2025.05.12

旭が丘の家 Martin古池の歌謡ショー

函館の特別養護老人ホーム「旭が丘の家」で恒例のコンサートをやった。
母が生前長年にわたってお世話になってきた施設だ。
母の陣中見舞で函館に帰るたびにコンサートをやってきた。
年2~3回、10年以上も続けている。
6年前に母が亡くなった。ほどなくしてコロナ騒動がまき起こった。
その後数年間は中断を余儀なくされてきた。
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両親の墓参りを兼ねて旭が丘の家を訪れるタイミングで、去年から再開させることができた。
老人施設(特に特養)では5年ほどの月日で様相が大きく変化する。
コロナ前に元気だった方々の姿は今ではもうほとんど見受けられない。
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以前は入居者の多くは大正生まれの方が多かった。
歌うスタンスは両親世代に向けて子供世代からのメッセージという形だった。
プログラムも大正生まれの方が青春時代を過した戦前戦後の歌を中心に組んでいた。
それらの歌は僕自身も子供の頃に聞き覚えた歌ばかりだ。
ラジオ放送だったり、親や近所のおじさん、おばさんたちが口ずさんでいた歌謡曲だ。
そんなコンサートの様子を見て、当時の施設担当者が「Martin古池の歌謡ショー」と名付けてくれた。(その方はすでに退職されたが、その名を受け継いでいきたいと思っている)
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わずか数年の間に大正生まれの親世代はほとんど(全員かも)旅立たれている。
今入居者の多くは昭和の初め頃に生まれた方々だ。
プログラムもそれに合わせて微妙に変化してきている。
戦前の歌が少なくなり、昭和30年代はじめの歌謡曲中心にシフトしてきている。
演ずる側としては親世代へのメッセージというよりは「人生の先達」への共感というふうに変わってきている。
「共感」というのは入居者の年齢層が少しずつ若返っていると同時に、自分もまたそこに一歩また一歩と近づいているというところから生まれているようだ。
「いつか行く道」、それもそんには遠くない時期にね。
結果としてプログラムの自由度が高くなっている。
「何をどう歌うか」ではなく「いかにひとときを共にできるか」の方に重きを置くようにもなっている。
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「旭が丘の家コンサート=Martin古池の歌謡ショー」はこの先もできる限り続けていこうと思っている。
(さいわい両親は旭が丘の家の共同墓地に眠っている。墓参りとMartin古池の歌謡ショーをワンセットでやれる)
次回は7月に所用のため函館に帰る。今年2回目の歌謡ショーをやることになっている。

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【人生最初の記憶】

それは函館から札幌に向う夜汽車の中。
そして叔母の結婚式場でアイスクリームを食べ損ねたシーン。
僕が2歳の頃。
母の妹の結婚式に参列するため両親に連れられて「奥地」に向う夜汽車の中にいた。(昔、函館人は札幌のことを「奥地」と呼んでいた)
初めての夜汽車に僕は興奮し、大声を上げていたそうだ。
その時後ろの座席から腕がにゅっと伸びて、僕にキャラメルをにぎらせる見知らぬおじさんがいた。
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  ぼんず!
  これけてやっから静かにしてけれや
  (ぼうや、これを上げるからしずかにしておくれ)
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生まれて初めて口にするキャラメルの甘さが客車の薄暗い橙色の灯りと共に記憶に刻まれた。
(その後静かにしたかどうかは記憶にない)
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叔母の披露宴でアイスクリームというものを初めて口にした。
あまりのおいしさに陶然となった。
冷たくて甘くてとろけるアイスクリームに胃袋もびっくりしたようで、急にもよおしてきた。
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  おかあちゃん、う○ち!
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母親に連れられ用をたし、席に戻るとアイスクリームの器はすでに下げられていた。
まだ半分近く残っていたろうに。
アイスクリームのおいしさと、全部食べれなかった無念さ・悲しさを今もはっきり思い出せる。
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このふたつのシーンは人生の最初の記憶としてしっかり刻み込まれた。
キャラメルの甘さ。とろけるアイスクリーム。
これが最初の記憶だなんて情けないような、笑えるような。
食べ物への意地の汚さはこの頃から始まっていたのかなぁ。
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ちなみに記憶には残っていないが結婚式でもやらかしてしまったそうだ。
式の真最中、
「かしこみ かしこみ~」と神主さんがやっているその時に
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  もう、終わりっ!!
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と大声で叫んだそうだ。
式場は一瞬凍り付き、やがて爆笑の渦となったそうだ。
おふくろは恥ずかしさのあまり顔から火が出るほどだったとか。
神主さんは「困ったなぁ」という顔をしていたそうだ。(父親談)
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食いしん坊といたずら小僧。
いまだにその気が残ってるような気がしてしょうがない。
三つ子の魂百までもか。

