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2007.10.30

技術の伝承 ある印刷職人の復帰

超ベテランの印刷職人をともない、N印刷を訪ねました

 5年前まで奥さんと二人でA美術を営んでいた彼は
 現役時代は優れた印刷職人でした

 特色インキを作るのがうまいAさんに、
 僕は絶対的信頼をおいていました

 さまざまな事情から廃業してから5年
 Aさんはシルバー人材センターで仕事をしていました



先日N印刷の工場長からこんな依頼が

  どこかに腕のいい、特色を練れる職人がいないかね
  御社のOBにでも…


すぐにAさんの顔が浮かびました
でも、すぐに打ち消しました

  だめだよな…
  5年間のブランクもあるし
  もう、印刷の仕事をしたいとは思わんだろうしな



ところが、その翌日Aさんから電話が

  古池ちゃん
  久しぶりに一杯やろうよ
  話したいこともあるしさ


仕事のことだと直感した僕はすかさず切り出しました

  Aさんさ
  あんた、もう1回印刷やらないかい
  本格的に機械をまわせとは言わないよ
  あんたの特色を練る腕を活かしてみないかい


Aさんは驚いたような声で

  なんで、そんなにタイミングよく
  そんな話しをするんだい?
  驚いたね
  実はシルバーセンターの仕事は月に15日
  ヒマでしょうがないんだ
  なにか仕事のいい話でもないかと思って電話したんだ


さっそくN印刷の工場長に連絡をして下打ち合わせ
何度かの予備折衝の末、今日AさんとN印刷との初顔合わせとなったしだいです


ここ数年、腕のいいベテラン職人が次々と引退しています
彼らはみな、自分の腕1本でたたき上げてきた連中です

けれど、デジタル化、機械化という時代の波にさらわれて働き場所を失ってきた連中です

印刷機は自動化が進み、経験年数が1年に満たなくとも印刷可能な時代になりつつあります

そんな波に乗り切れなかった腕1本で生きてきた職人たちは
次々と廃業、引退に追い込まれてきたのです


ところが!
業界全体に皮肉な現象が起きているのです
誰でも回せる印刷機が普及するにつれ、オペレータのスキルや質がどんどん落ちてきたのです

普段は何事もなく印刷ができていても、
ひとたびトラブルが起きたりすると、自力で対処できるオペレータが激減しているのです

また、特色(スペシャルカラー)を作れる人間も激減しています
(通常の印刷インキは標準色とよばれる、決まった色で印刷します。標準色で再現できない色を特色とよびます)

N印刷に限らず、どこの会社も特色が練れる職人の不在に悩んでいる

そこで、Aさんのようなかつてのスペシャリストがふたたび脚光を浴びつつあるのです

戦力として期待されるというよりも、むしろ次代にワザと経験を伝える
伝道師的な役割で



順調に話しが決まり、N印刷を後にしたAさんに僕は思わずこう言っていました

  Aさん
  あんたの技術を若手に伝えて
  業界に恩返しをしてやってよ


心の中ではつぶやいていました

  あと何年かしたら…
  俺もそんな役回りになるんだから

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トミ藤山わがままコンサート

照明を落としたステージ
おぼろに浮かぶミュージシャンたちのシルエット
流れ出すスローなメロディはテネシーワルツ

それだけで涙腺がゆるんでしまうのはなぜだろう

いきなりアップテンポに変わり、トミさん登場
のっけからエンジン全開
様々にアレンジされたカントリーナンバー
巧みなアレンジでメドレーにしてつなげる

バンドの編成は
ピアノ、ドラム、ベースのリズム部隊に加え
トランペット、テナーサックス、アルトサックスの管3本
さらにコーラス二人の大編成

厚みのある演奏をバックに、グングン飛ばすトミさん

いつものこじんまりとしたライブとは違う世界
ショーという言葉がぴったりの華やかなステージが展開される

バンドメンバーが去り、再び暗転したステージ
アツい演奏の後は、熱を冷ますように
ガットギター1本の伴奏でジャズのスタンダード
打って変わってしっとり歌うトミさん


ここまでただの一言もしゃべらず、ひたすら歌に集中していたトミさんが
はじけたのはこの後だった
みずから愛用のギブソンを抱え、マシンガントークを炸裂させる
弾き語りで歌う数々の名曲

あっという間に1部が終了
時間の経過を感じさせないところはさすが

15分の休憩をはさんで、再び弾き語りが始まる

2部の頭はギターを三味線にみたてた日本調のうた
市丸さんの歌や、ひばりさんの「りんご追分」まで飛び出す
古澤さんのドラムが妙にマッチしている


そして再びバンドが登場
ここから一気呵成の演奏が続く
4ビートっぽいリズムが心地よい

リズムに乗せて身体が自然に泳ぐ
パーカッション代りにたたき続けた我が腿は感覚がなくなっている

アップテンポの曲が続きエンディングに突入する
もちろん!

テネシーワルツ

  I was …

このひとことを聴いた瞬間、
不覚にも、
そしてまたしても
涙腺が緩み、じわり…

そういえば、初めてトミさんの歌を聴いたときもテネシーワルツで涙を流したっけ…





深ーい感動で、ものも言えない状態
トミさんの歌の持つ魔力というか、オーラというか
この、深さがたまらない
ほかに形容する言葉が見つからない


コンサートを終え、もっともっと余韻に浸っていたかった

トミ藤山さんのわがままコンサート
もっともっとたくさんの友人たちに聴かせてあげたかった

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2007.10.28

ウルトラお疲れモードでライブを2本

先週は連日連夜のいそがしモードで合計睡眠時間が15時間でした。
(註:月曜~金曜の5日間総計)

仕事だけではなく、遊びも含めてですがね。

そんなわけで、投稿もままならぬ状態が続いています。

昨夜、久しぶりに思いっきり眠ることができ復活いたしました!

んで、週末のライブ報告です。



【サニスポ・ハッピーライブ初参戦】

サニスポっていってもスポーツセンターじゃないですよ。
サニースポットというライブ酒場です。

池袋のこのお店に音楽仲間のすめあごるさん、あるあすさんと行ってきました
すめサンと僕はハッピーライブにそれぞれ出演
あるあすさんはアフターライブのセッションで大暴れ

ミュージシャンばかりの中で演奏するってのは、キンチョーします。
今回はカントリー・ミュージック3曲での参戦でした。

  グッド・モーニング・サンシャイン
  フール・サッチ・アズ・アイ
  テネシー・ワルツ


寝不足で絶不調の中での演奏でしたが、まずまずうまくまとめられた気がしますが…
はたして、参加ミュージシャンたちの目にはどのように映ったことかしら???



