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2011.01.09

師匠・水井のオヤジのこと

年賀状の束の中に見慣れた、そして懐かしい右肩上がりの文字がおどっていた

  水井のオヤジだ
  良かった
  また1年、生きながらえたか!

水井のオヤジは僕に印刷の何たるかをたたきこんでくれた師匠だ

  お前なんぞ弟子にした覚えはない

そんな答えが返ってきそうではある
でも彼に鍛えられた日々がなければ、印刷人としての自分は絶対になかった
だから誰がなんと言おうと(本人が認めなかったとしても!)自分にとっては師匠である

影でささやかれていた言葉がある

  水井は若い芽を摘んでいく
  水井に見込まれたやつは皆つぶされる
  おまえも気をつけろ

たしかに「鍛える」といっても半端ではなかった
いじめやいびりとほとんど紙一重だった

およそ25年前、印刷技術班に僕は配属された
技術班は現場で職制経験のあるベテラン4~5人のチームで協力会社の技術指導に当たっていた
ベテラン猛者連の中で、三十代半ばの僕はひよっこの若葉マークでしかなかった

自分では十数年の印刷現場経験で、ある程度の自信を持っているつもりだった

鼻っ柱をボキリとへし折ったのは水井のオヤジだった

協力工場で印刷立会いをして持ち帰ったOKシートの刷り本(印刷物)をちらりと一瞥くれただけで彼はそれを床に放り投げる

  こんなもんでOK出してくるんじゃない

と言いたげな顔でプイと横を向く

  どこがまずいんですか

気色ばんだ僕の問いに返す言葉は常に冷たかった

  それくらい自分で考えろ
  これで良しとして技術者ヅラするんじゃない
  

困り抜いた僕は何度も何度も刷り本を凝視し、ふたたび協力工場へ
再度印刷立会いをしてOKシートを持ち帰る

深夜すでに誰もいない職場で穴の開くほど刷り本を見つめる
自信が持てない

  水井さんからOKをもらえるだろうか・・・

疑心暗鬼に陥る

そんなやりとりが頻繁にくりかえされていた

わずかばかりの自信も、印刷人としてのプライドも
なにもかもが根こそぎもぎ取られた

  ダメなヤツ!

そんなレッテルを自分で自分に貼り付ける
不安で不安でしょうがない日々を送った

いつしかそれは水井さんに対する恨みになり、やがてそれは殺意にまでなった

  オヤジ!
  いつか殺してやる

穏やかではないが、そこまで思いつめたこともあった

そんなことが3年も4年も続いたある日のことだった

立会いを終えて帰社した僕はいつものように机に刷り本を広げ水井のオヤジの判断を待った

いつものように一瞥をくれ、ポツリとつぶやいた

  おまえも少しはまともなものを刷ってくるようになったな

そう言い残し、その場を立ち去った

(水井のオヤジの背中を見ることもできず、僕は立ちすくみ泣いた)

ここから二人三脚が始まった

殺してやりたいとまで思ったオヤジの一挙手一投足に意味があったと感じるようになった

「いじめ」と感じるか、「鍛錬」ととらえるかでその評価はガラリと変わってくる

水井のオヤジが出す難題を「鍛錬」と素直に受け止めることができるようになった
過去「いじめ」と思えたことの中にも意味を感じることができるようになった
(デキが悪いくせに反抗的な視線で見返す僕に、単に怒っての仕打ちだったかもしれないが・・・)

僕はまるで海綿が水を吸収するように、水井のオヤジが持っているものを会得していった
目の前の視界がパーッと開けたような気がしていた

「職人」、「技術者」そして「技能者」はそれぞれ似て非なるものかもしれない

水井のオヤジは完全なる「職人」だった
仕事に対する姿勢、技、判断、責任感、潔さ、そして頑固さ
どれをとっても自分の身体に叩き込み血肉と化していた
何十年もくりかえし続けた作業を通してしか産まれてこないものだ
そしてそれはきわめて個人的な産物である

僕もまた「職人」たちによって鍛えられ、仕事=印刷技能を覚えてきた
けれど「完全なる職人」に育つ前に「技術担当」にコンバートされた

時代はすでに「職人」を必要としていなかったのだ

閉ざされた「職人技」の世界を開放し、すべての作業工程をマニュアル化することが推し進められた時代だった
必要とされたのは「決められたこと」を「決められたとおり」にこなすことができる勤勉なる「技能者」であった