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2025.04.30

2025年 5月のライブ・音楽会予定

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59日(  つくろうカフェコンサート

時 間  13:30~15:30
場 所  MDライブラリー in 羽生
水先案内人 Martin古池

★認知症予防のための試み「つくろうカフェ」で歌います。

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511(日) 井戸端音楽会@楽龍時
時 間  13:00~15:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
参加費  ハートマネー+2オーダー
水先案内人 Martin古池
★お客様とおしゃべりを交わしながら進める音楽会。
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514日(  歌声喫茶 @ JUNE

時 間  16:30~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 (1ドリンク付き)
水先案内人 Martin古池

★昭和の香り漂う喫茶店で昭和を思いおこす歌の数々を参加者みんなで歌います。
歌とおしゃべりあふれる黄昏時をご一緒しませんか。

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515(木) SOMPOケア 配信ライブ 
       Martin古池の歌謡ショー
時 間  14:00~15:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
★日本各地のSOMPO関連グループホームをオンラインでつなぐ歌声音楽会
 見学・応援大歓迎!(お気に召したら投げ銭を)
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518(日 フォークの歌声音楽会@おーるどたいむ
時 間  14:00~17:00
場 所  場 所  Live cafe おーるどタイム
      https://oldtimemk.exblog.jp/
水先案内人 Martin古池
参加費  ご注文をお願いいたします。
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525(日 おーるどたいむ de ライブ 春の陣 2025
時 間  15:00~
場 所  場 所  Live cafe おーるどタイム
      https://oldtimemk.exblog.jp/
出 演  ツカサ : 中川しんちゃん : Martin古池
木戸銭  ¥2000+別途オーダー
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501(木) ギター・ワークショップ@JUNE
513(火)
   仮予定です。変更ある場合は後日ご連絡いたします。
時 間  16:00~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 +オーダー
水先案内人 Martin古池
★13日は仮予定です。変更があった場合あらためてお知らせいたします。
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5月(土)  青空演奏

時 間  昼下がり(12時半頃スタート)
場 所  越谷中央市民会館裏の元荒川沿い芝生広場の片隅

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2025.03.31

2025年04月 ライブ・音楽会予定

4月09日(  歌声喫茶 @ JUNE

時 間  16:30~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 (1ドリンク付き)
水先案内人 Martin古池

★昭和の香り漂う喫茶店で昭和を思いおこす歌の数々を参加者みんなで歌います。
歌とおしゃべりあふれる黄昏時をご一緒しませんか。

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411日(  つくろうカフェコンサート

時 間  13:30~15:30
場 所  MDライブラリー in 羽生
水先案内人 Martin古池

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4月13日(日) 井戸端音楽会@楽龍時
時 間  13:00~15:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
参加費  ハートマネー+2オーダー
水先案内人 Martin古池
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4月17日(木) SOMPOケア 配信ライブ
時 間  14:00~15:00
場 所  民家ライブハウス・楽龍時
★日本各地のSOMPO関連グループホームをオンラインでつなぐ歌声音楽会
 見学・応援大歓迎!(お気に召したらの投げ銭ライブ)
Sompomartin
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4月18日(金) さんすまいる音楽会
時 間  13:30~14:30
場 所  デイサービス・さんすまいる
地元、越谷は蒲生のデイサービス・さんすまいるで長年やっている歌声音楽会。
じいちゃん、ばあちゃんたちと世間話に花が咲き、気がついたら歌っていた。
歌とおしゃべりがシームレスにつながっている音楽会です。
見学をご希望の方はご連絡をお願いいたします。(martinkoike@gmail.com)
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4月20日(日 フォークの歌声音楽会@おーるどたいむ
時 間  14:00~17:00
場 所  場 所  Live cafe おーるどタイム
      https://oldtimemk.exblog.jp/
出 演  Martin古池
参加費  ご注文をお願いいたします。
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4月23日(水 旭が丘の家コンサート
時 間  13:00~14:00
場 所  旭が丘の家 in 函館
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4月04日(金) ギター・ワークショップ@JUNE
4月16日(水)
   仮予定です。変更ある場合は後日ご連絡いたします。
時 間  16:00~18:30
場 所  喫茶店JUNE(tea room ジュン)
料 金  ¥1000 +オーダー
水先案内人 Martin古池
★16日は仮予定です。変更があった場合あらためてお知らせいたします。
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4月(土)  青空演奏

