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2005.02.28

「かざぐるま」練習開始 フォークライブに向けて

久しぶりに「かざぐるま」のメンバーが集まり練習をしました。

昨年末に「スペース悠々」コンサートをやって以来、出前コンサートがなかったのでメンバーが集まって音を出すチャンスがこれまでありませんでした。
もっともオカリナの斉藤と堀は普段からサークルでの練習や発表会が多いし、僕は僕で「街角ライブ」に忙しい毎日。それぞれに音を出しているので大きな問題はありません。(言い切っちゃっていいのかな?)

「かざぐるま」の今年の活動の大きな柱は「フォークライブ」を春に、「風のコンサート」を秋にやる予定です。
会場の予約がなかなか取れないため自主コンサートの開催もけっこう四苦八苦です。

今日の練習は春(6月に予定)のフォークライブの曲決め。
今までフォークライブはライブハウス「ぶどうの木」やスナックを借り切ってやってきました。一杯やりながらくつろいで歌を聴いてもらいたいというのがあったためです。でも今回はそういうことにあまりこだわらず「風のコンサート」のような形式でもいいかなと思っています。

これまでフォークライブの常連出演者だった中根正之が転職したためどの程度かかわれるか未知数ということもあるし、吉田政美も声楽の勉強中ということもあります。今までのようなスタイルでなくてもいいかなということです。

そこでMartin古池をメインにオカリナをどのように絡ませるかということが課題になりそうです。

そんなわけで「かざぐるま」の今年の活動が始動始めました。

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2005.02.27

街角ライブ 2/26 警官から立ち退き要請!

三寒四温という言葉がぴったり来るような寒い夜でした。
人通りも寂しい夜。

7時に音だし開始。
1時間は立ち止まる人もなくひたすら歌っていました。

8時ごろ常連中の常連SISIDOさんが顔を出してくれたあたりからぼちぼち足を止めてくれる人が増えだしました。
先週話し込んだ白髭おじさんがまた来てくれました。歌ってるすぐ脇でじっくり聞いてくれました。今回はトークは抜きでひたすら歌うことに専念しました。
白髭おじさんもひたすら聴いていてくれた感じ。

ちょっと反省があります。
フォークシンガーの陥りやすい罠なのだけど、自分が歌うワケというやつを言葉で説明しようとしてしまう点です。
今僕が歌っているのは本質的には音楽が好きだからということに凝縮されるわけで…。好きだから一生懸命追っかけているわけで、ほかにはワケなどないんです。
僕のライブは昔から音楽とおしゃべりが一体になってきたんですが、このスタイルは変えようもないんだけど時々頭でっかちで説明的なおしゃべりに陥っちゃうことがあるんです。気がついては軌道修正をしながらここまできたんだけど、最近また説明的なトークになっていたような気がします。

話すことで納得してしまうと、そこでもう過去に向かってしまう。歌うということは今この時点から未来に向かっていくもんだから本質的に反対のものなんであって…。本末転倒にならないように。

こんな内容のメールを従兄弟のエンチャンからもらったのです。
いろいろ考えさせられました。だから今日は一番の原点に戻って歌うということに専念したのです。


10時過ぎに久しぶりに丸山君が現れました。彼は時々来ては歌っていく青年。くるたびに僕の器材を貸して20分くらい歌ってもらいます。いいセンスしてるんだけど場慣れしていないためか歌が後ろ向きになる傾向があって・・・。せっかくのセンスがもったいないなと思っていたので武者修行の意味で2年位前から歌ってもらっていたのです。

久しぶりの彼の歌はずいぶんよくなっていた。安定感も出てきたし、何よりも前に向かってきたのがいい。
聞くと新越谷で歌うのは今日が最後で近々郷里に帰るとか。
音楽はやめないと決意を表明していました。
人生いたるところに青山あり。田舎に帰ったら帰ったで今とは違う音楽ができるかもしれない。一生懸命やってれば必ずいつか自分の血肉になると思います。がんばって欲しい。


さて丸山君が歌っていると突然おまわりさんが現れました。

「苦情が出ているんで今すぐやめて、すぐ帰りなさい」

まだ若いおまわりさんで、申し訳なさそうにそう言ってきました。

新越谷はいつもは東武の警備員さんがクレームをつけてくるのですが警官が来るということはやばいと思い、すぐにやめさせて撤収の準備をしました。警官の警告であるにもかかわらず他の若い連中はお構いなしに演奏している。
これはやばいと思い、彼らに今日はあきらめるように説得して回りました。
僕らが演奏している場所は東武鉄道の敷地になるわけだから基本的に警官の管轄外になるわけです。にもかかわらず警官が警告を出すということは東武鉄道が警官を呼んだということ。自分の警備員を使わずに。これ以上やると警察の強権を発動されかねない。その結果今後一切の演奏活動ができなくなる可能性も大きい。何人かは呼びかけにすぐに対応してくれました。
僕も若いころは「官憲の横暴」と思い、警官の静止を無視したこともありますが今路上でやってる連中はみんなフォークゲリラなんかじゃないのだから詰まらん意地を張るなとついおじさんをやってしまいました。

そんなわけで今日の『街角ライブ』は中途半端な気分では終わり!