僕は「技能者」ではあってもまだ「技術者」ではなかった
身体で覚えこんだ「技能」が基本=「表」の技であるとすれば、「技術」とはその裏にあるものを駆使する技である
マニュアル=基本作業だけでは解決できない問題や、問題=トラブルが発生したときにそれを解決する技が「技術」である

言葉を変えるとこうなる
「あたりまえの品質」を保証するのが「技能」である
これは印刷製品としての機能を充足させるワザ、つまり不良生産をしないためのワザだ

「あたりまえの品質」の保証が困難な時に解決策を講じるのが「技術」である
さらに付加価値を高め、「魅力的な品質」を創造するところまでが「技術」の守備範囲である

今にしてみれば・・・
ひよっこ技能者に過ぎなかった僕を水井のオヤジは「職人の手法」で「技術者」にたたきあげようとしたんだと思う

僕の作ったOKシートが製品としては通用したとしても、魅力的な刷り物ではなかったということだ
だから一瞥しただけで床に放り投げたりもしたのだ
その理由を聞いても教えてくれなかったのは、言葉では決して伝えることのできない感性の問題だからだ

ある日突然水井さんは会社を辞めた

彼が長年高品質の再現に執念を燃やし続けた月刊誌・SB社の「○○画報」の印刷を終えた直後
水井さんは会社に来なくなった
上司の数度にわたる説得にもかかわらず、オヤジは沈黙を貫きだまって消えていった

当時水井さんは体調を崩し、気力も弱くなっていたのは感じていた
しかし一週間にわたる最後の「○○画報」の印刷を鬼の形相で取り仕切った
最終の印刷立会いを終えた夜、職場で一杯やりながらポツリとつぶやいたのが印象に残っている

  ウチの技術を作ってきたのは「○○画報」だったな

水井さん56歳の時だった
今彼と同じ年齢になり、当社での技術者としてのキャリアも残すところわずかになった
「技術の継承」ということを最近よく考える

水井さんが去った後、僕は自分のやり方で「技術者」たらんと努めてきた
寡黙なる職人・水井さんに対し、僕はモノ言う技術者となった
コンピュータ技術が製版や印刷を大幅に変え、古い仕組みの手法はほとんど一掃された
そういう時代への適応をめざした結果が「モノ言う技術者」につながった

昨日あるベテラン営業と話をしていて言われた

  古池さん
  あんたの仕事を見てると水井さんを思い出すよ
  印刷界はずいぶん変わったけど
  「職人の魂」は変わらないんだね
  水井さんと同じだね

うれしかった
反面、内心を突き刺す刃のようでもあった

  オレの中には水井のオヤジをはじめ、たくさんの先輩の血やDNAが流れ込んでいる
  オレは次代にナニモノかを残せているんだろうか・・・

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2011.01.03

2011年1月のライブ・コンサート予定

★1月8日(土) 朝市コンサート
          朝8時半~10時半
          越谷市場 2号棟 景品交換所前

http://www7.ocn.ne.jp/~k-ichiba/akusesumap.html





★1月21日(金) 三貴ライブ
         夜9時~11時半(終電まで)
         お好み焼きの三貴
          東武線新越谷駅東口
          武蔵野線南越谷駅南口
           徒歩3分

http://ggyao.usen.com/0002132503_map.html




★1月22日(土) 朝市コンサート
          朝8時半~10時半
          越谷市場 2号棟 景品交換所前

http://www7.ocn.ne.jp/~k-ichiba/akusesumap.html




★1月30日(日)  喫茶店・JUNE 日曜の昼下がりライブ
              14:00~16:00 
              tea room JUNE
                東武線松原団地駅東口 徒歩3分
              [出演] エイぼん
                   Martin古池

http://r.tabelog.com/saitama/A1102/A110203/11013496/dtlmap/


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2011.01.01

今日までそして明日から 2010 大晦日

ーライブの「朝市コンサート」(月2回)や「お好み焼きの三貴ライブ」(毎月1回)は今年で6年目に突入しました

この二つのライブはいろんな意味ですっかり定着しています

それぞれに常連のお客さんができ、時折歌を聴きに来てくれます
以前は見ず知らずの人の中で徒手空拳で挑んでいたのに、彼らの存在が僕を勇気付けてくれるようになりました

そのおかげもありこの二つのライブは以前に比べ、演奏もステージングもずいぶん安定してきました

広がりもできてきました
この二つのライブがきっかけになって「出前コンサート」を依頼されるようになりました

続けることの大切さをかみしめた1年でした


同じ意味で、不定期で4年続けている「すみれコンサート」も少しずつですが地元のお客さんが来てくれるようになっています
隔月もしくは3ヶ月の間が空くのでなかなか思い通りには行かないけれど、これも10年のスパンで考えて気長に着実に続けていければいいなと思っています
ちなみに地元のお客さんは口コミで来てくれたり、「出前コンサート」などで一度歌を聴いてくれた方が主体です
そのことが本当にありがたいと思います