時 間  昼下がり(12時半頃スタート)
場 所  越谷中央市民会館裏の元荒川沿い芝生広場の片隅

★4月26日(土)は北海道帰省のためお休みします。


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2025.03.25

空気のような歌い手でありたい

7年前に書いた文章。
まだコロナ前で、市場やお好み焼き屋さん、ティールームなどで「不特定多数」の方々に歌っていた頃だ。
コロナ時代を経て歌うシチュエーションも随分変わった。
それでもあいかわらず「空気のような存在」の歌い手でありたいと思っている。
7年の時を経て少しは理想の形に近づいているだろうか。
**********************************
淡々と歌うことの難しさ。
一人でただ歌うだけならいくらでも歌える。
でもお客さんを前にして淡々と歌うとなれば話は別だ。
淡々とした中にもたしかな存在感を残せなきゃならない。
理想はその場にあって「空気」のような存在たること。
あたりまえのように存在し、かつその場に欠くべからずといった歌い手であること。
強い個性や自己主張はしないけれど、聞く人に心地のよさがしみこんでいたというのがいい。
それは冬の寒さの中のほのかな暖かみだったり、夏の暑さの中の涼やかな風だったり。
十数年、市場やお好み焼き屋さんなどで歌ってきて感じる理想の姿。
市場もお好み焼き屋さんも喫茶店も通常営業の中で不特定の方々に歌っている。
ライブを聴きに来たわけではない方々と時間と空間を分かち合うためには「空気」のような歌い手であることが一番の近道のような気がする。
感情も歌もギターもすべてぎりぎりまで抑える。
でも抑制された中に圧縮された密度の高いものが隠されている。それが情感としてにじみだしてくる。
それが淡々と歌うということのような気がする。
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高校生のころ室蘭市民センターで観た宇野重吉と北林谷栄の芝居がそうだった。
すべてにおいて抑制された表現だったがなにか深く残るものがあった。
あの静かな感動は40年以上の時を経て、今もよみがえってくる。
そんな歌い手になりたい。

 

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かりゆしフォークナイトの想い出

もう13年になる。
ふく助さんが企画していた沖縄料理・かりゆしさんでのフォークナイトというイベントに出演させていただいた。
ベテランフォークシンガー・じんぺいさんと僕の歩いてきたそれぞれのフォークソングの道筋。
それを歌とおしゃべりで紡ぐという企画だった。
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僕は還暦を2年後に控え、自分のスタイルややり方についてあれやこれやと迷いながら試行錯誤をくりかえしていた頃だった。
そんな中でこれまでの自分の道筋を一度整理し総括することのできたステージとなった。
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その意味で意義ある「かりゆしフォークナイト」となった。
あれから13年たち自分がやりたい道筋もはっきり見えてきた。
この先残された時間もあいかわらずの試行錯誤は続けるだろうけど、今のスタイルの延長上で歌うのではないかと思っている。
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「かりゆしフォークナイト」は13年たった今、僕の音楽活動の大切な一里塚でもあったように思える。
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★13年前に書いた文章を再掲載する。
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【「かりゆしフォークナイト~ボクの、ワタシのフォーク史」を終えて】
ふく助さんプロデュースによる「第3回目かりゆしフォークナイト」。 今回は『ボクの、ワタシのフォーク史』というお題で二人のアラカンオヤジがそれぞれのフォークの歴史を歌とトークで綴りました。 「アラカン」すなわち「アラウンド還暦」。 40年に渡りそれぞれのフィールド、それぞれの流儀で歌い続けてきた二人が、それぞれのフォーク史を跡づける試みです。 

