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2004.10.29

朝 秋空

いつもの自転車通勤路。冷え込んで手がかじかむ。今年初めて。秋・・・。200410290705.jpg

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2004.10.28

清津峡コンサート フォトアルバム

http://odawara.info/camp/

sendaさんが作ってくれました。

上のURLをクリックしてお楽しみください。

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2004.10.26

街角ライブ日記 10月23日

3週間ぶりの『街角ライブ』だった。
山形に行ってたり、丹沢で『清津峡コンサート』だったりで間が空いてしまった。

いつもよりかなり早めに到着しセッティングをしていると、ペルーのフォルクローレバンドが来た。彼らの演奏場所と僕の場所はバッティングするのだ。以前取り決めをして土曜日は僕が演奏するということにしていた。そのためか半年以上もの間、土曜日に彼らの姿を見ることはなかった。

以前取り決めしたのとは別のグループだが、日本人のサポート隊が付いており彼らの顔ぶれは同じだった。当然情報交換はされているはずだ。

先に到着し準備を終えているのでお引取り願った。

200410252014.jpg


フォルクローレは好きだし、僕はケーナ吹きでもある。彼らの演奏が嫌いだというわけではない。でもどうしても冷淡になってしまうのは僕がストリートミュージシャンのはしくれだからだろう。
彼らの傍若無人さのため演奏の場を奪われた若手を何人も知っている。ストリートミュージシャンが生で演奏しているすぐそばで、スピーカーを使って大音量の演奏を平気でやる彼らに憤りを感じる。

そんなやり取りのあと気を取り直して演奏開始。
久しぶりということもあり気合が乗る。

ところが演奏が始まるや突然グラッときた!地震だ。それもやばいほどでかい。
淡々と演奏を続けたが、内心はどうしようかと思っていた。
駅ビルのエレベータが止まった。救急車が来て目の前を隊員が走っていく。自粛しようか迷いながら演奏を続けた。

不思議なもので異常事態だというのに人が集まりだした。なぜだ?と思っていたがなぞが解けた。地震のため武蔵野線が止まったのだ。行き場を一時失った人が僕の歌を聞きつけて集まってきたのだ。

そこからがちょっとしたフォーク集会になった。リクエストが飛び交いお客さんたちの合唱になる。僕の得意のパターン。

そんな時間が1時間も続いただろうか。やがて武蔵野線は開通しお客さんは三々五々と引き上げていった。

そのあとは行きかう人も減り、寂しい展開となった。
一応ノルマの11時半まで演奏して終了。

最後は寂しかったが、満足感は残った。
お花をくれたお母さん、ありがとう。
お酒をくれたおじさん、ありがとう。
チラシをもらってくれたたくさんの人、ありがとう。
カンパをくださったかたがた、ありがとう。これはギターのメンテナンスに使わせていただきます。

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往年のギター少年

TAKUYA`S PAGE HOME いとうたくやのホームページへようこそ 独り言 ←全文


私たちがギターに目覚めたのは今から37,8年前のこと。自動車持ってれば金持ち、電話有る家金持ち、カメラ持っているガキ金持ちの子、革靴履いてるガキ金持ちの子、スキー持っているガキ金持ちの子なんて時代だった。外車持ってるなんてどんな金持ち?外国旅行なんてする奴どんな金持ち?ともかく良くても悪くても舶来ものはトレンディで金持ち、格好いいの象徴みたいなモノだった。それで見たことも無いやっぱりギブソンの音は最高だよ、やっぱりフィンガーはマーチンだねとか、レコードを聴いてはこの音はなんてやっていたんだな。やっぱりギブソンとマーチンがアコースティックの両雄だった。


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ギターはやっぱり マーチン?


