【雑感】 「フォークの歴史」について思う
「かりゆしフォークナイト」で『ボクのワタシのフォークソングヒストリー』をお題に歌うことになった。
そこで日本のフォークの歴史をふりかえりつつ、自分の音楽の歩みを見直している。
年代ごとの一覧表を作るまではよかったが、それを眺めているうちにとまどいが生じてきた。
一般に日本フォーク史として認知されているものと自分の歩みにはかなりのズレがあるのだ。
富沢一誠さんやなぎらけんいちさんはこの方面ではすぐれた労作を残されている。
とくに富沢さんの一連のものは当時の音楽シーンが客観的に分析されていて学ぶことも多い。
(なぎらさんはフォークシンガーとしてご自身の目線で主観的に書かれており、これまた興味深く楽しい)
これらのいわば「公史」はメディアに登場するシンガーたちの歩みを跡付けたものだ。
一方でフォークソングは社会的な運動やその背景などと背中合わせで浸透した音楽だ。
だからメディアに登場するシンガーたちの影響を受けつつも、各々のフィールドや暮らしの中で歌うフォークシンガーもまたたくさん生まれた。
その多くは「堅気の仕事」や「普通の暮らし」を営む一方でライフワークとして歌い続ける人たちだ。
おそらく彼らはいまだにそれぞれの流儀をもって、日本各地に散らばる「それぞれの場」で歌い続けているだろう。
(たとえば山形県の「影法師」というグループは今も地元に根を下ろした活動をしていることで有名だ)
戦国武将の歴史に対していわば「雑兵たちの歴史」である。
自分もまた雑兵の一人でありたいと思いながら歌い続けてきた。
ところがその自分の歩みをざっとふりかえり、とまどった。
まったく「フォークソング的」ではないのだ。
「フォークはかくあるべし」などという定義などないことは承知している。
それでも選曲があまりにも雑多であり、あまりにもミーハー的で戸惑ってしまう。
フォークの歴史の流れの中に自分を位置づけようと年表を作ってはみた。
でも位置づけるなどあまりにもだいそれており、気恥ずかしさすら感じてしまう。
歌うことを通して席を同じくする者同士が共感・共鳴し合える場を作りたい。
それが自分なりのフォークの流儀だと思ってきた。
だから必ずしも「フォークソング」と呼ばれるものを歌う必要はなかったのだ。
それでも「かりゆしフォークナイト」では一般的な「フォークの歴史」を中心にした歌でつづろうと思う。
来てくださるお客さんはそれを期待して来る方が多いだろう。
そして何よりも・・・
PPMに憧れなければギターを弾きはじめなかったかもしれない。 高石友也やフォークルに出会わなければフォークについて考えることもなかったかもしれない。 岡林信康や赤い風船がいなければプロテストフォークはやらなかったかもしれない。 吉田拓郎がいなければ自分を疑いもせずに突っ走ってしまったかもしれない。 高田渡や加川良がいなければ、、、 その他にも多くのフォークシンガーたちを見ながら、自分の行く先を探ってきた。
思春期から青春期の最も多感なころにこれらのフォークシンガーに出会えたことは幸せなことかもしれない。
誰かを追いかけるということもなく、ただ自分の中に流れ込み通り過ぎただけの出会いかもしれないが、
とりもなおさずそれが自分に流れるフォークの歴史なのかもしれない。
公の「フォークの歴史」をテーマに「雑兵の歴史」をいかに組み込むか。
それを自分の流儀で歌うにはどうするべきか。
じっくり考えよう。
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