来週は伊豆に行くためお休みします。


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2005.02.25

『退職の日』 さだまさし

退職の日

                    作詩・作曲 : さだまさし


 公園のD-51は
 退職したあと
 ほんのわずかばかりの レールをもらって
 もう動かなくなった


 父は特別他人と違った生き方をして来たわけではない
 ただ黙々とむしろ平凡に歩いて来たのだ
 戦争のさなかに青春を擦り減らし
 不幸にも生き残った彼は
 だから生きる事もそれに遊ぶ事もあまり上手ではなかった
  そういう彼を僕も一度は疑い
  否定する事で大人になった気がした けれど
  男の重さを世間に教えられて
  自分の軽さを他人に教えられて
  振り向いて改めて彼をみつめたら
  やはり何も答えぬ無器用な背中
 退職の朝彼はいつもと変らずに母のこさえた弁当を持って
 焦れったい位あたり前に 家を出て行った


 母が特別倖せな生き方をして来たとも思えない
 ただあの人と長い道を歩いて来たから
 いつもと違って彼の帰りを待ち受けて
 玄関先でありがとうと言った
 長い間ご苦労様とあらたまって手をついた
  そういう彼女の芝居染みた仕草を
  笑う程僕はスレて無かった様で そして
  二人が急に老人になった気がして
  うろたえる自分が妙に可笑しくて
  「おとうさん」「おかあさん」なんて懐かしい
  呼び方をふいに思い出したりして
 父は特別いつもと変らずに静かに靴を脱いだあと
 僕を見上げて照れた様に ほんの少し笑った

 公園のD-51は
 愛する子供達の
 胸の中でいつでも 力強く
 山道をかけ登っている


 白い煙を吐いて 力強く
 いつまでも いつまでも

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この歌を聴くたびに、死んだ父が退職した日のことを思い出す。その時僕はすでに内地で暮らしていたから、北海道の父と一緒にいたわけではない。
でも父の退職の日の光景はイメージとして焼き付けられている。

父の晩年は決して幸福だったとは思えない。
部下の使い込みが明るみになり、引責辞任という形での退職だった。
退職の直後、癌であることが判明し数年間の闘病生活の末この世を去った。
度重なる手術のため全身つぎはぎ状態だった。

僕の中では『退職の日』という歌は、父の退職とその後の闘病生活に連なる日々と重なっている。

病と闘いながら父は目に見えて老いていった。

彼が若い頃の力強いイメージが残っている僕には哀しかった。

父が死にしばらくしたころ、『退職の日』がラジオから流れてきた。

  公園のD-51は
  愛する子供達の
  胸の中でいつでも 力強く
  山道をかけ登っている

  白い煙を吐いて 力強く
  いつまでも いつまでも


このくだりを聞いた瞬間、涙がこぼれ落ちるのを止めることができなかった。脳裏には故郷の山を煙を吐いて登るSLがあった。それが父のイメージと重なった。


あれから10年。やっとこの歌を歌える気分になっている。

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イカゴロから有害物質除去 -函館市fメールより

@niftyメール:メール本文「[fmail:2005-02-24] 函館市fメール 」

イカゴロから有害物質除去*新処理法を実証実験*清水建設*技術確立 目指す*函館

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 清水建設(東京)などは函館産業支援センター(函館市桔梗町)で、バイオ技術を利用し、イカの内臓(イカゴロ)から有害なカドミウムを除去し、有効成分を抽出する新しい処理方法の実証実験を進めている。
道南で年間約一万トン排出されるイカゴロは処理が課題になっており、有効利用につながる技術の確立を目指す。

 実験中の技術は、イカゴロに乳酸菌や酵母などを混ぜた培養液を加え、遠心分離機で油分を抽出する。カドミウムはタンパク質と結びつきスラッジと呼ばれる残さ物に残留。これを再び培養液で分離させ、特殊な樹脂でろ過し、カドミウムを取り除く。

 イカゴロに六○-一○○ppm含まれるカドミウムは、一-二・五ppmまで下がり、最後の残さ物は食品や飼料に利用できる。抽出した油分はドコサヘキサエン酸(DHA)を、カドミウム除去の最終工程で発生する液体はタウリンなどアミノ酸を含み、医薬品や食品などに活用できるという。

 カドミウムの除去は、おがくずや電気分解などの方法がある。同社によると、新しい方法は、従来より低温で処理でき、コストを抑えることができるという。同社と環境コンサルティング業「環境創建」(日高管内門別町)と化学機械メーカー「朝日エンジニアリング」(東京)が協力して開発。実証実験は水産庁の水産業構造改革加速化技術開発事業に採択された。

 実証実験は二年間の予定で昨年十月からスタート。二カ月に一回、二百キロのイカゴロを処理している。処理費用を一トンあたり一万円以下に抑え、ホタテのウロも処理できる技術を確立したいという。

 その上で収集から処理、再利用までのシステムを構築し、道内外での展開を検討する。

(川浪伸介)


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函館というとイカ。夜中にとれたイカを天秤棒にぶら下げて漁師のじいさんが毎朝売りにきていた。

