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2006.05.23

ふたたび ウディ・ガスリー

久しぶりにウディ・ガスリーと息子のアーロ・ガスリーを聞いて暮らしました。

なにしろ骨折で動きが取れなかったもんで…

あらためて思ったことは
  ウディの歌って本当にシンプルそのもの

音楽性だけならば僕は息子のアーロの方がずっと好みです。

けれど、ウディのこのシンプルそのものの歌が

使うコードは3つくらいだし
ギター奏法は単純なカーター・ファミリー・ピッキングだし
歌だってぶっきらぼうだし…

後の音楽シーンに圧倒的な影響を残したのです。

ガスリーズ・チルドレンとよばれるミュージシャンがたくさんいます。

ウディとウィーバーズで行動をともにしたピート・シーガー
後のフォーク・リバイバル活動で社会運動と密接に絡んだミュージシャンたち
若き日のボブ・デュラン
そして本物の息子 アーロ・ガスリー

ウディは1930年代のアメリカ南部の社会問題をテーマにして歌いました。

大恐慌と畑の作りすぎによる砂漠化が当時のアメリカ南部を苦しめていたそうです。

砂嵐に襲われ畑が壊滅した農民。
家を失った人々
彼らは、土地や家を捨て、職を求めて街に向かいました。
それは何百㌔にわたるつらい旅でした。
無賃乗車の汽車旅は鉄道会社や自警団の暴力的な追放で危険と隣り合わせでした。
 (ただ乗りで汽車旅をするさすらい人のことをホーボーといいます)
街へ行っても不景気のため、職につくこともできず難民キャンプで暮らさざるを得ない。
たまに畑仕事につけても低賃金と劣悪な待遇
彼らの暮らしは明日をも知れないその日暮らしだったのです

ウディは彼らに向かって歌い続けました。

ウディ自身も彼らと同じ境遇だったのです。

彼らの心の苦しみを歌で分かち合い、時に団結と闘争を呼びかけました。

ウディは55歳で亡くなるまで1000曲もの歌を残したそうです。
そのどれもがシンプルなものだったそうです。

歌を人に伝えるためには単純でなくてはならない

というようなことを語っていたといいます

おそらくウディにとっては音楽性、芸術性など問題にもならなかったんだと思います

大切なことは民衆の心を代弁し、分かち合うことだったのではないかな

そのためには民衆によく知られていた歌を題材にして別の詩をつけたり
単純そのものの歌を作っていた

アーロ・ガスリーの歌のほうがよりエモーショナルなのは、
父の時代と状況が変わってきたということもあるでしょう。
より音楽性が求められてきたということもあるでしょうし

ウディが後世に圧倒的な影響力を及ぼしたのは、
彼の歌がいつでも社会や民衆に密接にかかわっていたためだと思います。
絵空事や作り事ではなかったわけだし
なによりウディ自身がホーボーとして旅から旅を続け、民衆に歌い続けたという存在感のためではないかなと思います。

つまりはフォークシンガー ウディ・ガスリーの生き方そのものがあれだけの影響力を生んだのではないかと思います

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