TAKUYA君のサイトを見ていて、音楽に対してピュアだった時代のことを思い出していました。

音楽だけじゃなく、見るもの聴くもの全てに新鮮な驚きを感じていた若い時代があったんですよ。僕にも。

特に中学、高校時代なんて今思うと我ながら微笑ましくなるくらいです。

僕の出た函館市潮見中学校の校訓にこんなのがありました。

1.いつもなぜかと問いをもとう
2.美しいものに驚きをもとう

まさにこれを地でいってたところがあります。

ご多分にもれず決して裕福でなかった我が家の経済事情から、僕が中学時代手に入れたギターはネックのそりかえった中古品。お年玉をためて5000円で買った記憶があります。

レコードプレーヤーなんかないからもっぱら真空管ラジオに耳を押し当てて聴き入っていました。洋楽・邦楽とわずに。
放送委員の特権をフルに活用して放送室でレコードを聴きまくってもいました。(その時放送室で録音したオープンリールのテープはいまだに宝物として残っています)

練習さえすればレコードのように弾けるようになると無邪気にも思ってましたもんね。

TAKUYA君も書いていたけど、当時はタブ譜なんてもんはないから聴いて真似するわけですよ。ところが完コピなんてできるはずもなく、落ち込むわけで…。

(僕のセガレどもは二人ともタブ譜を見ながらコピーをしている。でも僕はいまだにそれができないんです。いまだに耳を頼りにコピーをしている。それも自分の都合のいいように、弾きやすいようにやってるわけだからコピーなんかじゃないわけです。)

てなわけで、中学・高校と耳だけは妙に肥えてしまって、この音はギブソンだ、マーチンだ、なんてやるわけ。

あこがれましたよ。ギブソンやマーチンに。


僕が初めてマーチンを手に入れたのは40歳を過ぎていたかな。ずーっと高嶺の花だったマーチンを買う気になれたのは、親父が死んだ後でした。

それまではいろんなギターを渡り歩いてきました。
ヤマハだったり、グレコだったり、オベーションだったり…。

でもあこがれのマーチンやギブソンが買えなかったんです。
なんだか怖くて。
まだマーチンをもてるほど上達してないとか思ったりしてました。
思い入れたっぷりに買ったはいいけど、もし期待通りの音じゃなければどうしよう…、とか屈折した思いもありました。


親父が死んだ時思いました。

「もう頼る者はなくなった。自分で行くしかない」

で、最初に起こした行動がマーチンを買うことでした。

以来10年、僕のメインのギターはマーチン。ステージに路上にとフル回転しています。
サブとしてシーガルやサイモン&パトリック、ヤマハなんかも使ってます。でもここ一番はやっぱりマーチン。

話は変な方向に来てしまいましたが、往年のギター少年 TAKUYA君の記事は一見に値します。

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2004.10.25

日本シリーズ いよいよ大一番


昨夜の松坂は頑張りましたね。見ていて胸が痛くなった。

特に西武ファンというわけじゃないし、中日ファンというわけでもない。でも昨日の一戦はちょっと胸にきました。

松坂君。
うちの長男と同じ年なんです。なぜか顔がそっくりなんです。(親ばかと笑うなかれ)。中学時代の日本選抜で長男の同級生小板君が松坂君と一緒に投手で選抜されたのです。(?…関係ないか!)

松坂君の力投を見ているとまるで息子を見ているような気になってしまい、思わず力が入ってしまうのです。


中日監督 落合君。
東洋大学で僕と同期生だったんです。二人とも中退なんです。何の関係もないんだけど。
以前から親近感を持ってました。彼が三冠王を取ったときも本当に嬉しかった。
あの生意気くさい「俺流」も含めて、ヨッ!ご同輩!って感じなんです。

その生意気な落合君がタイに持ち込んだゲームでうっすら涙を流してましたよね。こちらまで泣けちゃった。


う~…
どちらも応援したい!

もしも今日松坂君が登板したら多分彼を応援しちゃうかも。

親って、子供にかなわない?

あほか!

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食料届かない、車も人手も足りず…避難3日目

@nifty:NEWS@nifty:食料届かない、車も人手も足りず…避難3日目(読売新聞)←(全文はこちらをクリック!)