【朝市コンサート】

翌土曜の朝は、寝不足を引きずりながらも朝市コンサート。
ハッピーライブは正直いって欲求不満のまま終わりました。
持ち時間15分、演奏3曲…
エンジンがかかる前に終わっちゃったかんじでね。

欲求不満をはらすかのように、1曲目から飛ばしていきました。
ハッピーライブと同じ選曲でコンサートをスタート。
カントリー、ブルーグラス風を中心に前半1時間を歌いきりました。

朝市にカントリーはあわないと思い、これまであまりやらなかったけど…
これが意外なほど反響があり、正直驚いています。

後半の1時間はいつもどおりいきあたりばったり、思いのままに歌いました。
1部での好反応にすっかり気をよくしていたので、勢いにまかせいい感じで演奏ができました
お客の反応も含めて、久しぶりの納得できるコンサートに。



★二日続けての演奏。
ライブ形式の違いからくるやり方の違いなど
得るところが大きかったように思います。

短時間ライブになればなるほど、準備が大切。
15分間に自分の世界を凝縮しなければなりませんからね。
それを演じるだけではなく、オーディエンスの心をつかまなきゃ意味ないし…
この15分に自分は何を伝えたいのか
これを明確にイメージして、選曲、準備することが大切だなと感じています


ベンキョーになりました

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2007.10.20

ハイテンション!! 三貴ライブ

月に一度の三貴ライブ
このところ、いい感じのライブができています

が!

今回はわれながら出色のできでした

いつもの常連さんに加え、
遠く横浜のさらにまた先からKellyさんが足を運んでくれました
Kellyさんとお会いするのは今回が2回目
前はトミ藤山さんのライブでした
あの時僕は喉を痛め、まったく声が出なかったので
歌を聴いてもらうのは今回が初めて

それだけで、すでにテンションはあがっていました

それでも最初は喉の調子を見ながら、おさえ気味に歌っていました

ところが!

1部の終了間際
突如「へたおや」(へたくそオヤジのギター弾き語り)のメンバーが現れたのです

PA-LA-LA隊長、Volteあつしクン、ザッキー君
どやどやっと入ってきた瞬間

  カチッ!

スイッチが入ってしまいました

休憩抜きで一気にエンジン全開120%exclamation ×2

   うれしかったですねぇ
   サプライズですねぇ
   彼らも遠く品川方面からやってきてくれたのです

場の空気を読みながら、選曲をどんどん変えていきました

   アドリブソングが飛び出すは
   ご当地ソング=演歌飛び出すは

さながらフォーク寄席の状態にウッシッシ

くわえて、

魔性のギター・ブルーリッジが実に良く鳴ってくれました
弾けば弾くほど、自分の感覚に応えてくれる
ハイテンションに拍車がかかっていったのはいうまでもありません
本当に素晴らしいギターにめぐり合いました


ハイテンションの中でふと思い出していました
「ぶどうの木」でやっていた古池ライブを

フォーク寄席をめざす古池ライブでした
毎回、お客さんを巻き込んでいいライブが成立していました
ちょうど、あのころのライブに雰囲気が酷似している

「ぶどうの木」ライブはお客さんが僕をのせてくれていました
僕の投げるボールに瞬時に反応してくれたから、
ステージがどんどん活性化していきました

  あのころと一緒だ
  オレはお客さんに助けられている
  のせてもらってる

そんな思いがこみ上げてきました

ラストソングはKellyさんのリクエストで

   マイ・ラグジュアリー・ナイト

思いっきりテンポを落とし、万感の思いをこめて歌いました

それまで、笑いの渦だった会場が
シーンと静まり返り、じっくりと耳を傾けてくれているのが分かります

歌が終わりしばしの静寂…を破るように

突如あるあすさんからお声が

  古池さんぽくないエンディングだよ

たしかに、バラードで締めるのはMartinぽくないかも…

で、ブルーグラスのナンバーでにぎやかに終わることにしました

  Someday Will Meet Agein Sweetheart
  (さよならがいえない)


久しぶりに燃え尽きました
まさに…灰テンション…

突如、ゆずを歌ってもらったザッキー君ありがとう
「千の風にのって」を歌い上げてくれたまさみちゃん、ありがとう
幕間にギターインストをBGM演奏してくれた玉ちゃん、ありがとう

遠くから足を運んでくれたみなさん、ありがとう
地元で支えてくれるみなさん、ありがとう

偶然居合わせたおきゃくさん、
リクエストをくれたお客さん、ありがとう

そしてスペシャルサンクス
毎月ライブ会場を提供してくださる三貴のみなさん
本当にありがとうございます

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2007.10.18

今週は三貴ライブ

今週の金曜日は恒例の

三貴ライブ

金曜の夜を
お好み焼きをつつきながら
冷たいビールをあおりながら

ギターの弾き語りをお楽しみください

お時間の許す方も、許さない方も(?)
ぜひ、足をおはこびくださーい

三貴ライブ

10月19日(金)
夜 9時~11時半
お好み焼きの三貴
ミュージックチャージ 無し

お好み焼きの三貴の地図
 ★南越谷駅東口徒歩3分
   ダイエーそば

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2007.10.17

すみれコンサートの課題

4回目のコンサートを終えて、課題がいくつかはっきりしてきました


3人の出演者がそれぞれの持ち時間を演出するという形は、すみれコンサートの基本形だと思います
けれどトータルのコンサートとしての形はこれまで強くは意識されませんでした

谷古宇君のオープニング、則子さんの中継ぎ、そして僕のシメというパターンが自然にできてはいますが、それぞれが全体を強く意識しなければコンサート全体の迫力は生まれないと思います

ここまでおっかなびっくりの手探り状態できたことと無関係だとは思いません


それは集客の難しさにも反映していると思います


美容室でコンサート


このコンセプトは意外性という意味でプラス要因です

反面、集客という点ではハンデともいえます

まず流れの客をコンサート会場に引き込めない点がつらい
お客さんが知り合い関係だけでは限界があります

そろそろ手探りから脱却して、意識的に外に広くうってでる必要があると思います

まず、
広くコンサートを聴いてもらえるものにするには、コンサート全体がしっかり構成されたものでなければなりません
前述のとおり、いつまでも手探り状態ではなかなかうまくいかないと思うのです

また、
ハンデをプラスに変えるために出演者3人の意識やベクトルをそろえる必要がある


具体的にはコンサートの仕切りをキッチリする
事前に出演者同士でミーティングをし、それを受けた形での司会進行をする

また、レギュラーの3人に加えてゲスト出演も考えていく
インストや歌をうまく組み合わせていくことを考えるのです
(現在はインストが二つ続いて歌に入るので変化に乏しい)