 会場は金町の沖縄料理店「かりゆし」さん。 普段は沖縄芸能のライブをやっています。フォークライブは今回が3回目。 お店の常連さんは沖縄出身の方が多く、同世代の方もまた多い。 沖縄音楽で育つとともにフォークソングを聞きながら育った世代です。 そういう方々を中心に老若男女で会場はほぼ満席となりました。 

第1部はじんぺいさんのステージです。 じんぺいさんは1951年生まれの還暦を超えたシンガー。僕の3才先輩になります。 1000曲を超える自作曲を歌いながら独自の音楽活動をされています。 

学時代に高石ともや、岡林信康の影響を受けて歌い始めたそうです。 フォークソングのスタートは僕とまったく同じです。 思春期・青春期の3才の違いは大きなものがあります。 多感な時期が70年安保を挟んでいるワケで、それぞれの道筋にどう影響しているか。 とても興味深く聞かせてもらいました。 

じんぺいさんは高石ともやさんと長年親交ある小室等さんの歌に絞り、自作曲を絡ませてのステージ。 淡々と歌い、飄々と語りながらご自身の歩みが浮きぼりになっていく。 しみじみとした、胸にストンと落ちるいいステージでした。 

 

第2部はMartin古池のステージ。 

日本フォーク史を歌でたどりつつ、その影響をどう受けてきたかという視点で歌い進めました。 

風に吹かれて →昭和38年、アメリカでボブ・デュランがデビューし、PPMがこの歌でヒット。日本ではカレッジフォークとしてコピーして歌い始めた 。 

君といつまでも~ブルーシャトー →フォークソングをまだ知らぬ歌謡曲少年だった 

若者たち~バラが咲いた →職業作家がフォークソングのスタイルで曲を書き始める 

帰ってきたヨッパライ~イムジン河~悲しくてやりきれない →中学1年。フォーククルセダースの登場で「フォークソング」という言葉を知る →この頃は歌謡曲もGSもビートルズもフォークソングもなにもかもいっしょくたになって同居していた。

思い出の赤いヤッケ~受験生ブルース →中学2年の冬。函館労音で開かれた高石友也フォークリサイタルで脳天を割られるようなショックを受ける。会場が徐々に同化していく様に感動。「歌にはこんなに大きな力があるものなのか」 

まぼろしの翼~腰まで泥まみれ →70年安保闘争やベトナム反戦運動の高まりの中でプロテストフォークに傾斜。「歌で世の中は変えられるんじゃないか?」 

室蘭の空 →「ベトナムの空」を鉄の街・室蘭になぞらえた替え歌。安保闘争の敗北。プロテストフォークの衰退 

青春の詩 →絶対的位置づけだったフォークを相対化した拓郎。「フォークもまた青春の一断面さ」というこの歌に反発を覚えながらも深く考えざるをえなかった。高校3年の頃。 

心もよう~白い一日 →大学受験に失敗し、引きこもっていた1年。陽水の「氷の世界」にひきづりこまれる。 

神田川~22才の別れ →1973年。学生運動の火も弱まり表舞台に出てくるフォークソングは若者の心の憂鬱や切ない恋心を歌うものに変わっていく。(四畳半フォーク、抒情派フォーク)やがてユーミンの登場で「ニューミュージック」に大きく舵を切る。 →フォークに対する挫折感。「歌で世界は変えられない」。指針を失い何をどう歌っていいかわからぬままさまよっていた。手当り次第に様々な音楽を聞き手当り次第に歌っていた20代。 

少年 →高石ともやとナターシャセブンに再会。再びショックを受けた。そこに等身大の音楽を感じる。「もう私の歌では世界は変わらない。だけど誰も私の夢まで壊せない」 

オールマイティストリート蒲生~おばけ屋敷の歌 (ともに自作) →暮らしの中で歌いながら、等身大の音楽を続けたい。そんな思いで地元の町おこしに関わりながら歌い続けている。町おこしは人と人のつながり=「縁」の連鎖。縁を結ぶものは共感・共鳴。自分にとってのフォークとは「共感・共鳴」を探ることなのかもしれない。 

あすなろの歌(自作) →残念だけど、あすなろはヒノキにはなることはできない。でもヒノキのようになりたくて今を懸命に生きている。懸命にジタバタしている今こそが大切なのかも。 

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長くなっちゃいましたが(またかよ!)、こんなプログラムで歌わせてもらいました。(しゃべらせてもらったというべきかな) 