食料届かない、車も人手も足りず…避難3日目(読売新聞)
 約9万8000人が避難生活を強いられている新潟県中越地震で、発生から3日目を迎えた25日朝、各地の役場や避難所では食料や水が配られた。しかし、配送車両や人手などが足りず、届かない事態も相次いだ。
 中越地方には25日夜、雨が降るとの予報も出ており、2次的な土砂災害の発生も懸念されている。被災者の疲労と不安は募る一方だ。

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中越地震

朝仕事に行くと親しくしている同僚 OGAWA君の姿がなかった。地震の直後、郷里の新潟それも小千谷の実家に車で駆けつけているとのこと。

大変な地震だった。僕の住んでいる越谷でも大揺れだった。僕はちょうど『街角ライブ』の真っ最中。駅ビルのエレベータが動かなくなっていた。


僕にも大きな地震の経験がある。

ひとつは昭和39年(1964年)の「新潟地震」。白黒テレビの画面の中で炎上するビルの映像が今でも記憶に残っている。小学4年の時だった。このときの記憶はこれだけだから、函館では大きな揺れや被害はなかったのではないかと思う。


もうひとつは実際に体験した「十勝沖地震」。
これは大きかった。
昭和43年(1968年)。中学2年だった。
体育の授業中だった。体育館で腹筋運動をしながら妙にプルプルするなと思っていた。筋肉が痙攣しているのかと思った直後にグラっときた。普段は怖いものなしという顔をしている体育のKON先生が血相変え、「外に出ろ」と叫んでいたのを覚えている。
この時の地震で3階建ての函館大学の1階がつぶれて2階建てになった。
中須の街 函館は元々地盤が弱いのだろう、街のあちこちで道路に亀裂が入った。
同級生のF君の家が真中から2つに裂け左右に傾いたのを覚えている。
(その後F君の家は裂け目にトタンを貼りつけて住んでいた。左右に傾いた家は住み心地がさぞや悪かったことだろう。昨年8年ぶりに函館に帰るとF君の家は跡形もなく、そこには全日空ホテルが建っていた)


先ほどOGAWA君と連絡が取れた。家族はみな無事だったそうだが家の中がグチャグチャだそうだ。

今回の地震で亡くなられた方のご冥福とともに、避難されている方の安全と一日も早い復旧を祈りたい。

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2004.10.23

思い出の白山祭

街角でみかけたポスター。
母校 東洋大の学園祭。第40回とある。
30年前はロックアウトの狭間だったっけ。

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当時東洋大学は白山と川越に校舎があった。学校は市街化調整区域だった朝霞に新校舎を建てる構想を発表した。
70年安保の余韻がまだ残る空気の中で学生たちは一斉に反発した。
「移転反対連絡協議会」の1学年議長に祭り上げられた僕は白山祭を前にして奔走したのを覚えている。

解決がえられないまま白山祭に突入し、僕はクラスの仲間と学校に泊り込んだ。クラスメイトは移転反対運動とは別に「人形劇」を企画していた。僕もそれを手伝い、その流れで泊り込んだのだ。僕にとっては久しぶりに心休まる時だった。深夜、階段の薄暗い踊り場に座り込み、友人のギターを借りて輪になって歌った記憶が鮮明に残っている。

白山祭が終わり、しばらくして学校はロックアウトに突入した。

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30年のときを経た。
朝霞には新校舎ができ、白山校舎も近代的ビルに生まれ変わった。
何事もなかったかのように…

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2004.10.21

台風に走る

超大型台風23号がかけぬけた。
あちらこちらで被害の爪痕を残して。

テレビの前情報がしっかりしているので準備万端整えて出勤した。登山用のカッパにザック。ザックの中はビニール袋で防水対策。


ふだんは自転車で通う5キロの道のり。雨の日はあの武蔵野線に乗るのが常。雨が降っては止まり、風が吹いては止まる武蔵野線。台風ではまともには帰れないだろうと思っていた。


案の定、東川口駅では構内放送を流していた。

「ただいま武蔵野線は時速15キロで運行しております。ダイヤが大変乱れており、ご迷惑をおかけいたします」

過去の経験では1時間はダメだろうと判断した。


一昨日からの雨で自転車を駐輪場にデポしてあった。カッパを着込み、頭にはフードの上からバンダナを巻き自転車にまたがる。軽い緊張感。
雨脚はかなり強い。風が思っていたより強くないのが救いだった。


