋)で一室を借りて暮らすことになる。
早朝の新聞配達のアルバイトとウマ小屋での勉強漬けの1年になるはずだった。

しかしながら実際開いた本は参考書ではなく小説。
ラジカセから流れてくるのは録音したラジオ講座ではなく音楽だった。
遠藤周作をむさぼるように読みあさった。
エアチェックした「ジーザス・クライスト・スーパースター」を細かなところまで聴きこんだ。
時間は潤沢にあった。

遠藤周作も「ジーザス・クライスト・スーパースター」もそれまで心の中にあったイエス像とはあまりにかけ離れていた。
人を救うことも、世界を変えることもできない弱い人物像だった。
「救世主」のイメージとはあまりにもはかけ離れていた。
若さゆえの浅読み(一知半解)であり、逆の意味での深読み(拡大解釈)ではある。
でもそれまで生きてきた20年を覆すには充分すぎる威力があった。
それまで培ってきた価値観と自分自身を一から否定する1年。
それが最初の「人生の節目」だった。
(後に父親から「水平思考」の時期だと指摘され妙に納得した)


【春の時代】


20歳の春。
東京に出てきた。
都会への憧れと、自分を「しばりつけてきた価値観」から逃れた安堵感.
そして見知らぬ土地・見知らぬ人との出会いへの期待と不安。
大学生活は様々な気持ちが入り混じった気持ちで始まった。

しかし授業は退屈極まりないものだった。
万葉集の解読などをもっぱらとする国文科だったのだ。
自分は近代文学を学びたかったのだが学科の選択ミスだった。
授業よりも社会問題研究会で社会学やマルクス経済学の本を読んで過ごす時間の方が増えていった。
キリスト教への疑問を反対物ともいえる「唯物論」によって解き明かそうとしていたともいえる。

学校では朝霞校舎新設問題と川越移転問題が浮かび上がっていた。
70年安保の残り火がまだくすぶり残っている頃だった。
僕は「川越移転反対クラス連合会」の学年代表に祭り上げられていた。
MG同盟なる左翼党派に関わり、また社会問題研究会の一員として活動していた。
左翼活動に従事するようになるのに時間はそうかからなかった。
左翼活動が本格化するのはMG同盟との意見の違いから袂を分かち
社会問題研究会の先輩の影響でML同盟に身を置くようになってからだ。

ML同盟の考え方は「正統派」マルクス・レーニン主義にのっとっていた。
社会を変えていくのは学生運動ではなく、労働者の階級闘争のみという考え方に潔さを感じ共鳴した。
しかし自分は学生でありながら労働者に向かって「労働者の闘い」を呼びかけることの矛盾に悩むことになる。
3年生の9月、バイト先の学生食堂を一方的に解雇されたのを期に学校を辞めた。
工場労働者として働き始め、左翼活動にどっぷりつかり始めることになる。

しかしその頃労働運動はすでに衰退を始めていた。
総評からの脱退、連合への統合、労働者の「中産階級化」。
正直左翼運動に明るい見通しなどなかった。
搾取されつくし、心身ともに虐げられていたロシア革命の頃とは明らかに状況が違っていた。
ロシア革命時代の労働者達がいまだ階級として成熟していなかったとすれば、
1970年代の日本の労働者たちはすでに成熟しすぎていた。
高度経済成長によって国としては富を手に入れ、そのごく一部を労働者階級に「分配」し「中産階級」意識が形成されていた。

そんな状況の中で「オルグ」と称する「一本釣り」の説得を通して、闘いへの参加を呼びかけることはつらいものがあった。
中産階級化しているとはいえ、それでも決して楽な生活をしているわけではない。
会社・雇用主から不当な扱いを受ける人も少なくなかった。
そんな人たちは耳を傾けてくれた。中には行動を共にしてくれる人もいた。

当時の僕の悩みは、意を決して行動を共にしてくれる人たちへの思いだった。
彼らの一生を自分のオルグによって変えてしまうことに対する恐れと申し訳なさだったように思う。
当時の僕は一生を左翼革命運動に堵するつもりでいた。
たとえ出口の明かりが見えなかったとしても。
その思いを固めるために必死に勉強もした。

けれどどんなに学んでも「確信」を持つまでにはいたらなかった。
確固たる「信条」を持てぬまま、迷いをかかえながら数年活動を続けた。
(この数年間、音楽活動も完全にストップしていた。とても歌える心境ではなかった)

迷いが飽和を迎えたのは党を二分する大議論が起きたころだった。
自分の立ち位置がどちらにあるのかを問われた。
悩みぬいたがとうとう結論は出せなかった。

出てきたのは全く別の結論だった。

「これ以上活動を続けることはもう自分には無理だ。」
「自分は扇動者にも組織者にもなれない。」

離党届には自分の正直な心情を書き連ねた。
組織から見ると(どちらの陣営からしても)それは裏切り行為であり「日和見主義」以外のなにものでもない。
しかしすでにそんなことはどうでもよくなっていた。

  「なにが正しいのかなんて自分にはわからない。
   でも少なくとも自分の今の気持ちに正直に生きたい」

それが偽らざる心境だった。


  『人は人を裁いたり、変えたりすることなどできはしない。
   それはとんでもない思い上がりだ。
   もしできることがあるとするならば、俺は代弁者たりたい。
   せめて人の心の痛みに寄り添える人でありたい』


左翼活動を始めた二十歳そこそこの頃、父と議論した。
その時父が僕に語った言葉が頭の中を行ったり来たりしていた。
まもなく30歳を迎えようとすることだった。

自分の「春の時代」は終わりを告げた。

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