三島由紀夫割腹自殺から34年
1970年の今日、11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に立てこもり世に檄をを飛とばし割腹して果てた。
当時高校生だった僕はテレビに映し出される三島の映像を見てショックを受けていた。
「なぜ三島が…?」
思いはこの一点に集中していた。
「文学青年」を気取っていた僕は『金閣寺』の三島由紀夫と『楯の会』の三島由紀夫がどうしても結びつかなかったのだ。
1970年。世情は様々な話題で揺れていた。
3月には赤軍派による「よど号ハイジャック」。
4月には大阪万博の『太陽の塔』占拠事件。(アイジャック)
べ平連による座り込みデモ。
樺美智子さんの追悼集会での騒乱事件。
全国で左派、新左翼による70年安保反対のデモが展開される。
そして6月23日の安保条約自動締結になだれ込んでいく。
国の方向性をめぐっての激動の1年だった。
70年安保闘争が「敗北」に終わり、闘争課題を失った新左翼内の「内ゲバ」が激化し始めたのもこの年だった。
激動の1970年を締めくくるようにしておきたのが「三島事件」だった。それまでは「左翼」からの攻勢だったのが一転して「右翼」からの攻勢というイメージでもあった。
左翼については人並みに知識をもっていたのだが、右翼についてはまったく知らなかった。まして右翼と三島がどうつながるのか。青天の霹靂だった。
アメリカからの本当の独立を勝ちとるため、自衛隊は立ち上がれ。あと二年の内に自主性を回復せねば自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう。
こんな内容の檄を飛ばした三島だが、僕の目にはアナクロにうつっていた。何しろ自衛隊の存在そのものが憲法違反として問われていたご時世だったから。
今思うと、日米安保条約で日本がアメリカの核の傘の下に入ることが確定した1970年。独自の自主的軍隊として自衛隊に決起をせまった三島もまた安保闘争の落とし子だったのかもしれない。
あれから35年近い時が流れた。
素人の浅はかな感想を率直に言わせてもらおう。
北朝鮮の核の影におびえ、拉致事件に断固たる対応が取れない日本。
アメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣している日本。
これって、アメリカの傭兵とは違うのかな…?
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