ゆっくりとペダルをこぎだす。路面には水がたまっていてアスファルトの表面は見えない。脇を走り抜ける車のつっぱねがものすごい。すぐにぬれねずみになる。


でもひとたび濡れてしまうともう気にならなくなる。むしろアドレナリンがクツクツ沸騰してくる。この感覚は久しぶりだ。

「雨よどんどん降れ!風よどんどん吹け!」

妙にヒロイックな気分になり、モチベーションが上がっていく。そして普段忘れていることを考えだす。


どうして、いつも雨を嫌がるんだろう?
濡れるからな・・・。

なんで濡れるのが嫌なんだろう?
後の始末が大変じゃん。服は濡れるし、自転車はさびる。後が気持ち悪い。

でもつい数年前までは平気で走ってたろう?15年間、片道25キロの道のりを毎日通勤サイクリングをしていたじゃないか。雨だろうが雪だろうが。

いつからだろう。年のせいだろうか?
体力も気力もここ数年ずいぶん衰えている気がする。

この数年で自分が変わったことといえば・・・?

あれほど拒んでいた車を買った。楽することを覚えちゃったかな。

携帯やPDAを持ち歩くようになったな・・・。濡れるとアウトの電子機器。

便利さと引き換えに身ひとつで勝負することを避けるようになったのかな?知らず知らずのうちに・・・。


そんなことを考えるともなしに考えているうちに家に着いた。

明日には台風は抜けているだろう。普段どおりの生活にまた戻る。
いつもなら避ける雨を今日は向かっていくことできた。
いつもと少しだけ姿勢を変えたことで今の自分を少しだけ振り返ることができた。

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2004.10.20

石井重行氏 夢への挑戦  車椅子の物語

競争優位を獲得する最新IT経営戦略

カッコよさとスピードを追い求める
OXエンジニアリングがつむぐ車椅子の物語

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先日『夢の扉』という番組がオンエアされた。

パラリンピックで8割もの金メダルを獲得した車椅子はOXエンジニアリング製だという。
会長の石井重行氏は元ライダーで事故のため脊椎を損傷し20年来車椅子生活をしているという。

石井重行さんは身障者が夢を描ける車椅子作りを続けている。そのノウハウがパラリンピックでの金メダルにつながっているのだろう。

番組の中でオフロード用の車椅子を開発した石井さんがおおはしゃぎで試乗している姿が印象的だった。

ネットで石井さんを検索したら、興味深い取材記事が載っていたのでご紹介します。

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イチロー国民栄誉賞受賞を辞退

北海道新聞 記事より(全文はこちらをクリック)

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「やり切ったときに」 イチローが受賞辞退の弁


 細田博之官房長官は八日午後の記者会見で、国民栄誉賞受賞を辞退した米大リーグのシアトル・マリナーズのイチロー選手(30)が代理人を通じ「野球生活を終え、本当にやり切った時に、もし頂けるならば大変ありがたい」とのコメントを寄せたことを明らかにした。

 イチロー選手は「国民栄誉賞は日本国民として最高の賞で(授与の打診は)大変光栄だ」と謝意を示した上で、「国家から表彰を受けると、モチベーション(動機づけ)が下がり、ピークが終わったのではないかと受け取られると、ファンにも申し訳ない」と説明。

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好感もてますね。
表彰されることでモチベーションが上がる人もいるんだろうけどね。

イチローが修行僧とたとえられるのが分かるような気がします。
基準は他人の目ではなく、自分なんでしょうね。

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坂庭しょうご 『別れの歌』

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昨年の暮れ亡くなったギタリスト、坂庭しょうごさんの『別れの歌』というCDをもらった。
「清津峡コンサート」に来たサクラダおじさんが、わざわざ持って来てくれたのだ。
欲しいと思っていたアルバムだけにありがたく頂戴した。

坂庭しょうごさんは僕にとっては後を追いかけてきたギタリストで影響を強く受けている。
(『花嫁』の作曲者といった方が通りがよいかもしれない)
53歳という若さでガンのためこの世を去った。

以来僕は毎週土曜日の『街角ライブ』では必ずしょうごさんの歌を歌うことにしている。

清津峡からの帰りの車中、アルバムを流しながら涙していた。

(写真の花束は「清津峡コンサート」で萌ちゃんという3歳の女の子からいただいたものです)

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2004.10.19

雨の墓情 ?