   「イガァ イガァ~!  イガァ イガァ~!」

じいさんにくっついて歩くのが僕と弟の朝の遊びだった。

45年前の話です。

今でもそんな光景は残っているのかしら…

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@nifty:NEW愛らしい少女のぬりえ、蔦谷喜一さん死去(読売新聞)

@nifty:NEWS@nifty:愛らしい少女のぬりえ、蔦谷喜一さん死去(読売新聞)

昭和2、30年代に愛らしい少女像で一世を風靡(ふうび)した「きいちのぬりえ」の画家、蔦谷喜一(つたや・きいち)さんが24日午前8時33分、老衰のため死去した。91歳だった。


→蔦谷喜一の本


子供のころ同級生の女の子が蔦谷さんの描くぬりえの本を持っていました。
男の子にはまったく興味のない絵だったのですが、妙に印象に残っていました。
多分、あの絵の中に自分の幼少時代を見ていたのでしょう。

誰が書いた絵なのか今の今まで知らなかったけど 蔦谷喜一さんだったのですね。
ご冥福をお祈りします。


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2005.02.24

100円貯金箱がいっぱいになりました!


『街角ライブ』でいただいたカンパを貯金箱に貯めてきました。100円貯金です。貯金箱がいっぱいになったので開けて数えてみたらこの半年間で4万円位になっていました。

ありがたいことです。

『街角ライブ』をやっていると何がしかのカンパを置いていってくださる人がいます。それはジュースやお茶やお酒であったり、弁当や甘栗であったりするのですが、キャッシュももちろんあります。

ありがたく頂戴することにしています。でも申し訳なくて無造作には使う気になれないので貯めています。

たまったお金で器材を更新したり、楽器のメンテナンスをしています。

おかげさまで、この3年でギターを1本と、ローランドのアンプを買うことができました。他にもギターをオーバーホールに出したり、弦やピックなどの備品に変わりました。

この場で改めて御礼申し上げます。

どうもありがとう!


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ココログ「アクセス解析」に一喜一憂

昨日(2月23日)からココログのアクセス解析ができるようにしました。

昨日の夕方解析を見たら、まだ1件もアクセスされていなかったのでガックリ。

1年間ココログを続けてきて、多少の不安と虚しさを内心感じていました。

「この記事は人様への情報発信として書かれているのか、自分自身のために書いているのか判らなくなる」

何しろ反応が少ないもんで…。
コメントやトラックバックをつけてくださる人があったり、メールをいただいたりということもあるけれど、たまに忘れた頃にある程度で…。

自己満足に過ぎないのかななんて思っていました。


アクセスカウント【0】を見た瞬間、そんな不安が裏付けられたみたいでがっかりしていました。


今日、恐る恐るふたたびアクセス解析を見てみたら……
な、なんと昨夜から今日にかけて60件くらいのアクセスがありました。

アクセスしてくれた方、どうもありがとうございます。

勇気づけられた反面、また訪問してもらえるようなブログにしなければなと気を引きしめています。

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2005.02.20

街角ライブ 2/19 「君の歌う目的は何かね?」

夕方から雨が強くなりちょっと重たい気分で家を出た。先週はインフルエンザのためライブはお休みだった。まだ本調子ではないがライブができないほどではない。

新越谷に着くと「ひよこ豆」が先に来ていた。1時間やるとのことで彼らの演奏を聴きながらセッティング。彼らは本当にうまい。魅力がある。

「ひよこ豆」が撤収してからぼちぼち歌い始めると、ほどなく60年配の白髭のおじさんが話しかけてくれた。

「君が歌う目的は何だね?失礼ながらお若いとはいえない君が若者に混じって歌っている姿は目立つね。私は若い連中の歌はまったく受け付けられない。音楽的にもメロディに対する詩ののせ方にも違和感を感じる。君の歌は私の心に届いてくる。単に年齢的なもんじゃないと思うのだが。うまいとか下手とかそういう次元の問題でもなさそうだ。」

インテリ風の方で僕のやる音楽のバックボーンにまで迫ってくるような切り口だった。
僕はというとやはりちょっと緊張した。これはいい加減な受け答えできないぞ。気合を入れて話しにのった。

僕が街角で歌う目的はあるような無いような。たとえば35年前のフォークゲリラが街頭で歌う目的は政治的なものだった。世の中を変える運動の手段として街頭で歌っていた。僕もその影響を強く受けていた。でも今自分が街角で歌うことにそういう目的はない。音楽を政治的活動の手段にしたいとは思わないし。
メジャーデビューを目指すという目的があるわけでもない。
でもかといって単に自己満足のためでやっているわけでもない。
多分、自分がその時々感じていることを歌やトークに乗せて投げかけたい。投げかけたボールに反応して投げ返してくれる人がいれば、そこで出会いが生まれる。出会って話してそれ以外に何をするわけでもない。その場限りの一期一会に大切な意味を感じる。
たとえば「ひよこ豆」のようなこれから売り出しのミュージシャンは自分たちの音楽を通して自己主張をしている。その意味で音楽の発信者。ライブはある意味一方通行にならざるを得ない。
でも僕が求めているのは音楽を媒体としてのキャッチボール。相互通行。最初の一投を歌でやろうということだと思う。だからオリジナルにはまったくこだわらない。リクエストがあれば演歌だろうがジャズだろうが何でもやる。その歌を通して会話が生まれるのであれば。

