若乃花
昭和35年(1960年)
函館山の麓にあった我が家にテレビが来た。
庭の一角に隠居所を増築した祖父母がテレビと一緒にやって来たんだ。
祖父は相撲中継が好きだった。
僕はテレビがものめずらしく祖父の傍らで相撲中継を見ていた。
煙管(きせる)をくゆらせながら、目を細め白黒の画面を沈着冷静に見
つめる祖父。
その祖父が一度だけ興奮した面持ちで大声を上げたのを覚えている。
やっぱり若乃花はつえぇなぁ!
3月場所14勝同士の栃錦と若乃花。
千秋楽を制したのは若乃花だった。
そのとき以来若乃花という名前が刻み付けられた。
その年の7月。
七夕さんを前にして、祖父は僕と弟に下駄を買ってくれた。
お前たち、どの下駄がいいんだ
僕たちは祖父の機嫌を伺いながら、若乃花と栃錦の名が書かれた下駄をねだった。
若乃花の下駄は僕で、栃錦は弟だった。(弟はずいぶん不満だったようだ)
僕はこの下駄を愛用していたが、一夏が終わるころにはもう履けなくなっていた。
歯はすりへり、鼻緒は何度も切れ、そして若乃花の墨文字は薄れて読み取れないほどだった。
小学校に上がり僕の興味は相撲からプロレスに移った。
相撲の仕切りが子供の僕には長すぎて立合いまで待ちきれなかったんだ。
その点プロレスはスピーディだった。絶えずハラハラドキドキさせられた。
もちろん力道山にあこがれた。若乃花の兄弟子だったということを知りますますひいきに熱が入った。
やがて僕はサッカーを始めた。しだいにプロレスからも相撲からも興味を失っていった。僕は中学生になっていた。
再び相撲中継を見るようになったのは、僕が高校生になってからだった。
若乃花の実弟、貴ノ花の相撲にすっかり魅せられたのだ。
小兵でも強く華麗だった貴乃花に、子供のころあこがれた若乃花を見たのかもしれない。
年齢も近く(4歳年長)当時住んでいた室蘭出身というのも大きな理由だった。(若乃花も貴ノ花も室蘭の地で幼少時代を過ごしていた)
貴ノ花の悲壮感あふれる必死の相撲を見るたび、その影に僕は若乃花を見ていた。
後に貴ノ花の長男(初代若乃花の甥)・3代目若乃花が短い相撲人生を駆け抜ける。
3代目も小兵だった。大きな相手にスピードと粘りで対抗する3代目の相撲も好きだった。先に横綱になった弟、貴乃花は好きになれなかった。
若乃花の遺伝子を感じるのは3代目若乃花だった。
室蘭が育てた不世出の大横綱・初代若乃花が昨日亡くなった。
そんなことちっとも知らず、昨夜は室蘭時代の同級生と呑んでいた。
1年ぶりに再会した彼らと別れた後、その知らせをネットで知ったの
だ。
子供の僕にとって若乃花は月光仮面にならぶヒーローだった。
実は若乃花の相撲の取り口はよく覚えていない。
映りの悪い白黒テレビのブラウン管の中で大柄の力士を土俵に投げつけるイメージだけが残っている。
そのイメージだけが今でも強く心の中に残っている。
我が最初のヒーロー
若乃花幹士の魂よ永遠なれ!
合掌!
この文章は自分の中にある記憶とイメージを元にファン意識全開で書いたものです。したがって細かい部分で思い込みもあるかもしれません。史実との違いがあればお許しください。
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