台風前の雨もよう。
都内のビルの5階。
ふと見下ろすと寺のそばでお墓が雨に煙っていた。
よく来る場所なのに初めて気がついた。200410191629.jpg

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2004.10.18

第1回 清津峡コンサート

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第1回目のコンサートが開かれました。
2年程前から話が持ち上がっていたのですが、やっと実現の運びになりました。
10年以上前からミニライブをやってきて、いろんな人との出会いがありました。中には音楽が好きな人、楽器をやる人もたくさんいたのです。その人達の力を集めてコンサートにしようという試みです。

電気のない清津峡キャンプ場ですから当然アコースティックライブ。自然の音にアコースティックな音を調和できればと思っていました。川のせせらぎ、鳥の声、風渡る音の中に流れるギターの音色は格別のものがあります。

最初の試みということもありコンサートはこじんまりとしたものでしたが、演奏した人も聴いてくれた人もゆったりとした良い時間を過ごせたと思います。

今回の出演者は僕 Martin古池。そして「中村先生」。

中村先生はアメリカン・オールドタイミー、カントリー、ブルーグラスの歌を日本語に代えて歌いつづけている超ベテランシンガー。マーチンをケースごとかついで、高校山岳部顧問時代の教え子sendaさんを伴っての参加。

中村先生と僕は音楽活動のルーツが同じで共通のレパートリーがたくさんあります。二人とも強く影響を受けた高石ともやさんのやってきた活動をそれぞれのフィールドで実践しています。

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昨夜はかなり冷え込み、焚き火をガンガン燃やしながらの前夜祭でした。うって変わって今日は穏やかな暖かい陽射し。生い茂った木の間からこぼれる陽なたを選んでステージを設定。ステージといっても木のベンチをいくつか置くだけですが・・・

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11時ごろ10人ほどの参加者でコンサートを始めました。僕のソロステージ。おなじみさんに混じって初参加の若者たち。どういうアプローチにしようかと思いつつ手探りで歌いだしました。結局は秋の歌をメインに1時間ほどで演奏を終えました。彼らと僕の探りあいで軽くジャブをくりだす展開でした。

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昼食をはさんで第2部は中村先生の「トークショー」から。
「先生」は歌よりも話が長い。歌の説明から始まって、歌の背後にある歴史背景の講義をする独特のステージ。
アメリカの古い歌を発掘し、その詩を日本語に訳しメロディに乗せる。言葉の乗せ方に多少の無理はあるのですが、おかまいなしに強引にいってしまうところが「先生」のやりかた。
「先生」の音楽の背景には昔の高石ともやの音楽アプローチと関西フォークの影響を濃厚に感じます。

『中村ワールド』のあとふたたび僕のステージ。19歳の若者が「チューリップ」と「かぐや姫」が好きだということを聞いたのでそのあたりを中心にやりました。リクエストをただやるのではつまらないから、『神田川』時代の若者気質や僕の実体験を織り交ぜ、他の歌も絡ませて展開しました。まさに『古池ワールド』の全面展開。

3時過ぎ日も翳り、かなり冷え込んできたので終演に。
それまで休憩していた「先生」がふたたび登場。
『私に人生といえるものがあるなら』と『陽気にいこう』を即興でセッションして、「第1回 清津峡コンサート」は終了しました。

中間テストを終えて来てくれた18歳のミトモリ君。ありがとう。
はじめて参加してくれた若者たちありがとう。
いつもまめに気を配ってくれるサクラダおじさんありがとう。
写真をとってくれたsendaさんありがとう。
「もえちゃんは『どんぐりコロコロ』がいい」とリクエストしてくれた3歳のもえちゃん、ありがとう。
中村先生、お疲れさまでした。
そして清津峡のお母さん、アキラちゃん、じゅんちゃん本当にありがとう。
来年の第2回につながることを祈って!!

