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2004.02.10

恵命我神散

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薬屋の前で恵命我神散ののぼりを見つけた。
突如として忘れていた記憶が僕の中でスパークした。
「我神散」
僕にとっては心をくすぐる懐かしい響きだ。

中学生のころ『予習』という名の塾に通っていた。
サッカーに明け暮れちっとも勉強しようとしない僕に、
業を煮やした母は母親の強権を発動して近所の予習塾に僕を投げ込んだ。(当時母は強くて怖かった)
『予習』は年齢不詳の池田先生という女性が自宅(アパ-ト)を開放して子供たちに勉強を教えていた。
年齢不詳というのは中学生の僕たちの目にはおばさんにも見えたし、
独身であるがゆえの(?)厚化粧が若くも見せていたためだ。

池田先生は独自の教育観を持っていて、学校の授業をよく理解するための補助と自分の塾を位置付けていた。
したがって当時やっとでき始めた進学塾とは一線を画しているという自負があったようだ。
どちらかというと寺小屋のような塾で、預かったいじょうは丸ごと子供と付き合うという信念だったようだ。
頻繁にサボり皆から遅れがちな僕は勉強以外のところでもずいぶんお世話になった記憶がある。

池田先生はことあるごとに僕たちに『我神散』を飲ませた。
「我神散はなんにでも効くのよ」が口癖で、腹をこわした子供にはもちろん、風邪をひいたといえばお湯に溶かして飲ませ、腫れ物ができたといえばタバコの葉と一緒に煎じて塗ったりしてくれた。
僕がもっとも我神散のお世話になったのは池田先生が『予習』仲間を引き連れて
青森の種差海岸にキャンプに連れられていった時のことだ。
初めての内地への旅行で僕たちは興奮していた。(函館出身なのです)
興奮する僕たちをさらにあおったのは池田先生だった。
「種差はきれいなのよ。5メートルくらいの高さの岩の上をピョンピョンとびながらヤッホーというの…」
池田先生の目は夢見る乙女のごとしだった。
僕たちの興奮は絶頂に達していた。
砂浜を走り回っていた僕は瞬間意識を失った。
洗濯物を干すロープが張ってあるのに気が付かず全速力でロープに突っ込んでいったのだ。
悪いことにロープはちょうど首の高さに張ってあった。
首がどんどんはれ上がり、熱をもってしまった。
池田先生は沈着冷静だった。
直ちに僕を寝かせ我神散を水で溶き湿布薬を作り首に塗りこんでくれた。
湿布は熱のためすぐに乾いてしまう。
何度も何度も我神散をとりかえ夕方には腫れはひいていた。
我神散の湿布のほかに、水で溶かしたものを何杯ものまされたのは言うまでもない。

あまりの懐かしさにネットで『恵命我神散』を調べてみた。
『恵命我神散』は屋久島で生まれた生薬で、
な・なんと、単なる胃腸薬だった…!

種差海岸での一件があった翌年、池田先生は大阪に嫁いでいった。
結婚にあたって生徒たちにこう言い放った。
「私は『世界平和』のために結婚します。だからみんなとはお別れだけど、
世界に平和が訪れた時先生のことを思い出して下さい」

すべての病気に万能の『我神散』を信じた先生。
世界平和のために我が身を捧げて嫁いでいった先生。
御存命なら御年70歳を越えていることだろう。

『我神散』は胃腸薬だったし、『世界平和』もいまだ訪れていない。
けれど僕は忘れない。
真剣に生き、かつ大まじめに自分を信じた池田先生のことを。
『我神散』のひびきとともに…

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