忘れてならないのがすっかり定着した「喫茶店JUNEライブ」
エイぼんとのコラボレーションで1~2ヶ月ごとに続けることができたこのライブ
たくさんのことを学ばせてもらいました

二人でひとつのステージを作る必要からまじめに練習をするようになりました
いままで練習をしなかったわけではけっしてありません
でも音を合わせなきゃいかんとうことで、練習に目的と張りが生まれました

その結果、僕の弱点とも言えるリズム感やテンポキープが少しずつですが改善されつつあるように思います

なによりも音を合わせる楽しさを久しぶりに感じさせてもらっています

エイぼんには大いに感謝です

おかげさまで1年の間に常連のお客さんも増えました
通常営業中のライブにもかかわらず、普通のライブのようになることも増えています

そういうことを踏まえ11月には通常営業中のライブではない「普通の」(?)ライブもやらせていただきました
この「普通の」ライブは半年ごとにこれからも続けて行きたいと思います

もうひとつうれしいライブがあります
盟友・るびんさんに声をかけていただき、2ヶ月ごとに「ハックルベリー・ライブ」を続けはや4回目を数えました
このライブはるびんさん、エイぼん、若手カワハラ君と僕の4人による「対バン」形式のライブです
形は「対バン」だけど、やってる音楽も四者四様だけど4人でひとつのライブを作っている感じがします
演奏していて実に楽しいライブです

「ハックルベリーライブ」ではカントリーやブルーグラスを中心に演奏しています
コンセプトは「フォークシンガーがカントリーに挑戦する」というものです
可能な限り日本語に訳しつつも原曲の雰囲気を壊さないというハードルを課しています
これはトミ藤山さんが長年やられてきた「ラジオ深夜便」の影響を受けて始めたものです
まだまだ稚拙ではありますが、できる限りこのコンセプトで続けて行きたいと思います

残念なこともありました
「デスペラード・ライブ with my friends」ができなくなったことです
昨年から回を重ねること5回目でお店が閉店してしまいました

ここ10年、僕は見知らぬ人の前で歌うことを中心に音楽活動を進めてきました
「アウェイをホームに変える」ということに挑戦してきたのです
そのためには「まずお客さんありき」という姿勢を前面に打ち出してきました
自分でプログラムを組んで、思いのままに演奏するということから遠ざかっていました

デスペラードでようやっとそれがかない始めていました
ホームグランドができそうだと思っていただけに、残念でなりません


長く続けてきた「Live in 清津峡」や「八ヶ岳 森の音楽会」という年に一度の音楽会も、年を重ねるごとに充実したものになってきました

くわえて、毎月何らかの形でお声をかけていただき、様々な場で演奏させていただいています

それぞれの場で新たな出会いがあり、そこから新たな演奏機会につながっていく
今年は目に見える形でそういうことをたくさん経験させていただきました

レギュラーライブにくわえ、こういうご縁によるライブを合わせて今年1年で100本近いライブをさせていただきました

多くの方々に心の底から感謝いたします

来年は?
もっともっと音楽としての精度を高めていきたいと思っています
今年自分のライブ動画をたくさん観て来ました
自分の演奏を目のあたりにするたびに、顔から火が出る思いを重ねてきました

 もっとうまくなりたい

そう願ってやみません

いたずらにライブの本数を追うのではなく
「アウェイをホームに変えよう」と力むのではなく
そしていたずらにうまい人と自分を比較するのではなく

ひとつひとつのライブを
ひとつひとつの歌を

大切に丁寧に臨んでいきたい

自分にできることを確実にこなせるように精進しなければと思っています

あと3時間たらずで2010年に別れを告げ、2011年を迎えます
気持ちを新しくして、来年に臨みたいと思います

この1年、関わってくださったすべての方に感謝いたします

そして来年が皆様にも僕にも意義あるものになることをお祈りいたします

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