レギュラー各自の精進は当然の前提になります

精進のための意見交換や指摘も自由闊達にできるようにする

こういった内部努力をやるのと同時に、広報的な活動にも力を入れていく


要は気持ちを今以上にそろえて、意識的に運営をしていくことを考える段階に来ていると思うのです


ちょっとまとまらないな
またライブの内輪話みたいな日記になってしまいましたが

これからのすみれコンサートにご期待ください

そして、皆さん
どうぞ足を運んでくださいね

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2007.10.14

今日はすみれコンサート

今回で4回目のすみれコンサート

美容室を会場にしたコンサートはまだまだ模索中ですが
少しずつ形が見えつつあります
ギターインストの谷古宇ジョージ
ハモンドオルガンの渡辺則子
そして弾き語りのマーチン古池
三人がそれぞれ30分程度の持ち時間で、それぞれの世界をどう表現するか
そのうえでコンサートをトータルで成立させなきゃならない

なかなか難しいもんです

さらに集客もある
誰もまさか美容室でライブがなんて思わない
なかなか浸透しないつらさがある

今はただ継続あるのみ


すみれコンサートは

10月14日(日)
夜六時半〜
すみれ美容室(蒲生駅東口駅前通り徒歩2分)


ぜひ
足をお運びくださいね


今日はすみれコンサートの練習をかねて、午後から福祉村でマーチン古池のゲリラライブをやります

お近くの方はぜひ覗いてみてください

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2007.10.11

過去の街角ライブの記録をアップしました

オカリナ・アンサンブル かざぐるまのHPを閉鎖しました

PCトラブルで2年以上も更新できない状態でした

このまま残しておいても混乱を引き起こすための閉鎖です

HPに残した街角ライブの記事をバックアップの意味で掲載いたしました

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2007.10.10

【私の履歴書】

北海道入植者の祖父から数えて三代目、生粋の蝦夷っ子(えぞっこ)として、北海道函館山のふもとに生まれる。
父はクラシック音楽が好きで一日中クラシックを流していた。
けれどもある日・・・
赤ん坊の僕はラジオから流れたエノケンの歌に反応してベビーベッドの中で体を振っていたという。
「知らない間に恋をして・・・」
僕にとって初めての能動的音楽体験だった。

 

小学生のころ歌謡曲に夢中になり当時の御三家(橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦)にあこがれ、
園まり・伊東ゆかりに胸を熱くしていた。
同時に真空管ラジオから流れるビートルズやアメリカンフォークソングに耳を傾けていた。

 

中学時代、ネックのそりかえったギターを手に入れる。
気分はもう一気にベンチャーズやグループサウンズだった。

 

15の春。函館労音で 『高石友也リサイタル』 を見てショックを受ける。
ギター1本のシンプルなステージ、それまで親しんできた恋の歌とはまったく違う強烈な歌。
フォークソングとの最初の出会いだった。

 

高校時代。一人の反戦フォーク少年がギターを抱えて町の公園や駅前広場をうろついていた。
東京の空の下では新宿駅西口でフォーク・ゲリラがひとつのムーブメントを起こしていた。
少年は思っていた。「歌で世の中が変えられるんじゃないか」

 

20歳の春。上京。駒場の「三畳一間の小さな下宿」で「キャベツばかりをかじる」生活を始める。
反戦フォーク少年が左翼運動に走るのに時間はかからなかった。

 

23歳。歌をやめる。「歌で世の中は変えられない」現実の日々の中で挫折。
ジャズやブルース、カントリーを聴く日々をすごす。

 

27歳。長男誕生。
偶然見つけた街角のポスターで12年ぶりに 『高石ともやとナターシャ・セブン』 のコンサートに足を運ぶ。
またしてもショックを受ける。そこには日々の暮らしを何気なく歌った心地のよい空間があった。
「こんなに力が入らない歌があってもいいんだ」
帰宅後ほこりをかぶっていたギターを抱え、長男にむかい即興で歌いだした。
フォークソングとの二度目の出会いだった。

 

蒲生の喫茶店『いずみ』で仲間たちと切磋琢磨を繰り返す。
自分のスタイルを模索する。

 

30歳。次男が誕生。
今はもうない越谷のライブハウス『ぶどうの木』を拠点に音楽活動を本格的に再開する。

 

43歳。オカリナ・アンサンブル『かざぐるま』を結成。

 

49歳。『かざぐるま』の活動と並行してソロ活動を再開。
新越谷駅前で毎週土曜の晩、「街角ライブ」を始める。

 

53歳。10周年を期に『かざぐるま』から卒業。
ソロ活動に一本化する。

駅前での音楽活動に規制がかかり「街角ライブ」ができなくなる。

時を同じくして
越谷市場で「朝市コンサート」を
お好み焼き屋さんで「お好み焼きの三貴ライブ」をスタートさせる。

55歳 喫茶店JUNEで弾き語りライブを始める。

58歳 季節ごとに「おーるどタイム de ライブ」を始める。

「朝市コンサート」
「お好み焼きの三貴ライブ」
「喫茶店JUNE 日曜昼下がりライブ」
「おーるどタイム de ライブ」

これらのライブをレギュラーライブとして、演奏活動の軸になる。
同時に「出前ライブ」や幼稚園・老人施設等での音楽会を展開する。

 

2020年4月 世にコロナウィルスが蔓延し始める。
レギュラーライブはもちろんのこと他の音楽活動も
大幅に規制をせざるを得なくなる。

67歳 現在は
「三密」を回避し、毎週土曜の午後、川沿いの公園で
「青空ナマ歌ライブ」を中心に活動している。

.

.

思えば
公園や駅前広場で歌い始めた17歳の頃のスタイルに
50年を経て再び三度立ち返っています。

この先、世がどのようにうつろうかは判らないことです。
でもその時々できる形で
しぶとく、しぶとく歌い続けていきたいと思う昨今です。

 

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街角ライブの記録 12 【2004年4月18日】

Martin Koike   風の便り vol.12

2004年4月18日

     あすなろの歌

   
   雪よ 岩よ 雲よ
   川よ 谷よ 樹木よ
   長い道程を君は 
   歩いてきたんだね
   おもいだしておくれよ
   さまよい歩いた日々を
   ザックに夢をつめて
   はるか山の彼方
   あすなろ あすなろ 心の旅人
   あすなろ あすなろ 心の故郷

   風よ 鳥よ 空よ
   水よ 露よ 朝日よ
   いつまでこの道を君は
   歩き続けるのか
   何を求めて行くのか
   何かがそこにあるのか
   旅するための旅を
   また始めるのだろう
   あすなろ あすなろ 心の旅人
   あすなろ あすなろ 心の故郷
   あすなろ あすなろ 心の故郷



                     (作詞・作曲  古池雅彦)