そんな内容の話をした。白髭おじさんも理解を示してくれたように思う。しばらく聴いた後「また来る」と言い残して帰っていった。

白髭おじさんとのやり取りをしているとMIKUさんがオカリナを持って現れた。
MIKUさんとの初めてのコラボレーションは宮崎アニメなどのテーマソングを中心に数曲。僕にとっては「かざぐるま」でのレパートリーでもあるので手馴れた曲ばかりだった。キーとアレンジを変えるだけで対応できた。ぶっつけ本番で大変だったのはMIKUさんだったろう。でもオカリナを始めて2年目とは思えないしっかりした吹きっぷりだった。テンポキープがきっちりしていたので伴奏もつけやすかった。
またの共演を約束して20分のオカリナショーを終えた。
聞いていてくれた相棒の吉田政美が「自然に聞けましたよ」と言ってくれたので安心した。実は最後にやった『いつも何度でも』は「かざぐるま」で苦労した曲。ギターソロの部分が何度やってもうまくいかない僕にとっては鬼門の曲だった。吉田はそれをよく知っていた。「自然に聞けた」といわれ、僕としてはほっとした次第。

MIKUさんとの演奏の後、ちょっと吉田政美と話した。彼はしばらく顔をみせなかったので聞いてみると、仕事上のことで勝負を迫られていたらしい。勝負をかけた「男の顔」をしていた。

そこで急遽、「埋もれた名曲シリーズ」を高石ともやの歌にした。

①『青春の歌』 (旅立ちを決めた若者の歌)
②『陽気にいこう』 (苦しいときだからこそ陽気にいこう。1930年代の大恐慌の中で生まれた歌)
③『明日になればね』 (チャンスなんていつでもあるさ 明日になればね)
④『ミー アンド ボビー・マギー』 (失う何もない、それが自由)
⑤『少年』 (消えかかる虹を追うのは子供だけでしょうか? 僕は夢を守るためもう一度戦います)
その他数曲 (『白い傘』・『かごの鳥ブルース』・『街』)

そんな歌を歌っているとき突如声をかけられた。

「相変わらず夢を追っかけてるわねぇ」

Turuokaさんだった。よく見ると一緒にいた数名のお母さんたち、みな見覚えがあった。
10年ほど前、越谷南中学のPTA会長を3年間していたことがある。そのとき理事をしてくれた人たちだった。
当時僕は子供たちに「夢を持とうよ」とことあるごとにいい続けていた。親たちに「子供の夢を応援してやれる親でいようよ」と言っていた。良くも悪くも「変な会長」といわれていたようだ。PTA行事や学校行事で何度か仲間とバンド演奏などもやっていた。(その仲間の一人が「かざぐるま」で一緒にやっている堀良子です)

「あれだけ子供たちに夢を追っかけろといってたのに、自分が追っかけないわけにいかないもんね」

おもわず答えにならない答えをしてしまった。

その他の出来事

「心が救われました。」

そういって握手を求めてくれた『イマジン』をリクエストしてくれた人。
何があったのか知る由もない。でも一時心が休まったのであれば幸いです。

前回のライブに引き続き、僕のすぐ横に腰を下ろして酒を飲みながら聴いてくれた同年輩のおじさん二人組。
今日は陽水のリクエストがメインだった。

かくして4時間にわたる本日の「街角ライブ」は終了!
ああ、疲れた…。

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2005.02.18

人気の道徳講師は路上ライブ出身、命テーマに心動かす(読売新聞)

路上ライブ出身のシンガー・ソングライター、大野靖之さん(22)(千葉県印西市)が、首都圏の中学校で道徳講師として人気を集めている。
 母親を失った経験をもとに、「命」や「家族」をテーマにしてきた。千葉県教育委員会から非常勤講師の辞令も受け、教室を舞台に伸びやかな歌声で生徒の心を動かしている。(←全文はこちら)


路上シンガーのひとつの可能性なのでしょうね。

彼以外にもT'zという高校教師二人組みが路上ライブでオリジナルを歌っています。彼らのテーマは「学校へ行こう」。全国規模でコンサート活動を続けていて、本まで出版しています。

いずれにしろ、日常のできごとをとおして命の大切さや、人が生きるということの意味をポジティブに問いかける彼らの活動に共感を覚えます。

    →大野靖之さんの関連ページ

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2005.02.11

建国記念の日 に思う

最近は「建国記念の日」がきても当たり前のことのように扱われている。
人に誕生日があるように国に建国記念日があっても当然ではある。
けれどなぜ2月11日でなくてはならないのか?
僕はいまだにそれを合理的に説明できる理由を見つけ出せないでいる。
毎年この日を迎えるたびに胡散臭いものを禁じえないでいる。

そもそも2月11日は神武天皇が即位した日で、明治5年に政府が紀元節として制定した日だという。その後2月11日を期して明治20年に大日本帝国憲法が発布され、大正15年からは建国祭が執り行われるようになり国民に「定着」していった。