お客さんの反応がダイレクトで、リクエストもあったりで予定時間を大幅に超過!歌いたかった歌を何曲かカットしたのが残念ですが、意はおおむね表せたかなと思います。

長年それぞれのフィールドで歌ってきた二人のアラカンおやじの結論は・・・ 

「フォークって何だかわからない」 「人それぞれの生き方を投影したものがフォークなのかな」 「ま、なんでもいいんでしょうね(笑)」 

と、きわめてたよりないものでした。 たよりないものであるがゆえに、これからもブツブツつぶやきながら歌い続けるんだろうな。 

難しいと言えば難しい。 楽しいといえば楽しい。 そんな「かりゆしフォークナイト」でした。 

共演のじんぺいさんには大いに刺激をいただきました。感謝いたします。 プロデュースのふく助さんにはいつも刺激的な企画を立てていただき感謝です。 3時間に渡る長丁場を、時に黙々と聴き、時に共に歌い、時にチャチャをいれておつきあいくださったお客様に感謝です。 そしてお店を開放してくださった「かりゆし」のスタッフの皆様におおいに感謝です。 

これもまたひとつの「ご縁」ですよね。 これからもまた「かりゆし」さんでのフォークナイトが続いていきますように! 感謝と願いを込めて! 

 

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草加革新懇で歌う








音楽友だち・山ちゃんと「ケイコとコイケ」のワンタイム・ユニットで歌いました。

場所は草加勤労福祉会館のホール。
230人の方々が参集。その多くは同年代以上の方々。
皆さんのおめあては革新懇の総会と田中煕巳さんの記念講演。
田中煕巳さんはノーベル平和賞を受賞した日本被団協の代表委員。

「ケイコとコイケ」はいわばその前座。
30分の枠で会場の地ならしをし場を暖めるのがその役割。
参加者の年齢層、記念講演の内容を考慮してプログラムを組みました。

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①東京にまつわる歌メドレー
  東京のバスガール~東京ラプソディ
  ~東京の灯よいつまでも~下町の太陽~二人の銀座

5曲ノンストップで山ちゃんとのかけあいやハーモニーがいい感じに。最後はベンチャーズ風のエンディング。

驚いたのは歌い始めるやいなや皆さんほとんど自然発生的に口ずさみ始めたことでした。こちらが促したわけでもないのにね。
そこで進め方を歌声音楽会風にやることに決め、歌詞を先唱しながら歌い進めます。
少しずつ歌う人が増え、口ずさむだけではなくしっかり歌い始め、やがて大合唱に。
願ってもいない展開でした。
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②港が見える丘
恋の始まりと別れを追想するいわば失恋ソングとして受け止められているこの歌。
実は平野愛子さんによって歌われたのは昭和22年。
もしかしたら戦争にとられ、戦死した許嫁を思い出しているという風にも解釈できます。
そんな話をしながら「長崎の鐘」につなげます。
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③長崎の鐘
言うまでもなく被爆した長崎が舞台の歌。
掘り起こされた浦上天主堂の鐘が最初に鳴り響いたのは被爆4ヶ月後のクリスマス。木製の三脚につるして鳴らしたそうです。
歌の元になっているのは永井隆・長崎大学助教授の随筆。
永井先生はご自身も被爆者でありながら、カトリック精神に基づいて救済活動に専心されていました。
随筆を歌詞に落とし込んだのはサトウハチロウ。サトウの弟もまた広島で被爆しています。
歌詞には原爆の描写はなされていません。そのことが被爆者のみならず、すべての戦災受難者への鎮魂歌となっているんだと想います。

「長崎の鐘」については他にも想うところがたくさんあります。
でも与えられた時間内ではそれを語ることもかなわず、より本質的と思えることのみを語りました。(釈迦に説法だったかもしれないけど)