★「あすなろ山の会」に入会してもう20年になる。創立して45年の歴史を持つ山の会だ。会としての山行はもうほとんど行われていないが、会員各自の個人山行を機関誌 『あすなろ通信』 に投稿することで会として存続している。今年50歳になる僕が若手というぐらいだからパイオニア的な山岳会などでは決してない。各会員がてんでんばらばらにその人なりの山を楽しんでいるのが今の「あすなろ」の実態だ。

★そんな「あすなろ」にも華々しい時期があった。若手グループ「あすなろP2」によるヴァリエーションルートの追及や、ベテラングループによるヒマラヤトレッキング。20年ほど前までの話だ。

★『あすなろの歌』はその頃作った歌だ。創立25周年を記念して、まだ若かった僕がちょっと背伸びして書いた。当時の気持ちはベテラン勢に対する尊敬と、これからの自分の生き方を展望したつもりだった。緒先輩にも歌を受け入れてもらえ、以降ことあるごとに演奏してきた。

★先日、春のお祭り山行として40年以上も続いている『土俵岳集中山行』(秋川渓谷、笹尾根)に参加した。今年の『土俵』では初めてギターを持参してミニコンサートをやった。以前は子連れ山行でテントやら水やら食料やらを担ぎ上げていたのでギターどころではなかった。子供たちも成人し親とは行動を共にすることもなくなり、気ままな一人旅になったのでいつかは山の上でミニコンサートをやろうと思っていた。けれど『かざぐるま』の音楽活動が忙しくなりすぎ、なかなか実現しないでいた。

★何曲か歌い最後のしめくくりは『あすなろの歌』。歌詞は覚えていなくてもメロディを口ずさんでくれるメンバーたち。あらためて顔に刻まれたしわや、まるくなった背中、そして何よりもお酒の量が減った先輩たちを思った。45年の歴史の中にはそれぞれにいろんな出来事があったはずだ。もちろん僕も例外ではない。そして今でもこうしてそれぞれに山を続けている。たとえ個人山行中心であっても心の中に「あすなろ」があり、『心の故郷』になっているのを実感することができた。

★『あすなろの歌』が生まれて20年。今初めてこの歌に魂が宿ったような気がする。魂が宿るまでにはそれなりの時間の経過、それなりの人生が必要だったのかもしれない。歌が個人の人生を投影し、なおかつそれに普遍性が付与されたものだとするなら『あすなろの歌』はその条件を満たしてはいない。「あすなろ山の会」という限られた社会の中でしか認知されえない歌だから。でも限られた世界であったとしてもこの歌に何かを感じてくれる人がいるならそれでいいと思う。大先輩のゆうさんが「せっかくホームページがあるんだから、公開しなよ。俺たちだけでも見るからさ」と言ってくれたので、今回の『風の便り』に掲載します。

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街角ライブの記録 11 【2004年1月24日】

Martin Koike   風の便り vol.11

2004年1月24日


『街角ライヴ』を聴いてくれる人たち

★『街角ライヴ』の1曲目はいつも緊張する。誰一人オーディエンスがいないところから始めるのだから。最初の曲で道行く人を掴まなくてはならない。道行く人がハッとするような選曲をするべきなのだろう。それはわかっているのだが僕は大体地味でマニアックな歌かインストから始める。今日はインストで『北の国から』をオープニングにした。それもあんまり有名ではない『純のテーマ』『蛍のテーマ』をメインにして『北の国から』を間にはさんだ。雑踏の中ではフィンガーピッキングの繊細な音はかき消されてしまう。弾きながらほとんど誰も聞いていないと思いつつ、最後まで弾きとおす。

★そういう選曲をしてしまうのは、ライヴを始める時にあらかじめイメージしていた自分なりのストーリーとプログラムを完全演奏しようと思っているからだろうか。その日のライヴにかける自分の姿勢と心意気を自分自身で確認するために地味な曲を演奏するような気がする。地味な奴をやりながら気分がじわりじわりと高揚してくるのを待っている。同時にプログラムを再確認をするのに必要な儀式なのかもしれない。

★プログラムどおりにライヴが進行するということはまずない。「お客さん」は僕があらかじめ組み立てているストーリーなど知る由もない。何曲か聴いたあと、聞きたいと思っている歌をリクエストをしてくれる。こいつがくせもの。今までの曲の流れなどおかまいなし。ストーリーはいとも簡単に崩れ落ちてしまう。そうなるとあとは大リクエスト大会になる。リクエストに応えているうちにお客さんの反応がこちらに一歩踏み出してくるのを待つ。そうなったらこちらのもの。ふたたびプログラムに入れてあった歌をストーリー仕立てでやる。ストーリーに必要な歌を選曲してあるのだから、メジャーな曲ばかりとは限らない。むしろマイナーな歌のほうが多いし、時にはオリジナルも混ぜる。そういう世界に突入すると20分から30分はそれで行く。体外じっくりと聞いてもらえる。でも一定のところでプログラムから離れて有名どころをやる。そうするとふたたびリクエストが出てくる。僕の『街角ライブ』はそんなことの繰り返しだ。

★昔、北山修の何かの本に書いてあった。「音楽の演じ手と聞き手の間には厳然たる境界線がある」と。北山修がこれを書いたのはフォークソングが全盛の頃だ。ステージのシンガーと聴衆が一緒になってスィング・アウトしていた時代だ。ステージのこちらとあちらとが一緒のように思えた時代だった。(少なくとも聴衆の側には)その時代に北山が語ったこの言葉には考えさせられるものがある。僕もその時代の落とし子の一人で、歌を通してお客さんと一体化したいと願っている。でも実際にはお客さんが求めるものと僕が聞いてもらいたいものは必ずしも一致しないのが現実だ。

★お客さんの多くは歌を通して自分の青春を、あるいは若い日から今にいたるまでの心の遍歴を投影しているように思う。だからリクエストは圧倒的に『なごり雪』とか『22歳の別れ』などが多くなる。(この辺は若者たちからのリクエストも多い)僕も大好きな歌だから喜んで応える。でも反面で演じ手としての僕は今歌いたい歌というものがたくさんある。不遜な言い方をするとこの曲だけは何も言わずじっくりと聴いてくれ!と思う歌もある。

★歌を通した相互通行(キャッチボール)。『街角ライブ』全体を通して根幹となっている思いだ。でも4時間のうち30分はこちらからの一方通行にしてただ聴いてほしいとも思う。

(このページ続く・・・)