まずここで疑問1.
神武天皇って歴史上実在したの?
伝説上の人物という考え方が通説。(第1代神武天皇から第9代までは架空の天皇という見方もあるらしい)
他方で古事記や日本書紀は神武天皇の史実を反映しているという考え方もある。
いずれにしろ歴史的には検証されていないことに変わりはない。

疑問2
なぜ2月11日なのか?
BC660年1月1日に神武天皇が即位したといわれていることに端を発している。しかし明治政府が天皇制を固めると同時に西洋化によって急速な国力の増強も図っていた。その一環として太陽暦の導入があった。「王政復古」と「西洋化」のジレンマから苦し紛れに換算して割り出したのが2月11日ということになる。(下記引用参照)


紀元節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紀元節(きげんせつ)は、かつての祝祭日の中の四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つ。2月11日。

日本書紀に、紀元前660年1月1日に神武天皇が橿原に宮を建てたとの記述があることから、明治政府がこの日を日本の建国を祝う日と定め、日本の紀元の始まる日であるとして紀元節と名付けた。明治5年11月15日(1872年12月15日)の太政官布告で1月1日を紀元節とすると定め、1873年1月1日をもってグレゴリオ暦に改暦されたので、その年の旧暦1月1日に当たる1月29日に紀元節の行事を行った。
しかし、これにより、旧暦の正月こそが正しい正月だという解釈が広く行われるようになってしまった。この国民の反応を見て、これでは国民が新暦を使わなくなると危機感を持った政府は、神武天皇即位の日を新暦(グレゴリオ暦・陽暦)に換算して、紀元節を新暦の特定の日付に固定しようと考えた。水戸家の『大日本史』編集員であった藤田一正が、推古天皇以前の時代の日付について元嘉暦がずっと過去にも行われていたと仮定して逆算し、2月11日という日付を算出した。翌年からは2月11日に実施されることとなった。

建国の日をいつにするべきなのか?
たとえばアメリカ合衆国はイギリスからの独立の日を記念日としている。
韓国にしても日本の植民地支配から解放された8月15日が建国記念日になっている。
現在ほとんどの国家は歴史的整合性のある日を(近代国家として歩き出した日)建国記念日としている。非常にわかりやすい。
これはほとんどの国が諸外国との関係で国家としての浮沈を絶えず繰り返してきた結果なのだろう。つまり他国に対する建国宣言である。(フランスは市民革命勃発の日のため内部的要素が強いかも…)
これに対して日本は極東の島国として幸か不幸か諸外国に支配された経験がなかった。この結果明確に建国の日を制定しにくい。(階級闘争の結果としての革命も日本には存在しなかったので国民的に合意を得られる日というものも制定しにくい)

いずれにしろ明治政府は近代国家の体裁を整え、なおかつ早急に諸外国と対等の力をつけるために国民をまとめる必要があった。そのために天皇制でいくしかなかった。それで神武天皇である。

僕は歴史家ではないから神武天皇の存在の検証をするすべはもっていない。また神話や伝説を根拠に建国記念とするのも悪くはないなと思っている。(韓国は日本からの独立記念日・光復節とは別に、伝説上の檀君王倹が古朝鮮王国(檀君朝鮮)を建国した日を開天節としている)


問題は政府による紀元節の位置づけと目的にある。
僕の親の世代は(大正~昭和初期の人たちです)歴代天皇の名前を子供のころから暗誦させられている。母は小学生だった僕を捕まえてはまるで呪文を唱えるように歴代天皇の名をそらんじては得意げに笑っていた。
「ジンム~スイゼイ~アンネイ~イトク~コウショウ~コウアン……」
明治以来何十年もの時間をかけて築き上げられた「天皇=国家元首=神」という思想が末端の国民にまで浸透していったひとつの証左だろう。
かくして天皇の名によって日本は軍国主義の道を突き進んでいく。近隣の朝鮮や中国、東南アジアを支配しさらには大国アメリカにまで牙を向いていく。これをとめられるものは一人もいなかった。少しでもそんな動きをしようものなら「非国民」のレッテルを貼られ「赤」あつかいされた。その結果は憲兵に捕まり営巣送りというわけだ。(僕の父は旧制中学時代に学徒出陣に沸き立つ学友に対して「学生はペンを持て」と言ってぼこぼこにされたそうだ)

話は横道にそれるが北朝鮮のキム・ジョンイルを天皇に置き換えてみよう。今われわれの眼にあまりにも異様に映っている北朝鮮って60年前の日本に通じるものがあるんじゃないかなって気がする。
「天皇陛下、万歳!」と言って散っていった当時の若者たち。「将軍様、万歳!」を唱える北朝鮮の若者たち。立場、時代は違ってもおかれている環境は似てやしないか?


