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2006.06.22

生家がなくなる日

函館に暮らす母から電話があった

あんたさ!
青柳町の家を売ってほしいって人が現れたんだよ
誰だと思う?
かずひこ君さ!!
あんたどう思う?

ショックだった…
まさに 青天のヘキレキ
       寝耳に水

生まれ育ったあの家が人手に渡る…
自分をはぐくんだ、原点とも言うべきあの場所が…

いつかは来ると思っていた
でも、あまりにも急で、意外な展開だった

かずひこ君は僕の幼馴染
向かいの裁判所の官舎に住む子で僕より1年年長だった
同じ幼稚園にかよい、毎日一緒に遊んでいた
小学校2年の時東京に転校していった
大人になったかずひこ君は函館が忘れられず
職を函館に求めてふたたびやってきた
20年以上も前のことだ
その後母と再会し、時折おつきあいがあるらしい

おなじ人手に渡るんであれば、見知らぬ他人より
あの家をよく知るかずひこ君
願ってもいない話かもしれない

でも、僕の心の中にためらいの気持ちが激しく渦まいている…

青柳町の生家は、古い知り合いの老夫婦に入っていてもらってる
妹の小学校の同級生のご両親だ
古い家を修理しながらずっと住み続けていてくれる
築53年の家が風雪に耐え、今なお原形をとどめているのは
この老夫婦のおかげだ

話は35年前にさかのぼる

父の会社は吸収・合併の憂き目にあっていた
紙問屋の丸日聯合という会社だった
同業大手の大丸藤井に吸収されることが決定的になっていた

父は悩んでいた

大丸藤井に移り、安定の道(?)を歩くのか
別の道を探り、自分の生き方を模索するのか

汝 鶏頭となるも牛後となるべからず

一人の男として父の頭をよぎっていた言葉だ
父は大企業の歯車として働くよりも、男として勝負したかったのだ

家を改築して、喫茶店を作る
海を見下ろせる高台の喫茶店
山の端に沈む夕陽を受けて
クラシック音楽が静かに流れる喫茶店
その名は 「斜陽」

中学3年だった僕に、父は何度となく「相談」してくれた
一人前の男として認められた誇らしい思いで、僕は父の話に耳を傾けた

父は僕に話すことで自分の心を整理していたのだと思う

結局…
父は大丸藤井に移籍し、生活の場を室蘭に移した
喫茶店「斜陽」は日の目を見なかった

この結論を出すまでの心の軌跡は父にしか分からない

後年、僕は家族をもってなお夢を追いかけようとした
自分の胸のうちを父に「相談」した

男として夢を追いかける気持ちを忘れちゃだめだ
したけど…
守るべきものを持っているということも考えなきゃいかん
そこをよく自分で考えれ
決めるのはお前だ
この意味、お前には分かるはずだ

この一言に父の葛藤に対する答えがあったんだと…今思う…

その後親戚筋から、家を買いたいとの申し出があった
父はそれをキッパリ断っている

自分が父親(僕にとっては祖父)から譲り受けた唯一の形見だったこと
自分の家族の発祥の場所であること
そして何より、「斜陽」の夢を描いた場所であること
  
もしかしたら、いつの日かその夢を実現させたいと思っていたかもしれない

僕の心の中には、父の見果てぬ夢をかなえたいという思いがある
小さな火種に過ぎない
ずっと長いことくすぶり続けていた

普通に考えると、とても実現できそうにない夢だ

資金の問題はもちろんそうだ
母や弟、妹とおなじ気持ちでなければできない
  法律上は分割所有ってことらしいので、
   それなりの合意とアクションが当然必要というわけ

さらに家族の合意がなければとても…
  内地での暮らしを捨てて函館に戻るワケだから…

でも、あの場所が家さえ残ってさえいれば、
  もしかしたら…
    いつかは…

かずひこ君の申し出に激しくためらっているのは
たぶんそんな思いからなんだろうと思う

いずれにしろ、老夫婦が暮らしている今、進めてはいけない話…
 (Tご夫妻、ごめんなさい…)

売る、売らないって話も執行猶予付きということか

したがって僕のほのかな夢も…
首の皮1枚残して、つながってるってことかな…

【関連記事】

①原点 僕の生まれ育った家
②「想苑」 大人の空間  父がお手本にしたと思われる喫茶店

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