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街角ライブの記録 10 【2004年1月8日】

Martin Koike   風の便り vol.10

2004年1月8日


番外編 ふたたびえんちゃんについて


高円寺駅に降り立って、北口の商店街を歩き回った。いとこのエンちゃんがやってる「居酒屋 ENTA巣」を捜しまわったのだが視線は知らずのうちに中古楽器屋や中古レコード屋に行ってしまう。この街はもしかしたら音楽好きにはかなり美味しい街かもしれない。なにせ中古レコード屋が3件もある。でもその割には街角で歌う若者がいない。時間が早いせいだろうか、それとも駅の規制が厳しいせいだろうか。チョットさびしい気がした。

1時間近くもほっつきまわった末、繁華街からチョットはずれた小路の角に「ENTA巣」はあった。戸を開けるのをなんとなくためらった。どんな顔をすればいいのかな。なにせ35年会っていないんだから。とまどいつつ下を開けて中を覗き込む。こじんまりとした店内に客はまだなく、カウンターの中でエンちゃんはなにやら作っていた。「エンちゃん?!」と声をかけると、「おお!マサ坊か?(僕のことです)いきなりだな。今年の最初の客はおまえだ」ここまではいい。ごく普通の再会の挨拶。この後がすごかった。懐かしいなとか、元気だったかとかくるのが普通なんだろうが、エンちゃんは違った。

「マサ坊この曲知ってるか?ライ・クィーダ。俺、今これにしびれてて正月はハマッテタ」

函館弁丸出しでいきなりぶちかましてくれた。以後延々とキューバの音楽について語りだした。僕の最初のためらいは何処かにぶっ飛んでいた。前にも書いたがエンちゃんは35年前函館から東京に出てきてプロドラマーをやっていた。全身これ音楽といった人生を歩いてきたんだろう。風の便りに僕もまた音楽を続けてきたことを知っていて、顔を見るなり前菜を省いていきなりメインディッシュにいったんだろう。キューバの音楽は数年前高橋ゲタ夫さんの洗礼を受けていた僕も大好物だった。客が来るまですっかりヒートアップしていた。

すっかりいい気分になり、すっかり酔っ払って帰路についた。




高橋ゲタ夫:ベーシスト。日本ラテン音楽界の第一人者。

ベースもさることながら、味のあるヴォーカルや笑いの止まらぬステージ。
とにかく彼のライブは楽しいのひと言です。
数年前、越谷にライブハウス「ぶどうの木」があったころ、
パーカッションの横山達治とのコンビで
2ヶ月に1度ライブをしていた。

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街角ライブの記録 9 【2004年1月1日】

Martin Koike 風の便り vol.9

2004/1/1(水) 

あけましておめでとうございます
50を迎える歳になりました

「光陰矢の如し」といいますが、とうとう五十路を迎える齢となりました。年のことなど考える暇もなくただただここまで駆け抜けてきました。おそらく明日からもこうして生きていくのだろうと思います。

でも今だけは50歳について考えてみようかなと思ってます。

若い頃から『必殺遊び人』と呼ばれいろんなことに手を出してきました。サッカー・演劇・自転車・登山・マラソン・写真etc…。それぞれにあこがれの先達がいて、必死になってその人を追いかけてきました。でも気がついてみたら、(加齢=体力の低下とともに)音楽だけが僕の手元に残っていた。いや今までやってきたことすべてが音楽に集約されてきたように思います。

若い頃『売れないフォークシンガー』に憬れて、細々と続けてきた音楽。それが今音を立てて自分の人生の本流に流れ込んでいるような気がします。
50歳。さまざまな人生の実験を経て、自分の生き方を絞り込む年齢なのかもしれません。

夢と憬れを原動力として生きた『春の時代』、手当たりしだい・がむしゃらに生きた『夏の時代』を経て、今『秋の時代』を過ごしています。収穫の秋とすることができるようにこの1年を大切に生きたいと思っています。

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街角ライブの記録 8 【2003年12月23日】

Martin Koike 風の便り vol.8

2003/12/23(火) 発行

坂庭しょうご 『天国の岸辺』に旅立つ


ギターケースを開け、マーチンを取り出した。『街角ライブ』では普段シーガルのギターを使っている。マーチンよりも音がやや硬いため愛用している。でも今日はマーチン。弦を張り替え、磨いてきた。気持ちは高ぶっていた。1曲目はブルーグラスのインスト曲で「デヴィルス・ドリーム」。続いてカントリーの名曲「ワイルド・ウッド・フラワー」。『街角ライブ』ではめったにやらないインストだ。寒さで凍えた指でところどころつっかえながら、弾く。知らず知らずのうちに涙腺が緩んでいた。

坂庭しょうごが逝った。享年53歳。癌だったという。「坂庭しょうご」と言われてピンとくる人はそう多くはないだろう。音楽シーンではどちらかというとマイナーなギタリストだった。でも『花嫁』の作曲者といわれるとそうかと思うかもしれない。

30年前、京都の実力派ギタリストとして「はしだのりひことクライマックス」に参加し『花嫁』を作り、解散後は「高石ともやとナターシャ・セヴン」で長い間活動した。独特のギターワークと高いハスキーヴォイスで「ナターシャ」の不動のレギュラーとして活動していた。20年前(1983)、ナターシャ・セブンは自然消滅。その後坂庭はソロ活動や「フォークス」や「SUM」のメンバーとして地道に活動していた。

僕が坂庭しょうごと初めて出会ったのは25年前。「ナターシャ」のコンサートだった。流れるようなメロディアスなソロを弾く城田じゅんじとは対照的に朴訥にゴツゴツと弾きたおす坂庭のギターが印象に残った。5年間ギターや歌から遠ざかっていた僕に、彼の弾く『ブラック・マウンテン・ラグ』や『ワイルド・ウッド・フラワー』はズシズシ突き刺さっていった。以来彼のギター・ワークのとりこになった。再び始めたギターのお手本は坂庭しょうごだった。コンサートがあるたびに出かけては彼のテクニックを盗もうと目を凝らしていた。そのころ生まれた次男に「しんご」と名づけるくらいハマッタ。「しんご君へ しょうご」と書かれたサインは今でも宝物として保管してある。(ちなみに次男しんごは今プロギタリストをめざして練習やライブにに明け暮れている)

昨年の暮れ、10年ぶりに坂庭のステージを見た。有楽町で行なわれた『高石ともや年忘れコンサート』だった。2部構成のステージが終わり、アンコールの拍手が続く中突然、坂庭しょうごの名がコールされステージに登場した。城田じゅんじが登場した。『暮れだけやろうナターシャ・セブン 再会コンサート』だった。何の前触れもなく突然表れた『暮れだけナターシャ』は会場を興奮のるつぼに引き込んだ。そらんじるほど聞き込んだナターシャの音楽は手馴れたタッチで演奏された。坂庭のギターは冴え渡っていた。