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     sendaさんのフォトアルバム

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2004.10.17

たき火をかこんでコンサート

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清津峡コンサート前夜祭。
底冷えの中でたき火をガンガン燃しての演奏。
炎は人の心を原始に帰す。

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黒船ラーメン 西川口店

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スタンダードな味だが味がしっかりしている。
毎日食べたとしても飽きがこない当たり前の味というところが好感もてます。

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2004.10.15

やっと・・・秋空


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夏が終わって
梅雨がきて
やっとめぐってきた秋の空
今朝の空気にはほんのちょっとだけ・・・
冬の匂いがまぎれこんでいた

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2004.10.12

山形 芋煮会

毎年この時期になると妻の実家、山形に行く。
子供たちが成人した今、我が家に残った全員が行動を共にする唯一の行事だ。

実家には妻の両親と弟一家が一緒に暮らしている。総勢7人の大家族だ。これに我が家の4人が加わると結構大変なもんだ。

11人集まって近くの川原で今年も恒例の芋煮会。山形県の風物詩の一つだ。この季節になると川原のあちこちで煙が上がる。

DSCN1020.JPG


大鍋にサトイモをそのまま(もちろん皮をむいて)、大根やこんにゃくと一緒に煮込む。
途中でしょうゆを少し入れて煮込む。
サトイモが柔らかくなった頃、牛肉を大胆に入れる。ネギもこれまた大胆に放り込み、ひと煮立ち。
しょうゆと砂糖で味を調える。
器に豪快に盛って、豪快にほおばる。

場所によってはサトイモが煮えたら一度湯を捨ててぬめりを取ったり、牛肉の変わりに豚肉を入れたりするそうだ。サトイモではなくジャガイモを味噌味にする芋煮にもあるとか。

とにかくうまい。
味付けはいたってシンプル。シンプルだからこそ野外に合うのだろう。

一度全く同じ作り方で家の中で芋煮をしたことがある。うまいにはうまいがなんか物足りない。芋煮は野外でやるに限るのだろう。野外のうまい空気と焚き火の香りが最高の調味料なるのだと思う。ジンギスカン鍋を料理屋で食っても物足りないのと同じなんだろう。

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TAKUYA君の函館帰省紀

函館青柳小学校時代の同級生、TAKUYA君が先月帰省した。
彼のホームページにその写真が掲載されている。
前回は僕たちが幼年時代をすごした町並みがメインだったが、今年は彼のおじいさんが昔暮らしていたという柏木町や僕の母校函館東高校近辺がメインになっていた。
昨年の青柳町や宝来町なども懐かしいが、今回の帰省紀も僕にとっては懐かしいものだった。
東高校はもちろんだが柏木町は僕の母方の実家があり幼年時代時たま遊びにきていた街だった。今は舗装されきれいになっているが40年前は電車通りから1本中に入ると土の道だった。

TAKUYA君も書いていたが我々が生まれた昭和29年未曾有の大型台風「洞爺丸台風」が駆け抜けた。青柳町の僕の家は台風に持っていかれたそうだ。多分この時「柏木町のおじいちゃん」の家に避難したのではないかと思われる。ちなみに青柳小学校で1.2年時代の押澤しげたか校長先生も洞爺丸から自力で生還した数少ない一人だったと聞いたことがある。

そんなことを考えながらTKUYA君の函館帰省紀に目を通していた。

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PDAテスト うまくいったようです

無事投塙できたようです。
これからはPDAが活躍しそうです・・・?

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PDAからの投校テスト

PDAを使えば比較的どこでも記事を書けると思い、いろいろ試してきたがどうも今ひとつうまくいかなかった。
今度こそはと思ぃ、また試します。うまくいけば皆さんの目にとまることになります。だめならまたも闇に消える運命。
はたして命運やいかに?

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2004.10.08

函館八幡宮のサクラが切られる寸前に開花 !

「函八のサクラが切られる寸前に開花 」 eHAKO 地域ニュース :-)

函八のサクラが切られる寸前に開花
update 2004/9/29 10:11
 「切らないで」―。函館市谷地頭町の函館八幡宮(中島敏幸宮司)の一角に植えられている樹齢100年(推定)のオオヤマザクラが、28日までに季節外れの花を咲かせた。台風18号の暴風で太い幹が途中から折れ、近日中に切り倒される予定だったが、サクラの小さな声が奇跡を呼び、一転して保存されることになった。

 同八幡宮によると、このサクラは1918(大正7)年に完成した現社殿建設中の15年(同4)年に植えられた。高さ約10メートル、幹の直径は約40センチという古木で、毎年春ともなればピンク色の花を咲かせていた。