戦後、立憲君主制は廃止され「主権在民」の世の中に変わった。天皇は国民の象徴となり、紀元節も廃止された。

ところが戦後10年足らずで「紀元節」復活の動きが生まれた。さまざまな紆余曲折を経て1966年12月8日に施行された。太平洋戦争に突入した1941年12月8日から数えてちょうど25年目のことだった。
この動きと足並みをそろえるようにして再軍備の動きも始まっていた。1950年朝鮮動乱のとき警察予備隊として復活し、1954年(昭和29年)には自衛隊法が成立している。

そこには何者かのある意思を感じざるを得ない。その意思は完結に向けて今も着々と、いや急速に歩き続けている。
建国記念日に感じる胡散臭さは、そのためなんだろう。


建国記念日は国民にとって必要なものではあろう。何を持って建国とするか、その国の姿勢が明確に顕されることは国際的にも国内的にも重要なことだろうと思う。
敗戦から新たな道を歩き始めた日本が、神武天皇即位の日にこだわる必要性があったのか。むしろ日本国憲法発布の日を建国の日となすべきではなかったのか。(世界中のほとんどの国が近代国家として歩き出した日を建国の日としている!)

いやもしかしたら日本はいまだに近代国家として一人歩きできていないのかもしれない。アメリカという保護者の背中を見ながらよちよち、おどおど歩いているボンボンなのかもしれない。

風化しつつある「建国記念の日」。日本が「本当に私たちの国だ」と誰もが胸を張って語れるように、今一度議論する必要があるのではないだろうか。

35年前のあの歌が いまだに僕の心からはなれずにいる。

雲にかくれた小さな星は
これが日本だ 私の国だ
若い力を体に感じて
みんなで歩こう 長い道だが
ひとつの道を 力のかぎり
明日の世界を探しにいこう


   『遠い世界に』


まとまらない思いのままにまとまらない文章になってしまった。
ご意見、ご批判もあるでしょう。皆さんのお考えをお聞かせ願えませんでしょうか。

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インフルエンザにやられた!

生まれて始めてかかったインフルエンザ。
ちゃんと予防接種をしたのにかかったインフルエンザ。

熱っぽくておかしいなと思ってたら、翌日も翌々日も38度。
でもまさかインフルエンザだなんて思ってなかった。
ちゃんと予防接種したんだぜ!?


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重い腰をやっと上げて大嫌いなお医者さんへ。


「インフルエンザですね」と淡々とおっしゃる女医さん。


「で・でも、ちゃんと予防接種したのに・・・」

「今年のは予防接種しててもかかる人が多いのよね」とあくまでも淡々と女医さん。

渡された薬は5日分。48時間以内に飲めばケロリと直るといわれたが、もう72時間以上はたってる。
だ、大丈夫なのでありましょうか? (不安・・・)

家に帰って何気にテレビをつけるとインフルエンザの番組をやっていた。
今年のは複合的な流行だそうな。A型(それもソ連型、香港型に分かれてる)とB型。
今までの症例では48時間以内ならケロリと直る薬はA型に対しては有効だけどB型にはそんなでもないとか…。

だ、大丈夫なのでありましょうか…?  (ま、またしても不安…)


          >>>>>>→ インフルエンザ

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2005.02.06

『あすなろ通信』 71号発行

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「あすなろ山の会」の新年会に行ってきた。45年の歴史をもつ山の会。
僕が参加してからもう20年になる。
残念ながら高齢化が進み、最若手は僕らの世代(50代前半)となってしまった。
前衛的な山岳会ではないから若手をたえず導入して新陳代謝などはからなかった結果だろう。
でもだからこそここまで続いたのだろうし、居心地が良かったのだろう。
メンバーは記録よりも記憶を大切するタイプの人たちばかりである。人生を山歩きに投影しながら日々の山歩きをじっくりとやっている。(もちろんバリエーションルートに挑戦し初登記録を打ち立てた精鋭もいるけれど)

新年会では小1時間のミニライブをやった。
 ①おじいさんの古時計
 ②イムジン河~悲しくてやりきれない
 ③さとうきび畑
 ④あすなろの歌(山の会のテーマソング。20年程前に作った僕のオリジナルです)
 ⑤涙そうそう

5曲で1時間引っ張った。歌よりもトークの方がずっと長い、僕本来の「フォーク寄せ」。
「あすなろ」で演奏するとみんなの反応がとてもよく、かゆいところに手が届くようなリアクションが返ってくる。僕はいつものせられっぱなし。
いい時間を過ごさせてもらい、帰路についた。

(写真の『あすなろ通信』は山歩きの記憶を記録にとどめる唯一の機関誌。もう71号にまでなった)

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買っちゃいました! 『セメント・フォーク大全集 1.2巻』

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アルフィー坂崎幸之助が編集に参加して作った歌本だけあって、かなりマニアックな部分もあり面白いできの本です。

まだ眺めてるだけですが、それだけでもけっこう触発されちゃいますよ。

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『街角ライブ』 2月5日 即興演奏をリクエストされて・・・

この冬一番の寒さだった今回の『街角ライブ』。
寒さのせいか、人通りもまばら。路上ミュージシャンもまばらでした。

「かくれた名曲、忘れ去るには忍びない歌」の演奏を始めました。今年のテーマです。
今演奏してみたいいろんな歌が頭の中で渦巻いています。洋楽から歌謡曲まで含めて。

で、とりあえず今回は沢田研二モノを数曲演奏しました。
なぜジュリーか?
深い意味はないのですが、たまたまジュリーのアルバムがカーステレオにセットされていただけのことなんですが・・・。ジュリーがソロデビューしてから約10年間のベストアルバム。これがまたいい歌がけっこう入ってるんだな。