会場全体での見事な大合唱。素晴らしかったぁ!
合唱の力に勇気と力がこちらにも伝わってきます。割愛する予定だった3番も加えフルコーラスで歌うことになりました。
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④いつでも夢を
山ちゃんがメインボーカル。僕はサビの部分を一緒に歌います。
「長崎の鐘」で会場の温度、ボルテージは一気に上がり、その流れのままに大合唱へ!
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⑤上を向いて歩こう
勢いそのままにラストソングになだれ込みます。
この歌は事前に歌詞カードを配っていましたが、あえて先唱しながら歌い進めます。
上を向いての大合唱が広いホールに響き渡ります。(歌詞カード見ながら下を向いて「上を向いて歩こう」って歌うのもなんだしね)
歌の終盤にさしかかったころ、残り時間は30秒ほどに。
最後のリフレーンを何度も何度もくりかえします。それも少しずつテンポアップしていきながら。
これが良かった。短いフレーズを何度もくりかえすとなかばトランス状態になります。
残り10秒を切ったところでブレイクを大きく挟み、一気にスローダウン。
最後はしっとりと歌い終えることができました。
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どうやら前座の役割は無事果たせた「ケイコとコイケ ミニコンサート」となりました。

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田中煕巳さんの講演はとても興味深いものでした。
ご自身も長崎で被爆されています。
被爆されたときの体験、その後日本被団協を設立するまでの長い道のり。
やはり実体験に基づいた話には説得力があります。
93歳というご高齢にもかかわらず90分立ちづくめで、しっかりした口調で話をなさります。
いい経験をさせてもらいました。
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ラヂオの想い出 最終回 「放送委員」

中学時代、僕は放送委員をやっていた。
小6の時も放送委員だったと通信簿に書いてあったが、こちらはほとんど印象に残っていない。
でも中学時代の放送委員の記憶は強烈に残っている。
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それは深夜放送の影響が強かったためだと思う。
放送委員会には予算が付いていて、それでレコードを買うことができた。
深夜放送で聞き覚えた音楽を、校内放送でも流したい。
そんな思いが強く、一緒に放送委員をやっていた工藤信也と一緒に選曲に血眼になっていた。
.
昼休みに流す校内放送ではフォークソングの数々やベンチャーズ、ビートルズなどが多かった。
ただこの頃はエレキギターに対する大人たちのアレルギーは強かった。
フォークは受け入れられるがエレキはダメだって感じが強かった。
エレキを弾くやつは不良だ!
そう言われた時代だった。
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自由な校風だった我が潮見中学にしても先生方の中には眉をひそめる人も少なくなかった。
グループ・サウンズ特集を放送中に放送室に入いりこみ、放送中止を言い渡されたこともあった。
そこで僕と信也は一計を案じた。
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  放送室にじょっぴんかうべや
  流しちまえばこっちのもんだべさ
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なんてことはない単なる実力行使だった。
(「じょっぴんかう」とは古い北海道弁で「鍵をかける」という意味)
昼の校内放送を深夜放送にしたいというのが暗黙の了解だった。
(「昼の信也放送」などと密かに命名もした)
.
はがきの代わりに「目安箱」という投稿ボックスを作ったりもしたがこれは失敗だった。投稿する生徒は数えるほどしかいなかった。
チャン太・ポン太・ピン太&キン太(CPP&K)書き下ろしの「連続ラジオ小説 帰ってきた酔っ払い」なるものの生放送を試みたが、これは自己満足で終わってしまった。(僕のペンネームはポン太だった)
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深夜放送は受け手の立場だったが、校内放送ではとにかく発信する側に立ちたかったんだ。
ラジオ文化全盛期の影響はモロだった。
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幸いにもやりたい放題、かけたい放題はなんとか概ね貫徹できた。
当時の合い言葉は「オレたちの聴きたい音楽をまず流すべ。して生徒たちが聴きたいと思う音楽も全部流すべ」。
今思うと後の音楽活動のスタンスの萌芽は放送委員を通して生まれていたのかもしれない。
ちなみに一緒に放送委員をやった工藤信也は今も音楽酒場「サウンド・インS」を経営しながら歌い続けている。

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ラヂオの想い出 5 「深夜放送にはまる」

中学生に上がる頃から洋楽と深夜放送にはまった。
洋楽とはアメリカン・フォークソングであり、ビートルズに代表されるロックンロールであり、カンツォーネやシャンソン。
様々な音楽がラヂオを賑わしていた。
そしてそれを届けてくれたのが深夜放送だった。
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東京では各曲ごとに看板の深夜放送が流れていたそうだ。
しかしいかんせん、北海道の片田舎ではHBC(北海道放送)がメインにならざるを得ない。
今でも覚えているオープニング。
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  ナイト・ナイト夜の騎士 白馬コージでえす!
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リスナーのはがきにちょっと茶化しながらも真摯に応える白馬コージ。
はがきの内容は多分多くのリスナーが感じている普遍的な「悩み」が多かった。
電波を通して生まれる不思議な共感と連帯感。
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そしてはがきを読み上げる合間合間にかかる洋楽の数々。
もちろん日本のフォークソングも流れていた。
深夜放送のおかげで雑多な音楽に出会うことができた。
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後に上京後、いろんなパーソナリティの深夜放送を聴いた。
みなそれぞれに面白かった。
でもHBCの深夜放送ほど心に残ることはなかった。
中学~高校時代という思春期に聴いたからこそ心に深く残っているんだろう。