 しかし、8日に接近した台風18号の暴風のあおりを受け、3分の2を残して幹の上部が折れてしまった。もともと木自体は腐りかけ、幹の内部が空洞化していたこともあり、今回の被害を機に根元から切り倒すことにした。

 だが、28日の午前中に神職の1人が折れた部分の脇から出た3本の枝先に8輪ほどの花が咲いているのを発見。「あした(29日)にでも切ろうかと思い、何げなく見たら花が咲いていた。本当にびっくりした」という。花のほかにも、約20個のつぼみがピンク色に染まり、春のような光景が広がっている。

 この奇跡を前に、同八幡宮では切り倒すことを思いとどまり、空洞の部分の手入れも含めて保護することにした。「ただの季節外れの開花とは思えない。この八幡宮を90年間ずっと見守ってきた木が、切られる寸前に花を咲かせたとなればなくすわけにはいかない。自然に朽ち果てるまで育てていく」と感慨深げだ。

 サクラに詳しい道教育大函館校非常勤講師の浅利政俊さんは、「オオヤマザクラは気温に敏感。台風で葉が落ちた後の寒暖差で冬を越し春が来たと勘違いしたのでは」と説明するが、開花のタイミングについては「実に神秘的でロマンチックな話」と同調している。
(池田比佐史)

提供 -- 函館新聞社

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2004.10.05

八潮市シンポジウム『このまちの生活支援を考える』


障害者の自立のための支援をテーマにしたシンポジウムで歌った。

このシンポジウムは今年で5回目だそうだ。知的障害者の自立を目指し、そのための支援活動とネットワーク作りを目的としている。雨の中八潮市メセナに200人もの人が集まった。

第3回のシンポジウムでも演奏をした。この時は「オカリナ・アンサンブル かざぐるま」で参加だった。
障害者本人や支援のボランティア学生が演じる劇のオープニングとエンディングで演奏するという構成。
去年の劇では養護学校高等部に通う障害者が卒業後の自分の進路について悩み語り合う内容。
今年はその続編で卒業した二人の主人公が、一人は授産施設で学び、もう一人はウエートレスになるための研修を受けている様子を演じた。

劇を通して知的障害者の抱える問題と、支援体制の現状を浮き彫りにすることをめざしている。劇を作ったのは「あけぼの学園」という知的障害者の学校で教鞭をとる船沢修先生。船沢先生と僕は同じ年で10年来の付き合いになる。彼の依頼で障害者や保護者の会で何度か演奏してきた。

知的障害者が自立するために欠かせないことがある。
一つは本人のあきらめない気持ち。
もう一つは社会の支援体制の構築。
両者がかみ合わない限り決して本当の自立にはつながらない。
そして現状では支援体制に困難な状況が山積している。


オープニングは『見上げてごらん夜の星を』。
身障者の方々に夢を追いかけて欲しい。あきらめないで欲しいという願いを込めて歌った。
エンディングは『地上の星』。
身障者本人はもちろん、共に歩んでいる保護者やボランティア、行政の人全てに対する応援歌のつもりで歌う。


シンポジウムの冒頭の挨拶で74歳のベテランボランティアが言っていたことばが印象に残った。

「私は20年この活動を続けてきた。
最初の10年はあせりや無力感にさいなまれたこともたびたびありました。
でもそのあとの10年、自分に言い聞かせてきた言葉があります。希望を捨てさえしなければ必ず明日は開ける。あせらずでもあきらめず歩いていきましょう」

こういう会で演奏していつも思うことがある。
自分にできることは本当に限りがある。まず知ることから始めなければ何も始まらない、ということを。

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日本ハム元年*躍進支えた道民の応援

日本ハム元年*躍進支えた道民の応援 (10月5日)

 札幌ドームに本拠地を移した北海道日本ハムファイターズの初年の日程が終了した。リーグ三位と四年ぶりのAクラス入りを果たし、観客数も大幅に伸ばした。移転元年にふさわしい、順調な一年を道民みんなで喜びたい。
 プレーオフ三連戦、日ハムは西武を相手に大接戦を演じた。惜しくも決勝ステージ進出はならなかったが、道民からは「よくやった」「元気をもらった」と賛辞が絶えなかった。
 プレーオフ進出をかけたシーズン終盤の試合もすごかった。九月二十一日の札幌ドーム最終戦、平日のナイターが四万三千人で埋まった。地鳴りのように響く大歓声に応え、日ハムは首位ダイエーを連破した。

