今日も猫君2匹を連れてのライブ。
先週1匹里親さんが見つかり、あと2匹の里親を探すのだ。
そもそもこの猫君たち、友人のアパートで飼うことが出来ない。
里親さんがいなければ自動的に野良の道をたどることになる。
いたいけな彼らを見ていると哀れになり、かわいがってくれる里親を探さなければという気持ちになる。
ライブ開始時間は7時。
早めにセッティングして猫君の到着を待ったが、なかなか現れない。
先週使ったポスターを掲示しておいたら、早くも問い合わせの声が。
とりあえずライブを始めた。
今週もテーマは無し。
歌い始めて間もなく、友人たちが大きなポスターをかかえて現れた。
ポスターを作るのに時間がかかったようだ。
2回めということもあり、彼らも慣れてきたようだ。
僕は空間を提供するだけで良かった。
彼らと声をかけてくれた人達が話し合いを続け、僕は横目で気にしながらもライブに集中していった。
思ったよりも早く2匹の引き取り手が見つかった。
子猫を手放さざるを得ない友人たちも、心中は穏やかではないはず。
願わくは猫君たちが幸せに暮らしてくれることを…
ライブで声をかけてくださったたくさんの方々。
メールで問い合わせをしてくれた方。
本当にありがとう。
友人たちが引き上げた後、ふたたびライブ一人旅。
いつも一人でやってるから慣れているくせに、
友が去るとなんとなく取り残された感じで寂しかった。
今日は越谷花火の日。
人通りが多い。
浴衣姿の若者たちもたくさん歩いている。
はなやいだ雰囲気。
足を止めてくれる人も多い。
休む暇なしで、延々と歌いつづけた。
いつも思うのだが伊勢正三の歌は人々に本当に浸透している。
リクエストの多いミュージシャンでは伊勢正三がダントツだと思う。
それも老若男女を問わずだ。
今日も『なごり雪』のリクエストを皮切りに正ヤン特集。
同年代の人々に混じって若者たちも結構いた。
そこで『神田川』『赤ちょうちん』を歌いながらMCで僕の青春時代に付いて語った。
30年前これらの歌が流行っている頃、僕も3畳一間の小さな下宿屋に暮らしていた。
歌の中では若い二人という設定だが、残念ながら僕の下宿屋は女人禁制。
ただお金がない、わびしいという点では同じだった。
お金がないということは食べるものがないということだ。
僕の食生活はデパートの食料品売り場の試食コーナーに頼ることになる。
バイトのお金が入り、少し余裕があると僕は当時18円の納豆と2円のキャベツを買った。
当時キャベツが大豊作で投売りしていたのです。
歌の背景にある時代。その時代を生きていた自分の青春について語った。
語りだすと止まらないのが僕の悪いくせ。
でもこの語りが僕のライブの一番の肝だと思っている。
『フォーク寄席』とよんでいたこともあった。
『街角ライブ』の難しさは、語りにまで行く前に終わってしまうことが多いこと。
ほとんど『人間ジュークボックス』状態のほうが多い。
流れる人が足を止めて歌に耳を傾けてくれることは多いが、
場の雰囲気が語りにまで高まるということはそう多くない。
それでも最近は1回4~5時間のライブの中で1~2回は『フォーク寄席』ができるようになってきた。
この状態を毎回維持できるかどうかが今の僕の課題なのです。
今回のライブのエポックメーキングなできごと。
その一。
20代後半の青年が僕の歌に合わせて身体をゆすり、声を合わせて歌っていた。
何度も何度もうなづきながらしばらく聞いていてくれた。
やがて僕のところに歩み寄ってきて
「元気が出ました。本当に励まされました」
そう言ってくれた。
こういう一言は、僕も励まされる。むしろこちらが勇気を分けてもらうようだ。
握手をして彼は去っていった。
そのニ。
息子たちが中学生の頃お世話になった越谷南中の先生たちが大挙現れた。
僕は当時南中のPTA会長をやっていた。
3年間の任期の間に何度かPTA行事の時に演奏をしたことがあった。
10年近く前の話しだ。
「まだ歌ってたんですか?!」
これが先生たちの率直な感想だろう。
でもその表情には揶揄の色は感じられず、素直に喜んでくれていると思えた。
照れて歌いにくかったのも事実だが、それ以上に僕も嬉しかった。
10年の時間を経て今こういう再会ができたのだから。
「ライフワークですね。いつまでも続けてください」
そういい残して先生たちは去っていった。
今日もいろんなことがあった『街角ライブ』だった。
疲労困憊だったが、いい気持ちで家路につけた。
最近のコメント