函館日記 2012夏

2012.09.15

【函館日記 2012夏】 老人ホーム・旭ヶ丘の家で歌う

母の暮らす旭ヶ丘の家。
ここで歌うのは何回目だろう。帰省のたびに歌ってきました。

いつも暖かく聴いてくれました。
子ども時代の僕を知る老人も少なくないわけで。
(僕の方といえばとんと覚えていないのですが…)

この夏も小一時間のコンサートをやりました。
そして今回もまたしっとりしたいい時間を過ごさせてもらいました。

顔ぶれが毎年少しずつ変わっていくのが、なんともやりきれない思いにかられました。
最初にここでコンサートやった時の顔ぶれが、今回はもうあまり残っていない。
新しい、知らない顔の方が多くなっています。

天に召されたか、特養に移り住んだか、ということです。

それを「天のさだめ」「人の世の摂理」と言ってしまうにはちょっとやりきれない。
母もいずれは同じ道を歩むことになります。

その時、僕はどんな思いで歌うのでしょうか。
それとももうここで歌うことはなくなるのでしょうか。

歌を聴いてくださったご老人たちの好評を博せば博するほど…、
また来てくれと言われれば、言われるほど…、
やるせない気分になった今年の「旭ヶ丘の家コンサート」でした。


先週、地元越谷の老人会で「寿コンサート」をやりました。
元気なご老人たちでした。
今回もまた楽しいコンサートをさせてもらいました。
歌いながら「旭ヶ丘の家コンサート」のことが頭の中をかすめていました。


たとえ母が倒れたとて
たとえ特養に移り、動くことがままならなくなったとて
たとえいつの日か天に召される日がきたとて
たとえ故郷荒れ果てて、昔の思い出消えたとて
必ず会いに行こう
父も眠る、あの旭ヶ丘の家で歌い続けたい


2004年5月、音楽友達と旭ヶ丘の家コンサートの記録

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2012.08.11

【函館日記 2012夏】 遠い日の花火

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わくわくしていました。
港まつりの始まりを告げる花火大会。
函館港から打ち上げる花火を見るのは40年ぶりのことです。
幼心に初めて見る花火に、あんぐりと口を開けて夜空に見入っていたことを思い出します。


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前日までの納戸の整理を終え、この日は母を伴い青柳町の生家を訪れました。
この夏取り壊される生家の見納めです。

母をホームに帰した後は自由時間。

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谷地頭温泉で2日間の汗を流し、夕暮れの街を散歩しながら、花火大会の始まりを待ちます。
気もそぞろ。

子供のころは函館山の麓の高台に住んでいたので、花火はいつも高い目線で見ていました。
今回初めて海抜0メートルの西浜岸壁へ。打ち上げの真正面から見ることにしました。
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暮色も濃くなりいよいよ花火大会の始まり。

最初の1発がドンと鳴った瞬間、記憶が子供のころに一気にタイムスリップ。
なぜか分からぬが、涙が流れてきます。

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忘れていた記憶が次々に甦ってきます。
体の奥底に沈みこみ、時間という蓋をされていた記憶。
花火のドンに蓋が吹きとばされ、幾層にも積み重なり絡み合っていた記憶が一気に噴出してきたようでした。

花火を見つめながら、その向こうに遠い日を見ていました。


青柳小学校に上がったころでしょうか。
たぶん僕はいたずら坊主だったんだと思います。
母をずいぶん困らせていたんだと思います。(あまり記憶はないが)
1歳違いの弟は僕の後にくっついて歩いていたようです。(これもあまり記憶にないのだけど)

3人で花火を見上げていたのは護国神社近くの高台にある裁判所の官舎の前。塀にもたれながら見ていました。

母にしこたま叱られ、気持ちが沈んでいました。(理由はまったく思い出せない)
言葉も交わさず3人はただ花火を見つめていました。
長い長い沈黙が続きます。永遠に続くかと思うほどでした。

不意に母が口を開きます。


   あと何十年もして、あんたらが大人になってさ
   花火を見ながら思い出すんだろね
   おかあちゃんに怒られて、
   こうやって花火を見てたこと・・・


とても哀しい気持ちでその言葉を聞いていました。
それは叱られた悲しさとは全く違う感情でした。
子供心に時の流れの哀しさのようなものを感じたんだと思います。


長い長い年月が流れ、函館港に上がる花火を見上げる自分。
夜空に咲く華の向こうに、遠い日の記憶を見ていました。

涙がとまりませんでした。

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2012.08.07

【函館日記 2012夏】 捨てられないもの

今回の帰省の最大の目的、それは「納戸の整理」でした。

納戸(物置)は間口も奥行も1軒ほど、高さは2メートルほどのスペース。

母がここに暮らしてきた10年分のあれやこれやが隙間なく押し込まれワヤな(大変な)状態。
物を置いて、置いて、詰め込んで(--;) どうもこうもならないんだから!
松本零士の昔の漫画に「男おいどん」というのがありました。
押入れを開けるとパンツの山とサルマタケが崩れおちてくるってやつ。
さすがにあそこまではいかないけど近い状態でした。

言い替えれば整理棚だらけで整理できない状態です。 
車椅子生活になった一昨年来、整理できない状態は加速されました。
ヘルパーさんたちも手がつけられなくなっていました。


  投げよう、投げよう、どんどん投げよう!
   (投げる=捨てる)


整理の大原則はまずは不要なものを捨てるところから始まります。
ところがこれが難しい!