(全文はこちらをクリックしてください)北海道新聞 社説


故郷 北海道にプロ野球チームが誕生して1年。
巨人ファンが多い北海道に他球団それもパリーグのチームが根付くだろうかとちょっと不安だった。
『コンサドーレ札幌』の時もそうだった。(コンサドーレのホームグランドは当初実家から歩いて10分だった)

戦い終えてみると『北海道日本ハムファイターズ』は道民を興奮の渦に放り込んだようだ。
野球ファンとは決していえない僕も最後の数試合はハラハラドキドキしながらテレビ観戦していた。プレイオフ進出を決めたゲームなどは訳もなく涙がこぼれてきた。
道民の興奮が来年も再来年も続くことを祈りたい。

『コンサドーレ札幌』。早くJ1に上がっておくれ!
ファイターズに続いておくれ!


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2004.10.03

『街角ライブ』 10月2日

風邪ですっかり体調を崩してしまった。
しかも明日は演奏が2つある。
八潮メセナで知的身体障害者の集いがあり、そこでの演奏がひとつ。
三郷のライブハウス『夢限』でのソロライブがひとつ。
今日は無理せず軽く流して上がるつもりでいた。

ありがたいことに当初のもくろみはのっけから崩れてしまった。
演奏を始める30分以上も前から中年のご夫婦(と思われる)が待ち構えてくれていた。路上に腰を下ろして。
威勢のいい高校生のライブが終わるのを待って、おもむろに演奏を始めると酔客が話しかけてきた。55歳といっていた。いわばフォークの第一世代。フォークソングに相当入れ込んでいるようで岡林や高田渡の歌をリクエストされた。
それはいいのだが歌ってる最中に「その歌い方は違う」とかやられるのでちょっとイライラ。
でもこれでエンジンがかかってしまった。歌に対する意見には歌で応えるしかない。気合モードで歌い上げた。

そんなやりとりを見て先ほどの中年夫婦は引き上げていった。
入れ替わりに30代くらいのゴツイ男性が僕を凝視しながら聞き始めた。声をかけても笑いかけてもあまり反応がないのでやりにくいなと思いつつも歌い続ける。彼はただひたすら僕を凝視し続ける。間違いなく聴いていてくれてるんだが相手の反応がないということは何となくやりにくい。そんな気詰まりにケリをつけようと思い休憩を入れて一時中断。
この休憩が良かった。彼が始めて話しかけてきた。それも片言の日本語で。
「ワタシ、先月モンゴルから日本に来た。日本語よくワカラナイ。でもあなたの歌私いいと思った」
そういえば日本人と遠いご先祖が一緒ということもあり同じ顔をしている。
横綱アサショウリュウのことを話すと、本当にうれしそうな顔をして笑った。

謎も解け気持ちを入れ替えて2部に突入。
今度は彼は歌ってるすぐそばに腰を下ろしてじっくりと聞き入ってくれた。僕も安心したように彼も安心したようだ。

やがて人が集まってきた。みんなモンゴル兄さんと並んで腰を下ろしじっくりと聴く体制だ。
吉田拓郎フリークもいれば井上陽水フリークもいる。青春時代をフォークとともに生きていたようなおじさんもいる。
リクエストの嵐になり応えるこちらも必死だ。それぞれのアイドルを擁護しつつの論争にまで発展してしまった。
「フォークはやっぱり拓郎だよ」という人もいれば「いや,陽水だ」みたいな感じになってしまい、このまま行けばやばいかなと思った。彼らの論争をコントロールしながらの演奏は結構神経を使いました。

僕たちの世代はフォークに自分の青春と人生を投影している人が多いので、ちょっと危ないところがある。
僕自身若い頃高石か岡林か、いや拓郎か見たいな論争で熱くなったものだ。
ちょっとお酒が入ってそれぞれの青春時代に気分が帰っている彼らの論争は楽しくもヤバイ

ということで軽く流すはずだった今日の『街角ライブ』。
時間を30分延長しての長丁場になってしまった。
疲れた!!
でも最高に充実してた!!!

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