あの興奮からまる1年。僕の愛したギタリストは遠く、空のかなたへ消えた。『再会』することはもうない。でも僕の耳から坂庭が弾くマーチンの音色は消えることはないだろう。いつまでも。


いつ いつまでも

僕の胸に

きっと きっと思い出す

けどもう会えぬ

『思い出の赤いヤッケ』 

高石ともやとナターシャ・セブン

坂庭しょうごのホームページ http://www.shogobrand.com/

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街角ライブの記録 7 【2003年11月12日】

Martin Koike 風の便り vol.7

2003年11月12日(火)

行田市長野中学 「かざぐるま」コンサート

2003年11月1日(土)


早朝、越谷を出発し行田市立長野中学校に到着したのは生徒たちが登校し始める頃だった。校長先生が以前『オカリナ・アンサンブル かざぐるま』の演奏を聞いたことがあり、いたく感動されたという。我々の演奏を自校の生徒たちにも聞かせたいという申し入れがあり、今回のコンサートの運びとなった。

学校での演奏は何度も経験しているが、今回はいつもより緊張していた。理由はいくつかある。ひとつは今回のコンサートの申し入れを僕が以前PTA会長をしていた越谷南中学の当時の校長、Y先生を通してきたこと。加えて以前演奏した時の話しが良かったと校長先生から言われ妙なプレッシャーがかかってしまった。もう一つの理由は数年間一緒に活動してきた吉田政美が声楽を勉強するため今回のコンサートを最後に活動休止すること。いずれにしろへたな演奏はできないと思っていた。

長野中学校の生徒たちは僕の目にはきわめて純朴に映った。元気のいい挨拶と、その後の恥ずかしげな照れ笑いの対比がなんともいえず好ましく映った。この年頃の子供たちは第2反抗期にさしかかっているわけだからいろいろあって当然だ。でも印象ではいい感じで反抗期を過ごしているように見えた。(そういえばY校長先生は反抗期ではなく自立期と言っていた)

緊張感で張りつめた状態のうちに演奏が始まる。他のメンバーも吉田のファイナル・ステージということで緊張しているように見えた。1曲目の『海の見える街』が無事終わり、肩の力が抜けた。生徒たちも初めて目にするオカリナのアンサンブルに興味を持ったようだ。ノリがいい。一気に数曲駆け抜けた。そして僕の出番。「かざぐるま」コンサートでは間に歌のコーナーを設けるのがお約束のようになっている。歌と歌をつなぐ僕のMCは大きなポイントになっている。特に今回は校長先生から期待されているだけにMCの内容には気を使った。

吉田の『僕が僕であるために』。若者の巣立ちを話した。今日を最後に巣立っていく吉田に対する思いに、中学生の「第2自立期」の話しをからめた内容。生徒だけではなく一緒に参加していた保護者にも語りかけた。コンサートのトークというよりもPTA会長時代にタイムスリップしたようで不思議な感覚だった。

そして『さとうきび畑』『涙そうそう』。沖縄について、戦争について語った。学校というシチュエーションで戦争について語ることは勇気がいる。チョット間違えると「政治的」ということになる。ただ生徒たちのおじいさんの世代は間違いなく戦争の渦の中で生きていたのだ。その一つの象徴として『沖縄』を語ることは歴史を伝えるという点で義務だろうと思った。僕らの両親の世代が「戦争知らない子供たち」に伝えてきた歴史を、「戦争知らない子供たち」を知らない子供たちに伝えるべき歴史の片鱗を歌に、MCに託した。

コンサートが終了し吉田と握手を交わす。彼は「俺、泣きそう」と言ったきりしばらく姿を消す。技術的な問題点をいくつか露呈したものの(いつものことではあるが)、全体としてはひきしまった良いコンサートだったと思う。吉田政美を送り出すコンサートとしては最高の舞台を与えてもらったように思う。長野中学校の先生たちや子供たち、そして企画や準備に携わったPTAのみなさん、そして声をかけてくださったY先生に感謝、感謝…。

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街角ライブの記録 6 【2003年11月11日】

Martin Koike 風の便り vol.6

2003年11月11日(火)

いとこ”えんちゃん”のこと

★先日、インターネットで遊んでいたら偶然高円寺の『ENTA巣』という居酒屋が引っかかった。なんとなくピンと来て掲示板に書き込みをした。「マスターはもしかしたら函館のエンチャンではありませんか?」翌日メールが届いた。「えんちゃんです」と。

★「えんちゃん」。もう40年近く会っていない父方のいとこだ。僕より4~5歳年上で僕が音楽を始めるきっかけの一人だ。僕が小学生の頃彼はもう高校生バンドでドラムをたたいていた。ビートルズのコピーをしていたように記憶している。彼のライヴを見に行くと女の子が「エンチャ~ン!」「キャーキャー!!」と黄色い声を上げていたのを今でも覚えている。35年前の「GRAY」みたいもんだ。小学生の僕には強烈な印象だった。僕にはあこがれのいとこだった。

★中学生になり初めてギターを手に入れた僕は、コードも解らずただむやみにベンチャーズ気取りで単音を引きまくっていた。そんな僕にコードを教えてくれたのがエンチャンだった。『明星』だか『平凡』だかの付録の歌本に載っていたP.P.M.の「悲惨な戦争」や「虹に消えた恋」を弾いてくれたのだ。コードの存在を初めて知った僕はそれからしばらく付録の歌本に首っ引きでコードを覚えていった。

★やがてエンチャンはプロのドラマーを目指して函館の街から消えた。東京でドラムをたたいているという話だけは耳に入っていた。そして何年もたったころ高円寺で居酒屋を始めたという風の便りを聞いた。僕自身、函館から室蘭に転校したり、その後内地に出てきたりしていたのでエンチャンとの関係はぷっつり途絶えていた。

★年月は流れて、インターンネットという便利なものが世の中に誕生した。たまたま高円寺近辺の検索をしていたらエンチャンとふたたびつながった。まだメールのやり取りだけで会ってはいないが近いうちギターを持って会いに行こうと思っている。今彼は店に集中するため「一応」音楽はやめているという。でも全身音楽のようないとこだからギターで話ができるように思う。ギターを爪弾きながら40年近い年月を埋められたらいいなと思っている。


                          
居酒屋 ENTA巣  http://www5.ocn.ne.jp/~entas/ 

★高円寺に行くことがあったら寄ってみてください。


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街角ライブの記録 5 【2003年10月20日】

Martin Koike 風の便り vol.5

2003年10月20日(月)

不思議な出逢い

★今月に入って生まれ故郷、北海道の函館に10年ぶりで帰ったり、女房の故郷山形に行ったりなどして気分はすっかり「ふるさと」だった。ライブのテーマも「故郷」で始めた。

