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2008.08.10

解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI

解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI


NHKで放映したこの番組を観て、激しく心が揺れている

長崎に落とされた原爆の「効果」を記録する任務をおびたカメラマン

原爆の現実をまのあたりにして、彼は軍規を破ってプライベートで子供たちの写真を撮影した

その数、三十枚

そのうちの一枚があまりに衝撃的だった


首の折れ曲がった幼い弟を背負い、唇を噛み締めて焼き場の順番を待つ少年

唇には血がにじんでいた

カメラマンの名はジョー・オダネル
昨年85歳で白血病(!)のため亡くなったそうだ

軍人であると同時に、一人の人間として原爆の過ちを実感し、さいなまれてきたオダネルさん
それでも、アメリカの国民感情=ナショナリズムの前に何十年もの間、写真を封印し沈黙を守ってきた

20年前にその封印を解いて世に原爆投下の過ちを解いてきたオダネルさんの半生もまた感嘆に値する



でも、心が激しくゆすぶられたのはそのこと以上に、この1枚の写真だ


今から34年前の今日
二十歳の僕は広島を経由して、長崎の地に立っていた

浦上天主堂の前に立ちここから500メートルのところに投下された原爆のことを思っていた

二十歳の若い正義感はアメリカの罪を思うと同時に、日本の中国大陸でやってきたことの罪を思っていた



幼い弟のなきがらを背負った少年がその後生き延びりことができたのかどうかは分からない

1枚の写真が、戦争によって多くの命を奪ってきたにとどまらず、生まれてくるはずだった命すら闇に葬ってきたってことを思わずにはいられない




僕の父は人間魚雷「回天」の訓練兵だったという
海の特攻隊員だ
当時の戦局からして訓練兵であったとしても出撃命令は容赦なく下ったはずだ

もしも、もしも
8月15日に戦争が終わっていなければ、僕は今ここにいなかったかもしれない

父はジョー・オダネルとほとんど同年だ




日中戦争のさなか青島(チンタオ)で父の兄は戦死した
(彼のことを僕たちは兵隊おじちゃんと呼んでいる)
もし、頭に銃撃を受けなければ函館に残してきた恋人との間に子供が生まれていたかもしれない
僕にイトコがまだいたかもしれない

(この恋人は兵隊おじちゃんに操を立てたのか、生涯独身で生き抜いた。僕の手元にはおじの戦死後、僕の父と彼女との間で交わされたたくさんの手紙が残っている)


同じように、生まれてくるはずの命がどれだけ日の陽を見ることができなかったことか




今書いてることがすべて「タラレバ」だってことは充分承知している

それでもなお、あの1枚の写真が目の中に焼きついて離れない
そしてまた、無意味な「タラレバ」をくりかえさずにはいられない




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コメント

戦争体験ないけれど・・・あまりにもなすすべもなかった
あのころの日本人に・・・・涙がでてでて・・・止まりませんでした・・・『わたしは貝になりたい』という映画をみて
ただただ・・・涙があふれて・・・米の方も・・日本人以上に残酷で理不尽で・・・ただただ・・・悲しかった・・・・
それが・・・・現実だったのが・・・・苦しかった・・・・・。それでも精一杯生ききったのですね。
 1秒1秒を大切に・・・精一杯前向きに・・・・。
 

投稿: すみれ | 2009.01.19 15:31

すみれさん

コメントありがとうございます

「私は貝になりたい」

子供の頃フランキー堺のテレビ番組で見ました

最後氏境内の階段を上っていく後姿が子供心に焼きついています


戦争から無事生還した父が、このドラマを見て苦しそうに語っていた姿も忘れられません

投稿: Martin古池 | 2009.01.20 01:13

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