  ①LOVE(抱きしめたい)
  ②ヤマトより愛をこめて
  ③白い部屋
  ④あなたへの愛
  ⑤君を乗せて
  ⑥胸いっぱいの悲しみ
  ⑦時の過ぎゆくままに

以前は歌う気にもなれなかったジュリーですが(何しろカッコよすぎて…)、時を経てチャレンジしてみるとそれぞれの歌にストーリー性があり歌いごたえがありました。多分組み合わせて歌うことで意味が出てくるんだろうなと思いながらの演奏でした。

いとこのenta古池の曲で『僕の星まで』。今日が2回目の演奏でした。だんだん情が入ってきて、いい仕上がりになっています。(そのうち紹介いたします)


さて、今回は深く考えさせられる出会いがありました。

突然外人に声をかけられたのです。外人からのリクエストはたまにあることなのですが、なにやらただ事ではない顔をしている。いきなり離婚についての歌を歌ってくれという。それも子供がいる夫婦の離婚についての歌だというのです。離婚人口はかなりの数に上っているにもかかわらず、これをテーマにした歌というのはほとんどないですよね。歌にはしにくいテーマだからね。僕の知っている限りではアルフィーの『メモアール』という曲くらいです。
「そういう歌はレパートリーにない」と言ったら「即興で作ってくれ」と有無を言わせない感じでせまってきました。
何かただ事ではない感じだったので、やりましたよ。頭に情景を思い浮かべて浮かんでくる言葉にメロディーを乗せてアドリブの離婚の歌を。

納得したのかどうかわからないけれど、今度は見も知らない子供を殺す歌を即興で歌えという。
さすがに「何だこいつは、あぶねぇんじゃねえか?」と頭をよぎりましたよ。そこで「なぜそんな歌をリクエストするんだ?」とたずねてみました。
「なぜ日本人は見知らぬ子供を殺す。そこにいただけでナイフで突き刺す?」
言葉がなかなか通じず最初ピンと来なかったのですが、一昨日の子供をナイフで突き刺した殺人事件のことを言っているようでした。

「君は僕にその答えを聞いているのかい?日本人はみんな同じだとでも思っているのかい?」

「私の国、コロンビアでも子供を殺す。殺した8ヶ月の子供のおなかを裂いてコカインを詰めて輸出する。悪いことだけど理由がある。貧乏だから…。でも日本人の殺人、理由が何もない。なぜ?わからない…」

彼の目は憎しみと悲しみをたたえているようでした。

そこまで身振り手振りで話をして僕も腹をくくりました。絶対に歌えない歌です。子供を殺すなどというテーマは。
しばし目を閉じて瞑想しました。浮かび上がってくるイメージを定着させ、イメージの断片をつなぎ合わせおもむろに歌い始めました。

自分が親であること。生まれたばかりの子供を見てできることならこの子の最後まで自分が見守りたいと思ったこと。でも突然見知らぬ誰かに子供の命を断ち切られたこと。見知らぬ誰かはイメージできなかったけど残された自分の心のこと。そして神様のこと。

とてもひとつの歌として完結できるテーマではないけれど、コロンビア人の彼にはごまかしは効かないと思い必死で歌いました。歌のなかばで気がつくと彼の目には大粒の涙が・・・。
友人に付き添われて去っていく彼にも3歳の娘がいるとか。そばの柱をひとつたたいていたその振動が妙に心に残りしばらく歌えなくなり、ライブは一時中断。

中断しながら考えていたことは彼の言い残した言葉。
「あなたはもっとメディア、ニュースを、今起きていることを歌にして歌うべきだ。あなたにはそれだけの力がある」

フォークソングを始めた若いころ、そんな試みをしていました。とても音楽といえたシロモノではありませんが、今起きていることを歌にするという試みでした。浅間山荘事件のことや、70年安保のこと。学校で起きた事件などをアドリブで歌っていました。アドリブだから「演奏」した瞬間に消えてなくなるものでしたがとにもかくにもそれは自分の意思表示でした。
蒲生の喫茶店「いずみ」ではマスターと二人で即興演奏のやり取りをしながらえんえんと歌い続けるなどもしていました。

即興演奏は今でもたまにやることがありますが、それはお客さんを前にしてその反応を見ながらのこと。ライブの場の空気を作るためのもの。もっと積極的に視野を広げ、意識的に即興演奏をするという視点はすっかり忘れ去っていました。

あまりに多くの事件が毎日のように起きる昨今、感覚が麻痺しつつあったのかもしれない。その結果何かを感じたとしてもすぐに薄れていってしまう毎日だったのかもしれない。
そんな反省をちょっぴりさせられた出来事でした。

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2005.02.04

200CDフォーク

2000cd


日本のフォークソングの歴史を、レコードをとおして再現した本です。
フォークの黎明期から始まり、現在にいたるまでの系譜をたどっており感涙ものです。

立風書房 刊
2100円

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2005.02.01

『イムジン河』

イムジン河水清く とうとうと流る
水鳥自由に 群がり飛び交うよ
我が祖国南の地 想いははるか
イムジン河水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河空遠 虹よかかっておくれ
河よ想いを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも 忘れはしない
イムジン河水清く とうとうと流る