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ラヂオの想い出 4 「鉱石ラジオ」

小学生の頃、鉱石ラヂオのキットを買ってもらった。
鉱石ラヂオとは電源を持たない、音の増幅装置を持たない原始的なラヂオ。
鉱石と金属の接触で電波を受信する仕組みだったと思う。
増幅装置を持たないので電波から取り出した音をイヤホンで聴かなければならなかった。
.
当時「恐怖の館」というようなタイトルの番組があった。
(テーマソングはなぜかPPMの「虹とともに消えた恋」だった)
.
僕はこの番組が聴きたかったが、なにせ放送時間は夜の10時過ぎ。子供は寝る時間だった。
そこで布団に入った後、頭から布団をかけて息を潜めて聴いていた。
.
PPMとの出会いは鉱石ラヂオを介してのことだった。
この数年後にPPMに憧れ、「平凡」や「明星」の歌本を頼りに練習することになるとはこの時は思いもよらなかった。

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ラヂオの想い出 3 「父のトランジスタ・ラヂオ」








1960年代に入りFMステレオ放送が始まった。

それまで我が家では大型の真空管ラジオでAM放送を聴いていた。
.

新しもの好きで、音楽好きの父はある日手のひらにのるような小さなラジオを買ってきた。
.

  トランジスタラジオってんだ
  音がいいべ!
.

やがて父は同じような形のラジオ型のスピーカーを買ってきた。
2台をつなげることでステレオで聴ける仕組みだった。

父はこのスピーカーを母に内緒で月賦で買っていたようだ。
右左から別の音が聞こえてくるラジオに子供たち(そして父も)は夢中になった。
.

ところが青天の霹靂だった母だけはいい顔をしなかった。
父にしてみるとせっかく手に入れたトランジスタラジオをなんとしてもステレオで聴きたかったんだろう。
母に相談すれば「そんなお金どこにあるのさっ!」となるのは目に見えていた。
そこで月賦でスピーカーを買い求めたんだと思う。月賦ならばれないだろうと思ったのかもしれない。
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結果的にこのステレオのトランジスタラジオのセットは家で聴かれることはなかった。
不愉快そうな顔をする母に父は気遣わざるを得ず、会社の自分の机の上で聴くようになったんだ。
.

ある時、残業で遅くなる父に夜食の弁当を届けに行ったことがある。
広い事務所の父の机の周りだけが電気スタンドで照らされていた。
父はトランジスタ・ラジオをつないで放送を聴きながら何か書き物をしていた。
.
その背中は丸く、なんだかさみしげに映った。

声をかけずらく、弁当だけおいてさっと帰ってきた記憶がある。
.

その後も日曜の朝の「音楽の泉」はあいかわらず大型の真空管ラジオで聴いていた。





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ラヂオの想い出 2 「うたのおばさん」

「音楽の泉」と同じ1949年に始まった「うたのおばさん」。
平日の朝、安西愛子さんが幼児向けの歌を歌う番組だった。
後にテレビが普及して始まった国民的幼児番組「おかあさんといっしょ」のラヂオ版といったところだろうか。
.
僕はこの番組が大好きだったそうだ。
生まれて間もない頃から歌に合わせて手足をバタバタさせてニコニコしていたそうだ。(もちろんそんな記憶はない)
番組が終わると「ん~ん、ん~ん!」母親に歌えと要求してきかなかったそうだ。
母親は後年「あんたにはごんぼほられてまいったさ」とよく言っていた。(ごんぼほるとは北海道弁でだだをこねるというような意味)
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僕とラジオの関わり、平日は「うたのおばさん」、日曜日は「音楽の泉」ということになる。
音楽好きになるひとつのきっかけとして、ラジオが果たした役割は大きかったんだろうな。

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