★20数年来大切にしている歌がある。松山千春の「ふるさと」という歌だ。田舎を捨て夢を求めて都会に出てきた若者だったが思うように行かず、切ない気持ちで故郷に住む両親に助けを求めて電話した。でもそんな気持ちをぐっとこらえて「それじゃまた」と電話を切るという歌だ。30年前に単身上京した僕の気持ちそのものだった。

★歌っている時、視野の片隅に一人の若者が地べたに腰を下ろし、地面を見据えているのが見えた。歌をじっと聴いているようにも見えたし、まったく無関心でそこにいるだけのようにも思えた。ただ何か思いつめたような仕草が気になった。30分ほどで姿を消し、僕の心の中からも彼のことは消えていった。

★ライブが終わる頃、携帯が鳴った。『かざぐるま』の相棒、マサミチャン(吉田政美)だった。話したいことがあるから来てほしいという。ライヴを終え、指定されたカラオケボックスにかけつけると、そこには見知らぬ若者がいた。マサミチャンの幼馴染、マコトチャンと紹介された。なんと彼は新越谷で地べたに座り込んでいたあの若者だった。

★3ヶ月前、山形から上京した彼は仕事にいきづまり、精神的に追いつめられていた。耐えかねてマサミチャンをたずね、初めて降りる南越谷駅で聞こえた歌声にひかれ『街角ライブ』の場所に。その時歌っていたのが「ふるさと」だった。詩の中味に自分を重ね合わせ、おもわず地べたに腰を下ろし聞き入っていたそうだ。帰りがけにとったチラシにマサミチャンが写っているのを見つけ「この人があの古池さんか!」と知ったという。(マサミチャンは僕のことをずいぶん話していたようだ)マサミチャンに興奮して話し、ライブ終了後僕にお呼びがかかったというわけだ。さらに驚いたのは3日前から彼は僕の勤めるK印刷に仕事で出入りするようになったという。偶然がふたつ重なり興奮した僕たちは深夜まで語り合った。(カラオケ・ボックスにいて歌も歌わず話に花を咲かせるというのも変なもんだが・・・)

★マコトチャンとの出逢いは本当に不思議な偶然だった。彼は「出会うべくして出会った」と言った。でも人の出逢いは必然よりも偶然によるところが大きいものだ。偶然があってそこから必然へつながっていく。なんとも不可思議な人生の妙というもんだろう。

★ただこれだけは言えそうだ。偶然をもたらしたものは「歌」だった。もしも彼が僕の歌声をきかなっかたら、たまたま別の歌を歌っていたら、彼と僕の出逢いはなかっただろう。彼にとって「古池さん」とはマサミチャンの話に登場するちょっと変わったおじさんということで終わっていただろう。僕にしてもマサミチャンにつながる郷里の幼馴染ということだけで終わっているだろう。

★『街角ライヴ』を初めて1年。こんな小さな、でも大切な出逢いがたくさん生まれた。そしてこれこそが僕が街角で歌う最も大きな訳だ。「フォークソング」を意識し始めた若い頃から僕は歌を通してこんな出逢いを探し求めてきた。それが近頃少しずつ心の手帳に刻み込まれるようになってきた。「一期一会」なんていうと抹香くさいと笑われるが、僕はほんとに大切なことだと思う。たとえ一度きりの出逢いであったとしても、そのあとつながりを持つチャンスがなかったとしても、僕の人生には貴重な宝だ。


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街角ライブの記録 4 【2003年10月7日】

Martin Koike 風の便り vol.4 

                                                       2003年10月7日(火)


ペルーのフォルクローレグループについて

3ヶ月ばかり姿を見せなかったフォルクローレグループが先週から毎日のように現れている。民族衣装に身をつつみ、ケーナやサンポーニャ、チャランゴ、ギターに太鼓をかき鳴らす。ただでさえ大音量の楽器をアンプを通して演奏する。

★僕は彼らの音楽は嫌いではない。自分もケーナを吹くし、ひところフォルクローレにはまっていた時期もある。

★でも正直彼らのやり方に不快感を覚える。彼らはいつも一番いい時間に現れ、セッティングも合わせて2~3時間その場を占拠して去っていく。彼らの去ったあとはぺんぺん草もはえないほど場が荒らされ、自分のペースに持っていくのに一苦労する。たまに来るなら快く受け入れもするが連日それをやられたらたまったもんじゃない。

★新越谷の駅で演奏活動をしている若者たちは、彼らが来ると奥のほうに引っ込んでしまう。演奏の場を失ってしまうものもいる。多勢に無勢ということもあるだろう。苦言を呈したり、交渉をすることもなく泣き寝入りをしているのが現状だ。

★今日仕事が速く終わったのでギターを持って新越谷に行った。案の定彼らは大音量で演奏をしていた。僕は彼らからやや離れたところで歌いだしたが、ギターも声もすべてかき消されてしまう。それでも心に期すものがあったのでへこたれず歌い続けた。いつもならすぐに反応が現れるのだがまったくだめだ。(そんな中で一人の若者がじっと聞き入ってくれたのはうれしかった。「元気の出る歌」をリクエストしてくれた。これから夜行バスに乗って仙台まで行き、実らぬ恋を覚悟の上でプロポーズするそうだ。)

★彼らの演奏が10時に終り、後始末を終えた頃を見はからって僕も歌い終え、彼らに話しかけた。率直に毎日こられると他のグループが演奏する機会を失い迷惑だと言った。みな同様に演奏する権利があるのだからせめて週2~3回に自粛してほしいと申し入れた。彼らは警察の道路使用許可と東部鉄道の使用許可を得ているといって話しに応じようとしなかった。

★彼らが姿を消した後で、顔役・甘栗屋のおじさんに交番で聞いてもらった。道路使用許可は取っていなかった。

★そんなやり取りのさなか若者グループが数人集まってきた。口々にペルーのグループへの不満やら愚痴やらををこぼし始めた。僕は勝手に彼らを代弁するつもりで交渉したがそれは間違いではなかったようだ。

★でも現段階で彼らの仁義を外れた立ち振る舞いを阻止することはできない。自分たちの歌う場を守るためには多少の小競り合いは覚悟の上で彼らより早く演奏を始めるしかないのだろうか・・・。仙台行きのバスを見送りながらため息をついた。


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街角ライブの記録 3 【2003年10月6日】

Martin Koike 風の便り vol. 3
                                                       2003年10月6日(月)




小磯君 逝く

★同じ会社で働く小磯君が急に亡くなった。僕と同じ49歳。同じ越谷に住んでいた。通勤の電車の中で倒れ、あっという間に逝ってしまった。心不全らしい。

★彼は同じ年、同じ越谷在住のよしみで昔からたまにライブに来ていてくれた。新越谷『街角ライブ』にも一度顔をを出してくれた。僕が歌っている柱の後ろの方に立って何時間も聴いていてくれた。