膨大な量の荷の中から何が必要で何が不要なのかを選別。
これは母との闘いになることが予想されていました。

実は10年前、札幌の父と暮らしていたマンションからこちらに移動する際にも同じ闘いが繰り広げられたのです。
4部屋あったマンションにあった大量の荷物を1部屋に合わせてシェイプアップする必要がありました。
母もそれは充分に分かっていながらどうしても捨てられず、「死闘」が繰り広げられたのでした。
結果的にホームのスペースの許容量をはるかに超える荷物を持ち込み、それが納戸に押し込まれたのでした。

この10年の間に少しずつ整理はしたようですが、新しい荷も少しずつ増え・・・。


焦点になったのは大量のシーツ・タオル類と本でした。
納戸にはタオルやシーツ、布団カバーが詰め込まれた整理棚の引き出しが3つも4つも。
10年間使った痕跡のないものががっぱりあるんで、古いものは捨てるように提案するんですがねぇ。


   これはいいもんだから捨てられない
   使いやすいから捨てられない
   まだ使えるから捨てられない


1枚1枚にそんなやり取りをくりかえします。
結局、減らせたのは3分の1程度。

たくさんのタオル類に包まれているという安心感というのが母にはあるのかもしれません。
それは自分が近い将来、完全に動けなくなった時、それが必要になるだろうという思いだったかもしれません。


次に本の選別。
これまたタオル以上の抵抗が予想されました。
4段の本棚にびっちり詰まった本、本、本・・・!
これは読書家だった父が晩年読んでいた本や、古くは昭和30年代からのものまで多岐にわたっています。

ウルトラCの決め技がありました。
ホームの協力を得て、函館中央図書館に寄贈することにしていたのです。
つまり‘投げる’(捨てる)わけではない。
手元にはないけれど図書館で公的に保管してもらい、しかも多くの人にも読んでもらえる。
これは母も納得してくれました。

しかし長年印刷マンをやってきた僕も本を捨てることには大きな抵抗感があります。
なにしろほとんどの本はすでに絶版になっています。
一度捨てるともう二度と手に入らぬものばかり。
それ以上に1冊ごとに想い出も詰まってるだろうし、自身の足跡でもあるわけです。

どうしても手元に置いておきたい本と限定しながら、結果的にこれも3分の1程度しか減らせませんでした。


納戸全体でみると整理できた荷物は5分の1程度。
後は収納のレイアウトを変えて日常的に使えるようにするのみです。
ここは腕のみせどころ。
整理棚の向きやレイアウトを変えます。
今後使うことはないもの(母の趣味である書道は車いすではもう決してできない)は奥の方にまとめ、
本棚も納戸のサイドスペースにまとめました。
残ったスペースに日常必要なものを取り出しやすくまとめた結果、実にいいあんばいに。

まる2日間かけ、なんとか形にできました。
納戸の3分の1が「想い出の棚」、残りが「生活の棚」というところでしょうか。


捨てられないものには二つあるんだなと思いました。
ひとつは今に連なる自分の足跡。
これを無造作に捨てることは自分の人生をどぶに捨てられる思いになります。

もう一つは今を暮らすうえでの不安感を払しょくするもの。
たとえ明日体が動かなくなり、たとえばたれ流し状態になったとしても大量のシーツやタオルがあれば何とかなる。
そんな思いだったかもしれません。

おそらく誰しも多かれ少なかれ「想い出の棚」と「生活の棚」があるんじゃないかなと思います。
それは他人には決して捨てられないものなんでしょうね。

1冊ずつ本を選びながら、タオルをしまいながらそんなことを考えていました。
そう思うと母との闘いの2日間も意味あることだと思えたのでした。

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2012.08.02

【函館日記 2012夏】

今年の帰省は夏、「函館港まつり」に合わせました。
真夏の函館に帰るのは家族で闘病生活中の父を見舞うためにやってきた20年前。
港まつりにいたっては高校を転校して以来だから40年になります。
港まつりに合わせてドイツから帰国する中学の同級生とこれまた40年ぶりで再会することになり、この時期を選びました。

もっともこれは裏の目的。
本当の訳は年老いた母の今後のことを見据えた準備のため。
いわば母の「死に支度」のお手伝いが真の目的です。
このところそんな帰省が続いています。

一昨年の冬、部屋で転んだのをきっかけに母は車椅子の人になりました。
介護度も少しずつ進み、認知症というほどではないにしろ健忘の度合いが強くなっています。
特別養護老人ホームに移るためのカウントダウンが始まってしまいました。

切ない話ではありますが、これも人の世の定め。

母が残された日々を(それが1年なのか30年なのかはわかりませんが)納得いくように、自分の人生を肯定的に受け止められるようにお手伝いする。
それが「死に支度のお手伝い」なんだと思います。

物理的なこともむろんあります。(今回はほとんどがソレ)
でもそれに伴ってついてくる精神的な部分もまた大事なんだと思います。

この3ヶ月、兄弟たちが順番に帰省してはこのお手伝いをやっています。
想いはそれぞれでしょうが、協力し合いながらあたれることを幸せに思います。
そういう兄弟妹に育ててくれた両親に心から感謝しています。

【函館日記 2012夏】では函館での、そして札幌での1週間の断片を綴れればいいなと思っています。
(裏も表もね)

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