「街角ライブ」で『イムジン河』を時々歌う。毎回というわけではないが何かことが起きると必ず歌ってきた。そしてそのたびにたくさんの人たちが一緒に口ずさんでくれた。

この歌は35年程前フォーク・クルセダースによって歌われ、レコード発売を目にして突然発売禁止、放送自粛となった歌だ。にもかかわらず水面下で静かに歌い継がれてきたからこそたくさんの人たちが記憶の底に息づかせてきたのだろう。


『イムジン河』は1960年代に北朝鮮で作られた。作詞はパク・セヨン(朴世永)、作曲はコ・ジョンハン(高宗漢)である。パク・セヨンはプロレタリア文学の詩人で北朝鮮国家『愛国歌』を作詞した人物だそうだ。

この歌が在日朝鮮人によって歌われているのを耳にした松山猛が感動し、訳詞をしてフォークルが歌い始めた。1968年のことだ。

「中学三年のとき、朝鮮中高級学校で偶然に原曲を聴き、胸をつかれた。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰還運動の中、親友が次々に帰国し、動乱後の分断をいたたまれなく感じていた時期だった。高校卒業後にフォークルと知り合い、あの詞を書いた。ベトナム戦争への反戦運動が世界中で巻き起こっていた。特別な政治思想もなかった僕さえ、反戦デモに参加した。若者の多くが世の中に疑問を抱いていた。ごく普通の若者をも怒らせた時代、多くのことを考えざるを得ない時代だった」

松山猛インタビュー記事から)

               →松山猛の他の記事

ところが『帰ってきたヨッパライ』に続くフォークルの第2弾シングルとして予定されながら、直前で発売中止となってしまった。朝鮮半島の統一を願う歌詞が、原詞に忠実ではないなどと北朝鮮側からクレームがついたらしい。

「原詩に忠実でないと朝鮮総連から抗議をうけたというのがその理由であった。しかし、実は総連側の抗議内容は、<イムジン河>の原詩は、北側にとっては重要な人が作ったものなので、発表する場合は、朝鮮民主主義人民共和国の何某が作った歌と、はっきり明記すること、というものだったのだ。国交のない共産圏の国の正式名称を併記することを東芝は親会社の手前、躊躇したのである。」(黒沢進 CD「ザ・フォーク・クルセダーズ ハレンチ+1」解説 1995)


他方で、北朝鮮の歌が日本で広がることを好ましく思わなかった韓国大使館が東芝に圧力をかけ、発売中止に至ったということもあったらしい。

いずれにしろ、訳者の松山猛やフォークルにはきちんとした説明もないまま『イムジン河』は表舞台から闇に葬られてしまった。

発禁になった『イムジン河』に変わり急遽発売されたのが『悲しくてやりきれない』だった。この歌はサトウハチロウの詩に加藤和彦が曲をつけたものだが、加藤は『イムジン河』の最後から始めに向かって譜面をおこしたという話は有名だ。

「わが祖国南の地 思いははるか」 「故郷をいつまでも 忘れはしない」

この歌は北朝鮮の人たちが国境を流れるイムジン河の流れに思いを託し、故郷の南の地や生き別れになっている家族同胞といつかまた会いたいという切ない思いを歌っている。狭い朝鮮半島。同じ民族がなぜ別れ別れにならねばならないのか。北朝鮮の民がこの歌を歌うときそれは望郷の歌となり、南北統一を願う歌になる。


けれど僕は朝鮮の歌だと割り切ることができないでいる。

「誰が祖国を二つに 分けてしまったの」

1945年。日本が戦争に敗れてそれまで植民地支配をしていた朝鮮半島から撤退した。
その後38度線を境に北はソビエトの後押しを受けた金日成、南はアメリカの後押しを受けた李承晩が「統治」した。ここに同一民族の二つの国家が生まれていく。
5年後の1950年アメリカとソビエトの冷戦の激化から両国は朝鮮戦争(動乱)で激しく争うようになる。このとき多くの民たちが同族同士争い、その後の行き来さえままならぬ状況に追い込まれていく。

直接にはアメリカとソビエト(及び中国)とが二つの国家に分けた張本人ともいえるが、その背景には日本による植民地支配がある。日本も決して無関係ではない。

でも……
政治の話の中でこの歌を持ち出すと、ことの本質は見えなくなってくる。
僕はこの歌を、心の国境として受け止めたいと思っている。
誰にでも人と関わろうとして関われない垣根を持っているものだ。この心の垣根が互いの存在を尊重するものとして機能している分には必要なものだろう。でもその垣根にこだわるがゆえに他人を拒んだり、攻撃をしたりということを我々はついやってしまう。

人と人が虹という掛け橋を介して通じ合えるようにという願いを込めてこの歌を歌い。
朝鮮半島の人たちの歌であると同時に、日本人一人一人に通じる歌。僕自身の心に通じる歌。そんなイメージで歌っている。

(ジョン・レノンの『イマジン』と『イムジン河』をワンセットにして歌っているのは決してごろ合わせだけではないのです)

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