★『街角ライブ』の日(10月4日)は、彼の通夜だった。その日僕はペルーのフォルクロ-レグルー プに演奏時間のことで抗議をすることになっていたため通夜に出席できなかった。(ペルー人グループのことはまたの機会に)僕にできることは小磯君の冥福を祈って追悼ライブをやることだとも思った。

この日いつもより早く駅に出かけ、セッティングをしていた。『街角ライヴ』の開始時間は通常8時。でもこの日は彼の通夜の時間に合わせて『追悼ライブ』をしたかった。

★6時から
30分間。アンプを使わずにひっそりと歌った。ぎょうぎょうしくしないのが小磯君の流儀だと思った。

あいつは男         一緒に苦しみ

一緒にさまよった          雨の日も風の日も

いま祈る流れ者             この旅に幸あれと

いま祈る一人旅             あいつに幸あれと

一人残され                    この世の旅の終りに

あいつに会ったなら      あの世で二人また旅に出よう

いま祈る流れ者              この旅に幸あれと

いま祈る一人旅              あいつに幸あれと

                高石ともや 「ランブリン・ボーイ」

小磯君の冥福を祈る・・・

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街角ライブの記録 2 【2003年8月22日】

Martin Koike 風の便り vol. 2

2003/8/22(土)

アンプと生音

★最近、『街角ライブ』をアンプ利用と生音とを使い分けるようになった。金曜日は生音で、土曜日はアンプを使ってという具合に。

★アンプを使うメリットは歌やギターの表現に幅ができること。微妙なニュアンスを表現できるし、ギターの奏法もフィンガーピッキングをしても雑踏にかき消されない分街角ライブには適しているように思う。音量が大きくインパクトも強いから足を止めて聴いてくれる人も多い。10年以上アンプを使ったライブをやってきたため慣れている点安心感もある。

★でもそれはちょっと違うのではないかという気持ちが最近強くなっている。アンプを使うと足を止めてくれる人は多いがどこか距離を感じてしまうのだ。『街角』という大きな開場だけに10メートル先でも音が届く。確かにそこで聴いていてくれるし、確かな手ごたえもあるのだが遠いのだ。なんとなくこちらの一方通行のように感じてしまうのだ。

★僕の音楽の原点は音を通して人とつながるところにあったはずだ。自分の肉声とギターはそのための一番適した道具だった。ライブハウスなどでアンプを使うときでさえ客との距離は2メートル程度だった。僕の呼吸が伝わるようにお客さんの呼吸も僕に伝わってきていた。

★アンプを使わずに歌ってみて最初に感じたことは聞いてくれる人が近寄ってくれることだ。雑踏の中の生音は良く聞き取れないためだろう。かき消されそうになる声を近寄って聴いてくれる。そこに会話が生まれる。生まれた会話が次の歌を準備する。ある意味で理想的な状況だ。音楽を通してキャッチボールをするという点では申し分ない。

★でもフラストレーションがたまる。微妙なニュアンスが表現できない。絞り込む繊細な音が声を張らざるを得ない状況の中ではうまく表現できない。声を届かせようとして知らず知らずのうちに力が入ってしまう。結果的に発声が雑になってしまう。

★現段階では生音でのライブとアンプを使ってのライブ両方を続けようと思っている。長年培ってきたマイクワークによる表現を生音でもできるようになることが今の目標だ。そうなった時アンプを捨てるのだろうか。多分捨てないだろう。両方を意識することなく使い分けることができるような気がする。そうなりたい。

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街角ライブの記録 1 【2003.6.30】

Martin Koike 風の便り vol.1 

2003/6/20(金) 発行

新越谷で街頭ライブを本格的に初めて8ヶ月になった。厳しい冬を乗り越えて、ここちよい春を歌い飛ばし、まもなく初夏を迎えようとしている。50歳に王手をかけたオジサンがよくまあ頑張っていると、我ながら感心している。

ギターをかかえ、台車にアンプやら譜面やらをどっさり積み込んでこの場所に初めて現れた時は不安と緊張で体中がこわばっていた。とにもかくにもセッティングを終え、アンプにスイッチを入れたものの最初の第一声が出ない。物珍しそうに横目でちらりと見て通り過ぎていく人。あちこちですでに街頭ライブを始めている若者たち。彼らの視線が気になり音を出すふんぎりがなかなかつかない…

自分の音楽の原点を見つめ直してみたい。そう思い始めたのは昨年の4月。僕が48歳の誕生日を迎えた頃だった。

この10年、多い時で年間20回以上もライブやコンサートをこなしてきた。来てくださるお客さんはほとんどが僕の音楽を聴くという姿勢で集まってくれた。(義理で来てくれた人もかなりいたかな…?)つまりライブが始まる前から僕はお客さんに守られていた。そういうライブを10年やると自然に古池ワールドというものができてくる。自分の土俵でお客さんに守られながら自由に演奏することができた。

僕が音楽を始めた頃、歌える場所は少なかった。学校や公園で仲間内が盛り上がることはできた。しかし第三者に聞いてもらうにはコンサートを企画するか、街に繰り出すしかなかった。「新宿フォークゲリラ」に刺激された僕は歌う場所を駅前や街に移した。が…、現実は甘くなっかた。道行く人々が歌に耳を傾けることは稀で、忙しそうに通り過ぎていくだけだった。

若さにまかせた力まかせの「フォークゲリラ」だったが、思いを歌に託して誰に守られることもなく自分の声とギターだけを頼りに歌い始めた。これが僕の音楽の原点だった。

50歳を前にして新しい挑戦。長年かけて築いてきた「古池ワールド」をいったん壊そうと思っている。歌を始めた頃の素の状態に近いところからまた始めてみようと思う。あの頃は見向きもされなかった街頭ライヴだが、今の自分なら果たしてどうなのか。原点に近いところでいつまで歌いつづけることができるのか。試行錯誤をしながら続けてみようと思っている。

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2007.10.08

第4回 Live in 清津峡

4回目を迎えたLive in 清津峡

毎年着実に音楽祭の体裁を整えつつある

第1回目は出演者2人、オーディエンス10人程度だった

毎回人数が徐々に増え、今回は出演者は10組を数えるほどになった

前夜祭もこれまでとおもむきがやや違う

去年までは管理小屋前のテーブルでランプを囲んでこじんまりとやっていたのが

今年は参加者が増え、大きな輪になってのセッションだった

誰かが演奏するのに合わせて、誰かが絡んでいく

1曲終わると、次の曲を誰かが演奏する

そんな展開で前夜祭は深夜まで続いた

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